chapter#12 社会的かかわりの中での存在の考察
数ヶ月前にはおよそ感じることのなかった無気力感、まるで存在が、自分というものを束ねる精神が、その中枢が麻痺をしているような感覚。
自我というもの、自分がなりたいと心底願う姿の中心をくりぬかれたような感覚、この物語が始まるその前には、自分の存在をびりびりと感じ、高揚する自信をびりびりと感じていた。
希望に満ち溢れていた。
いまのボクはどうか、ひとたび立ち止まると、精神の中枢に、自分は男であるという感覚を忘れさせるような、図太く硬いペニスが、ぱっくりと、ひらいた女性器につきさされるようだ。
ボクは、男であったはずなのに、
「精子を中で出さないで!」と、自らの麻痺してしまっている受動的になってしまった性器を気持ちとは裏腹に、ひくつかせながら、快感を感じてしまっている。
大勢のペニスが、ボクという女性器を突き刺してくるわけではない。
忌まわしい、ひとつの大きなペニスがボクの性器に、病原菌、ヴィルスを伴い、つきささってくる。
性的快感の中で、ボクの精神は、麻痺していく。
恍惚として快感の中で、涙を流す僕の精神。
「すべての人間は、ノスタルジーの中で語られる存在として男性的でいるべきである。自分という存在への責任という範疇において、自覚的であり、攻撃的であるべきである。」
ボクは、今のように存在への問いを頻繁に投げかけていた学生時代によく読んだ哲学者の言葉を思い出した。
「世に起こることの中で、自責の中で処理しようと思わなくなってしまった時点で、肯定的に人生を構築することは難しくなる。」
ボクを苦しませる言葉の一つである。
自分がどれだけ、努力をし、磨こうとしても、それ以上に、周囲のレベルが低く、劣悪な場合もある。
こうもりは、いくら「死ね」と多くの人に思われていても、死なない。
海の風の心地よさを夕凪とともに感じながら、その次のタイミングに、グロテスクな薄い羽を羽ばたかせ、ボクの存在にアプローチをしてくる。
ボクのそばには、いまもうひとり、ボクに似た存在が幸いいる。
ボクより、彼は、攻撃的な存在だ。
僕が不安に思っているこうもりを嫌っているのは、実はボクだけかもしれないという感覚を癒してくれる存在だ。
ただ、彼のボクより長けている点は、人間関係をよりスムーズにやりきることが出来るという点だ。
そんな彼に最初は、ボクは警戒感を持ったものだ。
でも、いまボクと彼に共通する部分は、こんな腐った環境ならば、早く退散してしまったほうがいいということだろう。
腐った環境、劣悪な環境、その中に共通していることは、自分という精神を、存在を軽く扱うだけならまだしも、正しいことをしていても、報われない、それどころか、より環境が劣悪になっていくそういう環境のことを言うのだろう。
いま、よく世間に言う、夢を追えとかそういう議論に賛同するつもりはない。
でも、もっと自分は肯定的にシアワセな人生を送れるはずだ。
そんな思いを見事に断ち切ってくれるこうもりとの関係はけっして、健全なもんだとはいえないし、思えない。
これまで述べてきたこと、先の哲学者の言葉でもあるように、生きるという行為の中で、自らの存在をセックスにおける女性のような、受動的な関係にしてしまってはいけない。
すべて、ジェントルマンとして、気遣いの対象として、他者を女性的にとらえ、いきていくというのが、少なくとも、ボクの人生の、この物語の中でも、哲学といえるだろう。
惨めに生きてはならない。
どれだけ、夢を抱こうが、僕と彼にははっきり言える。
いまのこの環境が、このように、物語を構築し、創作への刺激を多少与えてくれるにしても、自分という存在をトータルで考えた場合に、どちらかというと、マイナスの要素のほうが圧倒的に多いというように。
数ヶ月前にはおよそ感じることのなかった無気力感、まるで存在が、自分というものを束ねる精神が、その中枢が麻痺をしているような感覚。
自我というもの、自分がなりたいと心底願う姿の中心をくりぬかれたような感覚、この物語が始まるその前には、自分の存在をびりびりと感じ、高揚する自信をびりびりと感じていた。
希望に満ち溢れていた。
いまのボクはどうか、ひとたび立ち止まると、精神の中枢に、自分は男であるという感覚を忘れさせるような、図太く硬いペニスが、ぱっくりと、ひらいた女性器につきさされるようだ。
ボクは、男であったはずなのに、
「精子を中で出さないで!」と、自らの麻痺してしまっている受動的になってしまった性器を気持ちとは裏腹に、ひくつかせながら、快感を感じてしまっている。
大勢のペニスが、ボクという女性器を突き刺してくるわけではない。
忌まわしい、ひとつの大きなペニスがボクの性器に、病原菌、ヴィルスを伴い、つきささってくる。
性的快感の中で、ボクの精神は、麻痺していく。
恍惚として快感の中で、涙を流す僕の精神。
「すべての人間は、ノスタルジーの中で語られる存在として男性的でいるべきである。自分という存在への責任という範疇において、自覚的であり、攻撃的であるべきである。」
ボクは、今のように存在への問いを頻繁に投げかけていた学生時代によく読んだ哲学者の言葉を思い出した。
「世に起こることの中で、自責の中で処理しようと思わなくなってしまった時点で、肯定的に人生を構築することは難しくなる。」
ボクを苦しませる言葉の一つである。
自分がどれだけ、努力をし、磨こうとしても、それ以上に、周囲のレベルが低く、劣悪な場合もある。
こうもりは、いくら「死ね」と多くの人に思われていても、死なない。
海の風の心地よさを夕凪とともに感じながら、その次のタイミングに、グロテスクな薄い羽を羽ばたかせ、ボクの存在にアプローチをしてくる。
ボクのそばには、いまもうひとり、ボクに似た存在が幸いいる。
ボクより、彼は、攻撃的な存在だ。
僕が不安に思っているこうもりを嫌っているのは、実はボクだけかもしれないという感覚を癒してくれる存在だ。
ただ、彼のボクより長けている点は、人間関係をよりスムーズにやりきることが出来るという点だ。
そんな彼に最初は、ボクは警戒感を持ったものだ。
でも、いまボクと彼に共通する部分は、こんな腐った環境ならば、早く退散してしまったほうがいいということだろう。
腐った環境、劣悪な環境、その中に共通していることは、自分という精神を、存在を軽く扱うだけならまだしも、正しいことをしていても、報われない、それどころか、より環境が劣悪になっていくそういう環境のことを言うのだろう。
いま、よく世間に言う、夢を追えとかそういう議論に賛同するつもりはない。
でも、もっと自分は肯定的にシアワセな人生を送れるはずだ。
そんな思いを見事に断ち切ってくれるこうもりとの関係はけっして、健全なもんだとはいえないし、思えない。
これまで述べてきたこと、先の哲学者の言葉でもあるように、生きるという行為の中で、自らの存在をセックスにおける女性のような、受動的な関係にしてしまってはいけない。
すべて、ジェントルマンとして、気遣いの対象として、他者を女性的にとらえ、いきていくというのが、少なくとも、ボクの人生の、この物語の中でも、哲学といえるだろう。
惨めに生きてはならない。
どれだけ、夢を抱こうが、僕と彼にははっきり言える。
いまのこの環境が、このように、物語を構築し、創作への刺激を多少与えてくれるにしても、自分という存在をトータルで考えた場合に、どちらかというと、マイナスの要素のほうが圧倒的に多いというように。