本の読み方の設計図。

本の構造を明らかにしていく。
論拠・主張

論証=事例、引用。

小説025 : reProfesional#98

2008-10-16 01:01:28 | reProfesional
chapter#25 続き

欲望と求めるもの。

ボクは、「なぜ小説を読まないのか?」このトピックを書こうと決めてから、どうにも思うように筆が進まないでいる。人生というのはひとつの執筆活動に似ていると思うということは、この物語の最初からずっと述べてきていることだと思う。
物語という虚構を完成させるには、何度もこれまでたどってきた軌跡を再考し、その中で、次にどういう筋書きを継ぎ足すと、面白みのある展開になるかということを考えないといけない。

少なくとも、小説を読む理由にしても、書く理由にしても、そこに何かしら、欲望と求めるものがあるがゆえに、ひとはそういう所作を試みる。
過去を振り返り、それにあった所作をする。それだけでは、ただ論理的に見合う行動をするだけなら、本当に生きるという行為は完成しないのではないかと思う。
実際の人生というのは、小説のように、完成されたプロット、著者の思い描いたような、少なくとも、そこにいる登場人物は、自分があたかも考えて動いているように、設定されたキャラクターを演じていくということだけでは、いかにも不十分なものだろう。

ボクはけっして、人の作った物語の主人公にも、ましてや、そこでの登場人物にもなりたいと思うわない。小説というのは、あくまでも、ある天才的著者によりかかれた虚構である。それゆえ、どれだけ、その創作段階で著者が悩み、筋書きを思い描くのに腐心したとしても、あくまでもそれは、完成品としてそこにあるものである。そこに、ボクが、小説を読めない理由、読まない理由というものがあるのではないだろうか?

小説を読めない理由と、読まない理由というのは厳密に言うと、区別されるべきであろうが、ほぼそれぞれの解にたいする構造は「A=Bそれゆえ、B=C」という構造ではなく、いわば弁証法的に結び付けられるものであるので、これ以上の説明は必要ないのではないかと思う。
ボクは自分をもっと善く、よりよき存在として、止揚していきたい、だから、ひとつのシアワセのプロットとしての小説は、よむ意味をまだ感じない。

小説とは、たとえそれがどれだけ破滅的な、精神分裂状態であったとしても、それが一度書物として化したとたんひとつの安定した作品となってしまうものである。
癪に障る。そんな表現が一番合うのではないかと思う。

人は、生きていく中で多くの過去というものを作り上げ、少し最近の過去を後悔の対象として、遠い過去はあまり振り返ることのない対象として構築していく。
未来は不安定な自分として、今の中に存在する。
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小説024 : reProfesional#97

2008-10-15 22:45:41 | reProfesional
chapter#24 続き

小説を書く目的。
ボクは何日か、筆をおいていろいろなことを考えた。

深みのある文章を書きたい。
その中での恐れ。また情けなくも疲労感に襲われたら、筆を止めてしまうのではないかというセミプロの自分。
また、心の中に、嵐が吹くと、精神の流れが逆流してしまうのではないかという恐れ。

小説を読めない理由。
それは、きっとまだ人生の目的、今を生きるモチベーションというのが定まりきっていないからではないだろうか?

心の中ではいつも絶え間なく、さざなみが押し寄せてくる。精神不安定でない人間なんていうのがいるのだろうか?僕はそういう類の疑問で時々、気持ちがめいりそうになる。
そこに線路がしかれれば、きっとひとりでに電車は走り出すんだろう。
ボクが小説を読まない理由というのは、きっとそこにまだ線路が見えないから。
でも、自分はせっかく親切にも線路をしいてくれても、その線路の上で脚を躓かせてしまう人間。そこに線路があるとなかなか気づけない人間。
その前に、ボクの人生というのは、というとナルシストになってしまうが、おそらく、ほとんどの、いやすべての人間にとって、線路なんて決してしかれたりはしないものなのではないだろうか?

線路がないからこそ、そこに線路を敷こうという気持ちになる。線路を敷こうという気持ちが少なからずあるものがその徒労を度外視して、書物を紐解こうとする。
つまり、書物を読むとは、生きる意志のあるもののすることであるといえる。
その中でも、小説を読むというのは、悪く言えば暇人の、よく言えば、精神的に大きな余白のある人間が出来ることではないだろうか?

精神的な余白とはいったいどういう状態をさすのであろうか?
簡単に言うと、いまそこに存在する自分で満たされきっていない状態ということが出来るのではないだろうか?今の自分で満たされきってしまうと、空想の中に身を投じる余裕などなくなるだろうし、なんとか今の状態をよくしようと、もしくは、今の状態の中での不要な部分を取り除こうと躍起になるのではないだろうか?

・・・
ダメだ。
けっこう筆は進んだのに、ここで空腹が襲ってきた。
ボクは、とりあえずメシを食うことにした。

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小説023 : reProfesional#96

2008-10-14 00:53:58 | reProfesional
chapter#23 自己啓発ではなく

ボクはギャップを感じている。
かといって、ただポジティブな状態を導きたいわけでもない。若い頃から染み付いてみた皮肉なものの見方、ハイエナと自分をいわば卑下してしまうような習性から、どうしても、いまだ未完成の人生哲学上から、完全なポジティブ思考というのに賛同しきれないでいる。

ボクはこの物語を書くことで、決してひとつの自己啓発書を完成させたいわけでもないし、そういうふうになってしまったら、ボクの挑戦というのも失敗になってしまうだろうといえる。

ボクは、ここまで物語を書いてきて、それが第一部の終わりになるのかということはどうかわからないし、これまでは、このトピックを書き終えたときに、おそらくこの小説の中心的な議題は論じつくされてしまうのではないかという不安に駆られていたが、そんなことはないという確信を持てたので、いよいよ棚上げにされ続けてきた「ボクが小説を読めない理由」というトピックを論じてみたいと思う。

ひとことでいうと、いまのボクに、その面白さを感じられないからというのがボクを小説に目を向けさせない理由だろう。ただ、僕は小説を読むことに対して、大きな必要性は感じている。なぜか?決して、そこに今のボクの悩みの種である深みのある文章を書くという答えがあるとかそういう理由からではない。

とくに、ボクみたいに若いやつで、まともな人生を送り始めようとすると、利口でないと、相手にされない。正直、今のボクはまともな人生を送れているかというと疑問を持つ。
以前ボクは小説というものは、役に立つから読むということを書いたと思う。これはここにきても、ある程度真実であると思う。
書物を紐解くというのは、それなりに労力を要することであるし、たとえばビジネス書にしても、それが自分の現在の興味、関心になにかしらひっかかることがあるから、読もうという気になるんだろう。

目的がないところになかなか行動は現れにくい。
だから、ボクはついこないだまで、ただ書物を読むということに対してすら、倦怠感を覚えていた。こうもりに血液を抜かれきった状態が続いていたのである。
でも、救世主という大げさな名前をつけた彼に再会し、人生の中でのギャップを感じ、ボクは少しずつ気持ちを変えようとしていた。

・・・

ボクは少し疲労感と、文章を続ける勇気がわかなくなってきた。

「ダメだ。ここまでは、スラスラと文章を書けるけど、
 この続きを今書いちゃうと、なんだか、それこそ深みのない文章になっちゃうよ。
 少し、時間を空けて、この先を考えよう。」

「・・・・・」

特に誰かが応えてくれるわけでもない沈黙がしばらく続いた。
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小説022 : reProfesional#95

2008-10-13 23:53:07 | reProfesional
chapter#22 ダルさの原因

ボクはようやく眠りに何とかつけた。

僕は寝るときにいつも、音楽であったり、なにかしらの音をつけて寝るようにしている。すくなくとも、ボクの要求を完全に満たす音楽は之までの人生ではそうでなかったかもしれないが、今はない。
昔は、radioheadとかsilversteinの音楽を聴いていると、なんともいえない、安心感を覚えた。
いいように、考えると、創作されたものを与えられて満足していた段階から、本当に自分に合うものを探すのではなく、つくろうとする段階に移ったともいえるだろう。
つい最近までは、rammsteinというドイツの音楽を聴いているとえらく安心感を覚えたものだ。

ひとは、きっとそうやって、何かしら空しさに駆られながら安心感を得ようとするものだろう。
ボクは、誰に認められるとかそういう以前に創作者になろうと昔から思ってきた。
そして、以前ポエムをめっぽう作っていた時期に比べればいくばくかは、ソレに近づけているのではないかという自負は少なからずある。
それほど、面白くない文章を書いているというわけでもないように思う。

でも、ボクはその面白さというのは、いわばマスターベーションのような面白さではないかという不安に駆られるときがある。たしかに、自分がその瞬間に書ける最大の面白さを勝手に、書きたいように書いているわけだから、自分にとって見ればそりゃ面白くて当然だが、ボクが本当に文章を書こうと思い始めた理由である「ボクと同じような心境」を抱いている人に対して、少なくともシアワセになってもらう、楽な気持ちになってもらう、うえで挙げたアーティストのように安心感を感じてもらう、そのために文章を書くということと照らし合わせるとまったく物足りないのではないかという気持ちになる。

その理由もいくらか、ボクには明白にわかる。
いくつか前の章で書いたように、ボクはまだボクという存在を定めかねているし、無謀にも、ボクという存在を定めようとしている。
ここは、これまでのボクと違い学んだといっていいのかもしれないが、そもそも、生きている以上自分は之だという回答を出した時点で負けなのかもしれない。

完成品ほど、時代遅れな者はない。
そんな言葉もあった気がするが、自分は之でいいという方向を躍起になって、探し、想像していくのはそれでいい。でも、それで回答は出ましたとなって、ストップをしてしまうと、こうもりのように、つまらない人間になってしまう。

ボクが今のボクの文章に決定的に足りないのは、深さだと思う。
深さがないから、どれだけ一生懸命に文章をひねり出したところで、納得しないし、多くの人々の心を感動させるほどにもならない。


生きるっていうのは、えらく疲れるものだと思う。
その疲労感が、ボクが少しでも得られればと願っている深さを増す段階ならいいが、そうでなかったら、辛い。
深さがない原因もある程度明白である。
それは、僕に自信がないからだろう。
ああいわれれば、引きずりの経験を味わい、自省する。
その自省が浅いから、攻撃的になる。
ボクは、きっともっと悩むべきなんだと思う。

ボクが何より恐れているのは、せっかく悩みをまた開始しだし、自分に対する自省を少しでも出来始める状態に、なってきているのに、また悩まず、いやもっと正確に言うと、現状に沈殿し、ただこうもりに血をすわれ続けるだけの存在に落ちてしまうということ。

自分ではなんとなく、ボクはわかっている。自分という存在がほっとおくと、どんどん現状に沈殿していく生きるしかばねのような存在であると、だからこそ、青白い顔をして、「目的」とはなにか?「目標」とはなに?ということをもっと自省しないといけないということを。

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小説021 reProfesional#94

2008-10-12 23:00:11 | reProfesional
chapter#21 興奮状態

ボクは眠りに付こうと思ったが、いっこうに寝つけない。
ボクは床に着く前に、きっと明日の朝また起きたら、とくにやることがあるわけでもない怠惰な日常の中でこんな書き出しで、また物語を書くはじめるんだろう。
そう思って床に就いた。


「ボクはようやく『悪夢』からようやく、精神分裂状態から目覚めようとしていた。」


いや、でもよく考えてみると、そう簡単には悪夢の状態からは抜け出せないだろう。だって、どうせおきて目覚めると、またきっとボクが今想像している以上に阿保面でまた、芯をくりぬかれたような彼に同化作用を受け、こうもりを見て、攻撃心を呼び覚まされる。
ボクは軽く思ったりもした。
高校生のときみたいに、数ヶ月前みたいに、無尽蔵に沸き起こる性欲と、そして、人生に対する甘い希望がまたひとりでに出てこればと。
でも、そんなことはもうない。

ボクにとってみると、なるほどすべての女性は美しいということに代わりはない。
フェティシズムを感じる体の部分を見ると、やはり興奮をする。ただ、ボクは年齢とか、そういうこととは関係なく、一定の距離感を持って性欲というものに、以前と比べ接することが出来るようになったいる。
こうもりという存在、人生の完成された敗者たちに日々囲まれて生活する中で、僕の中には第三者のこれまでは、発情期の犬のようだったボクはハイエナのように、冷徹なまなざしを少しはもてるようになってきた。

快感は快感だし、愛撫をされれば、それなりの反応は出来るし、女性器を見るとやはり愛撫をしたくなるというのは変わらない。性欲、けだもののような性欲は消えた。性欲、セックスをただしたいというだけのそういう欲望は消えたのかもしれない。
それは、考え方によっては、自分が虚像の強者の立場から、弱者の立場に変わったからというようにもいえる。
ボクは之まで思っている以上に社会的に見てみると、若輩者だ。
今はあまりなくなったが、ボクが女子高生を見ると、その適度に湿気を感じる脚を、ふとももをみると極度の興奮を味わっていたように、ボクは、その性器をいたずらしてやりたいと思われているようだ。

もちろん、ボクはそれほどのナルシストでもないし、ゲイでもないし、純粋にセックスを愛する異常性欲者でもない。言い方を変えるなら、それほどセックスに依存しなくてもいい状態の人間ではある。よって、上の言い回しは決して自分が性的対象として見られているという勘違いの言い回しではなく、自分がその若さゆえに、その白さゆえに、泥を塗ってやりたい存在としていまこの空間を生きているのではないかということだ。

でも、ボクはそういう考え方に嫌気を幾分感じている。
自分を結局、犯される対象、Mとして捉え、周囲を結局は、自ら、Sへと仕立てようとしている。
その生真面目さに嫌気がさしている!!!
ボクの興奮状態はそこからきている。
自分が構造として自分を弱者として、Mとして、伯爵様から、痛めつけられ、それを人生の糧なんぞに変えようと思っている間は、結局、エンドレスなSMごっこをやり続ける羽目になるんだ。

そんなに、ボクはMでもないし、そこに生き続けたいなんて思っていない。


そうだ、ダルい。

生きるという中での倦怠。
また始まるSMゲームを食い止めないと、完成した敗者なんてえらそうに言っているやつらと同じ弱者と同じになっちゃう。
特効薬なんてない。

なんて書けばいいかなんてまだそう簡単には浮かばない。
明日起きたら、きちんと目覚めたら、もう一度深呼吸をして、なんとかSMを食い止めれるように動いてみよう。

ボクは、そういえば、ハイエナのHをとったHという存在を目指していたんだな。
ネーミングセンスもあまりないよな。
そろそろもう一度寝付けるように努力をしてみよう。
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小説020 : reProfesional#93

2008-10-11 02:20:00 | reProfesional
chapter#20 挿話 ~手紙

ボクはいつものように、物語の続きを書こうと、ペンを握った。
でも、今日は、ボクは昔の気持ちに戻っている。年老いた母、父との戯れ。ボクは、なんともいえない申し訳ない気持ちになった。ボクは昔はよく、書いていた手紙を書いてみようと思った。




 拝啓 まだ見ぬアナタヘ~ 

ボクはもちろん、家族を愛しているし、一生を誓った異性を愛しているし、それ 以外の女性を愛するということはない。
それは紛れもない真実だ。
でも、ボクはひとりで生きていくには、弱すぎるんだと思う。
ごめんね。いいわけをしていきてきたのが、これまでのボクの25年間の人生だったんだと思う。
 
正々堂々とすべてを語れるほど、清廉潔白でもない。
正直に言うと、ボクはうそつきなのかもしれない。周りの人間より、多少という表現を使うと、バチがあたるというほどに恵まれているのかも知れない。
自分勝手なボク。

まだ見ぬアナタヘ。
こんなアナタに手紙を書いてしまうという弱さ。
ボクはね、怖いんだ。まだ若いときは、本音で話せないということを強く憎んだ時期もあった。自分の力のなさを嘆いた時期もあった。
そのころのボクはうそはついていなかった。
詩人だったボクは小説を書こうと思った。

とんがった部分がなくなったんだね。
でもね、とんがってばかりじゃ、だめなんだよね。
巧妙にうそをつき、身の潔白を主張する。
許してとは言わない。
これが、ボクなんだよ。
ボクは、まだ見ぬアナタに会いたいとは思わない。
だって、ありったけのボクを見せた時に、ありったけのボクがアナタに見られてしまったときに、すべてが崩壊するんじゃないかって思うんだ。

だから、すごく怖いんだ。
秘め事として、この手紙をどうか読まないでください。」

「  追伸 :
   これは、遺書でもなければ、深い意味のあるものでもありません。
   ただ、ボクはまたいつも通り自分勝手に自分の恐怖と不安を和らげるために、まだ見ぬアナタなんていう都合のよいタイトルで書いた手紙です。」


ボクは今日は、もう物語を書くのをよしておこうと思った。

《幸せな過去との再会は、時に不幸せな現在の、恐怖の未来への招待状へと変わることがある。》

ボクの頭の中には、数少ない哲学書の不確かな解釈がよぎっていく・・・

ボクはもう詩人でもないんだ。次に目指そうと、決心した姿に早く変わろう。
ボクがハイエナ?あの人がこうもり?
ボクはなんていうことをしてしまったんだ・・・
どうか、ボクを倒錯状態から戻してください。

・・・・・このままきっといつものように、阿呆面をし不快な眠りへとついていくんだろう。
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小説019 : reProfesional#92

2008-10-10 00:40:00 | reProfesional
chapter#19 都合の悪さ

まじめに生きようとすれば、その生真面目なもののかっこわるさが象徴するように、「都合の悪さ」は生じる。なぜだろう。ボクは考えてみた。
ボクは、さすがにまだ小説を読み込む、小説を読むという行為に身を投じてみるということを人生を通してしたことがない。
おそらく、理由はいろいろあるんだろうけど、おそらく、小説を読むという行為に、けだるさというか、面白みを感じれていないということがあるだろう。
以前どのチャプターかは、正確には覚えていないが、ボクは小説を読むという行為と、人生の中での「興味」「情熱」との関連を述べた気がする。

ボクは、ようやくこの第一部を書くにあたって、人生に対する情熱を取り戻しつつある。決して、ボクが書物を読んでいなかったからといって、人生に対する情熱を完全に失ってしまっていたわけではないが、ボクは本当に倒錯状態にあったのだろう。
こうもりの吸血により、人生という血管の血液を吸い尽くされようとしていた。でも、ボクの人生は捨てたもんじゃない。そう教えてくれる男が一人いた。
彼は、おそらく、退屈なんだと思う。
ボクの人生に自分の映し絵を見ていて、「このまんまじゃ、おまえはつまらない人生を送るぞ!」そういうシグナルを送ってくれていたんだと思う。

彼が今、ボクに対してどういう印象を持っているかどうか知らないが、彼は、こうもりが奪っていった僕の血液を取り戻してくれた。彼は、ボクにとって救世主だったのかもしれない。

でも、ボクは都合の悪さを感じてた。人は生きていく中で、他者を解釈しようとする彼もおそらく、ボクをボクが思っている自分とは違う仕方で解釈をしてくれた。そのおかげで、ボクはいき永らえた。

他者が自分に対してどういう解釈をおこなっているか、それを推し量るのは、非常に難しいんじゃないかと思う。いまだMの段階にあるボクにとっては、もしくは、生涯を通して、Sより、Mであることに、重きを置くこと心のどこかでよしとしてしまっているボクにとっては、プラスの評価をされることはいい意味での都合の悪さを生じさせる。

書物を読むことも、いわば、粘膜と粘膜を異性間ですりあわせることに似ている。ひとりの人間の頭脳を短時間であるにしても、共存する、それを読書とすると、良くも悪くも、「ひきずり」の経験をともなう。
生真面目に、それにひきずられてみよう。
そうすれば、あたかも、川の上流から下流に流れる桃太郎のもものように、自分を切り開いてくれることもあるかもしれない。
戦略的に、ながされよう。今のボクはそんなレベルだと思う。
でも、そんなレベルでずっといるんじゃ、ボクは、万年Mの阿呆づらと一緒になってしまう。

そこのコントロールの難儀さもボクがどういう風に命名してよいかという戸惑いをかんじている「都合の悪さ」「ひきづられ」の経験が生じるのであろう。
どうなんだろうか?
今のボクと周囲の他者との関係は、こんな風にしか描写できないんだろうか?
今のボクに簡単に描写できるのは、自分がどちらかというと人生の中での、この物語の中でのポジショニングをマゾに近いものとしているということ、それから「ひきづられ」の経験の中で、うまく、こうもりとの距離感を保つことでなんとかのりきろうとしていること。これくらいだろう。

「人生はいすに座り、物思いにふけっているやつには好転の女神をつれてきてくれない。好転の、いや君の人生の中での勝利の女神を連れてきてくれるのは、その前髪をつかもうとするものだけだ。」

川を流れる箱舟。

きっと、今のボクがもっと物語を自分よりに持ってこようとするためのヒントというのは、「ひきづられ」の経験の構造を明確にし、「都合の悪さ」の構造を理解し、それをこうもりとの関係性において、いかに優位に立ち、ハイエナとして、より優位に築くための命題に回答を試みることができるかということにかかっているのであろう。
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小説018 : reProfesional#91

2008-10-09 11:20:30 | reProfesional
chapter#18 生真面目さ

「明日の朝、目覚めるとすると、おそらく私は、両親への感謝の念。そして、公開の念で押しつぶされそうになり、感情は高揚し、制御不可能な状態となるでしょう。」

実際、死の間際の詩人の言葉だ。ボクには、到底その状況をリアルさをもって、実感することはできない。でも、この詩人の言葉に共感できなくもない。
両親に感謝されることをボクはこれまでの人生でしてきたかといわれると疑問に満ち溢れる。どちらかというと、両親に対して、謝罪したいということのほうが多いままで人生の幕を閉じてしまうという結末になるだろう。


さて、前回の奇論の中で、論理的構造で言うと、結論というか、具体論を先に出してしまったゆえに、論理的に物事を考えることのできる優秀な層にとっては、いささか読みづらさを味わわせてしまったであろう。

この章では、SとMの構造というのをボクなりに考察をしていきたいと思う。ボクはこの物語を書く中で、友人に「お前の文章は駄文だ」とか、「あれはどう見ても小説じゃないよね、おまえの学生時代の卒業論文と同じでいろんなものをかじって、結局はまとまっていない、似非論文だよね」とかという批判を実際受けないにしても、仮に懸命にこの文章を読んでくれている人がいるとすると、多かれ少なかれそういう批判を内心感じている方が多いことだろうと思う。

それは、致し方ない。今のボクの物語を書く能力というのがその程度だということだけのことだ。

さて、少し、毎度のことながら、本題とずれてしまった。
SとMの構造というのを見ていこう。
Mというのは、生真面目でなければならない。おそらく、それはSについても同じことは言えるのだろうが、ボクの中では、人生の横道でないSということを中心にして、主語として語らないが、おそらくこれから語ることをそのままひっくりかえすと、Sにも当てはまることになるのであろうから、そのあたりはご勘弁いただきたい。

Mがなぜ、生真面目でなければならいのか?
それは、簡単に言うと、自分は痛みを与えられていると思ってしまっては、それはすでに、Mでなくなってしまうからである。痛みを反転して受容し、それを快楽として自然に認識することができなければ、すでに公爵の思う壺になってしまう。
前回までの議論を思い返すと、ボクはMというより、Hつまり、ハイエナであったわけだから、特にそこに問題はないのかもしれない。
でも、目の前にいるこうもり、もしくは考えただけで、身の毛もよだつが、(本当のMなんていうのが、実際存在するのかどうか知らないが、ほんとうのMなら、あらたな公爵の出現で喜ぶべきところなのかもしれない。)まだ、ボクが出会っていない、おそらくこうもりよりも強烈な破壊力を持つであろう、おおかみであったり、熊であったり、もしくは動物界で言うところの百獣の王ライオンであったり、トラであったりというものにあったとすると、より強烈な痛みがともなうのであろうが、まずはいま、目の前にこうもうりという眼前たる公爵がボクには幸いいるわけで、ボクはこの場合、まだHという存在として確立されていないわけで、M的な振舞うほうがいいわけである。
それゆえ、生真面目にならざるを得ないのである。

ボクの今必要とされている生真面目さ。それは、仮に、また日があければ始まる苦悶の日々を苦悶と解釈せずに、自然に、その神経回路を、これは大きな物語という尺度で見た場合快楽であるという風に変換できるようにしなければならないということである。Mとして、みじめな人生を歩みたいわけではなく、ハイエナであり、ゆくゆくは、まだみぬ狼として、生きて生きたいと願っている僕としては、ここの変換を生真面目にしなければならない。
もし、これを、実際はボクはよくそれをしてしまうことにより、ヴァギナに、こうもりの鋭利な酢酸臭のするペニスを突き刺されるわけだが、これから、日々あっていくサド公爵のかっこうの餌食となってしまうわけである。

苦痛の快楽への変換。
これが、ボクが今いちばん手軽にできる、あるべき自分との仲での倒錯遊びであろう。ここから、ボクの中で都合の悪さという新しい感情がまたたち表れるわけである。

いっけんわけのわからないことを延々と述べてしまっているように感じられる構造となっているかもしれない。ただ、もしかするとこういうことで、「ボクが小説を読めない理由」というものの理由の外堀を徐々に固めていき、ボクは日々をまともな方向に軌道修正しようとしているのかもしれない。

ボクが一歩動くたびに、ひとこと発するたびに、それは苦痛へと表情を変えていく。ボクはまだまだ憂鬱なマゾでしかない。こうもりにこれ以上思いのままにされておくだけではいかない。小説を読もう、書物を読もう、そして、都合の悪い「引きずられ」の経験をまたしよう。
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小説017 : reProfesional#90

2008-10-08 00:00:05 | reProfesional
chapter#17 マゾヒズム、パラフィリア(性的倒錯)

およそボクは思う。自分の価値なんていうのを客観的に推し量るということは不可能だと。ただひとついえるとすると、ボクたちは生きるという行為において、SMに近いことを行っているのではないかと。
日本語で言うと、恒常的に、いじめっこと、いじめられっこという関係はおそらく、多くの人間関係のさなかにおいて成立しているのではないかと。

「ボクはA君の視線が怖い。
 でも、B君を見ていると辱めてやろうという気になるんだ。
 Aさんをみていると、ペニスをのど元にぶち込んでやろうという、情意がこだまする。それに対して、Bさんをみていると、そのすらりとのびた脚先の足の土踏まずで、顔を踏みにじられたくなる。」

* 注釈 :
性的なことを文学的に描くのは難しい。時にグロテスクな表現になるし、時に大きく誤解を生む。

いじめられっこの立場に身をおくことで屈辱感を味わい、いじめっこ立場に身をおくことで安心感を味わう。
さっきの章からの続きではあるが、人間というのは、何かにつけ、上下の関係をつけたがる。

マゾヒズムに人生を置くか、サディストとして、人生を置くか?
いずれにしても、ボク等は倒錯せざるを得ない。つまり、そんな質問はばかげた質問でしかないし、さっきのボクの、A君、B君、Aさん、Bさんの記述で明らかのように、人間関係においては、おそらくその場その場である程度の妥協を重ねながらその関係性は構築されていくのだろう。
でも、ボクは思う。
サディストに自分はなれる、自分はサディストであると、人生という物語の中で、身を置いてしまうものは失敗者、落伍者であると。
もちろん、それがセックスの一時的な場面においてなら、それはある程度許容できるのではないかと思う。
でも、人生というのは、相手をいためつけることで、一時的な自己満足を味わえるほど、容易なものではないのではないかとボクは思う。

ボクは、人生というのは、というと押し付けになるので、いいたくないが、すくなくとも、ボクの人生においては、ボクはあくまでもマゾヒズムを貫きたい。

*注釈: 自己同一性、アイデンティティ、そんな言葉をボクは聞いたことがある。この言葉を解釈する限り、「自己」というのは、常にいわゆる自己と一致しないという意味合いを強く感じなくもない。

さて、注釈をはさんで、なんで、ボクがマゾヒズムを貫きたいかということを見ていこう。
ボクはボクはこれまでいみじくも書き連ねてきた「日々の忌まわしい記憶」「退散してしまったほうがいい環境」といったような、いわばサディズムに近しいような言葉を思い出す。
人間というのは醜いもので、あるべき自分、ありたい自分という像と、実際の自分の中で、同一性を推し量ろうとして、絶えず失敗を繰り返してしまう存在ではないかと思う。

今、ボクがこうして文章を書いているのも、無意識における領域に多くを任せて、おそらく無意識の領域で思考を回転させ、睡魔と闘いながら、明日への同一性への恐れを抱きながら、こうやって時間を殺していくという罪を行っている。

~内白
与えられた時間というのは、そう長くはない。
自分はだめな人間だ、だがもっと快感を味わえるはずだ、こんなところで、生の性欲を枯渇していてはだめだ。
自分には学ばないといけないことがまだまだある。

ボクには、そんな内白が頻繁に訪れることがある。
完全におそらく理想の自分というものと合致しているものはいないのではないかと思う。それだと、おそらくすべての人間が、性的倒錯・パラフィリアであるといえるのではないだろうか?
つまり、すべての人間が変体で、SかMかというのを演じ続けている。

性的快感の後には疲労感が訪れる。
つまり、まともに生きようとしていれば、疲労感はある。

自分の正確な価値なんて、推し量ることはできない。
それならば、自分を一段低く見て、自分を少しでも日々、ましな方向に磨き上げていく。鋭利なたわしで、その垢をそぎ落としていく。
不安な睡魔の中で、同一性のバランスを保とうとする。

失敗という屈辱の中で、自分に快の感情を生み、射精をし、疲労感を味わう。
疲労も、射精も決して一人では成就できないものだ。

こうもりが暗闇で羽安目をしているこの時間。
ボクはまた、朝があけると、こうもりのいる巣に身を運ぶ。
こうもりが、いや今、目の前にいるこうもりがたとえ、息を引き取ったとしても、このこうもりとは別のグロテスクな人生の預け主というのが必要だ。
ボクは決して、人の下で一生を生きて生きたいなどということを願っているわけではない。しかし、自分を恒常的に磨き続けていくために、自分の価値をより高めるために、ボクはハイエナという新しい生物であろうと思っている。

別に、ハイエナという動物自体が、存在として新しいといっているわけでもなく、ボクは自分なりのハイエナ像を創造していければと思う。
ハイエナは人に正確に記述を試みるなら、裏切られることなどはない。

ハイエナの未熟さゆえに、百獣の王であったり、こうもりに虐げられる。
ほんとうの、ハイエナは、本当のマゾは、サド侯爵に、それとわかっていながら、身を人生を授ける。
いわば、敬虔な宗教の一員なのである。別に、マゾは、サド侯爵に使えているわけではない。さげすまれるという任務の中で、サド侯爵を満足させてやっている。

性的倒錯、パラフィリア。
なんとも甘美な響きだろう。
マゾであるボクは、いわばマゾ戦略という、戦術を使ってやろうと決心したボクは、この物語の中でほかでもない自分が主人公であろうと決心したボクは、性的な倒錯を自在に操ろうとしているのだ。

ただ、注意しないといけないのは、マゾであるがゆえに、失敗を失敗として甘美に味わえなくなってしまっては、たとえそれが、一時的なものであっても、マゾである使徒=ボクの戦術は瓦解してしまう。
マゾであるがゆえに、倒錯した雇用関係を巧妙に操るということに、全意識を集中しない限り、ボクはただのアホづらの、唾液を垂れ流し、サド侯爵の排泄物を口に押し込められるという決して、快楽ではなく、精神崩壊へと向かうだけである。

そう、ボクは、別に、マゾでもなければ、サドでもない、ハイエナ、Hというイニシャルであるだけなのだ。それゆえ、ボクはこのハイエナ=Hという動物であることを新しいというように表現したのである。

ハイエナという存在を改めて、確認し、消えてしまった「小説を読めない理由」の前段階をようやく生めることができた。
この第一部の本題でもある、上のトピックをそろそろ語る土台をできたのではないか?

満月の夜に、狼に、ヴァンパイアに、そんな話はよく聞く、それでは、ハイエナはいつ、ハイエナになるんだろうか?

そんなことを考えつつ、ボクはとりあえず、遠めに空を舞うこうもりを眺めていた。
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小説016 : reProfesional#89

2008-10-07 22:11:00 | reProfesional
chapter#16 記憶と経験

あまりにも少なすぎる経験、あまりにも狭すぎる視野。
ボクらは、多様な価値観を持つには、異質な他者を心のそこから、認めるには、寛容性を本当に身に着けるには、不十分な生物である。

ボクには「生理的に苦手」なタイプな人物、見ると嫌悪感を示す行為というものがある。ボクは思う、ボク達はきっと何かしらこの世に生まれてきた限りは意味があると信じたがる傾向にある。
意味のない行為の連続ほど、精神的に苦痛を伴うものはない。
意味のない行為を、何の疑いもなく一日中、一年中連続して続けられるタイプの人間というのも、それはそれでいい。
こんなことをいうと、差別的に聞こえるかもしれないが、ボクはやっぱり人間というものには、ある程度ランクというか、等級というものがあるんだと思う。
付け加えていうならば、ランクというものは、先天的なもの、後天的なものの両方があるが、ほとんどのランクというのは、後天的な属性にあるのではないかと思う。

ボクは信じている。
カスみたいな親の元に生まれても、どれだけ、憎しみに足る親の元に生まれても、その後の生きる中での選択は多かれ少なかれ、子供本人が選び取っていったものである。

意味のない行動を、誤解のないように、より適切にいうならば、おそらく、ボクが差別的にも、ランクといってしまったものの中でいうと、「上位」のものから見ると、いやより正確に言うと、この資本主義社会の中で比較的、それの対価を低いとされている単純労働を何の疑いもなく続けられる人々というのは、それはそれでいいんだろうと思う。
彼はそれに見合った人生を送るように今回の生命では決められているわけだ。何も、それはがっかりすることでもないんだ。

いや、それは、ボクの信念の中でいうと、それは忌むべき考え方ではないだろうか?生まれ持った不幸、その境遇、姿で生まれてきてしまった不幸というものはどんな人間でも多かれ、少なかれ持っている。
容姿端麗で、非常に性的な魅力を携えて生まれてきてしまった人間は彼、もしくは、彼女がそれをどう思っているかということは別にして、たとえば、あまり、思慮的になるという選択肢を選ぶことから遠ざかってしまうのではないだろうか?

その代わり、彼、彼女は、それに応じた幸せな人生を歩めるようになっている。
それに比べて、ボクという人間はどうだろうか?知性も、要旨も、考え方も、理性もすべて、人並みか、それ以下である。部分によっては、一般的道徳基準に照らし合わせてみても、より下劣な部分すらある。

ボクは思う。ひとという存在にしても、おそらく動物というほかの生きとしいけるものにしても、程度の差こそその二つの間にあるにしても、自らの境遇を選び取るということができる。
このできるということは、かなりかぎカッコつきのものであるのかもしれない。多くの人が一生懸命に惰性で、生きていこうという努力をしているように見える。

あまりに、少ない経験、あまりに少ない理性。
ボクはこの世界で他者との関係において成し遂げようとしていることを実践しようと考えると、自分が余りに小さい存在だと痛感する。
それゆえ、ボクはさきのチャプターの最後で「死んでしまえばいい」というような、自分の信念に大きく反するようなことを冒涜してしまうようなことをしてしまう。

理性の小ささゆえに、ボクたちは時に失敗を犯してしまう。失敗とわかっていながら、犯してまう。行うべきでないとわかっていても行ってしまう。行うべきだとわかっていても、行わなかったりもする。
すべてはおそらく、学びのためなんだろう。それぞれの失敗、成功に学びは潜んでいる。
なかなかボクが筆を走らせないでいる「ボクが小説を読めない理由」それも、ボクがこの生きるという物語の中で検証すべきたった一つのちっぽけな命題にすぎない。ほかにも、ボクには検証すべき命題が山積みにされている。だからこそ、ボクは考え方を少し変えた。
ボクの人生の中で、淡い輝きを放っている小説を書くという行為。
そこに成功の確約もなければ、実際にそれを続けられるという保証もないし、自信もない。
ただひとついえることがあるとすると、おそらくボクはそれをしたいと思っているし、これまでに400字詰めの原稿用紙で計算すると、50枚以上のこのボクが小説とカテゴライズした文章群を書き連ねている。

ボクは、人生をよりよくするために、自分を、それと周囲の関係を分析し、不確かな未来に対して、文章という手段でそれを構想していくというスキルを、もしくは、適正とは言わない、耐性を付与されているのではないかと思う。
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小説014 : reProfesional#87

2008-10-06 23:55:55 | reProfesional
chapter#14 小説を読むということ

ボクは思う、自分で小説を書く以上、物語を作り上げようと躍起になっている以上退屈なそれは絶対に書きたくない。

以前の章で今時分の身近にいる「彼」という存在について記述をした、彼はおそらく、こうもりの餌食になっているまわりのやからと少しばかり性格をことにしているようだ。
よくいうと、達観している。悪く言うと、諦めを放っている。自分の人生について、彼はボクより責任を持っているともいえる。彼は未来を遠く見据える目を持っている。僕にはこの点が足りないのかもしれない。
彼はおそらく、比ゆ的意味での小説をむさぼり読むタイプの人間だろう。

少し語弊はあるかもしれないが、ここで小説というものをボクがどのように捉えているか?
それを定義しておきたいと思う。辞書的に、本当に簡単に定義するとすると、「今その状況において人生にとっての役立つもの」という風に定義しておこう。
もちろん、言葉の定義ということもあり、あらゆる贅肉をそぎ落とした言葉になっているということを確認しておいてほしい。
彼にとっての小説とは、映画を見ることであったり、いっけんたわいもないような会話を周りのやからとすることであったり、意中の女性を口説こうとしたり、旅行に誘ったりということになるのであろう。
まさに、彼の人生に役立つことである。

さて、少し話はずれるがこうもりの餌食になっている惨めなやからに、いま一度目をとおしてみよう。彼らは本当に醜い、ハイエナという高貴な存在以上に低俗である。彼らは、餌食になっているということを無自覚で過ごすほど阿呆でないということに、より大きな不幸を背負っている。自分は餌食であるが、その状況から、逃げようとも、逃げれるともこれっぽちも思っていないし、間違って、いまのボクのように、餌食になる知らずにこうもりの鋭利な性器を粘膜に突き刺されそうになり、実際突き刺された後にはソレに対して、拒絶反応を示し、自分がそうであるように、ソレをなんとか餌食に出来ないものかという風に動く。
そう、彼らにとっての小説とは、つまりは自分に成り代わって、餌食になってくれるあらたな餌食なのである。
こんな人生なら、ボクはその存在を消滅してしまったほうがよいのではないかと本木で信じている。

さて、これまでのボクという存在に関する記述を見る限り、みなさんは彼は、あまりに傲慢であり、自信過剰であるという風に思われるかもしれないが、ボクはそれは心外であるというように、深々と感じているようだ。
なぜなら、この小説という物語は、ボクという青年の人生のうちの自分に対する自分と、自分がいかに外の世界に接するかといういわば、「心」のうちの問題であるわけで、実際のボクはこの原液のような有害な姿を常に周囲にさらすほど、ばかげてはいないというわけだ。
しかし、個々で現れる状態というのはあくまでも、それを希釈した状態で、周囲の人々には写っているわけであり、それを考えるとやはり、決してボクという存在はまわりにとって、無条件で心地よい存在というわけでもないだろう。

しかし、ボクはそれをさほど気にはしない。なぜなら、ボクは真実を求めようとしているわけだし、ボクは彼と違い、この環境を放棄しようと懸命になっているわけではないが、彼と同じくこの環境は決して自分という人生の物語を長期的に考えた場合に決して理想の場所どころか、望ましくないということを合点しているからだ。

この物語のゴールというわけではないが、目的はおそらく今のボクを遠目から見る筆者から見ると、おそらく日記をつけるというようなところにあるのだろう。自分の精神、自我を間違ったほうに行かないように、この物語を通して整理をしている。周囲の人間に対する自分の想定される、不可知の人生の中での彼らの役割を小説という形式で、整理していく。そんな感じだろう。
だからというわけではないが、日々ドラマティックというわけにもいかないし、その日の精神状態によっては、可能な限り、物語を毎日整理し、芥川賞という勲章にたどり着くという覚悟をしている中では、自分の創造力を、創作力を研鑽するために、この物語を書くという決心しているボクという青年にとっては、これを確実に今日書くというものがないわけではないが、まず今のボクにとっての優先事項は、どうやら、日々の忌まわしい記憶の整理を通して、この小説という体裁をなしてほしいと思っている文章を完成させていくことである。

日記としては、異様な形態をとっているかもしれないし、傍目から見ていると、殺人事件を犯し、「あの人はこんなにおかしい人物だった」というときに取り上げられる同年代、むしろ同年齢でもある被告のネット、もしくはモバイルの文章ほどの自意識過剰さと、気持ち悪さがあるかもしれないが、そんなことは今のボクにはさほど興味の対象ではない。
気にかかるということといえば、この文章を通じて、同じく悩む友人に希望の光を少しでも与えら得るというとおこがましいが、心地悪いものでないかという点だろう。

前置き、注釈が長くなってしまったが、前回の章でも、「ボクが小説を読めない理由」というものを書くといっておきながら、小説というもののボクという存在の中での注釈だけで終わってしまった。なかなか本当のこの物語の中での主人公であるボクに重心を置けなくなってきているように見えるかもしれない。
むしろ、それは望ましいことでさえあるのだろう。これまでの序章では、対自分というところにおそらく興味の対象が行き過ぎていたところが、対他者へと興味の焦点が移行しつつあるということのあらあれであるのだから。

きっと、次こそ、「ボクが小説をよめない理由」という本当は、このチャプターの本題であるはずものに筆を進めよう。

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小説015 : reProfesional#88

2008-10-05 23:50:50 | reProfesional
chapter#15 感性、興味

「記録は消えようとも、記憶は消えることは無い」

時に失敗をして、ボクは大切に書き溜めてきた記録を不意に破棄してしまうことがある。記録媒体が不慣れで、間違って破棄をしてしまったというように考え、そういう時はあっさりとあきらめることにしている。

人生の中で小説を読んだ時期、そんなものは、記憶を思い返してみるとかなり限られた時間であったはずである。たしかにそれ以外の別なジャンルの書物を読んできた時間は結構なものがあったはずである。

話は多少飛んでしまうが、このような書き出しにこのチャプターはなるはずではなかった。このチャプターを記しているときに誤りにより、データを破棄してしまったことで、後悔の念でこういうような慰めを込めた書き出しになったわけだ。

この章はすでに一度完成していたにもかかわらず、もう一度リライトをするということに、ボクは多少の倦怠を覚えていた。どういうチャプターの内容であったかということは一言一句残らずというようにはいかないが、ほとんどボクの記憶の中には残っている。ということもあり、ボクはこの章を以前ボクが読んだ書物を思い返すというスタイルでリライトしようと思っている。

ボクは、めげずに一度消えてしまったチャプターをもう一度、書こうとしている。
実際の生活では考えられらないことではあるが、このバーチャルの世界では、もちろん実際ボクの書物が出版され、多くの人の手に渡ってしまった後となると話は別になるが、現段階のウェブ上だけでこういうことを行っている段階においては、ボクという存在は簡単に消し去ることも、忘れ去られることも十分に想定されることなのである。
リアルライフと違い、どれだけ存在を示そうとしても、あくまでもそれは記憶媒体に0と1というデジタル信号をより人間に解釈されやすい形で、むなしくも記録を続けているということに他ならない。

せっかくこういう、記録と記憶ということを書くということに、恵まれたわけであるから、そのことを書くようにしよう。これまでの創作のパターンと違い、用意していたことを書くというより、突発的に書くということで、読み手はともかく、書き手としては多少違った種類の面白さを引きずれるわけである。
ただひとつ、後悔の大きい部分があるとすると、ある程度ボクなりに組み立ててきた章立てがいったん崩れるというか、別な方向に行ってしまうということである。

記憶。実際に即座に、思い出すということはなかなか難しいようだが、ある脳科学者のコメントによると、それが思い出せるものであろうと、なかろうとこれまでのすべての記憶は、脳の中で記憶はされているということのようである。すべての、よい記憶も悪い記憶も、残っているならば、ノイローゼのようになってしまう、それゆえに、こういうように、記憶という構造がとられているようである。

ボクはふと、不思議に思った。
僕の生きている中で、何かの記憶をセットで思い出す必要性に迫られる経験というのはそれほど多くない気がする。

記憶をしている。それゆえ、ボクたちにとってのメリットはなんだろうか、所詮はデジタルの記憶媒体と同じで、ボクたちもある種の、生きていくうえで必要最小限の情報を解きに、必要、不必要に応じて、データとして取り出している、それだけに過ぎないのではないだろうか?そう思ったりもした。

「倦怠を引きずっている・・・」

ボクはここまで書きながら、そういう思いを強く思っていた。

記憶が少なくとも、ボクの人生の中で生きるということがあるなら、こういうあまり日常生活では、なかなか実益につながることのないようなことをするときに限られるのかなあ・・・と。

しばらく未来から来たという僕が夢うつつの中に陥ろうとしているボクにやさしく語りかけてくれた。

「記憶を大事にしな。
 いずれ、もう少しでキミはキミの記憶のおかげで、大きな成功を収めるからな」

「今、キミがつまらないのかもしれない、実はこれは間違った選択肢を歩んでいるのではないかと思っていることも、きっとキミの将来にとっては大きな役に立てるからな。」

将来のボクの横には、まだボクが見たことのない取り巻きが何人かと。おそらく、イタリアのジルサンダーというアパレルブランドのスーツをすらっときて、おそらく、イタリアかどこかのかっこいい車に乗ったボクがいた。
取り巻きのうちの一人がボクにふと語りかけた。

「先生昔はこんな文章を書いていたんですね。
 きっと、こういう経験が今の先生の業績に生きているんですね。」

「先生は昔も小説を読んでいなかったんですね。小説家なのにね(笑)」

ボクは、あたたかい周囲にも、

「つまらない人間ばかりだ、死んでしまえ!」
と思いつつ、今日はとこにつくことにした。


寝る前に、ボクは昔よんだ哲学者の言葉を思い返した。

「つまらない人間は、いつも幸せそうな顔をし、たわいもないことに時間を費やしている。偉大な人間は不幸せな顔をし、幸せを享受している。より、幸せな時間を夢見ている。」

つまらない。つまるなんて、そんなことは結局ボクしだいなんだ。
これまでも、ボクは不幸せな状況を多く経験してきた。偉大なボクなんて想像上の存在なのかもしれない。それでも、強い願望を抱きながら、少しでも僕の物語がよいものになるように努力をしていこう。

誰も裏切らない。みんな不十分だが。


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小説013 : reProfesional#86

2008-10-04 23:55:55 | reProfesional
chapter#13 他者との関係

退散してしまったほうがよい環境ということを明らかにわかっていても、よっぽどの幸運のものでなかったり、たくわえが十分にあったりしない限り、なかなか退散は出来ないものである。

こうもり、いわば、ボクが間違って、人生を一時期、できるだけ、短い期間であってくれればと望むのわけではあるが、これは、やっかいである。
幼少期に、どういうことがあったかということには、興味もわかないし、そのことを心配してやろうと思わないが、自分という人間を必死で大きく見せようとする。
しかし、どうがんばってみても、これは所詮のことこうもりにしかすぎず、羽を広げても、けっして一メートルにも及ばない小さい存在である。
やっかいなことに、こうもりは、大群で動く。
こうもりの心理とやらを、獣医学的観点といっていいものかわからないが、専門的に解説したり、そのために、そのての文献を紐解こうという意欲がわくほど、ボクはこうもりに対して、献身的ではないが、これは、なにももっていない、誰からも、本心から尊敬、敬われるということがないゆえに、いかに、自分が大きい存在かということを誇示しようとする。
時に、ボクをはじめとした、無垢な民を、こうもりの巣の中に、蜘蛛の糸に絡むかのごとく、キャプチャーされてしまったおろかな天使たちの血液を吸い尽くそうとする。

こうもりの出立ちに、グロテスクな、細くて鋭利なペニスをもつ。
男性というものをたちまち、死なせ、女性的にし、受精を懸命に試みる。自分が弱く、醜いゆえに、無垢な民をより弱くしようと懸命になる。

さあ、視点を少し、自分、ボクという存在のほうへ移してみよう。
人生、この物語の中で、つまりは、おそらくは、この物語の序章のゴールであった、確固たる自我を発見すること、そして、この物語全体のゴールでもある、次なる有意義な舞台に実を移すという観点の中でのこうもりという存在を省みてみよう。
こうもりという存在は、上記の記述を見る限り、現在という限定をつけると、ボクという存在にとって、あきらかに有害であるという風に感じれなくもない。
しかし、早まってはいけない。
別の上記の物語、全体の中で見ると、おそろしく有意義な存在という風にも捕らえられる。

なぜか?

簡単なことだ。幸い、序章を書き終え、今のボクには、周りの無垢の民とひとつ違う点が明らかにある。ボクは、懸命にこうもりの餌食になっていく彼らと違い、聡明な頭脳がある。
無垢の民たちをたとえば、蜘蛛の巣に引っかかる餌食の昆虫だとすると、ボクは、こうもりとも、そこに引っかかる彼らとも、そもそもの生きるカテゴリ、生物の仲での分類が違う。

眠気眼、小さすぎる目では、本当に偉大なものは、偉大に見えない。
人生、生涯を通じて、朱色しか見たことのないものにとって、本当に現在常識として、世間一般で「赤」と認められている色を判別するのは、容易ではない。
つまり、こうもりも、昆虫たちにも、めくらという表現が当てはまるんではないだろか。

どちらが、人生の勝者になるか?
あきらかな問いではないかもしれない。
しかし、ボクは彼らとは生きるカテゴリーが違う、聡明さのレベルも違う、つまり、ボクは少なくとも、昆虫でも、こうもろいという爬虫類なのか、哺乳類なのかよくわからない、そんな輩ではない。

ボクは、たとえば、ハイエナみたいな存在だと思う。
小さい、幼少の頃から、ボクは自分自身をそういうように定置してきた。
どんな環境でも、自分の物語を人生を、構築するために、それが、バケモノのようなこうもり、自分を超える強者が食らった後の獲物であったとしても、その後から、そのさなか、養分を吸い取って、自分の糧としてやる。
そんなハイエナのような存在、それがボクだ。

夢見物語と思われてもかまわない。
ボクはハイエナなんだ。冷静なまなざして、醜い輩の生の営みをみて、自分の養分にしていく。
直接的であれ、ボクにはむかうやつは、痛い目にあう。
ハイエナには、人生の存在の中での写しえ、実際にはけっして誰の目にも見えないが、ハイエナより、美しく、高貴な、狼がいつもついている。
いまは、まだハイエナであったとしても、ボクは確実に、狼へと変貌を遂げるであろう。

こうもりという存在。
それは、今のボクという存在に多大な不満を与える存在、次の章では、このこうもりという存在との絡みを解説できたということで、なぜ、ボクは小説を書くだけで、小説を読めないのかということを見ていこう。

小説、物語を書いている中で、小説を読めない理由を解説するとなると、いささか奇妙な印象を持たれるかたもおられるかもしれないが、これは、自分の意識が身近なこうもりという卑劣な存在に近視眼的になりすぎる中で、次の一手を、外の世界へと広げるという、この第一部の中での重要なチャプターとなることは間違いないので、しばしお付き合いをいただきたい。

もうここまで読んでいただいて気づかれたかたもおられるかもしれないが、ボクは囲うとしている物語は、決して安っぽい俗の小説ではない、純文学というか、小説を書くこと自体が、哲学というか、人生と直接結びついているそういう、物語である。ここも、次のチャプターのボクが小説を読めない理由ということにつながるだろう。
あえて、ひとこと先に結論を出しておくと、あまりに人生、物語というものに対して近視眼的過ぎるゆえに・・・というのが解答であろう。
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小説012 : reProfesional#85

2008-10-03 23:43:05 | reProfesional
chapter#12 社会的かかわりの中での存在の考察

数ヶ月前にはおよそ感じることのなかった無気力感、まるで存在が、自分というものを束ねる精神が、その中枢が麻痺をしているような感覚。
自我というもの、自分がなりたいと心底願う姿の中心をくりぬかれたような感覚、この物語が始まるその前には、自分の存在をびりびりと感じ、高揚する自信をびりびりと感じていた。
希望に満ち溢れていた。
いまのボクはどうか、ひとたび立ち止まると、精神の中枢に、自分は男であるという感覚を忘れさせるような、図太く硬いペニスが、ぱっくりと、ひらいた女性器につきさされるようだ。
ボクは、男であったはずなのに、
「精子を中で出さないで!」と、自らの麻痺してしまっている受動的になってしまった性器を気持ちとは裏腹に、ひくつかせながら、快感を感じてしまっている。
大勢のペニスが、ボクという女性器を突き刺してくるわけではない。
忌まわしい、ひとつの大きなペニスがボクの性器に、病原菌、ヴィルスを伴い、つきささってくる。

性的快感の中で、ボクの精神は、麻痺していく。
恍惚として快感の中で、涙を流す僕の精神。

「すべての人間は、ノスタルジーの中で語られる存在として男性的でいるべきである。自分という存在への責任という範疇において、自覚的であり、攻撃的であるべきである。」

ボクは、今のように存在への問いを頻繁に投げかけていた学生時代によく読んだ哲学者の言葉を思い出した。

「世に起こることの中で、自責の中で処理しようと思わなくなってしまった時点で、肯定的に人生を構築することは難しくなる。」

ボクを苦しませる言葉の一つである。
自分がどれだけ、努力をし、磨こうとしても、それ以上に、周囲のレベルが低く、劣悪な場合もある。

こうもりは、いくら「死ね」と多くの人に思われていても、死なない。
海の風の心地よさを夕凪とともに感じながら、その次のタイミングに、グロテスクな薄い羽を羽ばたかせ、ボクの存在にアプローチをしてくる。
ボクのそばには、いまもうひとり、ボクに似た存在が幸いいる。
ボクより、彼は、攻撃的な存在だ。
僕が不安に思っているこうもりを嫌っているのは、実はボクだけかもしれないという感覚を癒してくれる存在だ。
ただ、彼のボクより長けている点は、人間関係をよりスムーズにやりきることが出来るという点だ。
そんな彼に最初は、ボクは警戒感を持ったものだ。
でも、いまボクと彼に共通する部分は、こんな腐った環境ならば、早く退散してしまったほうがいいということだろう。


腐った環境、劣悪な環境、その中に共通していることは、自分という精神を、存在を軽く扱うだけならまだしも、正しいことをしていても、報われない、それどころか、より環境が劣悪になっていくそういう環境のことを言うのだろう。

いま、よく世間に言う、夢を追えとかそういう議論に賛同するつもりはない。
でも、もっと自分は肯定的にシアワセな人生を送れるはずだ。
そんな思いを見事に断ち切ってくれるこうもりとの関係はけっして、健全なもんだとはいえないし、思えない。

これまで述べてきたこと、先の哲学者の言葉でもあるように、生きるという行為の中で、自らの存在をセックスにおける女性のような、受動的な関係にしてしまってはいけない。
すべて、ジェントルマンとして、気遣いの対象として、他者を女性的にとらえ、いきていくというのが、少なくとも、ボクの人生の、この物語の中でも、哲学といえるだろう。

惨めに生きてはならない。
どれだけ、夢を抱こうが、僕と彼にははっきり言える。
いまのこの環境が、このように、物語を構築し、創作への刺激を多少与えてくれるにしても、自分という存在をトータルで考えた場合に、どちらかというと、マイナスの要素のほうが圧倒的に多いというように。
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