chapter#13 他者との関係
退散してしまったほうがよい環境ということを明らかにわかっていても、よっぽどの幸運のものでなかったり、たくわえが十分にあったりしない限り、なかなか退散は出来ないものである。
こうもり、いわば、ボクが間違って、人生を一時期、できるだけ、短い期間であってくれればと望むのわけではあるが、これは、やっかいである。
幼少期に、どういうことがあったかということには、興味もわかないし、そのことを心配してやろうと思わないが、自分という人間を必死で大きく見せようとする。
しかし、どうがんばってみても、これは所詮のことこうもりにしかすぎず、羽を広げても、けっして一メートルにも及ばない小さい存在である。
やっかいなことに、こうもりは、大群で動く。
こうもりの心理とやらを、獣医学的観点といっていいものかわからないが、専門的に解説したり、そのために、そのての文献を紐解こうという意欲がわくほど、ボクはこうもりに対して、献身的ではないが、これは、なにももっていない、誰からも、本心から尊敬、敬われるということがないゆえに、いかに、自分が大きい存在かということを誇示しようとする。
時に、ボクをはじめとした、無垢な民を、こうもりの巣の中に、蜘蛛の糸に絡むかのごとく、キャプチャーされてしまったおろかな天使たちの血液を吸い尽くそうとする。
こうもりの出立ちに、グロテスクな、細くて鋭利なペニスをもつ。
男性というものをたちまち、死なせ、女性的にし、受精を懸命に試みる。自分が弱く、醜いゆえに、無垢な民をより弱くしようと懸命になる。
さあ、視点を少し、自分、ボクという存在のほうへ移してみよう。
人生、この物語の中で、つまりは、おそらくは、この物語の序章のゴールであった、確固たる自我を発見すること、そして、この物語全体のゴールでもある、次なる有意義な舞台に実を移すという観点の中でのこうもりという存在を省みてみよう。
こうもりという存在は、上記の記述を見る限り、現在という限定をつけると、ボクという存在にとって、あきらかに有害であるという風に感じれなくもない。
しかし、早まってはいけない。
別の上記の物語、全体の中で見ると、おそろしく有意義な存在という風にも捕らえられる。
なぜか?
簡単なことだ。幸い、序章を書き終え、今のボクには、周りの無垢の民とひとつ違う点が明らかにある。ボクは、懸命にこうもりの餌食になっていく彼らと違い、聡明な頭脳がある。
無垢の民たちをたとえば、蜘蛛の巣に引っかかる餌食の昆虫だとすると、ボクは、こうもりとも、そこに引っかかる彼らとも、そもそもの生きるカテゴリ、生物の仲での分類が違う。
眠気眼、小さすぎる目では、本当に偉大なものは、偉大に見えない。
人生、生涯を通じて、朱色しか見たことのないものにとって、本当に現在常識として、世間一般で「赤」と認められている色を判別するのは、容易ではない。
つまり、こうもりも、昆虫たちにも、めくらという表現が当てはまるんではないだろか。
どちらが、人生の勝者になるか?
あきらかな問いではないかもしれない。
しかし、ボクは彼らとは生きるカテゴリーが違う、聡明さのレベルも違う、つまり、ボクは少なくとも、昆虫でも、こうもろいという爬虫類なのか、哺乳類なのかよくわからない、そんな輩ではない。
ボクは、たとえば、ハイエナみたいな存在だと思う。
小さい、幼少の頃から、ボクは自分自身をそういうように定置してきた。
どんな環境でも、自分の物語を人生を、構築するために、それが、バケモノのようなこうもり、自分を超える強者が食らった後の獲物であったとしても、その後から、そのさなか、養分を吸い取って、自分の糧としてやる。
そんなハイエナのような存在、それがボクだ。
夢見物語と思われてもかまわない。
ボクはハイエナなんだ。冷静なまなざして、醜い輩の生の営みをみて、自分の養分にしていく。
直接的であれ、ボクにはむかうやつは、痛い目にあう。
ハイエナには、人生の存在の中での写しえ、実際にはけっして誰の目にも見えないが、ハイエナより、美しく、高貴な、狼がいつもついている。
いまは、まだハイエナであったとしても、ボクは確実に、狼へと変貌を遂げるであろう。
こうもりという存在。
それは、今のボクという存在に多大な不満を与える存在、次の章では、このこうもりという存在との絡みを解説できたということで、なぜ、ボクは小説を書くだけで、小説を読めないのかということを見ていこう。
小説、物語を書いている中で、小説を読めない理由を解説するとなると、いささか奇妙な印象を持たれるかたもおられるかもしれないが、これは、自分の意識が身近なこうもりという卑劣な存在に近視眼的になりすぎる中で、次の一手を、外の世界へと広げるという、この第一部の中での重要なチャプターとなることは間違いないので、しばしお付き合いをいただきたい。
もうここまで読んでいただいて気づかれたかたもおられるかもしれないが、ボクは囲うとしている物語は、決して安っぽい俗の小説ではない、純文学というか、小説を書くこと自体が、哲学というか、人生と直接結びついているそういう、物語である。ここも、次のチャプターのボクが小説を読めない理由ということにつながるだろう。
あえて、ひとこと先に結論を出しておくと、あまりに人生、物語というものに対して近視眼的過ぎるゆえに・・・というのが解答であろう。
退散してしまったほうがよい環境ということを明らかにわかっていても、よっぽどの幸運のものでなかったり、たくわえが十分にあったりしない限り、なかなか退散は出来ないものである。
こうもり、いわば、ボクが間違って、人生を一時期、できるだけ、短い期間であってくれればと望むのわけではあるが、これは、やっかいである。
幼少期に、どういうことがあったかということには、興味もわかないし、そのことを心配してやろうと思わないが、自分という人間を必死で大きく見せようとする。
しかし、どうがんばってみても、これは所詮のことこうもりにしかすぎず、羽を広げても、けっして一メートルにも及ばない小さい存在である。
やっかいなことに、こうもりは、大群で動く。
こうもりの心理とやらを、獣医学的観点といっていいものかわからないが、専門的に解説したり、そのために、そのての文献を紐解こうという意欲がわくほど、ボクはこうもりに対して、献身的ではないが、これは、なにももっていない、誰からも、本心から尊敬、敬われるということがないゆえに、いかに、自分が大きい存在かということを誇示しようとする。
時に、ボクをはじめとした、無垢な民を、こうもりの巣の中に、蜘蛛の糸に絡むかのごとく、キャプチャーされてしまったおろかな天使たちの血液を吸い尽くそうとする。
こうもりの出立ちに、グロテスクな、細くて鋭利なペニスをもつ。
男性というものをたちまち、死なせ、女性的にし、受精を懸命に試みる。自分が弱く、醜いゆえに、無垢な民をより弱くしようと懸命になる。
さあ、視点を少し、自分、ボクという存在のほうへ移してみよう。
人生、この物語の中で、つまりは、おそらくは、この物語の序章のゴールであった、確固たる自我を発見すること、そして、この物語全体のゴールでもある、次なる有意義な舞台に実を移すという観点の中でのこうもりという存在を省みてみよう。
こうもりという存在は、上記の記述を見る限り、現在という限定をつけると、ボクという存在にとって、あきらかに有害であるという風に感じれなくもない。
しかし、早まってはいけない。
別の上記の物語、全体の中で見ると、おそろしく有意義な存在という風にも捕らえられる。
なぜか?
簡単なことだ。幸い、序章を書き終え、今のボクには、周りの無垢の民とひとつ違う点が明らかにある。ボクは、懸命にこうもりの餌食になっていく彼らと違い、聡明な頭脳がある。
無垢の民たちをたとえば、蜘蛛の巣に引っかかる餌食の昆虫だとすると、ボクは、こうもりとも、そこに引っかかる彼らとも、そもそもの生きるカテゴリ、生物の仲での分類が違う。
眠気眼、小さすぎる目では、本当に偉大なものは、偉大に見えない。
人生、生涯を通じて、朱色しか見たことのないものにとって、本当に現在常識として、世間一般で「赤」と認められている色を判別するのは、容易ではない。
つまり、こうもりも、昆虫たちにも、めくらという表現が当てはまるんではないだろか。
どちらが、人生の勝者になるか?
あきらかな問いではないかもしれない。
しかし、ボクは彼らとは生きるカテゴリーが違う、聡明さのレベルも違う、つまり、ボクは少なくとも、昆虫でも、こうもろいという爬虫類なのか、哺乳類なのかよくわからない、そんな輩ではない。
ボクは、たとえば、ハイエナみたいな存在だと思う。
小さい、幼少の頃から、ボクは自分自身をそういうように定置してきた。
どんな環境でも、自分の物語を人生を、構築するために、それが、バケモノのようなこうもり、自分を超える強者が食らった後の獲物であったとしても、その後から、そのさなか、養分を吸い取って、自分の糧としてやる。
そんなハイエナのような存在、それがボクだ。
夢見物語と思われてもかまわない。
ボクはハイエナなんだ。冷静なまなざして、醜い輩の生の営みをみて、自分の養分にしていく。
直接的であれ、ボクにはむかうやつは、痛い目にあう。
ハイエナには、人生の存在の中での写しえ、実際にはけっして誰の目にも見えないが、ハイエナより、美しく、高貴な、狼がいつもついている。
いまは、まだハイエナであったとしても、ボクは確実に、狼へと変貌を遂げるであろう。
こうもりという存在。
それは、今のボクという存在に多大な不満を与える存在、次の章では、このこうもりという存在との絡みを解説できたということで、なぜ、ボクは小説を書くだけで、小説を読めないのかということを見ていこう。
小説、物語を書いている中で、小説を読めない理由を解説するとなると、いささか奇妙な印象を持たれるかたもおられるかもしれないが、これは、自分の意識が身近なこうもりという卑劣な存在に近視眼的になりすぎる中で、次の一手を、外の世界へと広げるという、この第一部の中での重要なチャプターとなることは間違いないので、しばしお付き合いをいただきたい。
もうここまで読んでいただいて気づかれたかたもおられるかもしれないが、ボクは囲うとしている物語は、決して安っぽい俗の小説ではない、純文学というか、小説を書くこと自体が、哲学というか、人生と直接結びついているそういう、物語である。ここも、次のチャプターのボクが小説を読めない理由ということにつながるだろう。
あえて、ひとこと先に結論を出しておくと、あまりに人生、物語というものに対して近視眼的過ぎるゆえに・・・というのが解答であろう。