指導や講演を依頼出来ます 村上原基
滋賀事務所: 滋賀県高島市安曇川町田中(通称:竹の里)
村上原基人生勉強会
台東区立育英小学校⇒台東中学校⇒都立白鴎高校⇒東工大⇒大阪松下電器⇒京都エンゼル工業⇒
ローム⇒テクノ経営⇒関西ISOシニアコンサルタントネットワーク創業⇒人生勉強会創設
いつでも気軽に人生相談にお越し下さい⇒滋賀支所又は京都事務所へ
出来た・出来ます
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人生=自分+環境、自分を取り巻く環境とどう付き合うか
自分と環境は切り離せない、環境は自分であり、人生そのものとも言える
環境と自分、環境と人生は密接な関係にあり、魚と水のような関係だ
それにも拘わらず、自分を取り巻く環境に対する認識はあまりにも低い
風水と言う占いマガイのものがあるが、あれはかなり正しい根拠がある
一口で言えば環境影響評価のようなものだ
是非つまらんインチキな占いでなく風水:環境影響評価をして欲しい
占いで唯一信じてよいと思うのが風水=環境影響評価であり=大事なことだ
私は、人の環境を確認して、その人の人生を推測し評価してみる
暗い人、癖が強い人、問題のある人などの原因はその人の環境遍歴にある
ほとんど環境を変えていない・改善して来なかった、現在も変えようとしない人
そういう人は主張が強いが、その割に自分がいるようで自分というものがいない、
しっかりしているようでしっかりしていない、強いようで弱い、明るいようで暗い
環境問題というと大気汚染とか自然の景観とかゴミ処理を思い出す人が多い
私も55~70歳まで環境コンサルタントとして、環境については一応学んできた
ISO14001「環境マネジメントシステム」環境法令遵守、エコロジーなど
実を言うと環境とは公害・リサイクルだけではなく、もっともっと幅が広い
自分を取り巻く自分以外の全てが、環境なのだから
環境は、好ましい効果をもたらすものであり、かつストレスや弊害にもなリえる
偶然55歳から滋賀県高島市の山に20年以上、ひっそり暮らすことになった
すなわち180°とは言わないが、暮す環境をガラっと変えたのだ
65歳を越える頃、私は都会人から山人になり、人生を深く考え直すようになった
今の環境とその正反対の環境があるが、正反対の環境を選ぶのはしんどい
それでも敢えてやるかどうかだが、私はやる価値があると思ってやって来た
自分の人生=自分+環境
環境を自分の味方にするか敵(害)にするかで、人生は大きく変わる
より貪欲に環境にアタックしてみようとは思いませんか? ところが、
都会に引き篭もる人は、自分を取り巻く環境の意識が完全に欠如していく
環境影響評価⇒環境変化⇒古い環境から脱皮⇒新環境への順応⇒
同じ環境が与えられても、良い結果を出す人もいるし出せない人もいる
環境が良ければそれで結果が良く出るのではなく
あくまで環境と自分の足し算又は掛け算なのだが、
人によっては引き算や割り算の人もいる
空気を吸って生きているのに空気を意識しないように環境に囲まれていながら、
環境について深く知りえていない。 ところで空気も環境の一つに過ぎない
日本では「寄らば大樹の陰」、会社も住まいも変えないことを良しとしてきた
自分を捨て、前面に出さずに、周囲の環境に100%自分を合わせて来たのだ
昨今でも、敢えて険しい環境を選ばないし、挑戦魂が全くない人が多くなっている
私が東京から大阪へ、大企業から零細・中堅企業へ、都会から山奥へと
環境を変え、変えた環境に素直に・真摯に自分を適応して来た。 ところが
山に暮らしてみたものの上手く適応せず、山に来るのが月に1度という人も多い
そんな人は環境を変えてみたものの、その後の挑戦を早々に諦めた人なのだ
山の環境に楽しめない・馴染めない・順応しようとしない
私が地震や津波の起きる地域の人に早めに引っ越すように忠告するが
引っ越す人は、ほとんどいないばかりか、むしろ危険地帯に引っ越す人が多い
安易な環境を選んでしまう。学者は都会の多くは巨大地震発生が必至だと言う
今や田舎は限界集落化し人口減少に悩む一方都会への人口集中が起きている
危険地域に喜んで集まっていく、ネズミの大群が崖から海に雪崩れ込むように
人が多く密集する大都会、でも、そんなところに絶対に住んではいけない
現代人は環境への攻撃意識・挑戦意識が極めて希薄になってしまった
「虎穴なんかに入りたくない・虎児なんかいらない」
私的には、虎穴=新しい環境、虎児=自分の素晴らしい人生のことだが
「自分の素晴らしい人生なんか欲しくはないのだ、そんな意識の欠片すらない」
だから自分を取り巻く環境はぬるま湯でよいのだ
・便利なところに住み・美味しいもの食べ・面倒なことはしないで
・何かあってもどうにでもなる そんな安易で小ポケな考えで安易に安住する
自分では大した努力をせずに、虫のいい環境に、まんまと住み着く寄生虫だ
都会の子供は都会の環境にしか住んだことがない、都会暮らししか知らない
山で180°異なる暮しをして一番感じたことは、都会で暮らす大きな弊害
当時、少しづつ、しかも確実に京都の家に戻ることが面倒で嫌になって行った
現在は麓の田中という町に移り住み3年になるが、都会に戻る気は全くない
以前にも紹介したように、都会はまさに3Kいや100K・1000kなのだ
汚い・臭い・きつい・狭小・喧騒・危険・怖い・ぎすぎす・・・
山暮らしを体験した私にとっては、誰が何と言おうと、都会の環境はひど過ぎる
両方に暮らして、どうひいき目に見ても人間として、田舎のほうが健全で暮し易い
現代人は健全性などというものをあまり求めない、便利・楽なことを優先する
一体なぜ都会に住むのか?山に10年住んで以降、深い疑問になってしまった
仕事のために都会に住むのは理解するが、引退後都会に暮らすのは意味不明
そこで都会に住む理由を推測してみた;都会が良い環境と判断する理由
①仕事が多い・仕事を選べる
②親せきや友達がいる
③とにかく凄く便利
④大病院が多数ある
⑤いろいろなイベントやショーがある
⑥情報が多い
⑦進んでいる、新しいものが沢山ある
⑧観て買い物出来る店が多い
⑨虫や蛇がいない
⑩夜も遊べる、行動できる
⑪自分でやらなくても何でも業者に頼める
⑫人が多い
以上の理由で都会に暮らす都会人は、マイナス面には、ほとんど注目しない
私は山で人生を深めようとする思いが深まったが、都会の人はそうではない
私が山や田舎に暮らして感じたことは、都会に住むマイナス面かもしれない
プラス点は確かに都会のほうが上かもしれないが、マイナス点は多いのだ
あれだけ好きだった京都だが、昨今私は京都の家に帰るのがすごく嫌なのだ
もはや京都を含めて大都会には嫌悪感さえ抱いている。「分かんねーだろーな」
都会に住み続けると文字通り住めば都、麻薬のように便利さや豊かさに浸り続ける
糖尿病や腰痛や歯周病や大腸がんのようにいつの間にか身体を蝕まれてしまう
良い環境だからと、そこに長年浸りきっていると、思わぬ落とし穴にはまる
平穏無事・悩みも苦しみもない何一つ問題のない暮らしが良いとは限らない
都会は、 きつい・きたない・こんざつ・きびしい・くさい・きけん・・・・
せまい・そうぞうしい・さつばつ・しんどい・しぜんがない
都会は人口密度が恐ろしく高い100㎡当たり、
東京台東区:198人、京都伏見:45人高島市:0.7人
多くの人がどちらを選らぶかというと、言うまでもなく都会である
世の中が進化すると、その進化の早い都会で最先端を味わいたいのだろう
しかし正直な話だが、本当のところ、人間の環境としては、あまりに劣悪だ
劣悪な環境に我慢して住んでいる大人にはまだ良いが、子供には可哀そう
山や田舎の町なり村を限界集落と言うが、冷静に考えると限界は都会なのだ
しかし現実は都会は限界どころではなく、田舎がどんどん限界になっている
可笑しな現象だが、単に可笑しいで済ましておいてはならないのだが
そういう逆転する中で
ウサギ小屋というよりネズミ小屋に暮らす都会人はどうなっていくのだろう?
住む場所も重大な環境の一つである、冷静に各自が考えるべきだと思う
むろん政治家や役人がもっと都会の良い要素を田舎にも付加すべきだろう
間違っても「都会から観光客を呼ぶ」だけの地方再生では駄目なのだ
そういうやり方は田舎の都会化につながり、田舎の魅力を減退させてしまう
田舎自身に根本的に欠けていることを是正しなくては田舎は更に人が減っていく
平和で豊かさが続く日本で都会集中が更に進んでいるが大いに不健全かつ危険だ
いざ大災害が起きると大都会ほど脆弱だが、備えは完璧か?大丈夫なのか?
最近思うことは政治家をはじめ経営者も親も先生も器がどんどん小さくなっていく
逆切れ・DV・いじめ・虐待・詐欺・セクハラ・横領・とんでもない発言・薬物・・・
都会が便利で住み易いという理由で、都会だけに人が密集するのは好ましくない
私の実感では大都会とかなりの田舎の人口比率は、せいぜい20:1~40:1くらい
先ほど申し上げたように、現在の人口密度比は400:1~200:1だが
大都会が400万人に対し田舎は20万人~10万人くらいの感じ
その程度の開きであれば、むしろ都会と田舎は上手く共存できると思う
田舎が完全に人の住まない地域になるのは島国日本にとっては、ひどく深刻である
田舎や山に人が住まなくなることは、都会に結果的に多大な損害を及ぼす
「今、何とかしないとえらいこっちゃ」なのだが、正直な話、「現実は、難しい」
資産運用の基本中の基本だが、株式と金と債券と不動産に分散することが大事
同じように何事によらず、バランスよく分散されていることが大事な鍵なのだが
都会に偏り過ぎている現実を、そろそろ、もっと真剣に直視しなくてはならない
そうしないと状況の変化に対応が難しくなり、田舎はもとより、都会の大崩壊を早める
一見素晴らしいが、よく観ると最悪な都会への集中をもっと警戒しないといけない
①人
②家の場所及び家
③金・経済状況
④便利さ
⑤企業・店
⑥駅・交通
⑦文化
⑧騒音・振動
⑨大気・水質汚染
⑩自然
⑪情報
⑫変化
環境というから特別なものと勘違いするが、そうではない、自分を取り巻く因子全てだ
すなわち自分取り巻く全て、あらゆる人・物事・状況が環境なのだ
あまりに膨大なため、環境について簡単に全てを語り尽くすことはできない
自分と自分を取り巻く全ての物事との関係を一つづつ吟味しなくてはならないのだ
そういう具体的環境因子についてに私が重要だと思うことは
①生活・暮らし
②飲食・食事
③交友・異性関係
④趣味
⑤作業・運動・鍛錬
⑥勉学
⑦悪い趣味にはまる(ゲーム・ネット・スマホ・パチンコ・競馬・・・)
⑧健康習慣・健康維持管理
⑨規則正しさ
⑩人生論
⑪入浴・睡眠
⑫生き甲斐
⑬その他全て
特に環境の中で大事な大基本は、自前の人生論だ、人生は自作すべきだ
基本中の基本である、この基本によって環境も自分の思うようになるのだ
人生論が定まらないうちは環境の選択も中途半端でしかない
まずは人生論、そしてその前提として、まず大きく環境を変えてみること
若くてまだ人生論未熟な人はとりあえずいろいろな環境にトライし修行せい
へっぴり腰だと、浅い狭い環境遍歴にしかならず、結果もつまらんものになる
人生論とか悟りを僧侶だけがやることだと決めつけないことだ
私の場合も東京から大阪・京都・滋賀へ、会社も4回変わることを経て
ついに滋賀の山や田舎で20年暮らしそこで人生論を大きく見直し続けてきた
まあ、そうは言うものの、大方の人と同様に
初めから人生論がしっかり確立できていた訳ではなく、山暮らししてからだ
人生論が定まれば、自分の環境に目覚め、環境改善意識を持つに至る
生まれて、まず周囲の影響を受け教育されて、まず単なるコピー人間として育つ
とりあえず、平凡で平均的なお粗末なロボットのような程度の水準まで行く
その後ある程度自分で学習し経験し育つと、自分の選んだ環境の影響を受け出す
ところが影響を受ける多くの環境因子について意識は低いのが普通である
例えばどういう家に住むかも重要な環境因子である(風水なども主要テーマ)
狭い・日当たり悪い・暮らし難い・設備不良・煩い家は良い影響を与えない
他も同様で自分を取り巻く環境を一つづつ検証することが大事だがお仕事だ
私が観ると、多くの人は私も含めて完璧な人はいないのが実情だ
会社を転職すると当初は、
新しい会社のあらゆるものを知り、付き合っていかなければならない
ただでも大変な人間関係も一からやり直し、仕事も上司も部下も業者も皆初めて
転職しなければ何も苦労しなくて済むことをわざわざ悩まなければならない
山暮らしなんか更に大変だ、まず頼る役所や人がいない
ところが意地悪な自然は次々にいろいろな初めての体験を強いてくる
今はまだインターネットで調べられるが20年前は先輩に聴くか本で調べるしかない
それでも、なかなか分らないまま20年何とか自分でやる体験を積み上げてきた
そうなのだ従来と全く違った環境では
・全てが一挙に変わってしまう
・過去のことがそのまま使えなくなる
・だからと不平や不満を言っても何も解決出来ないことを知る
・知識を新たに収集する
・当たり前のことがそうでなくなってくる
・他人を安易に頼れない
・あれこれ苦しみ、悩む
・でも、少しづつ確実に幅や深みが増す
・そして数年経つとある日突然自信が高まる
平成30年1月北陸地方を中心に大雪が続き
ここ高島市も昨年に続く大雪となった
私は、まだ大雪暮らし2年目だが、大雪への対応がすでに出来つつある
私はすでに、田舎とか災害への対応が出来る体質になっていたようだ
それに引き換え東京・大阪の大都会の人は10センチも積もると大騒ぎだ
事故や交通渋滞も多発していたが、あまりのお粗末さにまたまたびっくり
環境変化に弱い大都会人、何故環境変化に弱いか、言うまでもない
災害や大雪などの急激な環境変化の経験がほとんどない虚弱人間なのだ
いつもぬるま湯の環境にいて、いろいろな環境変化を体験していないから
太古の恐竜のように何か大きな災害や変化があると脆い、すなわち
環境変化に弱い生き物と化している限界人間なのである
私は田舎で未だに自転車かバイクを乗り物として利用している
田舎は一人づつ一台の自動車を持っているが、都会より二輪車に乗らない
現代の子供は現代文明にどっぷり浸かっている、それで良いことはない
私が東京に24年住み大阪・京都と移り住んで、当時感じ出したことは、
東京に戻りたくなくなって行ったことだった、そして京都に住むこと35年以上
それ迄、東京一番と信じ切っていたが、東京を出てみるとそうではなかった
長年いた環境から次の環境に移って初めて、どちらが良いかが評価可能になる
「東京が良いに決まっている」ではなく、同じ年月関西にも住んでみることだ
更に、ここ20年、滋賀の山と田舎に暮らしてみて京都に戻りたくなくなった
今つくづくおもうことは、江戸っ子とか京都人とか粋なようなことを言うが
私はそんな肩書を捨てて、真逆な山で暮らしたことを良かったと思っている
現に京都には年6回ほど行くが家で用事を済ますとさっさと田舎に戻る
環境を変えてきた人間の心の根本的な様変わりなのだろう
大都会は、ますます繁栄・発展しているようだが、表面的で深味がない
日本の大都市が「古さと新しいさが混在する素晴らしい町」というのも
私にはとってつけたような味気無さを感じてしまう「つまらん」「くだらん」だ
「なぜ古さと新しさが混在しているのが良いのか?」と皮肉りたくもなる
大体新しいとか古いとかいう概念は、自分の人生にとって本質的ではない
大事なことは新しい/古いではなく、大都会にどれだけ本質があるか
むしろ山奥や自然豊かな田舎にこそ本質は多く存在しているように思う
東京や大阪や京都にしろ、嘘誤魔化しで埋っているというのが私の実感だ
嘘誤魔化しを文化とか、幸せとか、実しやかに勘違いしているのが都会人なのだ
人間が次々に作り上げる荒唐無稽なバーチャルなものにウンザリしている
都会には人間同士のつきあいや触れ合いがない、近所や家族も希薄だ
都会では我欲に走り、自分さえよければと自分に閉じこもる
東京や大阪や京都から滋賀と偶然に環境変化した私ならではの思いだろう
私が昨今、京都に帰って、それを痛感した、都会人は無視・無関心・無表情だ
人は人でなく、人が次々に纏ってきた洋服(外見)がやたらに目に入る
だから人はどんどんお粗末になる一方、洋服(外見)はますます華美になっていく
全てがそうだ、人間という本質より人の周辺にできた科学技術だけが進化している
「一体人はどうなったのか?本当に成長しているのか?」とついつい問いたくなる
昭和人と現代人を比べると昔は人だった、今はロボットか人形のようでしかない
プログラム通り、怒ったり・笑ったり・泣いたりする、言葉を発する、言われた通り動く
ロボットも多分あまりに急激で大きな環境変化には対応出来ないだろう
現代人は無用なものを手に入れたがる、欲望は際限がない
山や田舎はそのおかげで、空っぽになりつつある
3年前に山から降り小さな田舎町へ、そこは自然豊かで広々とした田舎だったが
そこに住む人々は昔、都会から移り住んで来た人が多く、田舎人ではなかった
ここでも住人は田舎町に長年暮らしてきた人でありながら正真正銘都会人だった
そうは言っても、田舎に住む以上、都会の人よりは、やや田舎チックではあるが
私の言う田舎人とは、戦後の浅草の下町の人や、山でひっそり暮らす山人だ
田舎町に住む人は、都会人であり、都会人は、=西欧人である
さすが日本に生まれ日本人に育てられたから、日本人の名残は僅かあるが
もう田舎でさえも、日本の山人も田舎人もいなくなり、西欧人になっている
日本人でも、和人でも、アジア人でもない、利己主義で個人主義の人
人が悪いというよりは、やはり現代という環境が人を変えたのだ
インターネットやスマホやテレビがそういう傾向をどんどん助長させている
便利を求めて、それを手にいれ、経済発展を称賛するが肝心の人間は堕落していく
山や田舎は、別荘としての価値を持ってきたが、そろそろそういう時代は終わった
都会人は山は自然豊かな別荘ではなく、
買い物やレストランのある田舎や山の豪華ホテルに行くようになる
田舎の農業や林業もやがてロボットや自動機が大規模にやる仕事になる
個人が仕事や楽しむものではなくなるのだろう
京都なんてのは古都だとか言っているが、古来営々と
田舎や山の楽しみを京都にせっせと持ち込んだ箱庭的文化に過ぎない
人間というのは、本来心身ともに素っ裸な原始人みたいなものであって、
王様王女様のように豪華な宝飾や綺羅びやかな洋服が歩いているようなものではない
都会人も外見を見せつけ、眺める対象であって、
その個人の心身の深くダイレクトに触れる対象ではなくなっている
お一人様文化、ナルシスト文化になりつつある
京都伏見でも、滋賀安曇川でも、人は互いに深く入り込み、触れ合い、
繋がりあう対象ではなくなっている。京都伏見でも心の籠ったおもてなしなどない
巨大災害が起きると決まって「絆:きずな」の大切さを思い知ったと言うが
それほど普段は無関心な関係になっている
絆なんてもうどこかに置き忘れてしまった、都会という環境に浸ってきた弊害だ
だから、都会人よ「自分を人間などと思うな」
もし自分は人間だと思い直したいのであれば「一から山奥で暮し直すことだ」
自分の思い違いを根本から捨て去って、出直さなければ何も始まらないのだ
つまらんことにこだわっていないのか?何がどう重要なのか?どうあるべきなのか?
現代に生じているいろいろな問題を解決などしようとするな、もう限界を超えている
すなわち、人が人でなくなってしまっているのだから
問題を解決しようと思うな、解決できるものは少ない、解決不可能な問題ばかりなのだ
例えば、膨大な日本の借金なんか真面目に減らそうなんてすることはない
人口減少を何とかしようなんて必死になることはない
現代文明もやがて大きく変貌する時がやって来るのだ、
嘘誤魔化しは必ずいつか巨大地震のように崩壊する時が来るはずだ
問題の解決とは、その崩壊によってやっと解決できるのだ
何とか衆知を結集しよう、科学技術で解決しよう、予算をつけようなど無駄なことだ
ノーベル何とか賞はもはや大した価値も意味も失いつつある
人生は真面目に向き合うことが大事だが、
現代の現実は真面目に向き合うと疲れるばかりである
真面目に考えるのは、私の場合は、自分自身についてだけでよいと思っている
嘘誤魔化しの世間のことは気楽に向き合えばよい、所詮は嘘誤魔化しなのだから
日本の膨大な借金も北朝鮮の脅しも、なるようにしかならない、どうなるものでもない
株式投資もやがて大崩壊が来るのだが、今はそんなものだと適当に付き合っておけばよい
結婚なんかも真面目に考えることはない、あんなもの、もっと気軽に気楽に考えればよい
結婚は互いを縛りあうことではない、鬱陶しくなったら距離を置くなり、気軽に分かれればよい
趣味なんかもくだらない、人生に趣味などというものはいらない、
あるのは好きかどうかだ、好きなことそれが仕事であるべきだ
都会では野菜作りは趣味らしいが、そんないい加減な程度のものだ
趣味でなくて打ち込む仕事であってほしい、田舎で百姓は趣味で野菜を作ってはいない
だから例えば絵をやっている人は、絵を趣味として漫然と続けるのではなく
もしすごく好きになったら、自分なりに必死に仕事として取り組むべきなのだ
自分にとって好きでなくなったら、気軽に止めればよいだけのこと
大事なことは愛だの正義だのではなく、自分が心底好きかどうかだ
もし仕事が嫌いなら、嫁さんが嫌いなら、早めに諦め、手を切ることだ
多くの人の不幸は、自分が心底好きでもないことを仕事にしていること
そして好きなことを仕事に出来ていないこと
好きでないことを仕事にしていて良い仕事が出来るはずがない
好きなことを仕事にしていれば、悩みや苦しみは減るどころか、毎日が極楽だ
大金持ちの高い調度品で埋まった部屋も大嫌いだ
「これはお前さんが作ったのかい?」などと意地悪な質問をしたくなる
「何だ盗んできたのかい?」「あたかも自分で作ったかのように置いてあるのだ」
昔の素晴らしい神社仏閣や庭園や調度品は秀吉や家康が作ったのではない
もしお金もない場所で暮すことになったら、その意味が分かるだろう
一度思い切って、どこの誰だか分らん他人の作った高価な調度品は捨ててしまえ
こういうバカバカしいことにあまりに真面目腐っている都会人を尊敬出来ない
くだらんことに真剣になる人には呆れる、そんな人は大事なことに不真面目だ
都会において、
すでに真面目腐って考えて努力すること、そのものが意味のないことになっている
本来大事なことは自分と環境の関係
自分はどうだ・環境はどうだと、いつも十分に気を配らなければならない
環境に負けてはいけない、自分を成長させるための環境を自ら選ばなければいけない
「虎穴にいらずんば虎児を得ず」
・環境はあたえられるもののようでさにあらず
・今のぬくぬくとした環境に引き篭もるべきにあらず
・環境は自ら積極的に選ぶもの
・環境は自ら変えるもの
・環境を自ら作るようになれば一人前だ
引っ越しせよ・転職せよ・大工せよ・山に住め・野菜作れ・誰とも会話せよ
家は自分で設計し・作業し・模様替えし・リフォームしろ・動け・トライせよ
ところで
環境とは自分を取り巻く全てのものや状況なのだ
すなわち自分以外は全て環境なのだ、環境は自分で選択できるのにしない
多くの人間は環境に対して無関心だ、環境がどうだという分析を出来ない
一言で言えば自分のことで精いっぱいで環境がどうだなんてことに意識が向かない
向いてところで、分析出来ないから、現状の環境をそのまま受け入れてしまう
気持よい場所を自分の居場所と決めてそこに長く居座ってしまう、そこが都
俺の環境は今こうなっている、ところがこれは、これこれまずい、こう是正すべきだ
なんてことを冷静かつ深くしかもどんどん分析出来ないと碌な人間にならない
その理由はと言うと、
自分が選んでいる環境やその他の環境に関する知識が致命的に貧弱なのだ
環境は与えられたものだけではない、そうではなくて無限にあるのだ
身近にも、関西にも日本海にも、東北にも九州にも北海道にも・・・・
会社なんて何千・何万とあるのだが、勤める会社は、そのうちのたった一つに過ぎない
積極的に自分にふさわしい環境を選ぶのはつらいが、本当は楽しいものだ
自分を取り巻くあらゆるものが環境であるが、例えば自分以外の人間も環境だ
職場環境などというが、その大半は職場にどんな人がいるのかなのだ
自分にとって望ましい人が沢山いる恵まれた職場などあまりないのだ
一般的に自分に都合の良い環境がキチンと整っているなどと言うことは少ない
自分を取り巻く人は誰であって、自分にどういう影響と価値を与えているのか?
あまり価値もない人なのか?単なる癒しなのか?それとも嫌々つきあっているのか?
環境を分析・評価しない、付き合う人の層別や重要度比較や価値分析などしない
通常付き合っている人間は貧弱・お粗末な人ばかりであり、人環境は劣悪なのだ
感じ良いとか優しいとか金持ちだとかそんな程度の分析くらいしか出来ていない
だから結婚相手を決めて結婚しても、大方失敗する「結婚は人生の墓場」だ
自分をとりまく環境の把握・分析及び改善案立案が出来ないお粗末さに気づかない
何しろ自分=自分+環境ということを正しく認識しないと何も始まらない
自分は自分であって、実は自分ではない、
とりまく環境の中で泳ぐ金魚や小鳥みたいなものに過ぎない
環境を一つだけ続けるのは最悪、二つもさほど変わらん
三つ四つとなってやっと良い環境の選択ができる
※簡単に言えば三つ四つ以上変わる・改善することでやっと良い選択が可能になる
回数が少ないと本当のところは分からないままだということだ
※例えば家や地元を離れたことがないとか転職が1~2回とかでは
自分にとって望ましい住居地や会社を理解すら出来ないということだ
改善も一度で完璧と思うな、更に何度も改善を積み重ねないと不完全ということ
金持ちか貧乏かの環境、その中で生きる自分、その結果やいかに?、どうするのか?
又は
友人が多いか少ないか、どんな友人か、そういう中で生きる自分、
その結果やいかに?、どうするのか?
環境が自分に与える影響、それと自分自身その相互作用の結果が人生になる
環境によって大きな影響を受けているのだが、ほとんど環境に留意しない
自分は、自分の意志や考えで、生きているなんて奴はほとんどいない
もっと自分の環境を観察・分析し・より魅力的な環境を選択しないといけない
「あちこち移り住んだが、ここが良いという結論を得た」のように言い切ること
最低の友人・最低の先生・最低の町・最低の家・最悪の汚染・煩く・汚く・狭く・
自分が選んだことのない押し付けられた環境に平気で暮してはいないか?
単純に「都会は良い」「現在の会社は良い」などと思い込んでいる人は多い
都会の環境は最悪だストレス漬けだが、気持ちよさそうに、どっぷり浸かっている
馬鹿で傲慢で家事も出来ず、我儘な美人と付き合い、結婚し子供を作ってしまった貴方
美人なら誰でも構わないなんて男いるが、自分にとって価値があるのかが大事
中には少々ブスだが聡明で明るく素直で家事は何でもこなす女と結婚したなんて男もいる
自分が選んだ相手によって、楽しく暮らす人もいるが、最悪な環境に耐える人もいる
・まず、自分にとって今の環境が良いのか?
どんな環境が良いのか悪いのかと常に問い積極的にテストしてみることだ
・環境が良くても自分が駄目ならば、結果は良くはならない
・環境が悪くても自分がしっかりしていれば、
結果は必しも悪くならないどころか、良くなることもある
・環境が悪ければ,自ら環境を変えることで良い結果に導くことも出来る
・環境が良く、自分もしっかりしていれば結果は凄く良いものになるだろう
自分を取り巻く無限ともいえる環境因子を一つづつ変えたり、整えていくことだ
自分を取り巻く環境は非常に広大だ、ちょっとやそっとで完成するものではない
今の環境が心地よいからとはまっていると、偉いどんでん返しを喰らうことになる
環境といういものは生温い環境が良いとは限らない、そんな単純なものではない
私も24歳から東京から単身関西に移り住み、すでに50年余り、
いつも順風漫歩だったわけではなく、逆風も多かったが
その結果、自分を強く逞しくしたこともむしろ逆境の環境の効果でもある
もし地元の東京で親に頼り切りで安易に会社勤めをしていたらと思うとゾ~っとする
一般的に南国の人間は明るいし、長生きだが、
北国の人に比べると創意工夫や我慢強さでは劣る点が多い
生易しい生温い環境ばかりでは人生にとって良いとばかりは言えない
・北国では秋に食料を貯蔵し、大雪の中、雪かきをし、ひたすら、じっと耐え忍ぶ、
そして春を迎え、四季がはっきり区分されている
・南国では一年中温暖で果物や野菜や魚も勝手に実る、
一方大雨や台風に見舞われ、それによって環境は破壊を受ける
すなわち環境は複雑で面倒なものなのだが、
そうだからと言って避けているばかりでは環境を自分の強い味方に出来ない
私が想像するに、環境の観点から、多くの苦しみ悩みを抱え続けている人とは、
・より良い環境を選ぼうとしない人
・例え劣悪か悪い環境でも、負けずに生きる知恵や資質に欠ける人
・悪い環境で甘んじてしまう人
・悪い環境を変えようとしない人
・いろいろな環境を体験しない人
・自分を強くしようと努力しない人
1)まず自分の環境がどうなっているか正しく認識すること
2)悪い環境や生温い環境などを明確にすること
但し、いい加減に良し悪しを判断しないこと、深く真剣に吟味し考えること
3)良い環境なのか、留まるべき環境なのか、きちんと検証すること
4)その上で、もし不適切だと判断すれば、今の環境を変えること
例えば「大地震や大津波の多い日本でどういう所にどう住むべきか」を
真剣に考えててみて欲しい「今の場所は良い環境か」「留まるべき環境か」
例えば私の場合24歳まで東京に住んでいたが
東京以外住んだことがない、親元の実家以外に住んだことがなかった
・そういう環境に甘んじていては、日本人としても大人としても未熟なままだ
・これは何とか環境を変えなければならない
・そこで大阪の大企業に就職したが、案の定ホームシックになった
でもその後京都に家を買い、移り住み、結婚し、会社も変わった
常に「今の自分の環境はそれで良いのか?」と反省すべきなのだ
生まれ故郷の親元に住み続ける・同じ会社に長年勤めるなどはやや問題だ
世の中によくある例は
・劣悪な環境に負け、いくら努力してもよくはならず、落ち込む人
・良い環境でぬくぬくと大した努力もしないで上手く行っている人
ただ環境が急に変化した場合に一挙に崩壊することもある
・与えられた環境を良い環境と考えそこでぬくぬくと生き続けてしまい、
環境変化に耐えられない人のまま生涯生き続ける人
・環境変化を好まず、同じ環境に長年いる
・違う環境に変わったがあまり多くはない
・違う環境に変わったが上手く行かず、それ以来環境変化を避け閉じこもるようになった
・違う環境を多く経験しじっと耐えたが、結果的に自分を駄目にした
・違う環境を多く体験し、大きく成長し、結果的にも大きな成果を得た
最終の目標は「自分の・自分による・自分独自の自分にとって良き人生」
自分に合った環境・適時環境を変え・多くの環境に触れ・どんな環境にも馴染む
ところが「他人の・他人による・他人の考えた・他人にとって良き人生」になりがち
自分独自の素晴らしい人生を送っている人を少ししか見ないのは残念でならない
それと注意点がいくつかある
・いつも自分自身を見失わない
・安易さや過度な便利さを求めない
・思い付きでやっても上手く行くことも多いがそれは自分次第
・高額な金をかけない
・贅沢を望まない
・誰でも出来る範囲のものから徐々にレベルアップ
・都会的なものや科学技術などに過度に頼らない
やや妙な例で恐縮だが、我が家の家系は、もともと子供が男が多い、
その理由は当家が元々虚弱系で、男親の身体が虚弱なせいらしい
その結果かどうか知らないが、私も弱い頃は男の子二人であったし
そしてある時からすごく元気になった時の子が女の子だった
すなわち、女の子が欲しい、男の子が欲しいという場合、自分の弱い環境を
大きく変えてみることが大事だという例だと思っている
環境を大きく変えると得られるものが大きく変わるものなのだ
野菜を上手く育てるには次のような環境をきちんと選択し維持しないといけない
1)良い苗・種
2)日当たりの良い場所
3)風通し
4)水はけの良い土
5)水やり(水やらない)
6)適度の肥料
7)病気や害虫の駆除
8)適度な剪定など
9)アルカリ度
10)誘引・支柱
人間も同様にきちんとした環境の選択し維持しないといけない
もし不適切な環境であれば、思い切って変化や改善を実践すべし
多くの都会人は、都会に長く住んで来た、当分住むのは当然
そして今後も当然ずーっと住むべきだ、田舎なんてまっぴらだ
それは弱い、いい加減な自分が勝手な思い込みであり、都会が
最適であり今後も最適であることを自らきちんと証明したことではない
そしてよくあることだが、
大して検討もせずに何となくアメリカ等にいきなり移住しようとする人
私としては移住することについては賛成するが、あまり良くはない
家の玄関の漆喰の壁に穴をあけられないので,自分で柱を組み込み
そこに私が一年描いてきた絵を飾った、村上玄関ギャラリーです
滋賀事務所: 滋賀県高島市安曇川町田中(通称:竹の里)
村上原基人生勉強会
台東区立育英小学校⇒台東中学校⇒都立白鴎高校⇒東工大⇒大阪松下電器⇒京都エンゼル工業⇒
ローム⇒テクノ経営⇒関西ISOシニアコンサルタントネットワーク創業⇒人生勉強会創設
いつでも気軽に人生相談にお越し下さい⇒滋賀支所又は京都事務所へ
出来た・出来ます
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人生=自分+環境、自分を取り巻く環境とどう付き合うか
自分と環境は切り離せない、環境は自分であり、人生そのものとも言える
環境と自分、環境と人生は密接な関係にあり、魚と水のような関係だ
それにも拘わらず、自分を取り巻く環境に対する認識はあまりにも低い
風水と言う占いマガイのものがあるが、あれはかなり正しい根拠がある
一口で言えば環境影響評価のようなものだ
是非つまらんインチキな占いでなく風水:環境影響評価をして欲しい
占いで唯一信じてよいと思うのが風水=環境影響評価であり=大事なことだ
私は、人の環境を確認して、その人の人生を推測し評価してみる
暗い人、癖が強い人、問題のある人などの原因はその人の環境遍歴にある
ほとんど環境を変えていない・改善して来なかった、現在も変えようとしない人
そういう人は主張が強いが、その割に自分がいるようで自分というものがいない、
しっかりしているようでしっかりしていない、強いようで弱い、明るいようで暗い
環境問題というと大気汚染とか自然の景観とかゴミ処理を思い出す人が多い
私も55~70歳まで環境コンサルタントとして、環境については一応学んできた
ISO14001「環境マネジメントシステム」環境法令遵守、エコロジーなど
実を言うと環境とは公害・リサイクルだけではなく、もっともっと幅が広い
自分を取り巻く自分以外の全てが、環境なのだから
環境は、好ましい効果をもたらすものであり、かつストレスや弊害にもなリえる
偶然55歳から滋賀県高島市の山に20年以上、ひっそり暮らすことになった
すなわち180°とは言わないが、暮す環境をガラっと変えたのだ
65歳を越える頃、私は都会人から山人になり、人生を深く考え直すようになった
今の環境とその正反対の環境があるが、正反対の環境を選ぶのはしんどい
それでも敢えてやるかどうかだが、私はやる価値があると思ってやって来た
自分の人生=自分+環境
環境を自分の味方にするか敵(害)にするかで、人生は大きく変わる
より貪欲に環境にアタックしてみようとは思いませんか? ところが、
都会に引き篭もる人は、自分を取り巻く環境の意識が完全に欠如していく
環境影響評価⇒環境変化⇒古い環境から脱皮⇒新環境への順応⇒
同じ環境が与えられても、良い結果を出す人もいるし出せない人もいる
環境が良ければそれで結果が良く出るのではなく
あくまで環境と自分の足し算又は掛け算なのだが、
人によっては引き算や割り算の人もいる
空気を吸って生きているのに空気を意識しないように環境に囲まれていながら、
環境について深く知りえていない。 ところで空気も環境の一つに過ぎない
日本では「寄らば大樹の陰」、会社も住まいも変えないことを良しとしてきた
自分を捨て、前面に出さずに、周囲の環境に100%自分を合わせて来たのだ
昨今でも、敢えて険しい環境を選ばないし、挑戦魂が全くない人が多くなっている
私が東京から大阪へ、大企業から零細・中堅企業へ、都会から山奥へと
環境を変え、変えた環境に素直に・真摯に自分を適応して来た。 ところが
山に暮らしてみたものの上手く適応せず、山に来るのが月に1度という人も多い
そんな人は環境を変えてみたものの、その後の挑戦を早々に諦めた人なのだ
山の環境に楽しめない・馴染めない・順応しようとしない
私が地震や津波の起きる地域の人に早めに引っ越すように忠告するが
引っ越す人は、ほとんどいないばかりか、むしろ危険地帯に引っ越す人が多い
安易な環境を選んでしまう。学者は都会の多くは巨大地震発生が必至だと言う
今や田舎は限界集落化し人口減少に悩む一方都会への人口集中が起きている
危険地域に喜んで集まっていく、ネズミの大群が崖から海に雪崩れ込むように
人が多く密集する大都会、でも、そんなところに絶対に住んではいけない
現代人は環境への攻撃意識・挑戦意識が極めて希薄になってしまった
「虎穴なんかに入りたくない・虎児なんかいらない」
私的には、虎穴=新しい環境、虎児=自分の素晴らしい人生のことだが
「自分の素晴らしい人生なんか欲しくはないのだ、そんな意識の欠片すらない」
だから自分を取り巻く環境はぬるま湯でよいのだ
・便利なところに住み・美味しいもの食べ・面倒なことはしないで
・何かあってもどうにでもなる そんな安易で小ポケな考えで安易に安住する
自分では大した努力をせずに、虫のいい環境に、まんまと住み着く寄生虫だ
都会の子供は都会の環境にしか住んだことがない、都会暮らししか知らない
山で180°異なる暮しをして一番感じたことは、都会で暮らす大きな弊害
当時、少しづつ、しかも確実に京都の家に戻ることが面倒で嫌になって行った
現在は麓の田中という町に移り住み3年になるが、都会に戻る気は全くない
以前にも紹介したように、都会はまさに3Kいや100K・1000kなのだ
汚い・臭い・きつい・狭小・喧騒・危険・怖い・ぎすぎす・・・
山暮らしを体験した私にとっては、誰が何と言おうと、都会の環境はひど過ぎる
両方に暮らして、どうひいき目に見ても人間として、田舎のほうが健全で暮し易い
現代人は健全性などというものをあまり求めない、便利・楽なことを優先する
一体なぜ都会に住むのか?山に10年住んで以降、深い疑問になってしまった
仕事のために都会に住むのは理解するが、引退後都会に暮らすのは意味不明
そこで都会に住む理由を推測してみた;都会が良い環境と判断する理由
①仕事が多い・仕事を選べる
②親せきや友達がいる
③とにかく凄く便利
④大病院が多数ある
⑤いろいろなイベントやショーがある
⑥情報が多い
⑦進んでいる、新しいものが沢山ある
⑧観て買い物出来る店が多い
⑨虫や蛇がいない
⑩夜も遊べる、行動できる
⑪自分でやらなくても何でも業者に頼める
⑫人が多い
以上の理由で都会に暮らす都会人は、マイナス面には、ほとんど注目しない
私は山で人生を深めようとする思いが深まったが、都会の人はそうではない
私が山や田舎に暮らして感じたことは、都会に住むマイナス面かもしれない
プラス点は確かに都会のほうが上かもしれないが、マイナス点は多いのだ
あれだけ好きだった京都だが、昨今私は京都の家に帰るのがすごく嫌なのだ
もはや京都を含めて大都会には嫌悪感さえ抱いている。「分かんねーだろーな」
都会に住み続けると文字通り住めば都、麻薬のように便利さや豊かさに浸り続ける
糖尿病や腰痛や歯周病や大腸がんのようにいつの間にか身体を蝕まれてしまう
良い環境だからと、そこに長年浸りきっていると、思わぬ落とし穴にはまる
平穏無事・悩みも苦しみもない何一つ問題のない暮らしが良いとは限らない
都会は、 きつい・きたない・こんざつ・きびしい・くさい・きけん・・・・
せまい・そうぞうしい・さつばつ・しんどい・しぜんがない
都会は人口密度が恐ろしく高い100㎡当たり、
東京台東区:198人、京都伏見:45人高島市:0.7人
多くの人がどちらを選らぶかというと、言うまでもなく都会である
世の中が進化すると、その進化の早い都会で最先端を味わいたいのだろう
しかし正直な話だが、本当のところ、人間の環境としては、あまりに劣悪だ
劣悪な環境に我慢して住んでいる大人にはまだ良いが、子供には可哀そう
山や田舎の町なり村を限界集落と言うが、冷静に考えると限界は都会なのだ
しかし現実は都会は限界どころではなく、田舎がどんどん限界になっている
可笑しな現象だが、単に可笑しいで済ましておいてはならないのだが
そういう逆転する中で
ウサギ小屋というよりネズミ小屋に暮らす都会人はどうなっていくのだろう?
住む場所も重大な環境の一つである、冷静に各自が考えるべきだと思う
むろん政治家や役人がもっと都会の良い要素を田舎にも付加すべきだろう
間違っても「都会から観光客を呼ぶ」だけの地方再生では駄目なのだ
そういうやり方は田舎の都会化につながり、田舎の魅力を減退させてしまう
田舎自身に根本的に欠けていることを是正しなくては田舎は更に人が減っていく
平和で豊かさが続く日本で都会集中が更に進んでいるが大いに不健全かつ危険だ
いざ大災害が起きると大都会ほど脆弱だが、備えは完璧か?大丈夫なのか?
最近思うことは政治家をはじめ経営者も親も先生も器がどんどん小さくなっていく
逆切れ・DV・いじめ・虐待・詐欺・セクハラ・横領・とんでもない発言・薬物・・・
都会が便利で住み易いという理由で、都会だけに人が密集するのは好ましくない
私の実感では大都会とかなりの田舎の人口比率は、せいぜい20:1~40:1くらい
先ほど申し上げたように、現在の人口密度比は400:1~200:1だが
大都会が400万人に対し田舎は20万人~10万人くらいの感じ
その程度の開きであれば、むしろ都会と田舎は上手く共存できると思う
田舎が完全に人の住まない地域になるのは島国日本にとっては、ひどく深刻である
田舎や山に人が住まなくなることは、都会に結果的に多大な損害を及ぼす
「今、何とかしないとえらいこっちゃ」なのだが、正直な話、「現実は、難しい」
資産運用の基本中の基本だが、株式と金と債券と不動産に分散することが大事
同じように何事によらず、バランスよく分散されていることが大事な鍵なのだが
都会に偏り過ぎている現実を、そろそろ、もっと真剣に直視しなくてはならない
そうしないと状況の変化に対応が難しくなり、田舎はもとより、都会の大崩壊を早める
一見素晴らしいが、よく観ると最悪な都会への集中をもっと警戒しないといけない
①人
②家の場所及び家
③金・経済状況
④便利さ
⑤企業・店
⑥駅・交通
⑦文化
⑧騒音・振動
⑨大気・水質汚染
⑩自然
⑪情報
⑫変化
環境というから特別なものと勘違いするが、そうではない、自分を取り巻く因子全てだ
すなわち自分取り巻く全て、あらゆる人・物事・状況が環境なのだ
あまりに膨大なため、環境について簡単に全てを語り尽くすことはできない
自分と自分を取り巻く全ての物事との関係を一つづつ吟味しなくてはならないのだ
そういう具体的環境因子についてに私が重要だと思うことは
①生活・暮らし
②飲食・食事
③交友・異性関係
④趣味
⑤作業・運動・鍛錬
⑥勉学
⑦悪い趣味にはまる(ゲーム・ネット・スマホ・パチンコ・競馬・・・)
⑧健康習慣・健康維持管理
⑨規則正しさ
⑩人生論
⑪入浴・睡眠
⑫生き甲斐
⑬その他全て
特に環境の中で大事な大基本は、自前の人生論だ、人生は自作すべきだ
基本中の基本である、この基本によって環境も自分の思うようになるのだ
人生論が定まらないうちは環境の選択も中途半端でしかない
まずは人生論、そしてその前提として、まず大きく環境を変えてみること
若くてまだ人生論未熟な人はとりあえずいろいろな環境にトライし修行せい
へっぴり腰だと、浅い狭い環境遍歴にしかならず、結果もつまらんものになる
人生論とか悟りを僧侶だけがやることだと決めつけないことだ
私の場合も東京から大阪・京都・滋賀へ、会社も4回変わることを経て
ついに滋賀の山や田舎で20年暮らしそこで人生論を大きく見直し続けてきた
まあ、そうは言うものの、大方の人と同様に
初めから人生論がしっかり確立できていた訳ではなく、山暮らししてからだ
人生論が定まれば、自分の環境に目覚め、環境改善意識を持つに至る
生まれて、まず周囲の影響を受け教育されて、まず単なるコピー人間として育つ
とりあえず、平凡で平均的なお粗末なロボットのような程度の水準まで行く
その後ある程度自分で学習し経験し育つと、自分の選んだ環境の影響を受け出す
ところが影響を受ける多くの環境因子について意識は低いのが普通である
例えばどういう家に住むかも重要な環境因子である(風水なども主要テーマ)
狭い・日当たり悪い・暮らし難い・設備不良・煩い家は良い影響を与えない
他も同様で自分を取り巻く環境を一つづつ検証することが大事だがお仕事だ
私が観ると、多くの人は私も含めて完璧な人はいないのが実情だ
会社を転職すると当初は、
新しい会社のあらゆるものを知り、付き合っていかなければならない
ただでも大変な人間関係も一からやり直し、仕事も上司も部下も業者も皆初めて
転職しなければ何も苦労しなくて済むことをわざわざ悩まなければならない
山暮らしなんか更に大変だ、まず頼る役所や人がいない
ところが意地悪な自然は次々にいろいろな初めての体験を強いてくる
今はまだインターネットで調べられるが20年前は先輩に聴くか本で調べるしかない
それでも、なかなか分らないまま20年何とか自分でやる体験を積み上げてきた
そうなのだ従来と全く違った環境では
・全てが一挙に変わってしまう
・過去のことがそのまま使えなくなる
・だからと不平や不満を言っても何も解決出来ないことを知る
・知識を新たに収集する
・当たり前のことがそうでなくなってくる
・他人を安易に頼れない
・あれこれ苦しみ、悩む
・でも、少しづつ確実に幅や深みが増す
・そして数年経つとある日突然自信が高まる
平成30年1月北陸地方を中心に大雪が続き
ここ高島市も昨年に続く大雪となった
私は、まだ大雪暮らし2年目だが、大雪への対応がすでに出来つつある
私はすでに、田舎とか災害への対応が出来る体質になっていたようだ
それに引き換え東京・大阪の大都会の人は10センチも積もると大騒ぎだ
事故や交通渋滞も多発していたが、あまりのお粗末さにまたまたびっくり
環境変化に弱い大都会人、何故環境変化に弱いか、言うまでもない
災害や大雪などの急激な環境変化の経験がほとんどない虚弱人間なのだ
いつもぬるま湯の環境にいて、いろいろな環境変化を体験していないから
太古の恐竜のように何か大きな災害や変化があると脆い、すなわち
環境変化に弱い生き物と化している限界人間なのである
私は田舎で未だに自転車かバイクを乗り物として利用している
田舎は一人づつ一台の自動車を持っているが、都会より二輪車に乗らない
現代の子供は現代文明にどっぷり浸かっている、それで良いことはない
私が東京に24年住み大阪・京都と移り住んで、当時感じ出したことは、
東京に戻りたくなくなって行ったことだった、そして京都に住むこと35年以上
それ迄、東京一番と信じ切っていたが、東京を出てみるとそうではなかった
長年いた環境から次の環境に移って初めて、どちらが良いかが評価可能になる
「東京が良いに決まっている」ではなく、同じ年月関西にも住んでみることだ
更に、ここ20年、滋賀の山と田舎に暮らしてみて京都に戻りたくなくなった
今つくづくおもうことは、江戸っ子とか京都人とか粋なようなことを言うが
私はそんな肩書を捨てて、真逆な山で暮らしたことを良かったと思っている
現に京都には年6回ほど行くが家で用事を済ますとさっさと田舎に戻る
環境を変えてきた人間の心の根本的な様変わりなのだろう
大都会は、ますます繁栄・発展しているようだが、表面的で深味がない
日本の大都市が「古さと新しいさが混在する素晴らしい町」というのも
私にはとってつけたような味気無さを感じてしまう「つまらん」「くだらん」だ
「なぜ古さと新しさが混在しているのが良いのか?」と皮肉りたくもなる
大体新しいとか古いとかいう概念は、自分の人生にとって本質的ではない
大事なことは新しい/古いではなく、大都会にどれだけ本質があるか
むしろ山奥や自然豊かな田舎にこそ本質は多く存在しているように思う
東京や大阪や京都にしろ、嘘誤魔化しで埋っているというのが私の実感だ
嘘誤魔化しを文化とか、幸せとか、実しやかに勘違いしているのが都会人なのだ
人間が次々に作り上げる荒唐無稽なバーチャルなものにウンザリしている
都会には人間同士のつきあいや触れ合いがない、近所や家族も希薄だ
都会では我欲に走り、自分さえよければと自分に閉じこもる
東京や大阪や京都から滋賀と偶然に環境変化した私ならではの思いだろう
私が昨今、京都に帰って、それを痛感した、都会人は無視・無関心・無表情だ
人は人でなく、人が次々に纏ってきた洋服(外見)がやたらに目に入る
だから人はどんどんお粗末になる一方、洋服(外見)はますます華美になっていく
全てがそうだ、人間という本質より人の周辺にできた科学技術だけが進化している
「一体人はどうなったのか?本当に成長しているのか?」とついつい問いたくなる
昭和人と現代人を比べると昔は人だった、今はロボットか人形のようでしかない
プログラム通り、怒ったり・笑ったり・泣いたりする、言葉を発する、言われた通り動く
ロボットも多分あまりに急激で大きな環境変化には対応出来ないだろう
現代人は無用なものを手に入れたがる、欲望は際限がない
山や田舎はそのおかげで、空っぽになりつつある
3年前に山から降り小さな田舎町へ、そこは自然豊かで広々とした田舎だったが
そこに住む人々は昔、都会から移り住んで来た人が多く、田舎人ではなかった
ここでも住人は田舎町に長年暮らしてきた人でありながら正真正銘都会人だった
そうは言っても、田舎に住む以上、都会の人よりは、やや田舎チックではあるが
私の言う田舎人とは、戦後の浅草の下町の人や、山でひっそり暮らす山人だ
田舎町に住む人は、都会人であり、都会人は、=西欧人である
さすが日本に生まれ日本人に育てられたから、日本人の名残は僅かあるが
もう田舎でさえも、日本の山人も田舎人もいなくなり、西欧人になっている
日本人でも、和人でも、アジア人でもない、利己主義で個人主義の人
人が悪いというよりは、やはり現代という環境が人を変えたのだ
インターネットやスマホやテレビがそういう傾向をどんどん助長させている
便利を求めて、それを手にいれ、経済発展を称賛するが肝心の人間は堕落していく
山や田舎は、別荘としての価値を持ってきたが、そろそろそういう時代は終わった
都会人は山は自然豊かな別荘ではなく、
買い物やレストランのある田舎や山の豪華ホテルに行くようになる
田舎の農業や林業もやがてロボットや自動機が大規模にやる仕事になる
個人が仕事や楽しむものではなくなるのだろう
京都なんてのは古都だとか言っているが、古来営々と
田舎や山の楽しみを京都にせっせと持ち込んだ箱庭的文化に過ぎない
人間というのは、本来心身ともに素っ裸な原始人みたいなものであって、
王様王女様のように豪華な宝飾や綺羅びやかな洋服が歩いているようなものではない
都会人も外見を見せつけ、眺める対象であって、
その個人の心身の深くダイレクトに触れる対象ではなくなっている
お一人様文化、ナルシスト文化になりつつある
京都伏見でも、滋賀安曇川でも、人は互いに深く入り込み、触れ合い、
繋がりあう対象ではなくなっている。京都伏見でも心の籠ったおもてなしなどない
巨大災害が起きると決まって「絆:きずな」の大切さを思い知ったと言うが
それほど普段は無関心な関係になっている
絆なんてもうどこかに置き忘れてしまった、都会という環境に浸ってきた弊害だ
だから、都会人よ「自分を人間などと思うな」
もし自分は人間だと思い直したいのであれば「一から山奥で暮し直すことだ」
自分の思い違いを根本から捨て去って、出直さなければ何も始まらないのだ
つまらんことにこだわっていないのか?何がどう重要なのか?どうあるべきなのか?
現代に生じているいろいろな問題を解決などしようとするな、もう限界を超えている
すなわち、人が人でなくなってしまっているのだから
問題を解決しようと思うな、解決できるものは少ない、解決不可能な問題ばかりなのだ
例えば、膨大な日本の借金なんか真面目に減らそうなんてすることはない
人口減少を何とかしようなんて必死になることはない
現代文明もやがて大きく変貌する時がやって来るのだ、
嘘誤魔化しは必ずいつか巨大地震のように崩壊する時が来るはずだ
問題の解決とは、その崩壊によってやっと解決できるのだ
何とか衆知を結集しよう、科学技術で解決しよう、予算をつけようなど無駄なことだ
ノーベル何とか賞はもはや大した価値も意味も失いつつある
人生は真面目に向き合うことが大事だが、
現代の現実は真面目に向き合うと疲れるばかりである
真面目に考えるのは、私の場合は、自分自身についてだけでよいと思っている
嘘誤魔化しの世間のことは気楽に向き合えばよい、所詮は嘘誤魔化しなのだから
日本の膨大な借金も北朝鮮の脅しも、なるようにしかならない、どうなるものでもない
株式投資もやがて大崩壊が来るのだが、今はそんなものだと適当に付き合っておけばよい
結婚なんかも真面目に考えることはない、あんなもの、もっと気軽に気楽に考えればよい
結婚は互いを縛りあうことではない、鬱陶しくなったら距離を置くなり、気軽に分かれればよい
趣味なんかもくだらない、人生に趣味などというものはいらない、
あるのは好きかどうかだ、好きなことそれが仕事であるべきだ
都会では野菜作りは趣味らしいが、そんないい加減な程度のものだ
趣味でなくて打ち込む仕事であってほしい、田舎で百姓は趣味で野菜を作ってはいない
だから例えば絵をやっている人は、絵を趣味として漫然と続けるのではなく
もしすごく好きになったら、自分なりに必死に仕事として取り組むべきなのだ
自分にとって好きでなくなったら、気軽に止めればよいだけのこと
大事なことは愛だの正義だのではなく、自分が心底好きかどうかだ
もし仕事が嫌いなら、嫁さんが嫌いなら、早めに諦め、手を切ることだ
多くの人の不幸は、自分が心底好きでもないことを仕事にしていること
そして好きなことを仕事に出来ていないこと
好きでないことを仕事にしていて良い仕事が出来るはずがない
好きなことを仕事にしていれば、悩みや苦しみは減るどころか、毎日が極楽だ
大金持ちの高い調度品で埋まった部屋も大嫌いだ
「これはお前さんが作ったのかい?」などと意地悪な質問をしたくなる
「何だ盗んできたのかい?」「あたかも自分で作ったかのように置いてあるのだ」
昔の素晴らしい神社仏閣や庭園や調度品は秀吉や家康が作ったのではない
もしお金もない場所で暮すことになったら、その意味が分かるだろう
一度思い切って、どこの誰だか分らん他人の作った高価な調度品は捨ててしまえ
こういうバカバカしいことにあまりに真面目腐っている都会人を尊敬出来ない
くだらんことに真剣になる人には呆れる、そんな人は大事なことに不真面目だ
都会において、
すでに真面目腐って考えて努力すること、そのものが意味のないことになっている
本来大事なことは自分と環境の関係
自分はどうだ・環境はどうだと、いつも十分に気を配らなければならない
環境に負けてはいけない、自分を成長させるための環境を自ら選ばなければいけない
「虎穴にいらずんば虎児を得ず」
・環境はあたえられるもののようでさにあらず
・今のぬくぬくとした環境に引き篭もるべきにあらず
・環境は自ら積極的に選ぶもの
・環境は自ら変えるもの
・環境を自ら作るようになれば一人前だ
引っ越しせよ・転職せよ・大工せよ・山に住め・野菜作れ・誰とも会話せよ
家は自分で設計し・作業し・模様替えし・リフォームしろ・動け・トライせよ
ところで
環境とは自分を取り巻く全てのものや状況なのだ
すなわち自分以外は全て環境なのだ、環境は自分で選択できるのにしない
多くの人間は環境に対して無関心だ、環境がどうだという分析を出来ない
一言で言えば自分のことで精いっぱいで環境がどうだなんてことに意識が向かない
向いてところで、分析出来ないから、現状の環境をそのまま受け入れてしまう
気持よい場所を自分の居場所と決めてそこに長く居座ってしまう、そこが都
俺の環境は今こうなっている、ところがこれは、これこれまずい、こう是正すべきだ
なんてことを冷静かつ深くしかもどんどん分析出来ないと碌な人間にならない
その理由はと言うと、
自分が選んでいる環境やその他の環境に関する知識が致命的に貧弱なのだ
環境は与えられたものだけではない、そうではなくて無限にあるのだ
身近にも、関西にも日本海にも、東北にも九州にも北海道にも・・・・
会社なんて何千・何万とあるのだが、勤める会社は、そのうちのたった一つに過ぎない
積極的に自分にふさわしい環境を選ぶのはつらいが、本当は楽しいものだ
自分を取り巻くあらゆるものが環境であるが、例えば自分以外の人間も環境だ
職場環境などというが、その大半は職場にどんな人がいるのかなのだ
自分にとって望ましい人が沢山いる恵まれた職場などあまりないのだ
一般的に自分に都合の良い環境がキチンと整っているなどと言うことは少ない
自分を取り巻く人は誰であって、自分にどういう影響と価値を与えているのか?
あまり価値もない人なのか?単なる癒しなのか?それとも嫌々つきあっているのか?
環境を分析・評価しない、付き合う人の層別や重要度比較や価値分析などしない
通常付き合っている人間は貧弱・お粗末な人ばかりであり、人環境は劣悪なのだ
感じ良いとか優しいとか金持ちだとかそんな程度の分析くらいしか出来ていない
だから結婚相手を決めて結婚しても、大方失敗する「結婚は人生の墓場」だ
自分をとりまく環境の把握・分析及び改善案立案が出来ないお粗末さに気づかない
何しろ自分=自分+環境ということを正しく認識しないと何も始まらない
自分は自分であって、実は自分ではない、
とりまく環境の中で泳ぐ金魚や小鳥みたいなものに過ぎない
環境を一つだけ続けるのは最悪、二つもさほど変わらん
三つ四つとなってやっと良い環境の選択ができる
※簡単に言えば三つ四つ以上変わる・改善することでやっと良い選択が可能になる
回数が少ないと本当のところは分からないままだということだ
※例えば家や地元を離れたことがないとか転職が1~2回とかでは
自分にとって望ましい住居地や会社を理解すら出来ないということだ
改善も一度で完璧と思うな、更に何度も改善を積み重ねないと不完全ということ
金持ちか貧乏かの環境、その中で生きる自分、その結果やいかに?、どうするのか?
又は
友人が多いか少ないか、どんな友人か、そういう中で生きる自分、
その結果やいかに?、どうするのか?
環境が自分に与える影響、それと自分自身その相互作用の結果が人生になる
環境によって大きな影響を受けているのだが、ほとんど環境に留意しない
自分は、自分の意志や考えで、生きているなんて奴はほとんどいない
もっと自分の環境を観察・分析し・より魅力的な環境を選択しないといけない
「あちこち移り住んだが、ここが良いという結論を得た」のように言い切ること
最低の友人・最低の先生・最低の町・最低の家・最悪の汚染・煩く・汚く・狭く・
自分が選んだことのない押し付けられた環境に平気で暮してはいないか?
単純に「都会は良い」「現在の会社は良い」などと思い込んでいる人は多い
都会の環境は最悪だストレス漬けだが、気持ちよさそうに、どっぷり浸かっている
馬鹿で傲慢で家事も出来ず、我儘な美人と付き合い、結婚し子供を作ってしまった貴方
美人なら誰でも構わないなんて男いるが、自分にとって価値があるのかが大事
中には少々ブスだが聡明で明るく素直で家事は何でもこなす女と結婚したなんて男もいる
自分が選んだ相手によって、楽しく暮らす人もいるが、最悪な環境に耐える人もいる
・まず、自分にとって今の環境が良いのか?
どんな環境が良いのか悪いのかと常に問い積極的にテストしてみることだ
・環境が良くても自分が駄目ならば、結果は良くはならない
・環境が悪くても自分がしっかりしていれば、
結果は必しも悪くならないどころか、良くなることもある
・環境が悪ければ,自ら環境を変えることで良い結果に導くことも出来る
・環境が良く、自分もしっかりしていれば結果は凄く良いものになるだろう
自分を取り巻く無限ともいえる環境因子を一つづつ変えたり、整えていくことだ
自分を取り巻く環境は非常に広大だ、ちょっとやそっとで完成するものではない
今の環境が心地よいからとはまっていると、偉いどんでん返しを喰らうことになる
環境といういものは生温い環境が良いとは限らない、そんな単純なものではない
私も24歳から東京から単身関西に移り住み、すでに50年余り、
いつも順風漫歩だったわけではなく、逆風も多かったが
その結果、自分を強く逞しくしたこともむしろ逆境の環境の効果でもある
もし地元の東京で親に頼り切りで安易に会社勤めをしていたらと思うとゾ~っとする
一般的に南国の人間は明るいし、長生きだが、
北国の人に比べると創意工夫や我慢強さでは劣る点が多い
生易しい生温い環境ばかりでは人生にとって良いとばかりは言えない
・北国では秋に食料を貯蔵し、大雪の中、雪かきをし、ひたすら、じっと耐え忍ぶ、
そして春を迎え、四季がはっきり区分されている
・南国では一年中温暖で果物や野菜や魚も勝手に実る、
一方大雨や台風に見舞われ、それによって環境は破壊を受ける
すなわち環境は複雑で面倒なものなのだが、
そうだからと言って避けているばかりでは環境を自分の強い味方に出来ない
私が想像するに、環境の観点から、多くの苦しみ悩みを抱え続けている人とは、
・より良い環境を選ぼうとしない人
・例え劣悪か悪い環境でも、負けずに生きる知恵や資質に欠ける人
・悪い環境で甘んじてしまう人
・悪い環境を変えようとしない人
・いろいろな環境を体験しない人
・自分を強くしようと努力しない人
1)まず自分の環境がどうなっているか正しく認識すること
2)悪い環境や生温い環境などを明確にすること
但し、いい加減に良し悪しを判断しないこと、深く真剣に吟味し考えること
3)良い環境なのか、留まるべき環境なのか、きちんと検証すること
4)その上で、もし不適切だと判断すれば、今の環境を変えること
例えば「大地震や大津波の多い日本でどういう所にどう住むべきか」を
真剣に考えててみて欲しい「今の場所は良い環境か」「留まるべき環境か」
例えば私の場合24歳まで東京に住んでいたが
東京以外住んだことがない、親元の実家以外に住んだことがなかった
・そういう環境に甘んじていては、日本人としても大人としても未熟なままだ
・これは何とか環境を変えなければならない
・そこで大阪の大企業に就職したが、案の定ホームシックになった
でもその後京都に家を買い、移り住み、結婚し、会社も変わった
常に「今の自分の環境はそれで良いのか?」と反省すべきなのだ
生まれ故郷の親元に住み続ける・同じ会社に長年勤めるなどはやや問題だ
世の中によくある例は
・劣悪な環境に負け、いくら努力してもよくはならず、落ち込む人
・良い環境でぬくぬくと大した努力もしないで上手く行っている人
ただ環境が急に変化した場合に一挙に崩壊することもある
・与えられた環境を良い環境と考えそこでぬくぬくと生き続けてしまい、
環境変化に耐えられない人のまま生涯生き続ける人
・環境変化を好まず、同じ環境に長年いる
・違う環境に変わったがあまり多くはない
・違う環境に変わったが上手く行かず、それ以来環境変化を避け閉じこもるようになった
・違う環境を多く経験しじっと耐えたが、結果的に自分を駄目にした
・違う環境を多く体験し、大きく成長し、結果的にも大きな成果を得た
最終の目標は「自分の・自分による・自分独自の自分にとって良き人生」
自分に合った環境・適時環境を変え・多くの環境に触れ・どんな環境にも馴染む
ところが「他人の・他人による・他人の考えた・他人にとって良き人生」になりがち
自分独自の素晴らしい人生を送っている人を少ししか見ないのは残念でならない
それと注意点がいくつかある
・いつも自分自身を見失わない
・安易さや過度な便利さを求めない
・思い付きでやっても上手く行くことも多いがそれは自分次第
・高額な金をかけない
・贅沢を望まない
・誰でも出来る範囲のものから徐々にレベルアップ
・都会的なものや科学技術などに過度に頼らない
やや妙な例で恐縮だが、我が家の家系は、もともと子供が男が多い、
その理由は当家が元々虚弱系で、男親の身体が虚弱なせいらしい
その結果かどうか知らないが、私も弱い頃は男の子二人であったし
そしてある時からすごく元気になった時の子が女の子だった
すなわち、女の子が欲しい、男の子が欲しいという場合、自分の弱い環境を
大きく変えてみることが大事だという例だと思っている
環境を大きく変えると得られるものが大きく変わるものなのだ
野菜を上手く育てるには次のような環境をきちんと選択し維持しないといけない
1)良い苗・種
2)日当たりの良い場所
3)風通し
4)水はけの良い土
5)水やり(水やらない)
6)適度の肥料
7)病気や害虫の駆除
8)適度な剪定など
9)アルカリ度
10)誘引・支柱
人間も同様にきちんとした環境の選択し維持しないといけない
もし不適切な環境であれば、思い切って変化や改善を実践すべし
多くの都会人は、都会に長く住んで来た、当分住むのは当然
そして今後も当然ずーっと住むべきだ、田舎なんてまっぴらだ
それは弱い、いい加減な自分が勝手な思い込みであり、都会が
最適であり今後も最適であることを自らきちんと証明したことではない
そしてよくあることだが、
大して検討もせずに何となくアメリカ等にいきなり移住しようとする人
私としては移住することについては賛成するが、あまり良くはない
家の玄関の漆喰の壁に穴をあけられないので,自分で柱を組み込み
そこに私が一年描いてきた絵を飾った、村上玄関ギャラリーです
