新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

カタカナ語の濫用と多用に呆れている

2021-02-19 12:12:42 | コラム
カタカナ語排斥論者は圧倒されている:

この度の森喜朗前会長の舌禍事件から橋本聖子大臣の新会長就任受託に至るまでの間に、関連があった政治家、評論家、マスメディアがカタカナ語の乱発で攻め立てて来られたのには、カタカナ語排斥論者の私は圧倒されて、ただ呆然としているだけだ。曰く「ジェンダー」、「ミッション」、「コンセプト」、「レジェンド」、「レガシィ」、「アスリート」、「アスリート・ファースト」、「オリンピアン」、「ガバナンス」、「スピーディー」、「スムース」、「プロセス」等々だ。まだあったかも知れないが、とても追い切れていない。

酷い日本語の破壊行為だなと嘆く前に「何故、彼らはこれほどまでに漢字の熟語を使うのを避けるのだろうか」とボンヤリと考えながら見ていた。オリンピック関連だからカタカナ語で行こうというのなら、余りにも浅はかな考え方ではないか。思い切り皮肉を言えば「彼らはもしかしたら、これらのカタカナ語に相当する漢字の熟語を知らないのではないのか」とすら考えている。

当方がカタカナ語排斥を唱え始めたのは何と1990年の春頃からである。初心に返ってその頃に何と言って批判したかを思い出してみよう。それは「(社内で)管理職ともなると話の中に英単語を交ぜて語りたがる傾向がある。それは『どうだ、俺は英語を良く知っているぞ』という所を誇示したい為に使う人と、『如何にも自分がスマートで教養があって洗練されているか』を衒っているのか、あるいは『近代的で格好が良いのだ』を見せつけたいだけだろう。その手の人物は寧ろ軽佻浮薄なのである。英語擬きを会話や文章の中に差し挟むのを避けるべきだ」という辺りだった。

この30年前の頃と較べれば、カタカナ語と英語擬き、英語風の造語、インチキのカタカナ語が使われる頻度は、比較にも何もならないほど高くなっている。では、それだけ我が同胞の英語力が「レベルアップ」していたかといえば、残念ながら決してそんな事にはなっていない。カタカナ語を多用する人たちはそれが英語本来の意味からはかけ離れている事すら認識できていないし、英語の発音とは全く異なる珍妙な、寧ろ害毒を流しそうな表記になっている例が多い。今朝も産経新聞はシレッとして「パーテーション」という馬鹿げた表記をしていた。笑う訳にも行かない間抜け振りだ。

矢張り、我が国の単語重視の教育も揶揄しておかないと、片手落ちになるだろう。兎に角、この私が「善くぞそんな単語を掘り出してきたものだ」と感心してしまうほど、日常会話や社内の報告書等でも滅多にお目にかからないような、言わば文語的(書き言葉)な単語を使っている傾向には、排斥論者は圧倒されてしまう。最近しきりにテレビCMを打っているアプリケーションなのだろうが“backlog”というのがある。これには、正直に言って恐れ入っている。アメリカ人たちが「やり残しの仕事」の意味で使う言葉だ。応用編で“order backlog”とすれば「受注残」の意味になる。

私は1975年にW社に転身後に初めてbacklogが「注文残」として使われていると知った程度の使用頻度の単語である。それをアプリとやらの名称に使ってしまう辺りの単語の知識はお世辞抜きで凄いと思う。邪推すれば、“b”で始まる単語だから、単語帳の最初の方にあり「これだ」とでも思って採り上げたのだろう。同じように名称に使われている単語に“indeed”がある。これなどを日常会話ではかなりな英語の使い手にならないと易々と使え使えない言葉だ。これも矢張り“a”からはそう遠くない“i”で始まっているから、採用されたと疑っている。

最後に菅首相が重要政策として使われた「カーボンニュートラル」を。正直に言って「何のこと?」となってしまった。そこで検索してみた。訳語は二つあった「炭素中立」と「気象中立」で「大気中に排出される二酸化炭素と吸収される分とが相殺しあってゼロになる」という意味だと知り得た。それだったら、首相は最初からそう日本語で言って頂ければ簡単に理解できたのにと、些か恥じ入っていた。私は「カーボンニュートラル」と聞いて多くの方が「それで行きましょう」と受け入れて、菅首相支持になられたのだったら凄いなと、少しだけ僻んでいる今日この頃だ。



コメントを投稿