chapter#16 記憶と経験
あまりにも少なすぎる経験、あまりにも狭すぎる視野。
ボクらは、多様な価値観を持つには、異質な他者を心のそこから、認めるには、寛容性を本当に身に着けるには、不十分な生物である。
ボクには「生理的に苦手」なタイプな人物、見ると嫌悪感を示す行為というものがある。ボクは思う、ボク達はきっと何かしらこの世に生まれてきた限りは意味があると信じたがる傾向にある。
意味のない行為の連続ほど、精神的に苦痛を伴うものはない。
意味のない行為を、何の疑いもなく一日中、一年中連続して続けられるタイプの人間というのも、それはそれでいい。
こんなことをいうと、差別的に聞こえるかもしれないが、ボクはやっぱり人間というものには、ある程度ランクというか、等級というものがあるんだと思う。
付け加えていうならば、ランクというものは、先天的なもの、後天的なものの両方があるが、ほとんどのランクというのは、後天的な属性にあるのではないかと思う。
ボクは信じている。
カスみたいな親の元に生まれても、どれだけ、憎しみに足る親の元に生まれても、その後の生きる中での選択は多かれ少なかれ、子供本人が選び取っていったものである。
意味のない行動を、誤解のないように、より適切にいうならば、おそらく、ボクが差別的にも、ランクといってしまったものの中でいうと、「上位」のものから見ると、いやより正確に言うと、この資本主義社会の中で比較的、それの対価を低いとされている単純労働を何の疑いもなく続けられる人々というのは、それはそれでいいんだろうと思う。
彼はそれに見合った人生を送るように今回の生命では決められているわけだ。何も、それはがっかりすることでもないんだ。
いや、それは、ボクの信念の中でいうと、それは忌むべき考え方ではないだろうか?生まれ持った不幸、その境遇、姿で生まれてきてしまった不幸というものはどんな人間でも多かれ、少なかれ持っている。
容姿端麗で、非常に性的な魅力を携えて生まれてきてしまった人間は彼、もしくは、彼女がそれをどう思っているかということは別にして、たとえば、あまり、思慮的になるという選択肢を選ぶことから遠ざかってしまうのではないだろうか?
その代わり、彼、彼女は、それに応じた幸せな人生を歩めるようになっている。
それに比べて、ボクという人間はどうだろうか?知性も、要旨も、考え方も、理性もすべて、人並みか、それ以下である。部分によっては、一般的道徳基準に照らし合わせてみても、より下劣な部分すらある。
ボクは思う。ひとという存在にしても、おそらく動物というほかの生きとしいけるものにしても、程度の差こそその二つの間にあるにしても、自らの境遇を選び取るということができる。
このできるということは、かなりかぎカッコつきのものであるのかもしれない。多くの人が一生懸命に惰性で、生きていこうという努力をしているように見える。
あまりに、少ない経験、あまりに少ない理性。
ボクはこの世界で他者との関係において成し遂げようとしていることを実践しようと考えると、自分が余りに小さい存在だと痛感する。
それゆえ、ボクはさきのチャプターの最後で「死んでしまえばいい」というような、自分の信念に大きく反するようなことを冒涜してしまうようなことをしてしまう。
理性の小ささゆえに、ボクたちは時に失敗を犯してしまう。失敗とわかっていながら、犯してまう。行うべきでないとわかっていても行ってしまう。行うべきだとわかっていても、行わなかったりもする。
すべてはおそらく、学びのためなんだろう。それぞれの失敗、成功に学びは潜んでいる。
なかなかボクが筆を走らせないでいる「ボクが小説を読めない理由」それも、ボクがこの生きるという物語の中で検証すべきたった一つのちっぽけな命題にすぎない。ほかにも、ボクには検証すべき命題が山積みにされている。だからこそ、ボクは考え方を少し変えた。
ボクの人生の中で、淡い輝きを放っている小説を書くという行為。
そこに成功の確約もなければ、実際にそれを続けられるという保証もないし、自信もない。
ただひとついえることがあるとすると、おそらくボクはそれをしたいと思っているし、これまでに400字詰めの原稿用紙で計算すると、50枚以上のこのボクが小説とカテゴライズした文章群を書き連ねている。
ボクは、人生をよりよくするために、自分を、それと周囲の関係を分析し、不確かな未来に対して、文章という手段でそれを構想していくというスキルを、もしくは、適正とは言わない、耐性を付与されているのではないかと思う。
あまりにも少なすぎる経験、あまりにも狭すぎる視野。
ボクらは、多様な価値観を持つには、異質な他者を心のそこから、認めるには、寛容性を本当に身に着けるには、不十分な生物である。
ボクには「生理的に苦手」なタイプな人物、見ると嫌悪感を示す行為というものがある。ボクは思う、ボク達はきっと何かしらこの世に生まれてきた限りは意味があると信じたがる傾向にある。
意味のない行為の連続ほど、精神的に苦痛を伴うものはない。
意味のない行為を、何の疑いもなく一日中、一年中連続して続けられるタイプの人間というのも、それはそれでいい。
こんなことをいうと、差別的に聞こえるかもしれないが、ボクはやっぱり人間というものには、ある程度ランクというか、等級というものがあるんだと思う。
付け加えていうならば、ランクというものは、先天的なもの、後天的なものの両方があるが、ほとんどのランクというのは、後天的な属性にあるのではないかと思う。
ボクは信じている。
カスみたいな親の元に生まれても、どれだけ、憎しみに足る親の元に生まれても、その後の生きる中での選択は多かれ少なかれ、子供本人が選び取っていったものである。
意味のない行動を、誤解のないように、より適切にいうならば、おそらく、ボクが差別的にも、ランクといってしまったものの中でいうと、「上位」のものから見ると、いやより正確に言うと、この資本主義社会の中で比較的、それの対価を低いとされている単純労働を何の疑いもなく続けられる人々というのは、それはそれでいいんだろうと思う。
彼はそれに見合った人生を送るように今回の生命では決められているわけだ。何も、それはがっかりすることでもないんだ。
いや、それは、ボクの信念の中でいうと、それは忌むべき考え方ではないだろうか?生まれ持った不幸、その境遇、姿で生まれてきてしまった不幸というものはどんな人間でも多かれ、少なかれ持っている。
容姿端麗で、非常に性的な魅力を携えて生まれてきてしまった人間は彼、もしくは、彼女がそれをどう思っているかということは別にして、たとえば、あまり、思慮的になるという選択肢を選ぶことから遠ざかってしまうのではないだろうか?
その代わり、彼、彼女は、それに応じた幸せな人生を歩めるようになっている。
それに比べて、ボクという人間はどうだろうか?知性も、要旨も、考え方も、理性もすべて、人並みか、それ以下である。部分によっては、一般的道徳基準に照らし合わせてみても、より下劣な部分すらある。
ボクは思う。ひとという存在にしても、おそらく動物というほかの生きとしいけるものにしても、程度の差こそその二つの間にあるにしても、自らの境遇を選び取るということができる。
このできるということは、かなりかぎカッコつきのものであるのかもしれない。多くの人が一生懸命に惰性で、生きていこうという努力をしているように見える。
あまりに、少ない経験、あまりに少ない理性。
ボクはこの世界で他者との関係において成し遂げようとしていることを実践しようと考えると、自分が余りに小さい存在だと痛感する。
それゆえ、ボクはさきのチャプターの最後で「死んでしまえばいい」というような、自分の信念に大きく反するようなことを冒涜してしまうようなことをしてしまう。
理性の小ささゆえに、ボクたちは時に失敗を犯してしまう。失敗とわかっていながら、犯してまう。行うべきでないとわかっていても行ってしまう。行うべきだとわかっていても、行わなかったりもする。
すべてはおそらく、学びのためなんだろう。それぞれの失敗、成功に学びは潜んでいる。
なかなかボクが筆を走らせないでいる「ボクが小説を読めない理由」それも、ボクがこの生きるという物語の中で検証すべきたった一つのちっぽけな命題にすぎない。ほかにも、ボクには検証すべき命題が山積みにされている。だからこそ、ボクは考え方を少し変えた。
ボクの人生の中で、淡い輝きを放っている小説を書くという行為。
そこに成功の確約もなければ、実際にそれを続けられるという保証もないし、自信もない。
ただひとついえることがあるとすると、おそらくボクはそれをしたいと思っているし、これまでに400字詰めの原稿用紙で計算すると、50枚以上のこのボクが小説とカテゴライズした文章群を書き連ねている。
ボクは、人生をよりよくするために、自分を、それと周囲の関係を分析し、不確かな未来に対して、文章という手段でそれを構想していくというスキルを、もしくは、適正とは言わない、耐性を付与されているのではないかと思う。