アメリカとはこういう国だった:
こんにちまで私がアメリカ人の世界に入って20年以上も勤務して知り得た「アメリカとは」を色々な形で語ってきた。その内容は一般的に我が国に広まっている「アメリカとは」とは異なる点が多々あるので、信じ切って貰えていなかったと思っている。それは、高名な大学教授やジャーナリストや評論家が語らなかったような事柄が多かったからだと思う。
それは、あの方々は私のようにアメリカ人たちの中に入って、アメリカの為に働くとか、彼らの仲間としてというか、彼らの一員として勤務するというような形で外側からしかアメリカを見てこられなかったからではないかと考えている。私はインサイダーとして経験したし観察してきたのだ。
私は1994年1月末でリタイアする前までは、時には「もしかして、引退後も十分な収入があり、豊富な蓄えさえ出来ていて、アメリカ市民権が取れるのならば、このままこの国で暮らす方が気楽ではないか」と考えた事もあった。
アメリカの何処が良いかと言って「全てが個人の主体性が基本」だから、周囲に気を遣う必要がなく、他人が干渉してくる事が先ずないのが、我が国とは異なる点で気楽なのです。その辺りは2021年にノーベル賞を受賞された眞鍋淑郎博士が言われた、
>「日本人は調和を重んじる。イエスがイエスを意味せず、常に相手を傷つけないよう、周りがどう考えるかを気にする。アメリカでは、他人にどう思われるかを気にせず好きなことができる。私は私のしたいことをしたい」
に非常に良く表されていると思う。「同調圧力」などないというか、そういう気風は非常に希薄なのだと思う。
だが、私は実行しようとは全く考えていなかった。理由は簡単で、私にはそんな資金力も蓄えもなかったし、第一にアメリカの生活には欠くべからざる自動車の運転の仕方を知らない(出来ないのではない)からだった。
次には繰り返して語ってきた「我が国とアメリカの企業社会における文化の違い」に触れておこう。言うなれば「会社」と“company”は我が国で認識されているよりも遙かに違うという事。何処がどのように違うかの例をいくつか挙げてみよう。
アメリカのある程度以上の規模の会社では「4年制大学の新卒者を定期採用する事はない」のだし「年功序列で昇進し昇給する事もない」のだし「社員から取締役に任じられる事もない」のだし「本社機構と地方の工場は別組織で、工場で採用された者が本社機構に組み込まれてくる事などは極めて例外的である」のだ。給与も「本給一本だけで、役職等の諸手当はない」と思っていれば良いだろう。
そこでは「地位と肩書き」(=rank and title)は我が国とは異なって別物で、マネージャーと名刺にあっても、それは単に肩書きであり地位を示すものではないのが一般的なので、役職手当など支給されない。それもそのはずで「年俸」で契約しているのだから、年の途中でマネージャーの肩書きを貰っても年俸の増額はないのである。
ボーナスも我が国の方式とは大違いで、マネージャーの肩書きを貰えるまでの実績を残して、初めて社長が指名するボーナスを貰えるクラブに入れる資格を得られるのだ。私は本部勤務ではなかったのでクラブには入っていなかったので、その金額がどれ程か知る由もなかったが、そこまで昇進している本部の管理職の者たちは優雅だった。
例えば、子供たちを授業料をも含めて年間1,500万円もの学費がかかる有名私立大学に大学院まで2人送り込んでもビクともしていないし、勤務地周辺の最高の住宅地に立派な家を持ち、中にはキャビンクルーザーを持っていて週末のクルージングを楽しんでいたりする者もいた。年に一度のボーナスだって「今年は副社長兼事業部長が部門統括のEVPと不仲になった為に、3万ドルと従来の半分以下に減らされた」とぼやく者がいた事が示す程貰えていたようだった。
兎に角、何が何でも勤務する(採用される機会があれば)「寄らば大樹の陰」なのである。それも新卒からではなく、job型雇用の中途採用に機会を巧く捉えられればの話だ。仮令格下とされている州立大出身だろうと、上場企業の本社組織に職を得て、恙なく仕事をすれば、昇給も昇進にも限界があるとは言え、リタイア後も不安なく暮らせるのがアメリカの企業社会なのである。
その世界で支配階層にまで上がっていく為には、上記のような高額な学費がかかる私立大学に進学できて、しかもMBAを取得するのが、ある程度の企業で生き残る為の必須の学歴になっているのだ。要するに、裕福な家庭に生まれ、有名私立大学に進学で来るような学力がない事には、支配階層の仲間入りが出来ない仕組みになってしまっているのだ。
だが、海外にいては、そういう貧富と学歴による強烈な差別があって不公平な国だとは容易には知り得ないし解らないので、この世の楽園に見えるアメリカに行こう、自由競争の世界で立身出世しようとの夢と希望を抱いてアメリカに渡っていく人たちが出てしまうのだと思って見てきた。
度々引用する技術サービスマネージャーは地方の工場で、言わば「地方技師」で現地採用されたのだった。彼は裕福な家の子弟でもなく、州立の大学の四大出身だった。それでも、同じ州立大学の四大出の副社長に才能を見出されて管理職になれたし、遂には工場での現地採用という一生浮かばれない低い身分から、本部のマネージャーに採用されたのだった。これなどは例外中の例外的出世なのだ。
副社長も上記のようにMBAでなくても地方の工場での現地採用から、本部長に希有の才能を買われて本社機構に転進できた例外的な存在。ここで注目して貰いたい事は「我が国とは全く異なっていて、同期入社や同じ課や部内の者たちと昇進/昇給の競争をする事はなく、人事等全権を持つ事業部長に評価されるか否かかが運命の分かれ道であるという点だ。団体の中で抜きん出るのではなく、個人として認められるか否かなのである。
アメリカのように大きな内需に支えられた国では輸出に対する依存度が高くないのだ。ウエアーハウザーのよう立地条件を抱えた会社だから輸出に注力していても、対日輸出を担当する部署にでも採用されない限り、海外出張の機会は滅多に回ってこないのである。要するに、海外の市場に関心を持つ者などは極めて少ないのだ。(だから、トランプ前大統領は輸出入の分野をご存じなかったのには何の不思議もない)
企業社会、弁護士、医師というような高い学歴を必要とする世界には、自ずと裕福な家庭の頭脳明晰な者が多くなっているのだ。私は論旨の飛躍はあるかも知れないが「そうではない階層に生まれた人たちの中から芸人、スポーツ選手、ミュージシャン、料理人、中小企業の社員、小売店の従業員等々が出るのだ」と見ている。
換言すれば外国から希望を抱いてアメリカに留学しても、外国人が大手企業に職を得ても、容易に責任ある地位にまで上がれるとは思えないのである。また、外国人が高額の年俸を取れて、優雅な生活が出来る地位にまで昇進できる可能性は高くないと思う。我が友のYM氏や、優雅に隠退生活を楽しんでいるSM氏などは、矢張り例外であろう。
なお、今更回顧すれば「私は外国人でありMBAではなくて、40歳を過ぎてから大企業に入っていったのは『肩書き(title)は与えられても地位(rank)の垂直上昇はない世界だと承知でくるのなら、どうぞ』という世界だった」と学習したのだ。アメリカは「個人が主体であるから周囲に気を遣わずに済むし、出世競争ではなくて、如何にして馘首される事なく、自分から身を引く(リタイアする)まで、自分本位で懸命に働けば良い」という世界だった。
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