村上原基、滋賀県安曇川の山中20年⇒麓の町の田中に一人暮らし人生

山中で20年一人暮し後71歳から麓の田舎町で暮している、断捨離し自然な生き様と山暮らし体験に基づく人生論及び写真を紹介

439.出会いが減った今日、もう一度出会いということを深く考えよう

2017-08-06 08:09:26 | 人生
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テ ーマ
出会いが減った今日、もう一度出会いということを深く考えよう
おもてなしは出会いそのものではない


出会いというと、あたかも或る日突然素晴らしい人が現れるような感じ
またすごく高尚な人の高尚なもののように思うが

確かに高尚な出会いもないとは言えないが、現実は、そんなに沢山はない
本来の出会いというのは、自らが出会おうとし続けて得られるものだ
また出会いとは表面的・嘘誤魔化しのものではない、深いものだ

しかも、出会いとは相手が人だけではない、その他全てである
新しい場所、新しい仕事、新しい出来事、新しい体験・・・
そうである、実はこのように範囲を広げると出会いは毎日・毎時間ある
例えば、毎日電車に乗れば、毎日同じ人ということもあるまい
そうすれば、毎朝電車内で周囲の人を観て観察することも出会いだ
田舎や山道を歩いて道端に草花を見つけ観察すれば、それも出会い
旅をしていろいろな物事人に触れるのも典型的な出会いの始まりだ

家の中に篭ってテレビやゲームをしているようでは出会いがない
また、電車内でスマホなるものをやっている若者も出会いがない
新たな出会いを積極的に求める人がいる一方、拒絶する人も多い
現代は進歩発展をよそに出会い拒絶の人が日本でも増えている

いかに日本人が、おもてなししようと、出合い拒絶が進む日本は暗い
日本人は出会うことより、相手からおもてなしを受けることを求める
出会いを求める意味を私なりに過去を振り返ってみると、
出会いによって自分に大きな影響を及ぼし
 ・自分の生き方を見直す
 ・自分の生き方を正す
 ・自分の生き方を定める
 ・自分の生き方を見出す
ではないかと思う

人生の何らかの本質に出会えない出会いは真の出会いではない
表面・形を適当に見て出会ったなどと勘違いしてはならない
嘘誤魔化しにまみれて、出会ったなどと勘違いしてはならない
一体何のために目・耳・鼻・頭があるのだ、もっとしっかり出会え

若かりし頃町で美人に会うと素敵な出会いと思ったが今はそう思わない
若かりし頃都会で真新しい物に会うと出会いと思ったが今はそう思わない
若かりし頃有名人やヒーローに会うと出会いと思ったが今はそう思わない
今はむしろ身近な平凡な事、ごく当り前な事、些細な事に出会いを感じる

勝った・儲けた・成功したなんてのが良き出会いに思うかもしれないが、
後になって振り返ると、苦い出会い、出会わなければよかった事になるものだ
逆に負け・損・失敗が後になって良い出会いであったこともなるものだ

私の過去の大きな出会いについては、これまで何度も話しているが

東京生れ・戦争後・高度経済成長・東工大・松下電器・大阪・京都・
エンゼル工業・ローム・コンサルタント自営・滋賀山暮らし・妻他界・
父他界・癌手術・大工・野菜作り・人生勉強会・滋賀町暮らし・・・
細かいことは省いているが、他の人に比べると出会いが多い人間だ

「村上さんは、いろいろやるねー、真似できない」なんて言われる
出会いを拒絶する気持ちもないではないが、歳とっても求める気持ちが強い

その理由は出会いを求めることで人間としての幅や厚みが増すことだ
歳につれて、幅の狭い、薄っぺらい、ちじかんだ委縮した老後は嫌だ
無論出会いを沢山求めるのではなく歳の応じた取捨選択も必要だ
闇雲に出会いを求めている人は、がつがつ落ち着きがなく、浅ましい

人生とは出会いであり、金儲けでも出世でも素晴らしい成功でもない
ひたすら日々出会いを求めて人生を深めて行く姿だろう
俳句の芭蕉のような姿なんだろう
私は、一つのことをあまりに深く追及するスタイルはあまり好きではない
というのは一つのことは深まるが、出会いの幅が狭くなりがちになる
「紺屋の白袴」「医者の不養生」みたいな専門馬鹿は好きでない
私は所謂専門家が好きではない、偏屈で頑固で尊大な人が多い

山や田舎に暮らしてみると都会にしがみついて暮らす人が哀れに見える
その昔戦後の高度成長期は、反対に田舎から多くの若者が都会へ流出した
彼らは新しい刺激的な出会いを求めて、我も我もと都会に出て来たのだろう
今都会から山や田舎に来て、私自身はその反対の多くの出会いを感じている
私にとって京都以上に滋賀県の山の暮しとの出会いが大きかったように思う
心地良いもの・得なものをばかり目指して出会おうとするのは大きな間違いだ

出会いがない人、少ない人、お粗末な人とは
故郷がない・異文化体験のない・いざという対応が苦手、作業が出来ない人達
帰るところがない・原点がない・自らも失う人達・厳しさや不便さを知らない人達

少子高齢化の時代、ただ何となく都会に安住している老人や若者が多い
出会いを止めた人々・諦めた人々だ、その結果限界集落なるものが誕生した
私には限界集落にこそ、多くの素晴らしい出会いが潜んでいると思う

■出合いの効果=
出会いの新しさ×出会いの大きさ×触れ合いの努力×出会いの継続期間
■私の場合の効果=
1)京都⇒滋賀の山中2)都会とのあまりのギャップ3)山でいろいろ体験4)20年
出合いの効果は随分大きかった

それ以前にも
東工大合格・大阪単身赴任・松下電器入社・3度の転職・京都引っ越し・自営等
すごく出会いの効果は大きかったが、それらを土台に更に累積されて行くのだ
その累積が人生の幅を広げ、深め、有意義で明るく楽しい老後に導いてくれる
累積だから個々の効果を足し算か掛け算すると総合効果になって現れる
目先の金儲けや楽さや快適さだけを求めると出会い追究が億劫になる

ちなみに病気や事故や不幸や災害なども、出会いたくないものではあるが
不幸そのものとの出会いは無論のこと、自分自身にも深く出会えるものだ

出会いの効果も少なく、出会いの回数も少ない人の人生はお粗末だ
いつも同じ友人と同じ場所で同じことをしていると、いつの間にか幅狭人間に
幸か不幸か、55歳くらいまで、私は人見知りで、決まった友人が少なかった
友人が多いのも考えもので、新たな出会う意慾が減ることにもなりかねない

「出会いは大事だ」なんて言う人がいるが、出合いをどう捉えるかが肝心だ
僅かなグループで、深く付き合ってきた人は、意外に出会いが狭く、少ない
特定グループに属さず、あれこれ体験してきた私の出会い感は異なる
出会いは大事だが、出会い感の深さが浅いと、表面的な出会いの人になる

出会いとは、出会いの効果とは、回数×深さ×努力×期間だ
だから出会いとは
 ・腰掛的にあれもこれも出会ったと、やたら回数だけを誇るのは的外れ
 ・一つ二つにあまり長年深入りするのも出会いを有効活用できない
 ・世界を廻る旅も、移動しっぱなしでは、はたして深い出会いがあったのか
 ・旅というのは、私は出会いとしてあまり好まない、旅は時々にすべきだ
  マンネリ状態に陥ったときに、ふと疲れを癒すための旅は受け入れられる

京都に旅して簡単に「京都は良かった、人が優しかった」と言うのは間違
京都は、歴史的にも、環境的にも有利で、優しさが倍加するだけのことだ
「京都とはいかなるところか?」と訊けば、答えは本質から遠い物ばかり
「京都の寺・舞子さん・鴨川・懐石料理・小物・おばんざい・・・・よかったわ」
出会いがむしろ誤解で終ってしまう場合も多いか
私は出会いの期間も重視している、一目惚れなんてのは出会いとは認めない
ある期間付き合ってやっと深く本質まで出会えるものだ

アメリカに行けば出会いがあるかもしれないとアメリカに行ったが
英語も話せず、友達も出来ず、無論仕事も出来ずにくたくたで帰国
美人の奥さんと目出度く結婚、周囲から羨ましがられたが
僅か一月で破局、出会いも両刃の剣、まあ失敗も出会いではあるが
自分が好きでもないことや苦手なことは、ほどほどにすると言うしかない
出会いをせいと言いながら出会いは慎重にとも言わして下さい

言葉というものが、適当に使われているために間違ったことをしかねない
そういう意味では言葉の本当の意味を生涯かけて追究するべきだ
出会いという言葉も、分かっているようで、全然正しく理解されていない
自分は分かったつもりでいるが、とんでもない、70年も経ってやっと分かる
さんざいろいろな出会いを経験し、深い価値に触れてやっと分かる

「彼氏に出会い、結婚しました」でも、多分多くの人が失敗し別れるのだ
結婚という大事な出会いでさえ、そんな程度のものだ
即ちきっちり出会ていないからビビッと来て好きになり、くっ付いただけのこと
すなわち、結婚までに、しっかり、きちんと出会えていなかった
結婚してすぐに凄まじき相手に出会ったということなのだ
実は、結婚とは長いこと付き合った末に決断すべきことなのだ

自分に壁を作っているために、出会いそうで、出会いにならない人も多い
バリヤーをいろいろ張って行く、せかっくの出会いが出会いにならない
バリヤーの多い・高い人には、声すらかけられず、出会いがよけて行く

 ・煙幕を張る
 ・ベールをかぶる
 ・すだれや御簾で隠す
 ・壁つくる(ベルリンの壁や国境)
 ・その壁を頑丈にする・高くする
 ・兜をかぶる
 ・鉄の鎧を纏う
 ・自分を飾る
 ・自分を誤魔化す

自分を飾る・誤魔化す人には本物の出会いは訪れない
自分自身が相手にとって出会うにふさわしい正直な人間でないといけない
現代は、社会の壁はどんどんなくなっているのに、人間自身が壁を作る
人間が壁作って出会いを拒絶するなんて考えられもしなかったことだ
テレビ・スマホ・ゲーム・パソコンなどが心の壁を高くしていく

更にあれするな、これするなも多い
現実に最近山に来る子供は、私を見ると奇異な目で遠ざかって行く
山に暮らすオジサンだから、本来は素晴らしい出会いなのだが、嘆かわしい
親や先生から危険だと言われ、山では出会いがないのが実情だ
過剰なおもてなしは要らないから、もっと気軽に出会うべきだ

安全オジサン安全マークつけなくてはね「このおじさんは安全度1」なんて
審査と認定を受けなければと思うこの頃だが、そのうち全員にマークがつく
日本の山でさえ、そんな感じになっている
親や先生や上司の躾によって、大事な出会いがどんどん失われて行く

今の子供や若者を観ると、つくづく出会いがない、出会いが貧しい
都会はあちこちに自販機やコンビニがあり、何でも宅配される
ちなみに安曇川の田舎、特に周辺地域にはコンビニはほとんどないが
わざわざ面倒な出会いをしなくても買えたり、物が手に入る
日々日常の親子の出会いや夫婦の出会いもほとんどなくなった
そんな面倒なことをわざわざしなくても快適に暮らせるのだ

部下にとっても上司にとっても鬱陶しい人間関係・出会いなのだろうが
会社の上司は出会いがある点、まだ幸せなのかもしれない
毎日否応なしに仕事上の出会いがある(親子や夫婦は全くない人が多い)

そのうち出会いは全てロボットがやってくれる時代が来るかもしれない
出会いは部屋のロボットだけ、親も上司も彼女も親友も要らなくなる
ロボットは自分の意のままになるのだから、自分がもう一人いるだけのことだ
出会うそのものの価値が認識されなくなるような時代が到来する

最近多いのが猫や犬を飼うことだ、近所の人と深く付き合おうとはしない
地球環境、温暖化阻止なんて言っている一方で環境負荷をかけている
人との出会いを拒否し、犬猫と出会おうとする、なんの意味も効果もない
現代人のやっていることは、何かにつけて、ちぐはぐだ
日本企業は効率が低く、無駄な働きをし、自殺なんかを生むのだ
過剰なもてなしで疲れ、環境を悪化し、効率低く、付合いするゆとりはない
地球環境や効率や絆にとって悪いことを、平気でどんどんやっている
おもてなしジャパンなんて、この際大きく減らし、出会いを増やすべきだ

こんなことでは日本の若者は、安全・平和ではない世界には出られない
おもてなしなんてのも、恰好づけに過ぎず、出会い拒否の裏返しなのか
日本の人は壁を沢山作るが、やたらにおもてなしし、一見親切に見える
おもてなしの典型が京都かもしれない(京都に住んだ私には疑わしい)
滋賀の田舎は、むしろぶっきらぼうで、あまりおもてなしもない
近い県なのに大きな違いだ、おもてなしも下心あり、怪しいものなのだ

細菌やダニやカビや虫を怖がる日本人は、いろいろなグッズを使いまくる
世界に関たる無菌文化・無虫文化・無トラブル文化・無紛争文化大国

それに対して外国の若者は、積極的に出会いを求める、積極的・貪欲だ
欧米人は日本やアジア人に比べると旅に対する態度が大きく異なる
 ・長期滞在
 ・冒険型
 ・チャレンジ型
 ・一人旅
 ・単なるお土産・美味しもの・温泉・庭寺を目的にしない
日本人の旅は日頃疲れた自分を癒すため、おもてなしを受ける旅
嘘誤魔化しの出会いになりかねない、欧米人は過剰のおもてなしを嫌う
欧米人の旅は出会い求める、欧米人は出会うことを喜ぶのだ
こういう旅や出会いについてのギャップは、果たして良いことなのか?

出会い拒否国の日本は、本当におもてなし国なのだろうか?
 ・子供や生徒にオジサンに声かけられても返事せず、逃げろと教える
 ・危ないからブランコとか鉄棒とかは使わないと教えられる
 ・紫外線の害があるから夏は家に篭るとか外で運動などはするな
 ・虫が嫌い蛇がきらいダニも怖いから山や田舎は住まない、行かない
テロの影響もあるが、次々に、いろいろなバリヤーが作られて行く
ベルリンの壁は昔に無くなったが、トランプは壁作れと言っている

会社時代、私は本当の意味で「価値ある出会い」なんて人は少なかった
意地悪で、頑固で、一人よがり、自惚れ、苛め、利己的、勝手、・・・・
競争の厳しい会社やテレビ業界では、良い人のようで、現実は

そうではない
出会いと言っても悪人との出会いは、良い影響を与えない
悪い出会いも出会いと言えば出会いかもしれないが、
あくまでそれが自分にとって結果的に良く転嫁されなければ出会いではない
人間は悪と出くわし、染まり、浸り、抜け出せなくなる、そういう人は多い
悪との出会いを心地よいからと、出会いと勘違いしないようにすべきだ
麻薬と出会い、俳優の仕事だけでなく、尊敬も失い、全てを失った人がいた
そうは言うが、良いものだけ出会うなんて虫の良いことも難しいだろう
特に若い時は、出会いを何倍もしないといけない、「数打ちゃ当たる」だ

ところで出会いについての注意事項は
1)外見で出会いを拒否しない
2)固定観念に左右されない
3)浅い出会いで誤魔化さない
4)とりあえず何でも、誰とも出会いを試す
5)出会うとは相手に入りこむくらいの心構えで
6)場合によっては勇気をもって出会う、飛び込む
7)出会う条件、出会うチャンスを増やすこと
8)えり好みをしない
9)触れ会うまでは我慢する、謙虚に、
10)気に入った出会いは長く続ける
11)見ただけで、短期間にきちんと出会えると勘違いしない
12)真っ白な純真無垢な気持ちで真摯に、謙虚に出会う
13)出会えたことを感謝する、感激する
14)出会ったものをよく観察し、溶け込む、一心同体に

いい加減・適当・気まぐれ・好き勝手・飽きっぽい・・・では出会えない
「京都に旅したい」は、きっかけにはなるが、本当の出会いにはならない
私のように20~30年京都に暮らし会社で仕事してみないと出会えない
京都も観光はするが、住む・暮らす・仕事するまでは、やろうとしない
観光というのは、出会いのきっかけに過ぎない、出会いの完結ではない
出会いの本当の意味や価値を認識し、積極的出会い人生を送って欲しい

東京・大阪に生れ、親の実家に住み、東京・大阪の会社に勤め、
掃除洗濯は親がやり、いつも同じ友人と飲み会や買い物や旅行をし、
いつもは家でテレビ観てゲームやって、スマホ三昧では
一生出会いのない味気ない人生で終る、都会にはそんな人が多い

可哀想なのだ、都会は出会えると言えば大半が”箱物”なのだ
自由空間が狭い、家も狭い、空き地も林もない、人は家や箱ものに篭る
ウサギ小屋でじっとしている、耐えている、外で金使う、それだけのこと
ある意味自立も出会いであるし、孤独も向き合い方によっては出会いだ
最近は異常気象で大災害に会う人も多いが、それこそ出会いかもしれない
京都に旅して寺巡りして、京都に出会ったなどと勘違いしないことだ

歳をとるまでは、出会いを意識して出会っていた訳ではない
だからこそ高齢になるにつれ、より貪欲に素晴らしい出会いをみつけたい
老後を生きながらえる価値とは、単に年齢を重ねることではない
老後を生きながらえる価値とは、より深く出会いを重ねていくことだ
そういう意味では若い時と老後の生き方は自ずと違ってくるはずだ
仕事や社会の腐れ縁を断ち切ってもよい、お金や名誉や快楽を求めるより
日々なにか素晴らしい出会いをするために、生き方自体を変えてみよう

 あくせく、せかせかするのでなく、都会より自然豊かな田舎で
 人間の原点・基本と向き合い、ゆったり日々平平凡凡と暮らす
 そういう中で人間本来の出会いを求めたらどうだろうか

 出会うのは、仏性とでもいうものだろうか
 白隠禅師は座禅和讃で「衆生本来仏なり」と言っているが、
 そういう本来の仏であるべき仏性を持った自分に出会いたい
 (お粗末で愚かな私にはよく分かってはいないが)

 都会は人工的である、出会うものの多くは
 物・科学・技術・効率・奇抜・高い壁の都会人・・・・
 人の作ったものは全てカゲロウ・幻想に過ぎない
 そんなマボロシやカゲロウみたいなものに出会い幾ら語りかけ
 一見豊そうな都会に暮らし続けても、
 老後に味わうべき出会いは何もない

 これまでに出会ってきた都会の物事は、
 はたして、出会いだったんだろうか?
 田舎で山で一から出直して出会い直すのも良いだろう

3年前田中に引っ越しし、山や京都の荷物も全て田中に集結したが
目下その荷物の断捨離をしている、最終的に1/2~2/3にしたい
友達からもっとすっきりさせよとの忠告から書斎も改良を続けている



右端には絵描きの道具を常設している、ゲームでなく絵描きだ


押入れの不用なものも半強制的に毎月廃棄しつつある
今月は押入れ、来月は台所、再来月は物置、再再来月は、寝具など・・
捨てる以前に、こまめに整理整頓、きちんと収納し直すことが大事
先ず第一次(半年)そして第二次(半年)、更に第三次・・・・
減るにつれ、断捨離は鈍るより加速するものだ
最終ワンルームかツールームマンションに引っ越しすることを目標にする
忘れてはならないのが冷蔵庫や引き出しやタンス
但し冷蔵庫は月一回は全部出して掃除と廃棄ですね、できてますか?
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