上智大学で学んだこと:
今朝ほどもテレ朝の羽鳥慎一の時間でフォーダム大学における勉強がどれほど大変であるかと採り上げて、私に言わせて貰えば、必要以上にその厳しさをも強調していたのは確かにその通りだとは思った。だが、そこを論じるのならば「我が国の大学と外国の大学との間には歴とした文化の違いがあること」を先ず指摘して置かないことには、かの小室圭氏はその違いを予測もせずにフォーダム大学の法科大学院に飛び込んでいったことになりはしないかと思って聞いていた。
私は小室氏の出身校であるICUの規律の厳しさがどのようなことかは寡聞にして知らないが、彼はUCLAにも留学しておられたようだから、日本とアメリカの間に存在する厳しさと細かさの違いは先刻ご承知で、あらためてフォーダムに行かれたのだろうと考えている。テレ朝以外でもその勉強の厳しさと大変さをしきりに採り上げていたが、私はその大変さは何もフォーダム大学だけに限られた現象ではないと思っている。
昭和26年(1951年)4月にフォーダム大学と同じイエズス会の上智大学に入学して先ず驚かされたことは「大学が定める規則を厳守する」ことだった。「何だ、そんなことは当たり前じゃないか」と言われそうだが、告げられたことは「登校する際には制服・制帽を厳守」、「授業を年間の3分の1以上欠席すると受験資格を失う。特に1~2年時には必須科目を落とせば原級留め置き」、「入学時に署名捺印した宣誓書に違反すれば退学もあり得る」、「校内は禁煙」等々で、その他に教授である神父たちが課される厳しい規範を守らねば授業に出席していても欠席扱いとされることがあった。
ここまででも「あれ、当時の上智と自分の経験とは一寸違うのではないか」と思われた方がおられれば良いのだ。だが、世間を知らなかった私と、かなりの数の同級生たちの間では「この規則でがんじがらめに我々を小学校よりも細かく縛るのは何だろう」と大いに驚かされていた。だが、厳しさはこんな程度ではなく、フォーダム大学では云々と報じられているように、教授である神父様は教室にカートに分厚い(英語の)原書を積み上げて教務課に運び込ませて「これを来週までに読み終えて概要をレポートにして提出せよ」等というとんでもない宿題を平然として命じられるのだった。
高校を終えたばかりの英語力では到底読み切れないこともあるのは当たり前かも知れない。だからと言って読まずにレポートも提出しなければ、アメリカや欧州の考え方では「不参加」と看做してその週のレポートの成績は「0点」と評価されてしまうのだ。即ち、二進法式思考体系の文化の中では「提出した」か「提出しなかった」かが重要なのであると認識せねばならないのだ。少なくとも、途中まででも読んで何らかのレポートを提出して、初めて教授による評価・採点の俎上に上がるというか対象になるのである。
これは非常に厳しい文化の相違点で「参加しなければ失格」となるのがこの大学の規律というか基準であると気が付いてからは「兎に角、何らかの結果を出さないことには落第が待っている」と必死になったものだった。一度は幸運(不運にも)その分厚い原書の翻訳本を発見し、楽々と完璧だと自負するレポートを勿論英語で書いて提出した。ところが、採点は余り芳しくなく神父様からは「良く出来たようだが、翻訳本を読んだことが明白である。何故解ったかと言えば、主体となっている僧侶を表す単語が間違っているから」と指摘されていた。
余談だが、ハーヴァードのビジネススクールの出身者である我が友YM氏は「レポート等の宿題の量が余りにも膨大な時は仲間を集って、各自に読む範囲を割り当てて提出の期限前に全員が結果を持ち寄って一本のレポートに纏めてから提出するという裏技を使ったことすらあった」と回顧していた。こういう勉強を度重ねれば、英語の読解力と速読力がついてくるものであると今更ながら思う次第だ。
このような嘗ては「オリンピックは参加することに意義がある」と言われたように、アメリカの大学に学ぶ場合には「与えられた課題は必ずこなしておかねばならない」のが当然で重要である点が我が国との明確な違いであると思う。その他に違うと思わせられたことは「我が国の教育は教えられたことを如何に完全に自分のものに出来るか」という言わば受け身の姿勢が優先されているが、「アメリカや欧州では教えられた事柄以外にも積極的に学ぼう」というように能動的に勉強の範囲を広げていく姿勢が評価されるようなのだ。
知人にUCLAでMBAを取得して博士課程にまで進んだエコノミストがいるが、彼に言わせれば「我が国と教育の主義が違うので、いきなりアメリカの大学の大学院などに入っていくと、どうしても小学校からそういう能動的に勉強する環境で育ってきた連中には敵わない事態が生じるのは止むを得まい」と述懐していた。彼は更に「それだけに止まらず、英語力ではどう頑張ってもnative speakerたちには及ばないというハンデイキャップもある」と認めていた。
私はテレビ局が小室氏の猛烈な勉強振りを採り上げて報道するのは良いが、上記のよう諸々の文化的相違点にも触れておかないと、私には「アメリカの大学の勉強の仕方とさせ方が優れているが、一方の我が国では・・・」とでも言いたいのかと思える時が多々あるのだ。私はそういうことではなく、飽くまでも「文化の違い」が非常に解りやすく現れているだけだとしか思えないのだが。
今朝ほどもテレ朝の羽鳥慎一の時間でフォーダム大学における勉強がどれほど大変であるかと採り上げて、私に言わせて貰えば、必要以上にその厳しさをも強調していたのは確かにその通りだとは思った。だが、そこを論じるのならば「我が国の大学と外国の大学との間には歴とした文化の違いがあること」を先ず指摘して置かないことには、かの小室圭氏はその違いを予測もせずにフォーダム大学の法科大学院に飛び込んでいったことになりはしないかと思って聞いていた。
私は小室氏の出身校であるICUの規律の厳しさがどのようなことかは寡聞にして知らないが、彼はUCLAにも留学しておられたようだから、日本とアメリカの間に存在する厳しさと細かさの違いは先刻ご承知で、あらためてフォーダムに行かれたのだろうと考えている。テレ朝以外でもその勉強の厳しさと大変さをしきりに採り上げていたが、私はその大変さは何もフォーダム大学だけに限られた現象ではないと思っている。
昭和26年(1951年)4月にフォーダム大学と同じイエズス会の上智大学に入学して先ず驚かされたことは「大学が定める規則を厳守する」ことだった。「何だ、そんなことは当たり前じゃないか」と言われそうだが、告げられたことは「登校する際には制服・制帽を厳守」、「授業を年間の3分の1以上欠席すると受験資格を失う。特に1~2年時には必須科目を落とせば原級留め置き」、「入学時に署名捺印した宣誓書に違反すれば退学もあり得る」、「校内は禁煙」等々で、その他に教授である神父たちが課される厳しい規範を守らねば授業に出席していても欠席扱いとされることがあった。
ここまででも「あれ、当時の上智と自分の経験とは一寸違うのではないか」と思われた方がおられれば良いのだ。だが、世間を知らなかった私と、かなりの数の同級生たちの間では「この規則でがんじがらめに我々を小学校よりも細かく縛るのは何だろう」と大いに驚かされていた。だが、厳しさはこんな程度ではなく、フォーダム大学では云々と報じられているように、教授である神父様は教室にカートに分厚い(英語の)原書を積み上げて教務課に運び込ませて「これを来週までに読み終えて概要をレポートにして提出せよ」等というとんでもない宿題を平然として命じられるのだった。
高校を終えたばかりの英語力では到底読み切れないこともあるのは当たり前かも知れない。だからと言って読まずにレポートも提出しなければ、アメリカや欧州の考え方では「不参加」と看做してその週のレポートの成績は「0点」と評価されてしまうのだ。即ち、二進法式思考体系の文化の中では「提出した」か「提出しなかった」かが重要なのであると認識せねばならないのだ。少なくとも、途中まででも読んで何らかのレポートを提出して、初めて教授による評価・採点の俎上に上がるというか対象になるのである。
これは非常に厳しい文化の相違点で「参加しなければ失格」となるのがこの大学の規律というか基準であると気が付いてからは「兎に角、何らかの結果を出さないことには落第が待っている」と必死になったものだった。一度は幸運(不運にも)その分厚い原書の翻訳本を発見し、楽々と完璧だと自負するレポートを勿論英語で書いて提出した。ところが、採点は余り芳しくなく神父様からは「良く出来たようだが、翻訳本を読んだことが明白である。何故解ったかと言えば、主体となっている僧侶を表す単語が間違っているから」と指摘されていた。
余談だが、ハーヴァードのビジネススクールの出身者である我が友YM氏は「レポート等の宿題の量が余りにも膨大な時は仲間を集って、各自に読む範囲を割り当てて提出の期限前に全員が結果を持ち寄って一本のレポートに纏めてから提出するという裏技を使ったことすらあった」と回顧していた。こういう勉強を度重ねれば、英語の読解力と速読力がついてくるものであると今更ながら思う次第だ。
このような嘗ては「オリンピックは参加することに意義がある」と言われたように、アメリカの大学に学ぶ場合には「与えられた課題は必ずこなしておかねばならない」のが当然で重要である点が我が国との明確な違いであると思う。その他に違うと思わせられたことは「我が国の教育は教えられたことを如何に完全に自分のものに出来るか」という言わば受け身の姿勢が優先されているが、「アメリカや欧州では教えられた事柄以外にも積極的に学ぼう」というように能動的に勉強の範囲を広げていく姿勢が評価されるようなのだ。
知人にUCLAでMBAを取得して博士課程にまで進んだエコノミストがいるが、彼に言わせれば「我が国と教育の主義が違うので、いきなりアメリカの大学の大学院などに入っていくと、どうしても小学校からそういう能動的に勉強する環境で育ってきた連中には敵わない事態が生じるのは止むを得まい」と述懐していた。彼は更に「それだけに止まらず、英語力ではどう頑張ってもnative speakerたちには及ばないというハンデイキャップもある」と認めていた。
私はテレビ局が小室氏の猛烈な勉強振りを採り上げて報道するのは良いが、上記のよう諸々の文化的相違点にも触れておかないと、私には「アメリカの大学の勉強の仕方とさせ方が優れているが、一方の我が国では・・・」とでも言いたいのかと思える時が多々あるのだ。私はそういうことではなく、飽くまでも「文化の違い」が非常に解りやすく現れているだけだとしか思えないのだが。
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