高床式住居と土間式住居
またまた字面が多く恐縮である。鳥越憲三郎著「古代中国と倭族」によると、倭族論を提唱した当初から苗(ミャオ:タイでモン(Hmong)尚、メオは蔑称)族を倭族に含めず、古くは黄河流域の部族で、それが倭族の領域に南下したという立場をとってきた。その理由は、苗族とその分派の猺(ヤオ)族が今では倭族の村々の間に住み、そして稲作農耕民となっているが、彼らの住居や習俗は基本的に倭族のものと異質なためである。その異質なものとして、彼らは古来の土間式住居で暮らし、炊事のかまども地面に設け、黄河文化圏の生活様式を伝統的に保持している。そして今でも共に盤古神話を伝え、それにちなんで陰暦七月初七日の盤古祭りをしている・・・とある。
以下はバーン・トンルアンのモン族(上写真)とヤオ族(下写真)の住居で、何れも土間式住居である。モン族の住居は、はっきりそれと分かる写真では無く、ろうけつ染作業の老女の写真の後ろ側で、それと分かっていただけると思う。

下は、おなじバーン・トンルアンのカレン族高床式住居である。違いを分かっていただけると考える。
訪問時、モン族もヤオ族も室内を見る機会はなかった。従って盤古神を信仰しているかどうかは?である。
下の写真はハノイ民族学博物館で見た、ヤオ族室内の盤古神の祠である。壁にかかるのは盤古神像である。かってチェンマイでも紙に描かれた、同じ神像をみたことがあるので、北タイのヤオ族もそうであろうと考える。
鳥越憲三郎氏が云う、モン族、ヤオ族住居の特徴は理解いただけたと考える。ところが、荻原秀三郎著「稲と鳥と太陽の道」には、ミャオ族(モン族と同義)には、日本の社会文化によく似たものをもっている。稲を保存する高倉、高床式の住居、チガヤを稲に見立てる田植え・・・・。中国南部からタイ北部の少数民族をほぼすべて調査した結果、ミャオ族だけが入墨の習慣をもたないミャオ族が春秋戦国期の内乱に押し出されるようにして、山東半島や朝鮮半島をへて日本にやってきて稲作技術を伝えた・・・とある。
この荻原秀三郎氏の説には納得し難い。魏志東夷伝倭人条には、「皆黥面分身」とある。さらに高床式住居とある。確かに貴州省の南部のミャオ族住居は高床式であるようだが、多くは先に紹介したように土間式住居である。残念ながら荻原秀三郎氏の説には疑問を感じている。つまりミャオ族は稲とともに日本へは来なかった。
またまた字面が多く恐縮である。鳥越憲三郎著「古代中国と倭族」によると、倭族論を提唱した当初から苗(ミャオ:タイでモン(Hmong)尚、メオは蔑称)族を倭族に含めず、古くは黄河流域の部族で、それが倭族の領域に南下したという立場をとってきた。その理由は、苗族とその分派の猺(ヤオ)族が今では倭族の村々の間に住み、そして稲作農耕民となっているが、彼らの住居や習俗は基本的に倭族のものと異質なためである。その異質なものとして、彼らは古来の土間式住居で暮らし、炊事のかまども地面に設け、黄河文化圏の生活様式を伝統的に保持している。そして今でも共に盤古神話を伝え、それにちなんで陰暦七月初七日の盤古祭りをしている・・・とある。
以下はバーン・トンルアンのモン族(上写真)とヤオ族(下写真)の住居で、何れも土間式住居である。モン族の住居は、はっきりそれと分かる写真では無く、ろうけつ染作業の老女の写真の後ろ側で、それと分かっていただけると思う。



下の写真はハノイ民族学博物館で見た、ヤオ族室内の盤古神の祠である。壁にかかるのは盤古神像である。かってチェンマイでも紙に描かれた、同じ神像をみたことがあるので、北タイのヤオ族もそうであろうと考える。

この荻原秀三郎氏の説には納得し難い。魏志東夷伝倭人条には、「皆黥面分身」とある。さらに高床式住居とある。確かに貴州省の南部のミャオ族住居は高床式であるようだが、多くは先に紹介したように土間式住居である。残念ながら荻原秀三郎氏の説には疑問を感じている。つまりミャオ族は稲とともに日本へは来なかった。