師走に入り、急に寒くなりました。11月30日~12月1日と、伊豆下田の親戚のお通夜・葬儀に行ったのですが、この2日間の気温差にビックリ。さすがに風邪を引きそうになりました。みなさまもあわただしい年末の折、体調にはくれぐれもお気を付けください。
だいぶ遅くなりましたが、11月12日付け中日新聞朝刊掲載の『描かれた富士~名所絵に登場する日本人の心の象徴』を再掲します。今回は静岡文化芸術大学の片桐弥生教授に大変お世話になりました。本当にありがとうございました。
なお、12月3日(土)付け中日新聞朝刊に、富士山特集第9弾『富士山に生きる動物』が掲載されます。今回は文化芸術とはガラっと変わって富士山に生息する哺乳類の紹介です。ぜひご一読くださいませ!
描かれた富士山~名所絵に登場する、日本人の心の象徴<o:p></o:p>
<o:p> </o:p>
富士山の世界文化遺産登録推薦書草案がユネスコ世界遺産委員会に提出され、静岡県でも登録への気運醸成に努めている。その一環として、県が10月に開催した『富士山県民講座』は、富士山の文化的価値を県民に広く理解してもらおうと、各分野の専門家を講師にそろえた。このうち「描かれた富士山」をテーマに講演した静岡文化芸術大学の片桐弥生教授に、改めて日本絵画史における富士山の価値について解説してもらった。<o:p></o:p>
<o:p></o:p>
富士山を描いた絵といえば、葛飾北斎の『富嶽三十六景』に代表される、いわゆる“名所絵”を思い浮かべる人が多いだろう。江戸時代の庶民にとって富士山は、今の世でいえば東京スカイツリーのような、心躍るランドマークだったと思われる。<o:p></o:p>
では江戸以前に描かれた富士山はどうだったのか。そもそも富士山はいつの時代から描かれてきたのだろうか。<o:p></o:p>
<o:p> </o:p>
描かれた富士を見て歌を詠んだ都びと<o:p></o:p>
平安時代、京に住む貴族たちは日本各地の名所を屏風絵に描かせた。万葉の時代から歌や物語に詠まれた名所のビジュアル化―名所絵の誕生である。<o:p></o:p>
富士山は『竹取物語』『伊勢物語』『曽我物語』『聖徳太子絵伝』『一遍上人伝』等に登場する。『伊勢物語』の「東下り」の項には、<o:p></o:p>
<o:p> </o:p>
富士の山を見れば、五月のつごもりに、雪いとしろうふれり。<o:p></o:p>
時しらぬ山は富士の嶺いつとてか鹿子まだらに雪のふるらむ <o:p></o:p>
その山は、ここにたとへば、比叡の山を二十ばかり重ねあげたらむほどして、なりは塩尻のやうになむはべる<o:p></o:p>
<o:p> </o:p>
と富士山が謳われ、これを描写した鎌倉時代の絵巻が残っている。当時は活発な噴火活動を繰り返していた富士山。噴火=激情、粉塵=心を覆うたとえにもなった<o:p></o:p>
「古今和歌集は、実際の風景ではなく、名所絵を見て詠んだものも少なくない」と片桐教授。我々が現在、デジタル映像で世界の名峰や秘境の地を見ながら、想像力を膨らませるのと同じかもしれない。<o:p></o:p>
<o:p> </o:p>
絵物語の舞台装置<o:p></o:p>
現存する絵画で富士山を描いた最も古い作品は、法隆寺の障子絵として描かれ、今は東京国立博物館に所蔵されている『聖徳太子絵伝』だ。延久元年(1069)の作である。<o:p></o:p>
ここに描かれた富士山も、絵師が直接スケッチしたわけではなく、中国の神話に出てくる神仙郷などをイメージしながら想像で描いたものと思われる。聖徳太子の偉業を伝える『絵伝』には、超人化した太子が黒駒で富士山を飛び越える姿が描かれた。富士山は緑青で塗られ、釣鐘のようにぽっこりとした、今とはまるで違う形だ。山頂は、我々がイメージするギザギザの三峰ではなく、いくつかの不規則な峰に分かれ、三層に重なっている。宇宙の中心にある崑崙山の形状に倣ったのではないかという説もある。絵物語に登場する富士山は、物語の“舞台装置”の役割を与えられたようだ。<o:p></o:p>
<o:p> </o:p>
パターン化した参詣曼陀羅図<o:p></o:p>
やがて時代が進み、直接富士山を見る、あるいは実際に登る人も増えてくると、富士山を描く絵にも変化が見られる。<o:p></o:p>
富士登山を修験道の場とした行者たちが、登拝のしきたりを生みだし、庶民に広がって、富士講へとつながるのだが、その過程で登場したのが『富士参詣曼陀羅図』である。いわば信者のための登山マップだ。<o:p></o:p>
信仰をベースにしているため、構図や描写には一定の決まりがあるようで、中世~近世にかけて多くの曼陀羅図が描かれたが、ややパターン化している。美術史家の狩野博幸氏は著書『凱風快晴~赤富士のフォークロア』の中で、「美しい山容の富士は、そうであるだけに返って描き難い山でもある。中世の富士図が一様に同じ姿恰好に描かれたのも、ひとつにはそれが理由であり、共通概念としての富士の姿であればそれで充分だった」と評している。<o:p></o:p>
<o:p> </o:p>
富士山画の名手・狩野探幽<o:p></o:p>
一方、室町時代になると中国の山水画の影響を受けた水墨画が数多く描かれた。日本の風景を描いた中では富士山が最も多く題材に使われ、『富士清見寺図』(伝雪舟筆)のような傑作も生まれた。<o:p></o:p>
日本画壇における富士山画の代表作家といえば、狩野探幽(1602~74)が筆頭だろう。伝雪舟筆『富士清見寺図』を参考にしたと思われる『富士山図』は、稜線をはっきり描かず、雲や霞の中から淡墨で浮き上がらせ、手前左に清見寺、手前右には三保松原を配置した。清見寺の周囲に朱の紅葉や常緑樹の松を置いて、白い月をぼんやり覗かせるなど、秋の季節感もさりげなく醸し出す。<o:p></o:p>
探幽はこの図を完成させるまで、丹念にスケッチを重ねたという。実際に目の前にした富士に、余白やぼかしの効果を加え、古来、畏敬の対象だった神山としてのイメージを尊重しつつ、独自の画風を確立させたのである。「様々な個性が輩出した近世においては、富士は一枚の鏡と化し、描く者の個性が否応なくそこに表われてしまうようになっていく」と狩野博幸氏は論ずる。富士山が一般的に知られるようになり、アーティストは画期的・革命的な表現方法を追求し始めたということだろう。<o:p></o:p>
<o:p> </o:p>
富士山は、描く者の個性が映し出される鏡<o:p></o:p>
葛飾北斎(1760~1849)の『富嶽三十六景』は、「描く者の個性が突出した」一例といえるのかもしれない。彼の作品は斬新な構図が見せ場で、今様に言えばポップアートの最先端。狩野派に代表される当時の“正統派”は眉をひそめ、「浮世絵師は画師にあらず」と突き放したり、浮世絵画壇の歌川広重も「北斎の富士は構図の面白さばかりが目について、肝心の富士山の影が薄い」と批判している。<o:p></o:p>
浜松天竜あたりを題材にしたと思われる富嶽三十六景『遠江山中』は、北斎批判の急先鋒だった北尾政美(蕙斎)作『近世職人尽絵詞』の木挽の場面にそっくりである。富嶽三十六景は蕙斎没後に発表されたため、彼が生前目にしていたら、(今様に言えば)「パクリだ!」と激昂しただろうが、木挽職人の作業風景に富士山を配置した北斎のデザイン性は現代人が見ても惚れ惚れする。言うまでもなく、富嶽三十六景は江戸の一大ベストセラーとなった。<o:p></o:p>
江戸期以降、格段に多様化した富士山の表現方法について、片桐教授は「元をただせば、富士山が見える江戸という町が、文化の中心にもなり、富士山が日常的に多くの人々の目にふれる存在になったことが大きい」と説く。<o:p></o:p>
◇ <o:p></o:p>
18世紀後半以降、西洋画の技法が入り、遠近法を取り入れた写実性の高い作品が増えた富士山画。近代以降は日本という国の対外イメージに利用されてきた。<o:p></o:p>
富士山というモチーフを通して、日本絵画史の変遷がよく分かる。「描く」ことに日本人がどのような価値を持っていたかも。<o:p></o:p>
<o:p></o:p>
(文・鈴木真弓)<o:p></o:p>
<o:p></o:p>
〈参考文献〉<o:p></o:p>
○絵は語る14 凱風快晴~赤富士のフォークロア(狩野博幸著・平凡社)<o:p></o:p>
○日本の心・富士の美展図録(企画・編集/名古屋市博物館、サントリーミュージアム、東武美術館、NHK名古屋放送局、NHK中部ブレーンズ)<o:p></o:p>
○富士山と日本人(矢野恵二著・青弓社)<o:p></o:p>