杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

高麗美術館20周年記念展

2008-10-30 09:25:47 | アート・文化

2008103008280000_2  26日、興聖寺の達磨忌法要とチェンバロコンサートが終わった後、高麗美術館の開館20周年記念展『鄭詔文(チョン・ジョムン)のまなざし』を観に行きました。

 鄭詔文氏は高麗美術館の創立者で、在日一世として数多くの苦難を経験したのち、1950年代から日本に散在する朝鮮の陶磁器、絵画、彫刻、民具などを蒐集し、88年に高麗美術館を設立。翌89年に70歳で亡くなります。記念展の図録に、鄭氏が美術館を建てるまでのいきさつが紹介されていました。

 

 

 

 1955年、詔文37歳のとき、その後の人生が決定づけられる衝撃的な出逢いがあった。京都のある骨董屋で見た白い丸い壺。真っ白なのに温もりを感じさせるこの壺が、故郷で作られたものであることを知る。「李朝、朝鮮というものがはっきりしている」ことの驚きと喜び。詔文は一年間の月賦で、この壺を購入した。

 

(中略)尋常小学校4年に編入し、生涯唯一の学業となった3年間、国史の時間、「神功皇后の三韓征伐」「秀吉の朝鮮征伐」「朝鮮併合」などという言葉が飛び交い、帰り道には竹の棒を持った悪童に「這いつくばれ、朝鮮征伐だ」といじめられた。

  自分の生まれた国はなぜいつも弱いのか、朝鮮人なのに「朝鮮人」といわれることへの怒り、その矛盾は、幼い詔文の心をかきむしった。白磁壺は、貼りついた卑屈な心を吹き飛ばした。こんな素晴らしいものを作る感性と技が、故郷に、われわれ朝鮮人のなかに存在したとは―。歴史を、文化をしることがいかに大切か。さらに人知れず苦悩する同胞たちにとって。故郷の誇り高き遺産は特別な力となることを知ってほしい。そんな想いが、このときの出逢いによって形作られていった。

 (中略) 詔文の蒐集した古美術品は約1700点になろうとしていた。

「私の師匠は日本の骨董屋」というほど、コレクションのほとんどは日本の古美術商からの購入だった」。

 「これらの物は、日本に来るまでに、さまざまな悲しい出来事があったに違いないのです。流転の果て、ようやく母国人たる私のところへやってきたのです。でも、まだまだ安住の地ではありません。新の安息の場は、祖国。それは北でもなく南でもない、統一祖国。その統一祖国へ私は帰る。その時のおみやげが、これらの美術品なのです」。

 

 

 

 

 

 

 

 鄭氏は、祖国が統一されなければ帰らないという強い意志を持ち続け、古美術収集の傍ら単独の文化活動は反組織と見なす朝鮮総連の体制に一線を画し、自宅で兄と「朝鮮文化社」を設立して、司馬遼太郎、上田正昭、金達寿の各氏から協力を得て季刊『日本のなかの朝鮮文化』を発行。林屋辰三郎、森浩一、岡部伊都子、直木孝次郎、李進熙、湯川秀樹、末川博の各氏をはじめ、多くの学者・研究者が古代日韓関係史のなぞ解き作業に臨みました。関西の知識人文化人の多くが諸手を挙げて支援した事実から見ても、鄭兄弟の真摯な人柄がしのばれます。

 

 

 河原町今出川にある李朝喫茶『李青』には、今は廃刊となった『日本のなかの朝鮮文化』のバックナンバーがそろっています。ちなみにこの店のオーナーは鄭氏の娘さん。李朝古民具がセンスよくディスプレイされた店内で、韓国伝統茶をいただきながら過ごすひとときは、京都の老舗喫茶店めぐりが好きな私にとって、至福の時間です。

 

 

 

 

 

 

 記念展の会場には、鄭氏の生涯を変える出逢いとなった白磁壺のほか、白を好んだ朝鮮人の美意識が創り上げた李朝磁器の名品がそろっています。とくに耳のような取っ手の付いた白磁耳杯は、「死ぬ前に一杯だけ呑めるとしたら、これで静岡吟醸を呑みたい…!」と思わせるほどでした。一方で、底抜けに明るく無邪気な朝鮮民画、色をあまり使わない美術工芸品が多い中で珍しく色彩鮮やかでユニークな文様が特徴の木工芸品などもあって、まったく見飽きません。

 

 

 

 

 

 鄭氏が、運命の白磁壺と出会ったときのことをつづった図録のプロローグが心に響きます。

 

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骨董屋さんのご主人に「この壺、なんぼですねん」いうたら、「これは李朝もええとこですしね、李朝の丸壺でこれだけのものはありませんよ」と。李朝というのも聞き初めで、ええ壺ということも、まぁ初めてですから、無知だった。聞いたらビックリするような値段で、でも李朝というと朝鮮というのがはっきりわかりまして、それを主人と長い間交渉して月賦で分けてもらうことになりました。その主人も我が家へ来て、間違いがなさそうだということで、一年間かけてその月賦を払ったわけです。 そういう思いが私の「高麗美術」への導入口だったんです。その感触がえも言われなかった。また、焼きもの好きな日本の識者たちもよく見にきます。あの壺を、そして、いっぺんは必ず擦ってみます。ですから、李朝白磁と日本人の美意識感覚は確かに優れておると、私はいまさらながら考えます。

 

 

 

 

 そしてエピローグで高麗美術館常務理事の鄭喜斗氏がつづった一文も重く響きます。

 

 

 半島での対立がそのまま在日の世界に影を落とし、対立と結束を加速させながら、日本の中でいち早く共生社会を模索した時代、その時代に鄭詔文が夢を見たのが「本物の美術品を見せながら、朝鮮民族の素晴らしさを伝えたい。そんな身近な美術館を作りたい」「元々は一つの民族なのだから」という考えの具現化であった。

 それから20年。日本では海外旅行で見聞を広めることが国際化であり、国際人としての自覚を持つ唯一の道と感じる人が多い。しかし本当に海外旅行だけが国際感覚を磨く場であろうか。まず国内にいる隣人に目を向けること、そして彼らの文化と歴史に学ぶことから始めてはどうか。本当に自分たちの周りに多民族の人々がいないだろうかと。

私は北京オリンピックの応援で「なでしこジャパン」という表現を聞くたびに、胸の痛みを感じた。

今から5年ほど前、京都の公立学校の代表が海外遠征に行く時に、市のある役人が応援の挨拶で「やまとなでしこの代表として…」という表現をしたからだ。市の役人は、代表選手の中に在日の女子が含まれていることを知らなかったからだ。彼女の担任が後日美術館に訪ねて来て、その時に受けた少女の傷の深さを語っていた。これが国際化を目指した現状であり限界かもしれない。このように国際化とは実は身近な問題なのだ。自分の発する表現一つは実は身近な国際化を阻んでいる要因であることを知ってほしい。

しかしいつの間にか世界は民族問題を飛び越えて地球環境へと向かっている。自然との共存、地球上のあらゆる動植物との共生。21世紀の人類の大きなテーマであることは確かだ。しかし共生のテーマとは本来、人類の共存を大前提にした言葉ではなかったか。多民族を尊重し、地球上のあらゆる少数民族を認めることこそ、環境に先立つ大きなテーマだと思う。

ますます複雑化する国際社会は政治的視野だけでは解決できないことが多い。こんな時こそ、民際という民族的視野で解決を図らねばならない。排他的になりがちな民族的視野で解決できないときは、民衆の交わりを中心とした民際で解いてはどうか。(高麗美術館開館20周年図録より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日の夜、平野斗紀子さんおススメの祇園のおでんや『蛸八』で燗酒を味わい、木屋町二条のバー『K6』にはしごして、平野さんはブラジルの伝統カクテル「カイピリーニャ」を、私はアイリッシュウイスキー「グリーンスポット」を味わいながら、平野さんが2年前に一人旅をしたサンパウロで、地元の人々や日系人から親切にされたこと、私が3年前のアラスカ家族旅行で、妹の夫ショーン(アイルランド系アメリカ人)に世話になり、それ以来、外国ビールではギネス、ウイスキーはアイリッシュにこだわるようになったことなどを、とりとめもなく語り合いました。

 京都というまちは、日本の伝統ばかりでなく、ありとあらゆるところで、民族とは何かを考える場所やモノや人に出遭える日本随一のまちなんですね。

 

 

 

 

 私の中の民族共存といえば、とりあえずはこうして民族の酒を味わうことぐらいですが、酒や食べ物や、それらにつながる器や道具といった身近なものから、民族のなりたち・気風といったものを理解する自分なりの“民際”的視野を、これからも大切にしていきたいと思います。