先のブログでご紹介したとおり、5月28日(土)付け中日新聞朝刊30面に掲載された『一千年の富士山信仰~仰ぐ山から登る山へ』を再掲します。委託ライターの身では、直接、読者の感想や反応が解らないので何ともいえないんですが、私自身、この記事の執筆を通して信仰は自然災害と深い結び付きがあることを再認識し、現代の日本人は大震災を受けて何を「信じ」、どう「行動」すべきか、考えさせられました。
この夏、富士山登山を予定されている方に、ぜひ一読していただきたいと思います。
なお、執筆と掲載にあたり、静岡県世界遺産推進課、富士山本宮浅間大社、小山町観光協会、ホテル米山館(小山町須走)にお世話になりました。この場をお借りし、お礼申し上げます。
『一千年の富士山信仰~仰ぐ山から登る山へ』 文・鈴木真弓
現在、ユネスコ(国連教育科学機関)の世界文化遺産登録に向けた取り組みが進む富士山。平地から仰ぎ見ることのできる円錐形の美しい姿は、古来、山岳信仰の対象として日本人に崇拝され、「登拝」という独特の文化を育ててきた。
富士宮市の富士山本宮浅間大社が所蔵する重要文化財「絹本著色富士曼荼羅図」は室町期の富士登山の様子を描いている。登山者は麓の「草山(くさやま)=俗界」、森林地帯の「木山(きやま)=俗界と神の世界の間」、火山礫で覆われた山頂までの「焼山(やけやま)=浄土世界」に区分けされた霊山を往来することで、この世の罪と穢れが消されると信じられてきた。人々は富士山をどのように崇め、いつから登るようになったのだろうか。<o:p></o:p>
<o:p> </o:p>フジの名の由来
富士山本宮浅間大社は、富士山を浅間大神として祀る浅間神社の総本宮。「浅間」とは火山を意味する南方系言語「アサマ」に由来する。富士山史を研究する遠藤秀男氏によると、古い時代はアサマの神が宿る山―すなわち火の山、火を噴く恐ろしい山と呼ばれていた。やがて他の火山と比べてひときわ天に近く壮麗なこの山を、奈良時代に国郡制を整理するにあたって「福慈・不尽・不二・不死」と際立った表現をするようになった。<o:p></o:p>
火の神「アサマ」を鎮める
奈良時代末期の天応元年(781)、延歴19年(800)、貞観6年(864)と大噴火が頻発し、ふたたび「アサマ」的な荒々しさを見せた富士山。浅間大社の名は貞観6年の『三代実録』に初めて「駿河国富
士郡正三位浅間大神」と登場し、他の文献では「貞観6年の大噴火は浅間名神の禰宜や神官が崇敬を怠ったため」とある。<o:p></o:p>
百年余りの間に再三、激甚災害に見舞われた日本人は、浅間大神への畏怖を深め、火山活動が繰り返されるたびに浅間大社の神階は上がり、延喜7年(907)には「従二位」、延長年間(923~931)には「名神大」、永治元年(1141)には「正一位」の格式を与えられた。現代に置き換えれば、大震災の発生リスクが高い静岡県に防災予算が厚く手当されたというところか。<o:p></o:p>
やがて火の神の怒りを鎮める象徴として水徳の神=木花開耶姫命が祭神となった。その後、各地で浅間神社が建立され、社名が変更になったものも含めると、全国に1800社以上。東海~関東圏の火山帯の近くや湧泉のほとり、富士山が眺望できる場所等に多く点在する。<o:p></o:p>
富士登山道の入口にあたる富士宮、村山、須山、御殿場、須走、上吉田、下吉田、河口、勝山には、まるで神霊の山をぐるり取り囲むように浅間神社が祀られている。<o:p></o:p>
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富士登山の開拓者
富士山には、聖徳太子が空飛ぶ馬に乗って登頂したという伝説や役行者が開山したという説もあるが、平安末期から山岳仏教の影響を受けた修行者が富士山を修行の場に選ぶようになる。『本朝世紀』によると、末代上人という僧が富士山頂付近に大日寺を建てたことから修験登山者が増え、浅間大神は仏教と習合して浅間大菩薩と呼ばれるようになり、信仰を集めた。<o:p></o:p>
「登拝」という日本独特の参詣登山が広まるのは室町以降。戦国末期の行者・長谷川角行が「富士浅間大菩薩を信仰し正しく生きることこそ平和の道」と教え、その後、民衆の現世利益と結びついて江戸期に一大ブームとなったのが「富士講」である。<o:p></o:p>
富士講と御師
富士講の信者は心身を清めて白衣に身を包み、金剛杖、数珠、鈴などを携えて登拝した。登山道周辺には農民ながら浅間神社神官の代役を担う御師(おし)がいて、宿泊の世話や登拝のノウハウを教えた。
江戸中期には八百八講といわれるほど多くの分派が生まれ、江戸からの玄関口となった富士吉田には多い年で年間約8千人の信者が登拝した。
やがて幕府から弾圧を受け、明治以降は廃仏毀釈の影響で衰退する。現在、須走で観光旅館を営む米山家は終戦直後まで御師として富士講の人々を世話した(こちらを参照)。七代目米山彰さん(79)は「講を束ねる長も歳を取り、後継者もいなくなった。今、当館でお世話するのは夏季合宿の学生や富士スピードウェイの観客です」と隔世の感を語る。<o:p></o:p>
形態を変えながら息づく
毎年夏季を中心に多くの登山者が訪れる富士山。環境省自然環境局が登山者数を統計し始めた平成17年は20万3百人。平成22年には32万1千人にふくらんだ。世界文化遺産登録に向けた取り組みが注目され、海外からの登山客も年々増えている。
須走旅館組合では、7月1日に冨士浅間神社で行う開山式で希望者に富士講の装束を貸出すなど、登拝の伝承に努めている(写真)。<o:p></o:p>
実現が期待される世界文化遺産登録は、自然災害と向き合い、共生する知恵を培ってきた日本人の精神文化に光をあてるものとなろう。長い歴史を持つ富士山信仰は、形態を変えながら脈々と息づいている。<o:p></o:p>