26日(日)は京都堀川寺之内の興聖寺で執り行われた達磨忌法要に参列しました。興聖寺では毎年10月第4日曜に法要を行い、参列者には寺特製のそばと抹茶がふるまわれます。昨年から本堂でミニコンサートも開き、いつもは参禅する者以外は拝観拒絶の禅寺らしい閑静な境内が、この日ばかりは大勢の人々で賑わいます。
映画『朝鮮通信使』のロケ交渉や撮影時には、ご住職の厳しいお人柄に“苦闘”した私も、観光事業でひと稼ぎする京都の多くの寺社とは一線を画す、筋の通った姿勢に惹かれ、何度か通う中、昨年初めて参列した達磨忌は、それまで垣間見ることのなかったご住職やお弟子さんたちの地域に開かれた人懐っこい表情に驚き、感動もしたわけです。
今年は、春にも京都旅行をご一緒した静岡新聞社の平野斗紀子さんをお誘いしました。法要では、すっかり体になじんだ『大悲呪』と、長い『観音経』を200人近い参列者と一緒に声明し、お経を声に出して読むという行為の精神的効能、みたいなものを、改めて実感しました。
昨年のミニコンサートは中国古楽器の演奏会で、中国から渡って禅宗を開いた達磨忌の法要にふさわしい催事でした。
今年はなんとチェンバロのコンサート。浜松楽器博物館で展示物を観たことはありますが、実際の演奏は聴くのも見るのも初めて。東京からやってきた奏者の上尾直毅さんは日本でも数少ない西洋古楽器を得意とする鍵盤奏者で、おなじみバッハの前奏曲やイタリア風協奏曲ヘ長調をはじめ、バッハと同時期に活躍したクープラン、ラモー、スカルラッティの小作品を披露してくれました。
チェンバロは、ピアノと違って音の強弱やエコーを利かすことができません。たとえばクープランの『バッカナル』という曲は、酒を飲んで陽気になった神様バッカス&飲み過ぎてふぬけになったバッカス&しまいに怒りだすバッカス―という3部作。3様の違いは基本的にメロディやリズムだけで表現します。鍵盤の音だけのシンプルな表現ゆえに、奏者の力量が試され、聴く者の想像力も求められるというわけです。
しかも、チェンバロで演奏される作品は、ピアノ曲のようなドラマチックな展開があまりなく、似たような単調の曲が多く、まるでお経を聞くよう。演奏者のすぐ前に陣取った私は、珍しい二段式の鍵盤を器用に操る奏者の手元を凝視しながら、眠気をこらえました。
単調な曲が多いように感じた中でも、彼らが活躍した17~18世紀は、その後のモーツァルトやベートーベンの時代よりもローカル色が強く、スペイン王女にチェンバロの指導をしたというスカルラッティの作品には、スペインの酒場で聴くようなギターやダンスステップの音を彷彿とさせるものがあったりします。宮廷お抱えの音楽家も、夜な夜な酒場に通って庶民のエネルギッシュな音曲に刺激を求めていたんでしょうか。
イタリア風協奏曲を作曲した頃のバッハは、周囲から「時代遅れ」と酷評されていたそうですが、この作品に限ってはソロパートとバックのパートを1台のチェンバロで弾いてしまう革命的な作品として、アンチバッハ派からも絶賛されたそうです。バッハといえども人知れず苦労を重ねてさまざまな試みに挑戦していたんですね。
上尾さんのそんな解説を聞いていると、<学校の音楽室の壁に飾られたカツラの肖像画のおじさん>だった作曲家たちが、すぐ目の前で鍵盤や譜面と格闘し、カツラがなければ人前に出られないくらい苦悩した人間らしい姿に見えてきて、単調なチェンバロ曲も、人が汗して奏で、伝え残してきたと思うと愛おしくなってきます。
いつもは読経の声と太鼓や鈴の音しか鳴らない静謐な禅宗の本堂に、17~18世紀のヨーロッパ音楽が不思議な調音を響かせる、めったにお目にかかれない光景です。こういうコンサートを企画したご住職は、さすがレベルの高い文化人・教養人なんだ!と感心し、1時間余りのコンサートを満喫した後、突然、ご住職がCDプレーヤーを引っ張り出して、「これから興聖寺の歌を歌いましょう」。なんでも昔の修行仲間で、一時期、東京で音楽プロデューサーをしていて、今は実家の寺を継いだという人が、興聖寺讃歌『さとり歌』を作ったというのです。
流れてきた歌は、チェンバロの響きとは似ても似つかぬ演歌調。上尾さんにチェンバロで演奏してくれと頼んだら丁重に断られたそうですが、それもそうだろ~とツッコミたくなるド演歌です。ご住職はKYな雰囲気もなんのそので、寺のオリジナルソングに喜色満面です。隣の平野さんは「このギャップ、笑える」とお腹をかかえていました(笑)。
興聖寺さとり歌はご愛敬、でしたが、禅寺の本堂に響くチェンバロの音色は、伝統あるものが洋の東西を問わず、調律し合うことを如実に語ってくれました。演奏開始前、梅岡俊彦さんという調律師がチェンバロの調律を行う姿は、毎朝の勤行でご住職を迎える前に本堂をしつらえる弟子たちの規律正しい姿に重なってみえます。
音楽の演奏は、祈りと同じように、崇敬すべきものに精神を尽くす行為に違いありません。