村上和隆
京都事務所:京都市伏見区深草出羽屋敷町23ファミール伏見
(新)滋賀支所:滋賀県高島市安曇川町田中(竹の里)
新:村上原基人生勉強会
新:関西シニアコンサルタントネットワーク
台東区立育英小学校⇒台東中学校⇒都立白鴎高校⇒東工大⇒大阪松下電器⇒京都エンゼル工業⇒ローム⇒テクノ経営⇒関西ISOシニアコンサルタントネットワーク創業⇒人生勉強会創設
いつでも気軽に人生相談や人生談義にお越し下さい⇒滋賀人生勉強会
村上原基今日の一言 ⇒ 村上爺さんのツイッター
人生に対して基本的にどういう姿勢で暮らし、生きていくかを自分自身で決めるべきだ
というのが私の考えであり、私の原基人生勉強会の主眼もそこにある
分かりにくければ、人生や暮らしの理念・方針・信条・信念などと置き換えてもよい
企業にいたころ、企業理念だの経営方針だの中長期計画だの、年間計画だの見えない将来をいかに見える姿にする努力をしていた
日本の老舗企業でも家訓とか経営の基本理念などを定めた企業が昔から多かった
そんなものを作っても、そのとおり行くものでもなかったが、
今思えば、そのうち、甘くなって、ずさんな方針や中長期計画で巨大赤字に転落した大企業も多い
企業が真面目にやっているものを個人がやらないのは、どうも納得がいかないし、人生を舐めているとしか考えられない
例えば最近は法令違反をする世界的な大企業の経営者が出現しているが、
うっかり違反ではなく、進んで、計画的に法を犯し、法令を悪用するとんでもない大企業経営者が出現している
法令順守なんて当たり前のことも方針に挙げておくべき時代になった、法令違反は企業にとって致命傷になるのだ
個人はついつい万引きや飲酒交通違反だのやってしまうが、場合によって致命的になることも多い
当たり前のことでも重要なことは明確にしておくべきなのだ
企業では理念・方針には金儲けのことは書かれない、というより金儲けの大前提こそが重要なのだ
金儲けは結果であって目指すべきものではないのだ、金儲けを目指すような企業はむしろ危ないのである
個人でも同様金儲けや幸せを前面に出して目指すようでは、かえって逆効果になってしまう
そんな目先のことや欲張りのことではなく、人間としての原点や基本に遡ってあるべき自分を明確にすべきなのだ
企業の理念・方針も企業として本来いかにあるべきかを公けに明言するものである
その理念・方針から決してぶれてはならない憲法みたいなものなのだ
個人も憲法みたいな大基本を持たないといけない、それが定まっていないとか、ふらふらしていてはならないのだ
残念ながらそういう教科もないし、実際に教育・指導はなされていない
本当にそんなことで良いのだろうか?
若い時に数年で簡単に答えが出るものではないが、真剣に追及し続けなければならない
過去の偉人の話や著名人の講演や多くの書物を読むことも大事になるし苦労を苦労と思わず努力を重ねることも大事だ
そういう全体を総合して自分の特性に合わせて自分の生き方や暮らし方の基本を定めるべきだ
無論人間としての基本は誰も同じかもしれないが、他人のと同じではなく自分独自のものにして欲しい
大きな基本的方向付けから暮らしの身近なことまで具体的に展開されるようになれば本物である
健康第一なんて言ってて、例えば歯磨きはいい加減、暴飲暴食では何にもならないがそんな人は多い
例えば潔癖症で頻繁に手を洗う人がいるが、こんな考えの人は必しも健康に結びついていない場合がある
基本を明確にするのであるから、よくよく時間をかけて何度も考え直さなければならない
まず基本を定め、順次細かいことまで展開して定めていくのに一生かかってもおかしくはない
真の大人とは、自分なりに人生をきちんとした正しく方向づけし、実践している人なのだ
思ったほど簡単なものではないし、間違った方向付けをしてしまって平然としている人も多い
「自分はかなりきちんと完璧に出来ている」と勝手に思い込んでいるが、大間違いな場合が多い
基本の定まらない会社の経営を放漫経営とか成行き経営などというが、個人の場合は、、
・何となく生きている人
・日々やり過ごすだけの生き方で良しとする人
・問題がなければ人生はそれで良しとする人
・他方、問題だらけだが、一向に改善さえしようとしない人
・趣味や娯楽や贅沢や快楽だけに走る人
・嘘誤魔化しを必死に守る人(飾る・威張る・装う・隠す)
・逆に思うように行かなくて不平不満ばかりの人
・暮らし方が一部またはほとんどがだらしない人
・必死に欲を追い求めている人
・心がいつも乱れ、自信もなく、不安や悩みにさいなまれている人
・その他、生きがいや仕事にも熱が入らず、何らかの状況で満足できていない人
放漫人生・成り行き人生なのである
こういう人は歳はとっても、大人とは言い難く、単に子供のまま老いている人でしかない
便利で豊になるにつれ、悩み・苦しみを避け、紛らわし、大した成長もないまま徒に老いて行く人が多い
苦しみ・悩みを受け入れ、受け止め、真面目かつ真剣に人生を掘り下げようとしない
いろいろ体験を重ね、住まいや仕事や環境を大胆に変えたりして自分を成長・進化させようとしない人なのだ
基本や原点を検討する大切な方法が、「なぜ」「何のために」すなわち「目的は何か」を深く追及すること
例えば「なぜ結婚するのか」「なぜ都会に住むのか」「なぜ」「なぜ」・・・
これを暮らしの全てにわたって日頃から追及する習慣を持つことが大事だ
深く考えていくと、墓はいらない、結婚式は質素でいい、田舎で暮らそう、・・・・などとなるのだ
平和で豊な時代には、人々は深く物事を追及することを忘れている
但し、いい加減に、乱暴に「どうでもいいやないか」と何でも否定的になってはならないが
私も多く転職を経験してきたが、
一流会社に嫌々我慢して埋もれたままより、納得の行く会社を探して前向きにチャレンジすべきだと思う
会社をどう選ぶのか
私だったら①仕事の楽しさ②将来性③技術力④経営理念⑤経営者で選ぶ
一流企業を選ぶ人を私はあえて否定はしないが、それだったら入社してあれこれ不満を言わないことだ
安定しているから、待遇が良いからという基本理念や方針は、大間違いである
結婚もそうだ、単に美人だとか、金持ちだとか、優しいからなどと安易に決めると失敗する後悔する
住居の選択もしかり、私が安曇川の長尾の山に暮らして、いろいろ面倒なことがあったが不満を言ったことはない
むしろ自分の選んだ道だから喜んでいろいろな問題を受け止め解決し乗り越えてきた、それが成長にも喜びにもなった
都会でコンクリートに篭って暮らしていると、前向きのきっかけがつかめず年老いてしまう
引き篭もりの若者を批判する立派そうな大人が、実は、都会のコンクリートに引き篭もっている
そういう意味では、老人ホームなんてのも老人の牢屋、引き篭もり老人ハウスにしか見えないものが多い
老人ホームなんてのも抜本的に考え直すべきなのかもしれない
全ての老人=老人ではない、老人らしい老人、老人に引き篭もる老人という考え方は危険だ
老人でない人も老人に押し込めてしまう、お爺ちゃんなんて呼ばせないことだ
自分の意志を否定された鶏のブロイラー状態なのだ、
水と餌と家を与えられ一見幸せそうだが、はたしてそうなのか?
人生にはいろいろな苦労・苦難・事故・事件・大病・争い・不幸・・・が起きるものだ、
そういう時に徒に狼狽することなく、自分の定めた基本に照らして対処方法を選択すべきなのだ
自分を安易に何らかの枠組みや囲いや集団や一括りに当てはめないこと
”自分は最後まで自分でありたい”を自分の理念や信条にすべきだろう
何かに属しているほうが楽なのかもしれない、大人になるとは、属している枠から飛び出すことだと思う
そのためには、自分は何か、自分はどう生きるか、どう暮らすか?を定めるべきだ
やや大袈裟だが、自分を自分ブランド化することだ、決して単なる老人の一人なんてもので甘んじてはならない
高齢化時代というが、高齢化していない老人もいるし、老人より老いぼれた若者もいる
高齢者とか後期高齢者なんて呼ばせないこいとだ、そういう気概を持つべきだ
「俺は死ぬまで高齢者じゃねー」「俺を高齢者とかお爺さんなんて呼ぶな」
「住めば都」というが、昔から都会に移り住んで、悩み・苦しみを誤魔化し紛らわしてきたのだ
楽すれば苦あり、苦すれば楽ありなのだが、現代は苦のために都会で必死に楽を求めているのだ
すなわち、”住めばとは=なんとか紛らわして生きるには”ということなのだ
人生の肯定ではなく、人生の否定になりかねないのだ
現代は田舎も都市化し国全体が都市化している、言うならば、一億総楽追及化している
「都会に行けばなんとかなるべー」「皆で渡れば怖くねーべー」「大都会はあるが、大田舎はねーべー」
唯一限界集落だけが都会ではない場所で、限界集落に住んでいる人を見ると都会の人より逞しい
ある意味、限界集落こそ人間にとって価値ある場所、人間本来の場所なのだろうか
田舎や山奥では私のように実際に暮らしてみると、住み難いことはなはだしいのであるが
自分自身で何とか降りかかる問題に対処していかなくてはならない
他人に依存は出来ない、他人のせいにせず、自分はどうすべきかが問われる、まさしく、これぞ人生である
都会ではいかに都会にハマるか、いかに都会に迎合するか、いかに都会に依存するか
一方、楽追及の嘘誤魔化しの都会暮らしでは
やがて「住めば都」がより深く定着し、大多数の人々が都会暮らしにハマっていく
しかし、その都の暮らしは根本的に人間がしっかりして充実しているからではない
むしろ自分自身がいい加減でも都会に住めばなんとかなるという堕落の姿に過ぎない
都会というのは、自分を殺して、依存を求めることなのであろうか
老後、ベッドや椅子から離れずに、一日外で立ち働かない老人が多いが、これぞ老人生産工場なのだ
住めば都とは
①楽しようとすること
②便利さや快楽を追い求めること
③何んでも他人に依存し、他人のせいにすること
④周囲の人や社会の風潮に押し流されること
⑤喧嘩・苛め・争いをすること
⑥他人と拘わらないようにすること
⑦災害・事故・大病・不幸が予想されるのに回避・予防に無頓着であること
⑧山国であるのに山や自然に暮らさない、親しまないこと
⑨身体を動かさず汗もかかないこと
⑩スポーツ競技や歌手や俳優に過剰に熱狂すること
⑪自分の分度を正しくわきまえないこと
⑫悩み・苦難があると安易に酒や麻薬などに逃避し紛らわそうとすること
そうやって大して良くもない都の堕落した暮らしに溺れ、都会をみやこと勘違いしている人のなんと多いことか
都とは=便利さ
快適さ
依存しあい
そういうものの代名詞なのだが
麻薬みたいなもので”住めば都”とは=”苦しみから逃れたり、自分を殺して社会に溺れ、埋没してしまう
私は18年安曇川長尾の山で、都会の人との付き合い(=騒音、雑音)を断ち暮らしてきた
私も、山暮らしが当初こんな結果になろうとは想像すらしていなかった
すなわち都会に長く暮らしていることがなんと自分を駄目にしていたかを実感した
同様に大企業に長く務めることも、同じ友人と付き合い続けることも、同じ仕事や趣味を続けることも???
私は東京の浅草の浅草寺裏の猿若町に生まれ浅草三筋町(蔵前の近く)に育ったが、
大阪に、そして京都に更に滋賀の山中に移り住むとは想像も目指してもいなかった
偶然が重なってこうなったに過ぎない、不思議と云えば不思議だが「ラッキー」の一言
東京から関西へ、都会から田舎の山の中に、便利さから不便さへ、依存から自力へ
・◎捨てる⇒整える⇒基本から発想⇒更に捨て・整える⇒深く発想
・×増やす⇒雑然・混沌とする⇒基本から遠ざかる⇒更に増やす⇒発想は完全停止
私が格別不幸や病気や悩みが多かったとか何らかの理由があったわけではない
会社も住居も環境を頻繁に変えてきた、それに伴い自分を深く掘り下げる機会が多かった
私は都会の暮らしから遠ざかり、偶然に人生を深く考える生き方をしてしまっただけのことだ
人生ついて深く考えるきっかけをつかむチャンスに、たまたま遭遇したのである
現代は都会に暮らすより、山の中に暮らしたほうが⇒原点や基本に帰り易い、より自分を発見できる、
”肝心なのは素敵なチャンステイキング”なのである
都会の現代人は、いかに学識の高い人であっても、あくまで都会やある種の枠内での発想しか出来ない
初心忘るべからず、基本・原点を忘れるなということであって、単に出発点ということではない
・初心(=基本・原点)とは何なのか?
・初心(=基本・原点)とはどこに行ったら見出されるのか?
・初心(=基本・原点)はどうしたら取り戻せるのか?
はたまた初心(=基本・原点)なんかどうでもいいのか?
初心=基本・原点が分かれば初めて自分の進むべき道が見えてくるはずなのだ
知り合いに、鼻が悪く重度の蓄膿症で、鼻づまり、いびきをかく、歯ぎしりもひどく、
必死になって禁煙と禁酒を何度も助言したが、絶対に止めようとはしなかった、
顔のひどい腫れは毎日鏡をみていればわかりそうなもんなのだが
将来、必ず更に重度の取り返しの出来ない鼻や脳の病気に進展するが、
要するにさんざ懲りないとわからない人なのだ、懲りるまでは、言っても無駄な人なのだ
周囲を見渡すと、そんな人で溢れている、人生を舐めている、人生を諦めている、人生を見捨てている
悩みの多い人・深い人、改善意欲で溢れている人は、人生に前向きな人が多いのだ
自分で我が道を定めない、他人に助言されても道を定めない、いよいよ困っても道を定めようとしない
とことん懲りてやっと道を定めるのでは遅い、さんざ苦しみもがいて惨めな人生を終える人は多い
人生を誤魔化している、日々の問題を甘く見ている、人生に集中力がない、上の空だ
都会に住むと、住めば住むほどいろいろな固定観念をまとい、自分自身を見失ってしまう
僧侶の修行は、まず過去・現在を一度すぱっと捨てることから始まるそうだ
出家ということだろうか、私は18年前に安曇川の長尾に僅かながら出家したのかもしれない
もし捨てられないのであれば、厳しく長い修行や悟りには到達できるはずがない
何も僧侶だけのことではない、どんな仕事もすべて一流を目指すには、まず捨てることから始まるのだ
一流の人とは大半を捨てて自分の道をひたすら求めてやり遂げた人なのだ
ごみ屋敷は又は家が物で溢れている人は、捨てれば良いのに捨てられない人なのだ
人間は捨てる、そして自分の生き方をきちんと定めるべきであることを再度申し上げておく
凡人・凡夫も同じことで、まあ一流にならないまでも人間として納得できる一生を送るには
どこかで一度現在・過去を捨て去るために、まず環境をととのえなければならない
そして自分の人生の真っ当な方向付けをしなくてはならないのだ
都会の暮らしやあらゆるしがらみを一度捨て去る勇気とか決断をしないといけない
そうしないと、相変わらずつまらんことに一喜一憂し、嘘誤魔化しのまま生き続け、
そのまま苦難の多い一生で終わってしまう
ヒントは、
①何でもいいからまずは、手当たり次第、徹底した断捨離に挑戦してみること
(簡単なようで、こんなことすら出来ないか、三日坊主に終わってしまう)
物事というのはまず整理整頓から始まる、会社では品質管理の基本を5Sと言っている
5S=整理・整頓・清掃・清潔・躾、これが出来ない会社の品質は不良や返品の山である
②もう一つのヒントは、自分の生き方や暮らし方の基本を文字にして書き出すこと
出来れば、ホームページやブログを立ち上げ公表することがお勧め
③更にもう一つあげれば
住まいや会社を時々大胆に移すこと、出来れば山暮らしをしてみること
楽をしていて考えたようなものは内容がお粗末で大した役にはたたないということ
苦労を重ね、苦難を味わい、人生を真剣に生きて、考え出したものが自分を正しく導くものになるのだ
その他いろいろ工夫し、哲学し、手間暇をかけて歩むべき道を探って戴きたい
知らぬまに或る日、絶好のチャンスが来ているのに、チャンスと思わず逃してしまう
日頃から整理整頓が出来ていて、自分の歩むべき方向を定めている人は、何となくチャンスを掴んでいる
ところが整理整頓も出来ていない、理念や基本方針も定めていない人は
絶好のチャンスをチャンスと気付かず、次々に見逃している、だから人生を振り返ると大したものが残っていない
現在が楽しいか楽しくないか、幸せか不幸か、元気か元気でないか・・・
現状がどうあれ、それは自分が進んで選んだ道と納得すべきなのだ
現状を喜ぶのも、悔やむのも、それは自分自身が選んだ道なのだ
例えば株を買って値上がりしようが値下がりしようが、それは自分が過去に決めたことなんだ
やれ政治が悪い、企業が悪い、景気が悪い・・・と言っても何の意味もない
買う株を選び決めるのは自分自身であったことを忘れてはならない
株も短期の値上がり目当てではなく、長期的な有望さで選ぶべきだ
行き当たりばったり、楽に浸りきっているのは人生ではない、運搬車に乗った物に過ぎない
道は平たんな道が必しも良いのではない、むしろ曲がりくねり高低のある道のほうが良い
自分で将来を決め、決めた道を歩んだら、簡単にその道をはずれずに、しっかり歩み続けることだ
もし自分が定めた道が間違っていたら道を都度是正したらよいのだ
30~40歳で道(暮らし方生き方)を選び、50~60歳で道を確定したらいい
歳を重ねさんざ考えて確定したら、定めた道を大きく変えてはいけない、ひたすら歩み続ける
だから競争とか比較とかランクづけなんてのは本来意味がない、自分は自分なのだ
自分は他と比較するようなそんな低い程度ではないと思うべきだ
自分は自分なのだから、強いて言えば、比較する程度の人間は駄目だということだ
孤独、へそ曲がり、頑固・・・と言われようと自分の決めた道を歩いている限り何も憂うことはない
あるとすれば道を決めていないで付和雷同している人だ、他人や社会と比較し、一喜一憂する人だ
多くの人は、レールの敷かれた平たんな道を行きたがる、それで人々は「幸せ」というが、本当だろうか?
あなたの歩む道は?と聞かれたら、きちんと明快に答えなければならないが、
道はわかりません、そんなものはありません、行き当たりばったりです・・・そんな人ばかりだ
貴方の住む家は、環境は、結婚は、家庭は、健康は、友人は、仕事は、生きがいは、・・・?
⇒「かくあるべし」「かくありたい」というものが決まっていますか?
⇒ネットで調べます、教えてください だって?
⇒自分でゆっくり考えましょう、他人の借り物では意味がない
他人の道なんかは、敢えて自分は歩かない、そんな道を歩むのは他人に任せる
結婚や就職するときに、相手の人生の基本理念は方針や信条を厳格に確認すべきである
一目惚れや直感や会社の名前だけで決めるなんてのは悲劇の元になる危険性が大きい
財産や家系や履歴や健康や相手の家族などを知る以上に相手がどんな人なのかが最も大事だ
履歴書や釣書なんかにも信条や理念や方針を書くべきだが、実際には書きませんね
若いからそんなに立派なものは期待しませんが、当然自分自身もはっきりさせておくことは大事
自分や相手を哲学的に深く掘り下げて分析し歩もうとする道を明らかにし、進む道が正しいことを確認することだ
株を買う場合、現在の状況で買うより、この会社の将来がどうかで買うものだが
同様に今の人を見て人を評価してしまいがちだが、本当はその人の将来歩むべき道を見て評価するのが正しい
今が良いからと言って将来が明るいとは限らない、一発芸人なんてのがその典型ではないだろうか
今は駄目な人でも、将来は大きく変わる人は沢山いるのである、人は将来に向けて努力するものだから
逆に今が良いとそれで安心したり、慢心してしまい、油断して急激に駄目になっていく人も多い
大事なことはどんなことが起ころうと、どんなになろうと、常に自分の歩むべき道はこうだと断言出来ることである
京都事務所:京都市伏見区深草出羽屋敷町23ファミール伏見
(新)滋賀支所:滋賀県高島市安曇川町田中(竹の里)
新:村上原基人生勉強会
新:関西シニアコンサルタントネットワーク
台東区立育英小学校⇒台東中学校⇒都立白鴎高校⇒東工大⇒大阪松下電器⇒京都エンゼル工業⇒ローム⇒テクノ経営⇒関西ISOシニアコンサルタントネットワーク創業⇒人生勉強会創設
いつでも気軽に人生相談や人生談義にお越し下さい⇒滋賀人生勉強会
村上原基今日の一言 ⇒ 村上爺さんのツイッター
人生に対して基本的にどういう姿勢で暮らし、生きていくかを自分自身で決めるべきだ
というのが私の考えであり、私の原基人生勉強会の主眼もそこにある
分かりにくければ、人生や暮らしの理念・方針・信条・信念などと置き換えてもよい
企業にいたころ、企業理念だの経営方針だの中長期計画だの、年間計画だの見えない将来をいかに見える姿にする努力をしていた
日本の老舗企業でも家訓とか経営の基本理念などを定めた企業が昔から多かった
そんなものを作っても、そのとおり行くものでもなかったが、
今思えば、そのうち、甘くなって、ずさんな方針や中長期計画で巨大赤字に転落した大企業も多い
企業が真面目にやっているものを個人がやらないのは、どうも納得がいかないし、人生を舐めているとしか考えられない
例えば最近は法令違反をする世界的な大企業の経営者が出現しているが、
うっかり違反ではなく、進んで、計画的に法を犯し、法令を悪用するとんでもない大企業経営者が出現している
法令順守なんて当たり前のことも方針に挙げておくべき時代になった、法令違反は企業にとって致命傷になるのだ
個人はついつい万引きや飲酒交通違反だのやってしまうが、場合によって致命的になることも多い
当たり前のことでも重要なことは明確にしておくべきなのだ
企業では理念・方針には金儲けのことは書かれない、というより金儲けの大前提こそが重要なのだ
金儲けは結果であって目指すべきものではないのだ、金儲けを目指すような企業はむしろ危ないのである
個人でも同様金儲けや幸せを前面に出して目指すようでは、かえって逆効果になってしまう
そんな目先のことや欲張りのことではなく、人間としての原点や基本に遡ってあるべき自分を明確にすべきなのだ
企業の理念・方針も企業として本来いかにあるべきかを公けに明言するものである
その理念・方針から決してぶれてはならない憲法みたいなものなのだ
個人も憲法みたいな大基本を持たないといけない、それが定まっていないとか、ふらふらしていてはならないのだ
残念ながらそういう教科もないし、実際に教育・指導はなされていない
本当にそんなことで良いのだろうか?
若い時に数年で簡単に答えが出るものではないが、真剣に追及し続けなければならない
過去の偉人の話や著名人の講演や多くの書物を読むことも大事になるし苦労を苦労と思わず努力を重ねることも大事だ
そういう全体を総合して自分の特性に合わせて自分の生き方や暮らし方の基本を定めるべきだ
無論人間としての基本は誰も同じかもしれないが、他人のと同じではなく自分独自のものにして欲しい
大きな基本的方向付けから暮らしの身近なことまで具体的に展開されるようになれば本物である
健康第一なんて言ってて、例えば歯磨きはいい加減、暴飲暴食では何にもならないがそんな人は多い
例えば潔癖症で頻繁に手を洗う人がいるが、こんな考えの人は必しも健康に結びついていない場合がある
基本を明確にするのであるから、よくよく時間をかけて何度も考え直さなければならない
まず基本を定め、順次細かいことまで展開して定めていくのに一生かかってもおかしくはない
真の大人とは、自分なりに人生をきちんとした正しく方向づけし、実践している人なのだ
思ったほど簡単なものではないし、間違った方向付けをしてしまって平然としている人も多い
「自分はかなりきちんと完璧に出来ている」と勝手に思い込んでいるが、大間違いな場合が多い
基本の定まらない会社の経営を放漫経営とか成行き経営などというが、個人の場合は、、
・何となく生きている人
・日々やり過ごすだけの生き方で良しとする人
・問題がなければ人生はそれで良しとする人
・他方、問題だらけだが、一向に改善さえしようとしない人
・趣味や娯楽や贅沢や快楽だけに走る人
・嘘誤魔化しを必死に守る人(飾る・威張る・装う・隠す)
・逆に思うように行かなくて不平不満ばかりの人
・暮らし方が一部またはほとんどがだらしない人
・必死に欲を追い求めている人
・心がいつも乱れ、自信もなく、不安や悩みにさいなまれている人
・その他、生きがいや仕事にも熱が入らず、何らかの状況で満足できていない人
放漫人生・成り行き人生なのである
こういう人は歳はとっても、大人とは言い難く、単に子供のまま老いている人でしかない
便利で豊になるにつれ、悩み・苦しみを避け、紛らわし、大した成長もないまま徒に老いて行く人が多い
苦しみ・悩みを受け入れ、受け止め、真面目かつ真剣に人生を掘り下げようとしない
いろいろ体験を重ね、住まいや仕事や環境を大胆に変えたりして自分を成長・進化させようとしない人なのだ
基本や原点を検討する大切な方法が、「なぜ」「何のために」すなわち「目的は何か」を深く追及すること
例えば「なぜ結婚するのか」「なぜ都会に住むのか」「なぜ」「なぜ」・・・
これを暮らしの全てにわたって日頃から追及する習慣を持つことが大事だ
深く考えていくと、墓はいらない、結婚式は質素でいい、田舎で暮らそう、・・・・などとなるのだ
平和で豊な時代には、人々は深く物事を追及することを忘れている
但し、いい加減に、乱暴に「どうでもいいやないか」と何でも否定的になってはならないが
私も多く転職を経験してきたが、
一流会社に嫌々我慢して埋もれたままより、納得の行く会社を探して前向きにチャレンジすべきだと思う
会社をどう選ぶのか
私だったら①仕事の楽しさ②将来性③技術力④経営理念⑤経営者で選ぶ
一流企業を選ぶ人を私はあえて否定はしないが、それだったら入社してあれこれ不満を言わないことだ
安定しているから、待遇が良いからという基本理念や方針は、大間違いである
結婚もそうだ、単に美人だとか、金持ちだとか、優しいからなどと安易に決めると失敗する後悔する
住居の選択もしかり、私が安曇川の長尾の山に暮らして、いろいろ面倒なことがあったが不満を言ったことはない
むしろ自分の選んだ道だから喜んでいろいろな問題を受け止め解決し乗り越えてきた、それが成長にも喜びにもなった
都会でコンクリートに篭って暮らしていると、前向きのきっかけがつかめず年老いてしまう
引き篭もりの若者を批判する立派そうな大人が、実は、都会のコンクリートに引き篭もっている
そういう意味では、老人ホームなんてのも老人の牢屋、引き篭もり老人ハウスにしか見えないものが多い
老人ホームなんてのも抜本的に考え直すべきなのかもしれない
全ての老人=老人ではない、老人らしい老人、老人に引き篭もる老人という考え方は危険だ
老人でない人も老人に押し込めてしまう、お爺ちゃんなんて呼ばせないことだ
自分の意志を否定された鶏のブロイラー状態なのだ、
水と餌と家を与えられ一見幸せそうだが、はたしてそうなのか?
人生にはいろいろな苦労・苦難・事故・事件・大病・争い・不幸・・・が起きるものだ、
そういう時に徒に狼狽することなく、自分の定めた基本に照らして対処方法を選択すべきなのだ
自分を安易に何らかの枠組みや囲いや集団や一括りに当てはめないこと
”自分は最後まで自分でありたい”を自分の理念や信条にすべきだろう
何かに属しているほうが楽なのかもしれない、大人になるとは、属している枠から飛び出すことだと思う
そのためには、自分は何か、自分はどう生きるか、どう暮らすか?を定めるべきだ
やや大袈裟だが、自分を自分ブランド化することだ、決して単なる老人の一人なんてもので甘んじてはならない
高齢化時代というが、高齢化していない老人もいるし、老人より老いぼれた若者もいる
高齢者とか後期高齢者なんて呼ばせないこいとだ、そういう気概を持つべきだ
「俺は死ぬまで高齢者じゃねー」「俺を高齢者とかお爺さんなんて呼ぶな」
「住めば都」というが、昔から都会に移り住んで、悩み・苦しみを誤魔化し紛らわしてきたのだ
楽すれば苦あり、苦すれば楽ありなのだが、現代は苦のために都会で必死に楽を求めているのだ
すなわち、”住めばとは=なんとか紛らわして生きるには”ということなのだ
人生の肯定ではなく、人生の否定になりかねないのだ
現代は田舎も都市化し国全体が都市化している、言うならば、一億総楽追及化している
「都会に行けばなんとかなるべー」「皆で渡れば怖くねーべー」「大都会はあるが、大田舎はねーべー」
唯一限界集落だけが都会ではない場所で、限界集落に住んでいる人を見ると都会の人より逞しい
ある意味、限界集落こそ人間にとって価値ある場所、人間本来の場所なのだろうか
田舎や山奥では私のように実際に暮らしてみると、住み難いことはなはだしいのであるが
自分自身で何とか降りかかる問題に対処していかなくてはならない
他人に依存は出来ない、他人のせいにせず、自分はどうすべきかが問われる、まさしく、これぞ人生である
都会ではいかに都会にハマるか、いかに都会に迎合するか、いかに都会に依存するか
一方、楽追及の嘘誤魔化しの都会暮らしでは
やがて「住めば都」がより深く定着し、大多数の人々が都会暮らしにハマっていく
しかし、その都の暮らしは根本的に人間がしっかりして充実しているからではない
むしろ自分自身がいい加減でも都会に住めばなんとかなるという堕落の姿に過ぎない
都会というのは、自分を殺して、依存を求めることなのであろうか
老後、ベッドや椅子から離れずに、一日外で立ち働かない老人が多いが、これぞ老人生産工場なのだ
住めば都とは
①楽しようとすること
②便利さや快楽を追い求めること
③何んでも他人に依存し、他人のせいにすること
④周囲の人や社会の風潮に押し流されること
⑤喧嘩・苛め・争いをすること
⑥他人と拘わらないようにすること
⑦災害・事故・大病・不幸が予想されるのに回避・予防に無頓着であること
⑧山国であるのに山や自然に暮らさない、親しまないこと
⑨身体を動かさず汗もかかないこと
⑩スポーツ競技や歌手や俳優に過剰に熱狂すること
⑪自分の分度を正しくわきまえないこと
⑫悩み・苦難があると安易に酒や麻薬などに逃避し紛らわそうとすること
そうやって大して良くもない都の堕落した暮らしに溺れ、都会をみやこと勘違いしている人のなんと多いことか
都とは=便利さ
快適さ
依存しあい
そういうものの代名詞なのだが
麻薬みたいなもので”住めば都”とは=”苦しみから逃れたり、自分を殺して社会に溺れ、埋没してしまう
私は18年安曇川長尾の山で、都会の人との付き合い(=騒音、雑音)を断ち暮らしてきた
私も、山暮らしが当初こんな結果になろうとは想像すらしていなかった
すなわち都会に長く暮らしていることがなんと自分を駄目にしていたかを実感した
同様に大企業に長く務めることも、同じ友人と付き合い続けることも、同じ仕事や趣味を続けることも???
私は東京の浅草の浅草寺裏の猿若町に生まれ浅草三筋町(蔵前の近く)に育ったが、
大阪に、そして京都に更に滋賀の山中に移り住むとは想像も目指してもいなかった
偶然が重なってこうなったに過ぎない、不思議と云えば不思議だが「ラッキー」の一言
東京から関西へ、都会から田舎の山の中に、便利さから不便さへ、依存から自力へ
・◎捨てる⇒整える⇒基本から発想⇒更に捨て・整える⇒深く発想
・×増やす⇒雑然・混沌とする⇒基本から遠ざかる⇒更に増やす⇒発想は完全停止
私が格別不幸や病気や悩みが多かったとか何らかの理由があったわけではない
会社も住居も環境を頻繁に変えてきた、それに伴い自分を深く掘り下げる機会が多かった
私は都会の暮らしから遠ざかり、偶然に人生を深く考える生き方をしてしまっただけのことだ
人生ついて深く考えるきっかけをつかむチャンスに、たまたま遭遇したのである
現代は都会に暮らすより、山の中に暮らしたほうが⇒原点や基本に帰り易い、より自分を発見できる、
”肝心なのは素敵なチャンステイキング”なのである
都会の現代人は、いかに学識の高い人であっても、あくまで都会やある種の枠内での発想しか出来ない
初心忘るべからず、基本・原点を忘れるなということであって、単に出発点ということではない
・初心(=基本・原点)とは何なのか?
・初心(=基本・原点)とはどこに行ったら見出されるのか?
・初心(=基本・原点)はどうしたら取り戻せるのか?
はたまた初心(=基本・原点)なんかどうでもいいのか?
初心=基本・原点が分かれば初めて自分の進むべき道が見えてくるはずなのだ
知り合いに、鼻が悪く重度の蓄膿症で、鼻づまり、いびきをかく、歯ぎしりもひどく、
必死になって禁煙と禁酒を何度も助言したが、絶対に止めようとはしなかった、
顔のひどい腫れは毎日鏡をみていればわかりそうなもんなのだが
将来、必ず更に重度の取り返しの出来ない鼻や脳の病気に進展するが、
要するにさんざ懲りないとわからない人なのだ、懲りるまでは、言っても無駄な人なのだ
周囲を見渡すと、そんな人で溢れている、人生を舐めている、人生を諦めている、人生を見捨てている
悩みの多い人・深い人、改善意欲で溢れている人は、人生に前向きな人が多いのだ
自分で我が道を定めない、他人に助言されても道を定めない、いよいよ困っても道を定めようとしない
とことん懲りてやっと道を定めるのでは遅い、さんざ苦しみもがいて惨めな人生を終える人は多い
人生を誤魔化している、日々の問題を甘く見ている、人生に集中力がない、上の空だ
都会に住むと、住めば住むほどいろいろな固定観念をまとい、自分自身を見失ってしまう
僧侶の修行は、まず過去・現在を一度すぱっと捨てることから始まるそうだ
出家ということだろうか、私は18年前に安曇川の長尾に僅かながら出家したのかもしれない
もし捨てられないのであれば、厳しく長い修行や悟りには到達できるはずがない
何も僧侶だけのことではない、どんな仕事もすべて一流を目指すには、まず捨てることから始まるのだ
一流の人とは大半を捨てて自分の道をひたすら求めてやり遂げた人なのだ
ごみ屋敷は又は家が物で溢れている人は、捨てれば良いのに捨てられない人なのだ
人間は捨てる、そして自分の生き方をきちんと定めるべきであることを再度申し上げておく
凡人・凡夫も同じことで、まあ一流にならないまでも人間として納得できる一生を送るには
どこかで一度現在・過去を捨て去るために、まず環境をととのえなければならない
そして自分の人生の真っ当な方向付けをしなくてはならないのだ
都会の暮らしやあらゆるしがらみを一度捨て去る勇気とか決断をしないといけない
そうしないと、相変わらずつまらんことに一喜一憂し、嘘誤魔化しのまま生き続け、
そのまま苦難の多い一生で終わってしまう
ヒントは、
①何でもいいからまずは、手当たり次第、徹底した断捨離に挑戦してみること
(簡単なようで、こんなことすら出来ないか、三日坊主に終わってしまう)
物事というのはまず整理整頓から始まる、会社では品質管理の基本を5Sと言っている
5S=整理・整頓・清掃・清潔・躾、これが出来ない会社の品質は不良や返品の山である
②もう一つのヒントは、自分の生き方や暮らし方の基本を文字にして書き出すこと
出来れば、ホームページやブログを立ち上げ公表することがお勧め
③更にもう一つあげれば
住まいや会社を時々大胆に移すこと、出来れば山暮らしをしてみること
楽をしていて考えたようなものは内容がお粗末で大した役にはたたないということ
苦労を重ね、苦難を味わい、人生を真剣に生きて、考え出したものが自分を正しく導くものになるのだ
その他いろいろ工夫し、哲学し、手間暇をかけて歩むべき道を探って戴きたい
知らぬまに或る日、絶好のチャンスが来ているのに、チャンスと思わず逃してしまう
日頃から整理整頓が出来ていて、自分の歩むべき方向を定めている人は、何となくチャンスを掴んでいる
ところが整理整頓も出来ていない、理念や基本方針も定めていない人は
絶好のチャンスをチャンスと気付かず、次々に見逃している、だから人生を振り返ると大したものが残っていない
現在が楽しいか楽しくないか、幸せか不幸か、元気か元気でないか・・・
現状がどうあれ、それは自分が進んで選んだ道と納得すべきなのだ
現状を喜ぶのも、悔やむのも、それは自分自身が選んだ道なのだ
例えば株を買って値上がりしようが値下がりしようが、それは自分が過去に決めたことなんだ
やれ政治が悪い、企業が悪い、景気が悪い・・・と言っても何の意味もない
買う株を選び決めるのは自分自身であったことを忘れてはならない
株も短期の値上がり目当てではなく、長期的な有望さで選ぶべきだ
行き当たりばったり、楽に浸りきっているのは人生ではない、運搬車に乗った物に過ぎない
道は平たんな道が必しも良いのではない、むしろ曲がりくねり高低のある道のほうが良い
自分で将来を決め、決めた道を歩んだら、簡単にその道をはずれずに、しっかり歩み続けることだ
もし自分が定めた道が間違っていたら道を都度是正したらよいのだ
30~40歳で道(暮らし方生き方)を選び、50~60歳で道を確定したらいい
歳を重ねさんざ考えて確定したら、定めた道を大きく変えてはいけない、ひたすら歩み続ける
だから競争とか比較とかランクづけなんてのは本来意味がない、自分は自分なのだ
自分は他と比較するようなそんな低い程度ではないと思うべきだ
自分は自分なのだから、強いて言えば、比較する程度の人間は駄目だということだ
孤独、へそ曲がり、頑固・・・と言われようと自分の決めた道を歩いている限り何も憂うことはない
あるとすれば道を決めていないで付和雷同している人だ、他人や社会と比較し、一喜一憂する人だ
多くの人は、レールの敷かれた平たんな道を行きたがる、それで人々は「幸せ」というが、本当だろうか?
あなたの歩む道は?と聞かれたら、きちんと明快に答えなければならないが、
道はわかりません、そんなものはありません、行き当たりばったりです・・・そんな人ばかりだ
貴方の住む家は、環境は、結婚は、家庭は、健康は、友人は、仕事は、生きがいは、・・・?
⇒「かくあるべし」「かくありたい」というものが決まっていますか?
⇒ネットで調べます、教えてください だって?
⇒自分でゆっくり考えましょう、他人の借り物では意味がない
他人の道なんかは、敢えて自分は歩かない、そんな道を歩むのは他人に任せる
結婚や就職するときに、相手の人生の基本理念は方針や信条を厳格に確認すべきである
一目惚れや直感や会社の名前だけで決めるなんてのは悲劇の元になる危険性が大きい
財産や家系や履歴や健康や相手の家族などを知る以上に相手がどんな人なのかが最も大事だ
履歴書や釣書なんかにも信条や理念や方針を書くべきだが、実際には書きませんね
若いからそんなに立派なものは期待しませんが、当然自分自身もはっきりさせておくことは大事
自分や相手を哲学的に深く掘り下げて分析し歩もうとする道を明らかにし、進む道が正しいことを確認することだ
株を買う場合、現在の状況で買うより、この会社の将来がどうかで買うものだが
同様に今の人を見て人を評価してしまいがちだが、本当はその人の将来歩むべき道を見て評価するのが正しい
今が良いからと言って将来が明るいとは限らない、一発芸人なんてのがその典型ではないだろうか
今は駄目な人でも、将来は大きく変わる人は沢山いるのである、人は将来に向けて努力するものだから
逆に今が良いとそれで安心したり、慢心してしまい、油断して急激に駄目になっていく人も多い
大事なことはどんなことが起ころうと、どんなになろうと、常に自分の歩むべき道はこうだと断言出来ることである