【「国語総合」】
高校1年生では「国語総合」という科目を受講するのが一般的です。これは現代文の分野と古典の分野の両方が学べるものです。表現分野も含まれます。標準単位は4。これは1週間に4時間の授業が標準という意味です。
いくつかの点でこの「国語表現」という科目は、現場ではその本来の意図とは違うことが行われています。次の2点において「総合」になっていないのです。
【「現代文」と「古典」の分割】
1点目は、「現代文」と「古典」分野が分割されているということです。
ある程度の年配の人は「現代国語」と「古典」は別の科目でした。しかし、その2つをわけることなく、総合的に学ぼうと1994年から「国語Ⅰ」「国語Ⅱ」という科目が新設されました。そして「Ⅰ」と「Ⅱ」と分けるのが面倒くさいというのでしょうか、2003年から「国語総合」という科目になりました。しかし、現実は多くの学校では「国語総合」を「現代文」と「古典」に分割して学習します。まったく学習指導要領の意図を無視しているわけですね。
このように「現代文」と「古典」を分けることになった理由は2つあります。
1つ目。「現代国語」と「古典」が違う科目時代に育った教師にとってその2つを総合する方法がわからないのです。実は教育の大きな問題はそこにあります。教師は自分の習ってきた授業のやり方をそのまま実践するのです。自分独自に授業のやり方を開発することはあまりありません。これは一面では教師の怠慢でもありますが、しかし、当たり前といえば当たり前です。親子関係で考えてみてください。自分が親から言われたことを、自分の子供に無意識のうちに言ってしまうのが普通の人間なのです。この点に関しては後で詳しく述べる機会があると思いますので、この程度で。
2つ目。教師の負担の軽減です。「現代文」と「古典」を分けないと週4時間分の準備が必要です。これは結構大変です。もしその学年だけ何クラスかを持っているならばそれも十分可能でしょうが、他の学年も持っているとすると、週6時間~8時間の準備が必要になってしまいます。国語という教科はそれは結構きつい。毎年同じ内容を授業する地歴公民(社会)や理科は、教員になりたての頃は大変でしょうが、ある程度経験すると、毎年同じことを教えればいい。だから準備にそれほど多くの時間が必要ではありません。しかし、国語の場合、毎年のように違う教材ことを教えることになるので準備に時間がかかります。もちろん以前扱った教材もありますが、忘れてしまっている。このような事態を解消するために、「現代文」だけ、あるいは「古典」だけを何クラスか複数クラスもつようにして、週あたりの準備する量を少し減らそうとするのです。
もちろん、これは批判を受けるべきものです。しかし、教師の多忙化はとどまることを知らず、他の仕事の合間に授業をせざるをない現状においては、いたしかたないというのが当事者としての偽らざる感情です。
3つ目。「古典」の学習を毎週できることです。進学校においては「古典」が重視されます。現代文の授業も大切ですが、入試を考えると古典の得点で大きく差が出るからです。「古典」を時間割のなかに固定しておいたほうが、毎週しっかりと勉強できます。宿題や小テストもしやすい。「現代文」と「古典」を分離していないと、「現代文」の分野をしていると、「古典」を勉強しないということになります。「継続は力なり」という言葉があるように、やはり、毎週継続して勉強したほうが力になります。ちなみに多くの進学校は「古典」に3時間充てるようです。
高校1年生では「国語総合」という科目を受講するのが一般的です。これは現代文の分野と古典の分野の両方が学べるものです。表現分野も含まれます。標準単位は4。これは1週間に4時間の授業が標準という意味です。
いくつかの点でこの「国語表現」という科目は、現場ではその本来の意図とは違うことが行われています。次の2点において「総合」になっていないのです。
【「現代文」と「古典」の分割】
1点目は、「現代文」と「古典」分野が分割されているということです。
ある程度の年配の人は「現代国語」と「古典」は別の科目でした。しかし、その2つをわけることなく、総合的に学ぼうと1994年から「国語Ⅰ」「国語Ⅱ」という科目が新設されました。そして「Ⅰ」と「Ⅱ」と分けるのが面倒くさいというのでしょうか、2003年から「国語総合」という科目になりました。しかし、現実は多くの学校では「国語総合」を「現代文」と「古典」に分割して学習します。まったく学習指導要領の意図を無視しているわけですね。
このように「現代文」と「古典」を分けることになった理由は2つあります。
1つ目。「現代国語」と「古典」が違う科目時代に育った教師にとってその2つを総合する方法がわからないのです。実は教育の大きな問題はそこにあります。教師は自分の習ってきた授業のやり方をそのまま実践するのです。自分独自に授業のやり方を開発することはあまりありません。これは一面では教師の怠慢でもありますが、しかし、当たり前といえば当たり前です。親子関係で考えてみてください。自分が親から言われたことを、自分の子供に無意識のうちに言ってしまうのが普通の人間なのです。この点に関しては後で詳しく述べる機会があると思いますので、この程度で。
2つ目。教師の負担の軽減です。「現代文」と「古典」を分けないと週4時間分の準備が必要です。これは結構大変です。もしその学年だけ何クラスかを持っているならばそれも十分可能でしょうが、他の学年も持っているとすると、週6時間~8時間の準備が必要になってしまいます。国語という教科はそれは結構きつい。毎年同じ内容を授業する地歴公民(社会)や理科は、教員になりたての頃は大変でしょうが、ある程度経験すると、毎年同じことを教えればいい。だから準備にそれほど多くの時間が必要ではありません。しかし、国語の場合、毎年のように違う教材ことを教えることになるので準備に時間がかかります。もちろん以前扱った教材もありますが、忘れてしまっている。このような事態を解消するために、「現代文」だけ、あるいは「古典」だけを何クラスか複数クラスもつようにして、週あたりの準備する量を少し減らそうとするのです。
もちろん、これは批判を受けるべきものです。しかし、教師の多忙化はとどまることを知らず、他の仕事の合間に授業をせざるをない現状においては、いたしかたないというのが当事者としての偽らざる感情です。
3つ目。「古典」の学習を毎週できることです。進学校においては「古典」が重視されます。現代文の授業も大切ですが、入試を考えると古典の得点で大きく差が出るからです。「古典」を時間割のなかに固定しておいたほうが、毎週しっかりと勉強できます。宿題や小テストもしやすい。「現代文」と「古典」を分離していないと、「現代文」の分野をしていると、「古典」を勉強しないということになります。「継続は力なり」という言葉があるように、やはり、毎週継続して勉強したほうが力になります。ちなみに多くの進学校は「古典」に3時間充てるようです。