悩み・苦悩を放置せず自分で改善するか相談する良き師を持て
清く・正しく・美しく・明るく・元気・多くに挑戦・謙虚に・質素に
(国の指導者や会社社長がこういう事が出来ていて健全かつ平和でありたい)
東京工業大学⇒大阪松下電器⇒エンゼル工業⇒ローム⇒テクノ経営⇒ISOコンサルタント自営
東京浅草(猿若町誕生⇒三筋町)⇒大阪門真⇒萱島⇒京都⇒滋賀
専門:IE・VE・無駄取改善・生産管理・環境管理・経営管理・人生・会話・田舎暮・PC
人生関係:人生勉強・会話・老後・健康管理・運動・確定申告・異文化・資産管理
趣味:大工・剪定・テニス・スケート・読書・ネット・ブログ・太極拳・卓球・水彩画・楽器
****村上原基人生勉強会****
**物事は起きてからではなく起きる前にやる**
「ゆったりした暮らし」をどう取り戻せるのか?
私は都会暮らしで長年”せっかち”に生きて来た。小学校の通信簿に「貴方は凄くせっかちです。何も逃げませんよ」と先生はやんわりとですが、私のせっかちとその結果何事もぞんざいなことや引っ込み思案を心配してくれていたようです。当然母も心配していたが、その母も私に直させることは出来なかったようです。それでも、81歳、27年の田舎暮らしの末、最近やっとのこと、ゆったり・ゆっくりした生き方を少しづつではあるが得られつつあるのです。
まあ55歳で山暮らしを始めたことは、少なくとも都会に暮らし続けるよりずーっとゆったりした暮らしへと私を導いてくれたはずですが、でも山での一人暮らしの時期であっても、私はずーっと依然頑張り続けてきたように思います。世の中にすごい業績を上げる人が称賛されますが、この人達も成功者ではありますが、所詮はせっかち・いらちで、ある意味偏屈や頑固や気難しい人間的に必しも褒められた人ではないもんなんです。
せっかちでないし、それほど忙しくはないという人でも日本人の多くはどちらかというと特有の百姓根性で勤勉でせっせと働き、動き回るタイプの人が圧倒的に多い。もし若い頃からゆったりしている人がいたとしたらば、そんな人は、よほど優秀な人か又は日本人としては真っ当に生きていけなかったはずなのです。まあ日本人のせっかちさがある意味日本の経済や文化を支えてきたことは間違いないのですが、問題は60歳とか70歳になってもせっかちな病的な性格をきちんと直さないし直せなくてイライラしたり不都合を感じている人達なのだ。豊かな時代もっとゆったり暮らすべきなのです。
私は過剰なせっかちは一種の病気だと思っています。せっかちをきちんとコントロールできうまく活用できている人はおらず、やはりどうしてもあれこれ弊害が出てくるもんなんです。
戦時中に生まれた私は、体力も並み、頭もさほど良くなく、末っ子で、戦後で貧しかったせいもあって若い頃は自信がなく、せっかちでいつも追い立てられるようにセカセカしていた。ごく最近2年前くらいまでその性格は直そうとしていても一向に直らなかった。ところが田舎暮らしを30年続けて、さすが80歳を超える頃から僅かづつではあるが、やっとゆったりすることが実感出来る気配を見せ始めた。その理由はおよそ次の通りです。
①急ぐと転倒や事故など危ない年齢になった
②筋肉も減ったのでよたよた歩きしかできなくなった
③もの忘れがひどく慌てるととんでもないことになる
④忙しい事が減り、田舎ではゆったり過ごせる環境がある
⑤ゆったり・ゆっくりすることを身体が覚え始めて来た
⑥ゆったりするほうが今の自分であっていることがやっと分かって来た。急がしいことの愚かさもやっと分かって来た
⑦長年せっかちを直そうとしてきて、治せる環境や暮らし方を手に入れた
⑧人生勉強会の活動を通じてこの27年、生き方や暮らし方全般を改善してきた
まあいろいろ並べ立てたが、そうしないと説明できないほど80年間も続いた”せっかち”という病気なのです。以上のように理由は、ほとんど年齢によるものではあるが、「なぜそんなに急ぐの?」「急ぐと何か良いことでもあるの?」若い頃は都会自体がせわしなかったので、私もどうしてもせっかちである必要もあったのだろうが、現在田舎暮らしの81歳の私にとっては、そろそろ急ぐ意味がなくなって来ていることは事実で、急げば何か儲かるとか、最早自分の成長になることはない。すなわちいくら何でも、もうそろそろ”ゆっくり・ゆったり”で暮らすほうがずーっと望ましいようになってきたのである。出来れば70歳くらいにそういうことに気づくべきであったのだが、遅まきながらやっと80歳で気づき出したということである。
いちど”せっかちや急ぐ”をきちんと断捨離すべきなのだ
何故かと言うと最近の私がゆったりしてきて、おかげでストレスが減り日々楽しく生き生き元気で暮らせるよう実感しているからだ。私は55歳で滋賀の現在の田舎に移り住んだし、それ以来田舎で更にいろいろな趣味を体験し、身に着けられて来た。
①田舎に移り住んで自然で自由なゆとりのある環境を得た事
②趣味を増やした事
が、やっとのこと”ゆったりに回帰した”大事な鍵なのだと思っている。
もし私が都会のマンションに住み続けて、趣味も少ないまま狭いマンションの一室で「毎日何かやろうと焦り藻掻く毎日が続いていただろう」、ゆったりとかゆっくりを永遠に味わうことはなく、それこそ「死ぬまでセカセカしていた」と思っている。それが今はいろいろな趣味があり、また田舎の自然と広々とした環境で、自由に出来ることが気持ちを緩やかにしてくれていると確信している。昭和20年代の東京暮らしの時代にも田舎並みのかなりの自由さがあったのだが、今の都会では全く存在しない。
山や田舎住まいの私の趣味の中には大工とか野菜つくりとか雑草抜きとか町内の清掃とか「それが趣味か?」と疑うようなものも含むことが普通の都会人とは違う点です。都会の人の趣味はお金をかけ立派なお道具が必要なんてものが趣味のように聞こえますが田舎ではありとあらゆる作業みたいなものを自然の野原でやることですら立派な趣味なんです。都会では庭いじりとか草木の剪定とか雑草抜きとか大工仕事なんてやりたくても場所もないし騒音を出せないのでそんなことが趣味だなった言う人は少ないと思う。しかし身近な自然に向き合い、やる作業はゆったりに一番ぴったり当てはまるものだと思います。
私のような田舎で暇な老人に「本日はお忙しいのにわざわざお越し頂いて恐縮です」なんて社交辞令な言葉を言われるが、「俺はあくせく働くほど忙しくはない、忙しいのではとは失礼な」と最近はこういう社交辞令にさえ違和感を覚えるのである。日本人にとっては、「忙しい人=立派な人」なのである。私としては、忙しくてもゆったり出来る人間でありたいと思う。日本人の多くは、まだ暇をじっくり味わい・楽しめる域には到達出来ていないのであり、なんせ、せわしなく動き回る水準なのである。
私以外の多くの人は、私のように二つの鍵を得られていなかったし、忙しい事を目指し続けているのではないかとも思うのです。そういう人は高齢になっても、なかなかゆとりの生き方を取り戻すことは難しいように思います。結果的に「死ぬまでせっかちが直らず、永遠にゆったりを知らない人」となるのです。
環境を大きく変えること、ゆったりとした自然の環境に思い切って入りこみ、そこでいろいろな趣味に目覚めることが大事なんだと私は思っています。過密で高層ビルが立ち並び、なんだかんだと種々雑多なもので埋め尽くされている都会暮らしとか、身近に出来る趣味の少ない人は、「ゆったり」という境地に達することは容易ではないように思われます。昔は都会で毎日いつも何かに追われていたが、今私は少なくとも毎日追われているという感覚は全くない、81歳で田舎住まい、暇だらけで趣味は多い、追われないのは当然と言えば当然なんでしょうが、それでもそう簡単に得られる境地ではなかったように思っている。
ゆったりするとはどういうことかをよくよく考えてみる事ですが、多くの人は「ゆったり」なんて暮らしをしていないので、「ゆったりとは何か」なんて全く分からないままなのです。
私が最近思うゆったりとは、つぎのようなもので、こういうものは年とともに備わって来るものだと思っています。
①ビルが少なく川や山など自然豊かな地域で
②騒音がなく静か、落ち着きのある場所
③過密で人は少ない、人も自動車もあまりいない
④空気や景色がきれい
⑤一戸建て、家や庭や空き地が広い
⑥趣味をやる環境や場所が身近にある
⑦趣味が多く日替わりでも趣味を楽しめる
⑧近所の人も穏やかせかせかしていない
⑨自然自体も遊びの場となる
⑩時間がゆっくり流れる環境に15年以上暮らし続け、慣れる
⑪つまらんことに拘らない
⑫病気・災害・事故などを予防し、準備し備える
⑬十分の暇があり、かつその暇を楽しく使える
⑭忙しく自分を追い込まない、追われない
⑮自分を捨てきる
私なりの考えでは、自由な環境や自由な心境や自由な日々を増やすことだ、都会は自由であるかのような錯覚をしているが全くそうではない。元55年間都会暮らしだった私が田舎に27年住むと田舎の自由さが分かって来たように、日本を訪れる外国人が日本の都会より田舎を好むようになるのはまさに田舎には自由さや優しさやゆったりさやある意味の土地の歴史を感じるからだろう。
都会はあれこれ目の前の欲望を満たしてはくれるがその一方で元来あったはずの自由が奪われている。都会の場合欲望とはまさしくどくどくした欲望であって、田舎に住む私の場合はもっと素朴で自然なものに感じる。自然や自由を失って目先の欲望を必死に負い続けているのが都会人なのだと思う。例えば私は超高層マンションなんかに住みたいとは思わない、贅沢な自動車なんかも要らない、派手な流行の最先端の恰好をしようなどとも思わない。都会の人の趣味はセカセカしたもの闘争的なもの恰好良くしたいものが多いのは事実で、どちらかというと流行や風潮に振り回されたものである。
都会では老人達も僅かでも若者とも競っている、「自分はまだ若いの、恰好良いの、まだまだ負けない」なんて雰囲気があるように思えてならない。力みがある、見かけを気にかけ、何か意味ありげなギラつく老人が多い。私でさえも京都に帰ると、私自身も僅かでも都会人に戻ろうとする気分が出てしまうのであるから。
過密な都会、物やサービスの価格の高い都会では当然のこと、田舎は過疎というとダメな地域と思われがちであるが、都会だって昔は田舎同様に過疎だったのだ、それをあれこれぎっしり詰め込み続けるとあーなるのだ「田舎の成れの果て」に過ぎない。田舎は、しっかりとそうならずに維持出来ていると思えばよいのだ。私が田舎が過疎で滅ぶなんて考え方は全くないし、田舎の将来を心配などしていない、あくまでも自然が存在し続けるだけだから。むしろ都会こそ過密で滅びかねないとかなり以前からひどく心配し続けて来た。田舎は現在も将来も自然であり自由であり続ける、他方、無制限にあれこれ持ち込み過ぎている都会は気が張り詰め、自由度がどんどん減っている。そんなところで「ゆったりせよ」と言うのが無理なんでしょう。
すごくゆったりしています
清く・正しく・美しく・明るく・元気・多くに挑戦・謙虚に・質素に
(国の指導者や会社社長がこういう事が出来ていて健全かつ平和でありたい)
東京工業大学⇒大阪松下電器⇒エンゼル工業⇒ローム⇒テクノ経営⇒ISOコンサルタント自営
東京浅草(猿若町誕生⇒三筋町)⇒大阪門真⇒萱島⇒京都⇒滋賀
専門:IE・VE・無駄取改善・生産管理・環境管理・経営管理・人生・会話・田舎暮・PC
人生関係:人生勉強・会話・老後・健康管理・運動・確定申告・異文化・資産管理
趣味:大工・剪定・テニス・スケート・読書・ネット・ブログ・太極拳・卓球・水彩画・楽器
****村上原基人生勉強会****
**物事は起きてからではなく起きる前にやる**
「ゆったりした暮らし」をどう取り戻せるのか?
私は都会暮らしで長年”せっかち”に生きて来た。小学校の通信簿に「貴方は凄くせっかちです。何も逃げませんよ」と先生はやんわりとですが、私のせっかちとその結果何事もぞんざいなことや引っ込み思案を心配してくれていたようです。当然母も心配していたが、その母も私に直させることは出来なかったようです。それでも、81歳、27年の田舎暮らしの末、最近やっとのこと、ゆったり・ゆっくりした生き方を少しづつではあるが得られつつあるのです。
まあ55歳で山暮らしを始めたことは、少なくとも都会に暮らし続けるよりずーっとゆったりした暮らしへと私を導いてくれたはずですが、でも山での一人暮らしの時期であっても、私はずーっと依然頑張り続けてきたように思います。世の中にすごい業績を上げる人が称賛されますが、この人達も成功者ではありますが、所詮はせっかち・いらちで、ある意味偏屈や頑固や気難しい人間的に必しも褒められた人ではないもんなんです。
せっかちでないし、それほど忙しくはないという人でも日本人の多くはどちらかというと特有の百姓根性で勤勉でせっせと働き、動き回るタイプの人が圧倒的に多い。もし若い頃からゆったりしている人がいたとしたらば、そんな人は、よほど優秀な人か又は日本人としては真っ当に生きていけなかったはずなのです。まあ日本人のせっかちさがある意味日本の経済や文化を支えてきたことは間違いないのですが、問題は60歳とか70歳になってもせっかちな病的な性格をきちんと直さないし直せなくてイライラしたり不都合を感じている人達なのだ。豊かな時代もっとゆったり暮らすべきなのです。
私は過剰なせっかちは一種の病気だと思っています。せっかちをきちんとコントロールできうまく活用できている人はおらず、やはりどうしてもあれこれ弊害が出てくるもんなんです。
戦時中に生まれた私は、体力も並み、頭もさほど良くなく、末っ子で、戦後で貧しかったせいもあって若い頃は自信がなく、せっかちでいつも追い立てられるようにセカセカしていた。ごく最近2年前くらいまでその性格は直そうとしていても一向に直らなかった。ところが田舎暮らしを30年続けて、さすが80歳を超える頃から僅かづつではあるが、やっとゆったりすることが実感出来る気配を見せ始めた。その理由はおよそ次の通りです。
①急ぐと転倒や事故など危ない年齢になった
②筋肉も減ったのでよたよた歩きしかできなくなった
③もの忘れがひどく慌てるととんでもないことになる
④忙しい事が減り、田舎ではゆったり過ごせる環境がある
⑤ゆったり・ゆっくりすることを身体が覚え始めて来た
⑥ゆったりするほうが今の自分であっていることがやっと分かって来た。急がしいことの愚かさもやっと分かって来た
⑦長年せっかちを直そうとしてきて、治せる環境や暮らし方を手に入れた
⑧人生勉強会の活動を通じてこの27年、生き方や暮らし方全般を改善してきた
まあいろいろ並べ立てたが、そうしないと説明できないほど80年間も続いた”せっかち”という病気なのです。以上のように理由は、ほとんど年齢によるものではあるが、「なぜそんなに急ぐの?」「急ぐと何か良いことでもあるの?」若い頃は都会自体がせわしなかったので、私もどうしてもせっかちである必要もあったのだろうが、現在田舎暮らしの81歳の私にとっては、そろそろ急ぐ意味がなくなって来ていることは事実で、急げば何か儲かるとか、最早自分の成長になることはない。すなわちいくら何でも、もうそろそろ”ゆっくり・ゆったり”で暮らすほうがずーっと望ましいようになってきたのである。出来れば70歳くらいにそういうことに気づくべきであったのだが、遅まきながらやっと80歳で気づき出したということである。
いちど”せっかちや急ぐ”をきちんと断捨離すべきなのだ
何故かと言うと最近の私がゆったりしてきて、おかげでストレスが減り日々楽しく生き生き元気で暮らせるよう実感しているからだ。私は55歳で滋賀の現在の田舎に移り住んだし、それ以来田舎で更にいろいろな趣味を体験し、身に着けられて来た。
①田舎に移り住んで自然で自由なゆとりのある環境を得た事
②趣味を増やした事
が、やっとのこと”ゆったりに回帰した”大事な鍵なのだと思っている。
もし私が都会のマンションに住み続けて、趣味も少ないまま狭いマンションの一室で「毎日何かやろうと焦り藻掻く毎日が続いていただろう」、ゆったりとかゆっくりを永遠に味わうことはなく、それこそ「死ぬまでセカセカしていた」と思っている。それが今はいろいろな趣味があり、また田舎の自然と広々とした環境で、自由に出来ることが気持ちを緩やかにしてくれていると確信している。昭和20年代の東京暮らしの時代にも田舎並みのかなりの自由さがあったのだが、今の都会では全く存在しない。
山や田舎住まいの私の趣味の中には大工とか野菜つくりとか雑草抜きとか町内の清掃とか「それが趣味か?」と疑うようなものも含むことが普通の都会人とは違う点です。都会の人の趣味はお金をかけ立派なお道具が必要なんてものが趣味のように聞こえますが田舎ではありとあらゆる作業みたいなものを自然の野原でやることですら立派な趣味なんです。都会では庭いじりとか草木の剪定とか雑草抜きとか大工仕事なんてやりたくても場所もないし騒音を出せないのでそんなことが趣味だなった言う人は少ないと思う。しかし身近な自然に向き合い、やる作業はゆったりに一番ぴったり当てはまるものだと思います。
私のような田舎で暇な老人に「本日はお忙しいのにわざわざお越し頂いて恐縮です」なんて社交辞令な言葉を言われるが、「俺はあくせく働くほど忙しくはない、忙しいのではとは失礼な」と最近はこういう社交辞令にさえ違和感を覚えるのである。日本人にとっては、「忙しい人=立派な人」なのである。私としては、忙しくてもゆったり出来る人間でありたいと思う。日本人の多くは、まだ暇をじっくり味わい・楽しめる域には到達出来ていないのであり、なんせ、せわしなく動き回る水準なのである。
私以外の多くの人は、私のように二つの鍵を得られていなかったし、忙しい事を目指し続けているのではないかとも思うのです。そういう人は高齢になっても、なかなかゆとりの生き方を取り戻すことは難しいように思います。結果的に「死ぬまでせっかちが直らず、永遠にゆったりを知らない人」となるのです。
環境を大きく変えること、ゆったりとした自然の環境に思い切って入りこみ、そこでいろいろな趣味に目覚めることが大事なんだと私は思っています。過密で高層ビルが立ち並び、なんだかんだと種々雑多なもので埋め尽くされている都会暮らしとか、身近に出来る趣味の少ない人は、「ゆったり」という境地に達することは容易ではないように思われます。昔は都会で毎日いつも何かに追われていたが、今私は少なくとも毎日追われているという感覚は全くない、81歳で田舎住まい、暇だらけで趣味は多い、追われないのは当然と言えば当然なんでしょうが、それでもそう簡単に得られる境地ではなかったように思っている。
ゆったりするとはどういうことかをよくよく考えてみる事ですが、多くの人は「ゆったり」なんて暮らしをしていないので、「ゆったりとは何か」なんて全く分からないままなのです。
私が最近思うゆったりとは、つぎのようなもので、こういうものは年とともに備わって来るものだと思っています。
①ビルが少なく川や山など自然豊かな地域で
②騒音がなく静か、落ち着きのある場所
③過密で人は少ない、人も自動車もあまりいない
④空気や景色がきれい
⑤一戸建て、家や庭や空き地が広い
⑥趣味をやる環境や場所が身近にある
⑦趣味が多く日替わりでも趣味を楽しめる
⑧近所の人も穏やかせかせかしていない
⑨自然自体も遊びの場となる
⑩時間がゆっくり流れる環境に15年以上暮らし続け、慣れる
⑪つまらんことに拘らない
⑫病気・災害・事故などを予防し、準備し備える
⑬十分の暇があり、かつその暇を楽しく使える
⑭忙しく自分を追い込まない、追われない
⑮自分を捨てきる
私なりの考えでは、自由な環境や自由な心境や自由な日々を増やすことだ、都会は自由であるかのような錯覚をしているが全くそうではない。元55年間都会暮らしだった私が田舎に27年住むと田舎の自由さが分かって来たように、日本を訪れる外国人が日本の都会より田舎を好むようになるのはまさに田舎には自由さや優しさやゆったりさやある意味の土地の歴史を感じるからだろう。
都会はあれこれ目の前の欲望を満たしてはくれるがその一方で元来あったはずの自由が奪われている。都会の場合欲望とはまさしくどくどくした欲望であって、田舎に住む私の場合はもっと素朴で自然なものに感じる。自然や自由を失って目先の欲望を必死に負い続けているのが都会人なのだと思う。例えば私は超高層マンションなんかに住みたいとは思わない、贅沢な自動車なんかも要らない、派手な流行の最先端の恰好をしようなどとも思わない。都会の人の趣味はセカセカしたもの闘争的なもの恰好良くしたいものが多いのは事実で、どちらかというと流行や風潮に振り回されたものである。
都会では老人達も僅かでも若者とも競っている、「自分はまだ若いの、恰好良いの、まだまだ負けない」なんて雰囲気があるように思えてならない。力みがある、見かけを気にかけ、何か意味ありげなギラつく老人が多い。私でさえも京都に帰ると、私自身も僅かでも都会人に戻ろうとする気分が出てしまうのであるから。
過密な都会、物やサービスの価格の高い都会では当然のこと、田舎は過疎というとダメな地域と思われがちであるが、都会だって昔は田舎同様に過疎だったのだ、それをあれこれぎっしり詰め込み続けるとあーなるのだ「田舎の成れの果て」に過ぎない。田舎は、しっかりとそうならずに維持出来ていると思えばよいのだ。私が田舎が過疎で滅ぶなんて考え方は全くないし、田舎の将来を心配などしていない、あくまでも自然が存在し続けるだけだから。むしろ都会こそ過密で滅びかねないとかなり以前からひどく心配し続けて来た。田舎は現在も将来も自然であり自由であり続ける、他方、無制限にあれこれ持ち込み過ぎている都会は気が張り詰め、自由度がどんどん減っている。そんなところで「ゆったりせよ」と言うのが無理なんでしょう。
すごくゆったりしています