村上原基、滋賀県安曇川の山中20年⇒麓の町の田中に一人暮らし人生

山中で20年一人暮し後71歳から麓の田舎町で暮している、断捨離し自然な生き様と山暮らし体験に基づく人生論及び写真を紹介

585.山と田舎に26年住み続けた私が都会嫌いになった

2024-07-20 20:15:14 | 暮らし
悩み・苦悩を放置せず自分で改善するか相談する良き師を持て
清く・正しく・美しく・明るく・元気・多くに挑戦・謙虚に・質素に
(国の指導者や会社社長がこういう事が出来ていて健全かつ平和でありたい)
東京工業大学⇒大阪松下電器⇒エンゼル工業⇒ローム⇒テクノ経営⇒ISOコンサルタント自営 
東京浅草(猿若町誕生⇒三筋町)⇒大阪門真⇒萱島⇒京都⇒滋賀
専門:IE・VE・無駄取改善・生産管理・環境管理・経営管理・人生・会話・田舎暮・PC
人生関係:人生勉強・会話・老後・健康管理・運動・確定申告・異文化・資産管理
趣味:大工・剪定・テニス・スケート・読書・ネット・ブログ・太極拳・卓球・水彩画・楽器
****村上原基人生勉強会****
**物事は起きてからではなく起きる前にやる**
山と田舎に26年住み続けた私が都会嫌いになった

都会と田舎はいろいろな面で違う。55歳から26年も滋賀県の湖西地方の山や田舎で住み続けて来た私は結果的に現在は「都会嫌い」なっている。今や京都ですら住み続けることに我慢できない自分がいる。その理由をあまり深く論理的にきちんと考察したことはない。
定期的に京都の家に帰って泊まるが、何しろ一晩明けて翌日になると早く田舎の家に帰りたくなる。だけど冷静に考えてみると、格別にその理由になるものは何もないのだ。まあ、ただそれだけのこと、それが事実だというだけのことである。26年も自然と向き合ってきた私には、すでに豊かさや便利さや物欲なんて今やどうでもよく、あまり感心もない、つまらんことに過ぎない。最近ここ15年くらいは「京都の家に帰る」ではなく「京都に行く」と表現を使ってしまう私なのだ。
都会ばかりに住んでいる人は逆で田舎に数日いると都会が恋しくなるらしい。その理由はごく単純なことで、物や便利さに溢れた町に戻りたいという子供じみた事に過ぎない。便利さや豊かさは短期間に急速に進み過ぎ、そういうものを「あって当前、便利で当然」単純に当り前に受け入れて暮し続けていると、人間は本来持つ根本的な資質やするどい感覚や判断力の適格さを失ない、介護施設にいる高齢者のように、無力で、ただただ生かされているだけの主体性の薄い存在になってしまうのだ。
都会好きな人の脳は、都会脳とか物脳とか便利脳とか楽脳とかにすっかり変化してしまっている。そういう都会人の単純な気持ちは誰にも理解出来るが、私が田舎に帰りたくなる理由は未だによく分からない。とにかく私は自然で自由でゆったりとした田舎の家へ帰りたくなるだけなのだ。京都には25年近く住んできたが、京都の家は15年前からすでに帰りたい家ではなくなっている。
その答えは、大雑把で恐縮だが、およそこんなことだろうか。都会の豊かさや便利さの中に戻ると頭がついていけなくなる最近の私なのだが、それは私が高齢化したこともあるが、理由がそれだけではないのは明らかだ。以前都会に住んでいた私の脳は、今、田舎脳・山脳・自然脳に変化してしまったのだ、というよりも元々の原始的な古来の人間の脳・より自然な人間の脳に戻ったのだと考えている。
自然との会話というか私が再び自然と付き合えるようになったのだろう。禅僧が山奥で修業する理由の一つかもしれない。都会の人は豊かさや便利さにどんどん犯されて脳が戻れなくなるほど不自然な脳へと洗脳されてしまった、はっきり言わせてもらえば、脳が劣化したのだと思う。だから急速な技術革新や生産革新や情報革新による劣化脳を回復するには私のように長く山や田舎に暮らし続けないといけないのかもしれない。でも都会暮らしを続ける都会人は自分たちの脳が劣化しているとは全然考えもしない
・・・・・更なる分析はまたゆっくり考えて後日・・・・・
ところで
あまり専門家ではないので脳について難しい事は分からないが、脳というのは覚えたこと・決めたことを忠実に繰り返し指令する。この歳で卓球を始めて繰り返し球を打つことで上達することを知って卓球が単なる身体の運動ではなく脳の働きが身体そのもの以上に大きく寄与していることを実感している。
アメリカ人が子供でも英語を喋れるのに日本人は学校で10年学んでも喋れない。その理由はアメリカ人は幼少時からいち早く英語脳が作られ始め、そこが急速に成長するが、他方、日本人はコテコテの日本語脳なので英語脳にはなかなかなり難くなっている。もし英語脳をあらたに作りたいのであれば、アメリカに住むことしかない。アメリカで一日中英語を喋る生活を数年すれば、今度は日本語脳が衰え出し、英語脳に置き換わる。但し日本語脳は奥のほうに存在するので日本語を喋ろうとすれば喋れるのである。
※余談
話は脱線するが幼少時から何か始めると英語や日本語同様に誰でもかなりレベル高くマスターできるらしい。まだ幼少時の空っぽの頭に〇〇脳を形成してしまえば、その発達はジェット機並みに早いとうことだ。例えばピアノ演奏とか卓球なんかの例でもそういうことが実証されている。小学生でもあることを一生懸命にやった子供は大人の私達でも太刀打ちできません。出来るだけ早くやれば、それはいち早く脳に頑健な指定席を確保してしまう。『幼少時に大人以上にやらせる』ところが多くの人が子供の幼少時をだらだらと無為に過ごさせてしまう。『多くの大人の絵が下手な理由は幼少時から描く習慣がなかったから』子供は何となく遊ばせておけばよいは大間違いなのだ幼い時ほど早く楽にレベルの高い習得が可能なのだ。例えば卓球などは3歳から始めた子供には基本的に勝てないのだ余談終わり

私が東京から関西に移り住んで、関西弁を喋ってすでに60年近くになるが私の脳にはすでに関西弁脳が形成されている。だから今では東京弁はだんだん喋れなくなっているということで、こういう私の経験から脳とはそんなものだということが理解できる。異文化体験とか変わるということは新たな脳を形成することになるのだろう、だからいろいろな趣味を持ち、様々な環境や人付き合いや経験をすることが大事なのだ。私のように高齢になってから大工や水彩画や卓球や太極拳を始めたことは脳の活性化に役立っていると信じている。

 我が家の前の空き地です。のんびり花や野菜が茂っています。こんな自然の姿が家の前に普通にあるのです。田舎は過疎で限界集落だなどと言って、田舎を安易に否定するのは大間違い都会が最高という思い違いは怖い、不自然な環境は「栄えるものはいつか確実に滅ぶのである」いつか深刻なダメージを受けることになる。自然は必ずそういうことを人間に厳しく教えて来る時期があるのである。
コメント
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