村上原基、滋賀県安曇川の山中20年⇒麓の町の田中に一人暮らし人生

山中で20年一人暮し後71歳から麓の田舎町で暮している、断捨離し自然な生き様と山暮らし体験に基づく人生論及び写真を紹介

441.都会から山暮らしを経て、宗教・信仰について私の雑感

2017-09-04 10:08:07 | 信仰・宗教
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テーマ
都会から山暮らしを経て、宗教・信仰について私の雑感

宗教や信仰を日本人に質問すると、きちんと答えは帰ってこない
普段ほとんど宗教や信仰について深く話あいをすることもない
酒飲んで宗教や信仰の話題で盛上がることはない
多くの日本人は自分自身の確固とした考えを持とうとしない
それで良いのか?宗教・信仰なんて糞の役にも立たないのか

これまで平和だったが、昨今は社会事情が困難化している
少子高齢化・社会費負担増・孤立化・都市密集・巨大災害・・・
そういう中できちんと信仰を身に着けるべき時期に来ている

勉強不足、人生経験不足、便利・豊・平和のせいなんだろう
平和や便利さは、油断させ・堕落させ・弱くさせ・引き篭もらす
宗教や信仰が自分自身にとってどう関わるかを考えよう
実はかく言う私も、さほど詳しくもない、ど素人もよいところ
どちらかというと専門的に信仰・修行して来たわけではないが
素人の私のこれ迄の実感であり、雑な部分はお許し願いたい

寺社に御参りする人が多いわりに、日本人は信仰心が薄い
日本人の大かたの宗教観は神頼みや葬式や祭りのレベル
島国で平和で豊な日本では、その程度で良いと思い込む
宗教や信仰も個々人の抱えている問題の解決のためだが
普段あまり問題がない状態が長く続くと忘れがちになる
せいぜい神社にお参りし、お賽銭をあげる程度でお茶を濁す
葬式で「家の宗派は何だったっけ?」と宗派すら分からない
個人では信じる宗教や宗派も無い人が多い

「災害は忘れた頃にやって来る」というが
宗教や信仰も普段あまり強く意識されず完全に忘れられている
僧侶が人々に信仰をするように促すが、簡単に上手く行かない
寺や寺院は葬儀や観光や駐車場や賽銭や檀家で維持している
平和で豊な時には宗教や本来の信仰のニーズは薄い
未婚者が増え、子供も産まず、離婚が多いのも豊で平和ぼけ

しかし、それで良いのだろうか、実は、とんでもなく良くない
むしろ大問題なのだ、気候変動や巨大災害と似ている
油断大敵なのだ、信仰のない人生なんか人生とは言えない

信仰に対する強い意志や自分なりの正しい考えを持てない
毎週、寺社に行き住職の有難いお話を聴くことはない
日本が村社会で他国と接しておらず、さほど大きな戦争もなく
多方面で日本文化が開花し熟してきたわけだが
外国に比べ、真剣かつ深い信仰を真剣に求めなかったのだ
しかし幸いに平和が続いたために文化は世界一高まった

その上、農村国家・漁業国家・森林国家で、他国に比べ豊だ
単なる収穫感謝や健康安全祈願、利益信仰や葬儀などが主だ
私も、かつては普通の日本人感覚での御参り・ご利益信仰程度
ある意味平和であればそれで良いのだが、実はそうもいかない

信仰深いように見えて、実態は、信仰と言えるかどうか疑わしい
一口で言えば、日本人は、事なかれ主義・場当たり主義
外国の宗教や行事にも、楽しそうだと思えば何でも興味を示す
やれバレンタイン、クリスマス、教会結婚、イースタ祭・・・・
寺や神社やおみくじや発詣でなど安易で手頃な宗教遊び感覚

親の躾や社会道徳のようなものがあったが宗教との関係は薄い
私も幼少期から、さしたる厳格な宗教教育を受けた覚えはない
葬儀や困った時の神頼み程度で手を合わし祈る程度だった
そういう何となく曖昧模糊としたふわーとした信仰心の私だった

それに対して
欧米やイスラムなどの信仰は熱心だが、過激で、厳格に見える
他国に接し戦争が続き、宗教もシビヤーにならざるを得ない
やたらに礼拝したり、方針や規則や禁止事項も多い
私は聖書を読んだが、よく分からずキリスト教は全く受付けない
キリスト教が分かるという日本人が、逆に理解出来ない
ただ、欧米のカッコよさに憧れているだけのようにも見える
イスラム教は規則が多く、あまりに窮屈なので受付けない
何故そこまで厳しいのか日本人の私には理解を越えている

ある人が言っていた、・・・・私もそう思う
「やたらに厳しい口調の張り紙がある町は住まないほうがよい」

日本人に信仰させようと安曇川の田舎でさえも
キリスト教の勧誘の方が見えて、お話を聴くことが時々ある
豊さゆえに、心の病気の人も増えてはいるが
平和で豊な日本の田舎で外国宗教が馴染むとは思えない
私などは、話の最初から合わないので茶々入れながら聞く

話しの中心は、次のようなことを言われるのですが、気になり
長年、違和感を感じてきた(今はそれなりに理解しているが)

 ・神がおられます
 ・神は貴方を見守っています
 ・神はいつも貴方とともにいます
 ・神は必ず貴方を助けてくれます
 ・神を信じましょう
 ・信じる者は救われます
怪しげなのだ、そんなにダイレクトに言われても理解出来ない

「神なんかいないでしょ?」「少なくとも日本にはいないはず」
キリストさんは日本語出来るわけないでしょ!自動翻訳も最近
「いやいや貴方のおそばにいつもいらしゃいますよ」との答え
「お信じなさい」と言うのだが、闇雲に信じても意味がないと思う
言い方は無理があり、欧米文化の無理やりな洗脳のような感じ
さほどキリスト教を知らない人がノルマで営業しているようだ
「信じなさい」が怪しげで「信じて馬鹿をみるのが人間社会」

ところで昨今は欧米人が、来日し日本の心や仏教を勉強している
平和で、自然が豊で、勤勉で、列島が長く、文化も高度だから
仏教とか禅も相当に熟成しており、細々と伝え残っているからだ
禅の正当な系統は日本に僅か残っている、今や絶滅寸前なのだ

今さほどでもないが、60歳以前の私は文字通り受け取っており
「そんなことあるわけがない」とかなりの不信感を抱き続けて来た
韓国にはキリスト教信者が多いらしい、日本と韓国の差を感じる
日本と韓国には何か歴史的・地域的な相違点があるのだろう

国民も正しい宗教観を持たずに政治家を選んでしまう
世界は宗教不在だ、聖徳太子が何をどうしたか見直す時期だ

各国の政治家や指導者に宗教観がなく、経済・利益志向に
だから国民は平和を望むのと裏腹に国家間はぎくしゃくしている
お粗末過ぎる政治家や指導者に望みたいのは宗教感を持っこと
キムジョウン・パククネ・習 近平・プーチン・トランプ末期状態の感じ
宗教観をベースにより大きな世界観や未来を見渡す歴史観が大切

信仰以前に望ましくないことを捨てることが、深い信仰の始まり
以下のことがある人は信仰の浅い人で、必ず何らかのトラブルがある
国家でも、以下のことがある国は、信用して付き合うべきではない
 ・恨み   ・怒り   ・争い  ・苛め  ・威圧   ・贅沢
 ・怠惰   ・傲慢  ・不許  ・無視  ・放漫   ・欲張り
 ・頑固  ・仕打ち  ・軽蔑  ・無礼   ・利己   ・執着
 ・自慢  ・脅し  ・無理  ・無駄  ・ムラ
何の役に立たないが、自分の心にでーんと死神のように居座っている
ちなみに、私は、こういうものがない人に出会ったことはない
でも、私の場合は、どんな人も受け入れるのが最近の姿勢だ

例えば、
怒るなんてことも、怒らなければそれで済むことだし
争いも、争わなければそれで済むことなんだが
簡単なことだができない、人はせっせと怒り、争う

本当に信心の深い人は、自信と誇りやゆとりを持っている
信仰は、自分が神や仏になるためで、過去を引きずるのはもっての他
相手が謝罪・弁償しても相手を許せないでは信仰は成就出来ない
謝るというのは素晴らしい、許すということも素晴らしい行為なのだ

「私は嘘誤魔化しなんかついてません」という人はむしろ大嘘付き
今、政治家~末端迄、世界中そんな人で埋め尽くされている
国家間が上手く行くわけがない、上手く行かそうなんて無理な話
政治家が政務活動費を誤魔化すなんて本来あり得ないことなのだ

仏教や禅の流れをくむ日本が平和的なのに対してイスラム教も
キリスト教も闘争的であり、主張が強く、日本人には馴染み難い
日本では、闘争とか自己主張は宗教や信仰で禁止事項なのだが
日本でも欧米的な人がいてキリスト教に入信するのだろう
最近は日本でも闘争的、自己主張の強い人が増えた
そうなると信仰から、どんどん遠ざかって行く
イスラム教はテロに走る人が出て来て世界を混乱させている
宗教心のない指導者が宗教を悪用する、宗教の怖い一面である

同じ宗教や信仰も背景の文化や歴史により大きく異なる
だから日本人がキリスト教やイスラム教を信じるのは難がある
欧米の食文化や習慣が日本人にあわないようなものだ

神が身近にいたら、不幸や悪いことが起きるわけがないのだが
神や仏様をお参りした帰りに交通事故に遭い死んでしまった
そんな時に私は、「やっぱり神はいない」と確信するのだ
神がかったものが実在する、と教えられても、混乱するだけだ

変でしょ、可笑しいでしょ
神はいます、貴方を見守ってます、必ず助けますと言っているのだ
もし助けてくれなかったら、「貴方が神を信じていない」ことになる
神が世界中にいるわけがない、細かいことだが日本語が分からない
「キリスト教や外国の宗教はインチキだ」と思わざるをえなかった

自然はいます、自然は自分を守ってくれます、しかし悪さもします
神はいません、いるとしたら自分自身が神になるしかありません
大工はいます、金さえ出せば、何でもやってくれます

占い師又は予言者みたいな人がいて、なかには何億円と稼ぐ
特に女性や物事を決められない人、不幸な人がのめり込む
韓国では相当偉い人も占いに頼るそうだ、理解に苦しむ
占い師など明らかにおかしい、怪しいが、信じてしまう
信じざるを得ないころまで追い詰めらているか、大金持ちか

宗教や信仰でもなく、コンサルでもなく適当なことを言うだけ
あまりに堂々としかも少し当たっているので驚いてしまう
俺俺詐欺みたいなもので半分の人が信じれば儲けになる
宗教や信仰にも僅かながら、そういう詐欺的部分がある

自分にとって根拠のないことを信じないことは大切だ
安易に信じると、麻薬のように弊害がジワジワ効いてくる

占いも宗教も悪いとは言わない、気休めにはなるが嘘誤魔化し
大事なことは自分に合う宗教を選び、しっかり修養すること
真面目に神や仏になれるように努力をせず、御参りやお守りや
所謂神頼みする人にとっては、詐欺に引っかかった感じになる
すなわち自分自身の信仰の態度により宗教は虚構、ご利益もない
宗教は大事だが、取組み方を間違えると悩み苦しみが深まる

信仰心の浅い人は一見信仰が深いようで、形式的、間違いを犯す
逆に
信仰心の深い人は一見信仰が浅いようで、本質的、神や仏に近づく

例えば、
禅などでも修行の態度がいい加減だと、怪しげな結果になってしまう
占い師などはもっての他であるが、宗教も妄信や過信してはならない
宗教の教義を誤解・曲解して悪用されてしまうことも多い
自分をしっかり持って、その上での信仰なり宗教なのだが
自分をしっかり持たずに、理解もせずいい加減に信じてしまう人が多い
宗教や信仰は、迷ったり苦しんでいる時に、無暗に入信する場合が多い
すなわち、自分がしっかりしていない状態で信じてしまうことが案外多い

現代は、科学技術が進歩し。それとともに機械がやってくれる
そうすると、更にどんどん自力・自活・自前でやらなくなる
自分でやらないと、本質から遠ざかり、嘘誤魔化しにはまって行く
世の中は進歩するが、人は退歩するのだ
神・仏からどんどん遠ざかってしまう

人類は人を更に嘘誤魔化しに追いやるために必死に仕事をしている
便利という言葉ほど人間を神仏から遠ざけてしまうものはないと思う
便利のるつぼはどこか、それは都会だ
都会は科学技術の集積場、便利の集積場、どんどん不自然に落ちて行く

自然とは広義の意味でとると神・仏そのものであると思う
ところが都会は高層ビルが林立し自然は排除されている
即ち神・仏が排除されているかのようになっている
「神・仏も科学技術でどうにかならんか?」という人も出てきそうだが
どうにかならん、自分自身で一生かけて自分を磨くだけしかない

僧侶が都会に住むなんてのも今は当然のようになているが、
都会に長く住めば、信仰心なんて一挙に消え失せてしまう
そんなものだ、
人間の心は弱いのだ、簡単に、都会の嘘誤魔化しに染まってしまう
袈裟衣を来て、仏像に線香をたいてもっともらしくお経をあげる
白衣をきて医者の恰好をしている藪医者のようなものだ、怪しい、怪しい

私は提案する
自分が駄目な時でなく、出来れば、健全な時に宗教を選択すべきだ
親の決めた宗教に入信させられた場合、大人になって考え直すべきだ
修行僧がいかに修行を始めるか、すごい気迫と意気込みで寺の門をくぐる

しっかりした自分がきちんと学び・判断して宗教を選ぶことだ
また一生きちんと選ばない日本人もいるが、それもお粗末だ
しっかりした自分が主体的に選ばない宗教は嘘誤魔化しになり易い
非常に難しいし、年月のかかることだが、諦めないことだ
私は、日本人ならば禅宗が最適と思うが是非勉強して判断して欲しい
そして世界の人も可能であれば禅宗を選ぶようになって欲しい

宗教とは便宜的に使われ易く、無暗に信じると危険な面もある
またいい加減な人は、かえって一生を棒にふるようなこともある
宗教の教義をきちんと理解して納得して信じることが大事
多くの国では生れたら親が自動的に入信させてしまうことが多い
その点、日本はあまり強制された記憶はない、自由な感じだ
日本では、かつてのオーム真理教のように
宗教があれこれ強制したりする怪しげな新興宗教も案外多い

私は寺社、僧侶、医者も先生も社長も政治家も軽々に信じない
だから信じてもいない政治家に投票することが苦痛だ
医者・先生の免許を持っているから医者・先生を信じろという
政務活動費を詐欺したり、盗む警察官、猥褻行為する先生・・・・
寺や神社や僧侶は信ずべきと思われているがそうではない
人は人だから軽々に信じることは出来ない
神も仏も信ずべき者とされているが、会ったこともないのだ
大工を信じて家を建てたら、すぐに傾いたなんてこともざらにある
医者を信じて処方された薬を飲み続け、副作用が進むことも
良さそうだからと、安易に信じるのは、考え物であり、禁物だ

死後をやたらに心配したり死者を無暗に敬い、僧侶に念仏させる
死者にご馳走や酒やたばこもなかろうに(死者は食事をしない)
立派な墓石、立派な寺、お金を沢山かけるが、大して意味もない
死者をこの世の人間界に参加させるのは無意味、きっぱり断切る
死者と生きている人を一緒にすべきではない、死者の霊も信じない
神や仏も生きている自分自身に関わることで、あの世は関係ない
宗教と死者を一緒に考え、死者が貴方を守ると言うのも怪しげだ

信仰について、60歳以降74歳の現在は、考えが大きく成長した
宗教を勉強したわけではないが、私の考えは次のように変わった
今まさに生きている自分自身を神仏とする
 ・神(仏)とは自分のことだ
 ・自分が神(仏)になることだ
 ・自分は神(仏)になれるのだ
 ・自分が神(仏)になれば、冒頭の話しは全て正しいことになる
 ・自分(神仏)を信じる者は救われる

 人は生まれた時から、むしろ嘘誤魔化しの人に成長していく
 人とは尊敬する者ではない、嘘誤魔化しで固まっている
 ところが禅でも言うように「人は本来仏なり」なのだ
 だから人は仏や神になろうと努力しないといけない
 何故ならば、仏や神が人間の本来の姿だからだ
 本来仏性を有する人間は、目覚めなければならない

 仏や神とは人が本来、生涯かけて目指すものなのだ

分かり易くするために、別の例で説明すると
 人は生まれて以降、麻薬を飲んでしまう
 人はどんどん重篤な麻薬患者になっていく
 しかし本来、人は麻薬を飲まない健全な人である
 そこで麻薬を断ち切らないといけない

深く信仰し仏性を持った人になるとは、この例では麻薬の断ち切り
 ・まず麻薬を断ち切ることが大事だと認識する
 ・次に麻薬を断ち切ろうと決断する
 ・麻薬を断ち切る
 ・普通の健康な人に戻る

社会は、麻薬患者だらけ、当然社会は混乱する、人間関係も最悪
そういう中でいろいろ悩みや苦労が生じて来るというわけ
人と付き合わない・人間嫌い・苛め・人間関係の悩み等が生じる
ノイローゼや身体の不調やいらいら、不安で一杯になる、
自殺者も出る

こういうことを解決するにはどうしたらいいのか?
実は、解決は、それほど容易ではない、一生かかっても完結しない
神頼みではなく、自分が神・仏に近づこうと言うのだから
解決策は、人間として本来あるべき仏性を取り戻すこと
すなわち自分自身のしっかりした信仰を持ち、修養すること
でも、そういうことに目覚めない人は多い、目覚めず取組まない
宗教家や僧侶の悩むのは、人々が、まず信仰に目覚めないこと

次のように考えると、インチキはなく、怪しげでもなくなる
 ・神や仏(神や仏に近づいた自分)がいます
 ・神や仏(神や仏に近づいた自分)は貴方を見守っています
 ・神や仏(神や仏に近づいた自分)はいつも貴方とともにいます
 ・神や仏(神や仏に近づいた自分)は必ず貴方を助けてくれます
 ・神や仏(神や仏に近づいた自分)を信じると救われます
すなわち、神や仏に近づいた自分自身が見て、守っているのだ
存在が疑わしい神や仏が自分を見守るなんてことはありえない

大工さんのほうがキリストさんよりずーと神や仏に近い
大工さんは、お金は払うが、そばにいて、守ってくれる
キリストさんや仏さんに日々何か世話になっているか?
或る日キリストや仏さんが守ってくれなくても困ることはない
ところが八百屋さんや魚やさんがいないと、すごく困る
大工さんのほうがキリストや仏さんより守ってくれているのだ

日常の暮しでは、信仰などより、誰が自分を守ってくれるかが大事
軍配は明らかに大工さんや、サービスや物の提供者にあがる
その結果信仰より経済・お金に目がむいてしまう
そして神も仏もいなくなり、人は血眼になって金儲けに走る
その結果良いことや真の平和や繁栄がもたらされるかというと
そうではない、
争い、苛め、騙し合い、更に貧富や貧困や病気・犯罪が増える
人々は経済的な繁栄を必死に求め、都会で疲れ、悩み苦しむ

神仏を忘れるとそうなる、
ここで話をやめますから皆さん各自で考えて下さい
神仏は実在はしないが、自分なりにイメージして
一生かかっても自分が神仏に近づくことが結局一番近道

簡単に言えば、大工を業者に頼まず自分でやるようなものだ
大工を信じて手抜き工事などの詐欺に巻き込まれることがある
同様に自分自身がしっかりしていないと神に騙されることがある
 ・大工の業者がおられます  ⇒  依存せずDIY
 ・大工の業者は貴方を見守っています  ⇒  依存せずDIY
 ・大工の業者はいつも貴方とともにいます  ⇒  依存せずDIY
 ・大工の業者は必ず貴方を助けてくれます  ⇒  依存せずDIY
 ・大工の業者を信じましょう  ⇒  依存せずDIY

なぜ大工を頼むかと言うと、自分が出来ないからなのだ
神や仏も頼むだけで自分は嘘誤魔化しのままではいけないのだ
根本は、DIYであり、自己責任であり、自活、自治・・・

自前でやる・自力でやる・自分で考える・自分で工夫する
大工に頼めば大工は成長するが、自分は全く成長しない
私は大工や野菜や木の剪定が出来るが、都会人は業者に頼む
神仏は、本来的にDo it youself = DIYなのである
そうでないようなことを言うが、「頼めばいいじゃないか」
それは、出来ない人の誤魔化しに過ぎない
世の中は真面目な信仰をする人はすごく少ない
仏像とか聖書とか教会とか礼拝とかそんなものに頼る


禅宗の場合は、分かり易い
 自分自身で大工をする、その自分の腕を信じる  ⇒
 自分自身に仏性があり、自分自身が仏にならなければならない

人が人のままの時は人の生き方は嘘誤魔化しで固まっている
 ※自分が嘘誤魔化しの人間であると自覚し続けることが大事だ
人が神や仏に近づく時は、人の生き方に嘘誤魔化しがなくなる
人は死ぬと仏と呼ばれるが、死に仏では意味はない、
生き仏にならないと、さほどの意味も価値もない

しかし一般人が在家で幾ら信仰しても悟りまでには至らない
それでも一般人は、努力だけでも続けることには価値がある
山に篭り良き師の下、厳しい修行を続けて初めて到達できる
ということは、一般人は、よほど頑張らないと信仰がDIYにならず
もし何も頑張らず、精進もしなければ、一生、永遠に
寺や僧侶に頼らざるをえない、すなわち一生餓鬼・畜生で終る
駄目人間、嘘誤魔化しをつき続けて一生を終えることになる
世のため人のため以上に自分自身のために精進しないといけない
駄目人間のくせして社会のためなどと言う人を観ると悲しくなる

宗教の形式や内容は、戦争が多かった国と平和な国の差がある
戦争や災害や病気などの状況が続く国の宗教観は厳しい
戦争の多い国は、十字架の鎖を首に下げ、常に神が自分のそばに
いる感覚がなくては安心出来ないのだろうと想像する
文化や環境の違いみたいなものが宗教に大きな影響を与えてしまう
イスラム教なども温和な日本人には到底理解できない宗教である

宗教も環境や国の状態によって相対的に形成される
日本には日本人にあった宗教形式が出来上がってきた
平和な時代が続く日本のような国は、宗教も穏やかであり
戦争が続く国は宗教はより厳しいもの闘争的なものに変質する

神は、仏像でも聖書でもお守りでも死者でもない、自分自身だ
仏教では”仏法僧”というが、それらは神や仏というより、
自分の仏性を磨く手段であり、あくまで自分を磨くのだ

「神も仏もあるものか」「自分の仏性を磨け」「自ら助ける」
「神や仏に会ったか?」「その神や仏はどこにいるのか?」
神や仏が実在するなど嘘誤魔化しなことは明らか
神社や寺や教会や聖地にいると言うので人は出かける
しかし、会ったという人はいまだかつていない
そうなのだバーチャルなものだ、高尚なバーチャルなのだ

主体はあくまで自分自身、だから宗教であり、信仰なのだ
分かったような宗教指導者マガイがテロや戦争を引き起こす
神・仏が、自分の周辺に常に存在しており、自分を守り・助けてくれ、
お賽銭をはずみ、念入りに拝むと手厚く助けてくれるのではない
あくまで自分自身が神なり仏になると解釈しないと合理性がない

自分がやるというのは、それが例え失敗してもやるべきことなのだ
自分がやらずに、誰かがやってくれるはずと多寡をくくるべきではない
人頼み、神頼みをしている人は、即刻その悪癖を止めねばならない
株式なども投資信託にばかり頼るのは良いことではない
あくまで自分で個別投資すべきで、依存はあくまで依存でしかない
他人頼み、神頼みの人生は例え上手く行っても、
本質的に得るものはない、博打人生でしかない
・欧米では神がおそば近くにいる
・日本では神や仏に自分が近づけ、神仏になれ

 神社・寺などは清々しい心や無や断捨離の情景を見る
 仏像は自分が目指す神や仏の崇高な姿のイメージ
  ※仏像そのものが有り難いのではない
  ※イメージ像であり、仏像自体が国宝でも神や仏でもない
  ※形あるものは国宝でも拝むべきものでもない単に芸術品
 僧侶は自分達の先輩・先生・生きるお手本
  ※身近にはいないが、高僧の本や講和を聴くのは役立つ
 お経は自分の心を戒める、鼓舞するものだと思っている、

しかしどちらも、
結論というか目的は、自分と神・仏が一体化すること
プロセス(過程)は異なるが私は日本の禅宗や仏教に軍配をあげたい

55歳以降山で暮らしを続け、
遅まきながら、やっと自分なりに宗教や信仰を考え始めた
私は最近旅行もしないし、あまり移動もしない、贅沢もしない
家事や大工や野菜作りは出来る、町の役員も引き受けている
最近72歳前後で始めたことは、絵描き・サイクリング・ストレッチ

駄目な自分の近くに、神がいて、自分に寄り添ってくれて
都合よく、いつでも助けてくれる、そんなことがあるわけがない
神を信じるだけで、都合良く、そんなことは起きない
むしろ、そんな甘えた考えは自分自身を不幸にするばかりだ

キリスト教信者さんの説明は、本当にキリストそのものがいると言う
どうもキリスト教信者各位はそのように信じ込んでいるようだ
もし、そうだとしたら禅宗とは大きな違いだが
富士山を静岡から登るか山梨から登るかの違いに過ぎない
登り方やつらさや向き不向きはあるが、登るのは富士山頂上
真逆なようで求める結果は同じことなのだが、互いに理解し難い

世の中には神がいるとかいないとかの議論が出ることがある、
神が、現れていつも確実に助けてくれることはありえない
 霊を見たの、見ないの
 ご利益があったの、なかったの
 罰が当ったたの、当たらなかっただの
 賽銭が多いほうがよいの少なくても良いの
 いろいろな議論があるが、全て嘘誤魔化し、間違いでしかない

間違った考えによって、振り回わさ惑わされるのは良くない
そんなことで振り回わされるのは、信仰でも神でも仏でもない
神や仏は昔、存在していたのだが、今、復活も存在もしていない

世の中には神社や寺が沢山あるが、私には不思議でならない
・本来さしたる意味のない神社や寺が維持していて驚く
・国が信仰の自由の保証などと税金を免除している
 ※一般企業同様に儲かる儲からないがある営利団体に思える
・信仰や宗教は国家の平和や安泰を保証するとでも言うのか?
・そんなことはない、宗教が戦争やテロを引き起こす例も多い
どちらにしろ宗教というのは、間違って関わると、むしろ危険だ

神が一人で世界中の全員寄り添う、助けることは物理的に不可
大体、神や仏に近い立派な僧侶でさえ数えるほどしかいない
自分が仏性に目覚め、周囲の人も目覚めれば周辺は神だらけ
そういう社会や世界は平和で望ましいが、まず実現不可能だろう
宗教が広く布教‏されているのに、世界も社会も争いが絶えない
自己主張の強い闘争的な宗教も沢山あり、争いの元になっている
地域毎に独自の宗教を信じているが実態は宗教間も対立している
私としては、そんなことでは宗教や信仰の価値は全くないと思う

宗教というのは難しくすると人が離れ、簡単にすると、効果が減る
帯に短したすきに長し、誠に宗教や信仰というものは根付かない
本来はきちんとした宗教が流布されていれば争いは起きないが
そうはならないので、政治家や経営者が国家や会社を運営し
嘘誤魔化しをばら撒いて世の中を混乱させるのである
いかに宗教や信仰が布教されても、世の中に苦悩はなくならない

宗教は信仰は金やダイヤモンドのように、全員が豊かに持つことはない
ごくごく一部の僧侶や熱心な信者だけが有する
だから世界や社会全体に光が当たる事など決してないのである
世界や世の中は幾ら平和で豊でも暗い闇で覆われている

私は、霊とか神がかりみたいなことは絶対に信じない
そんなものを信じると、確実に、どんどん迷って行く
神は言っている「神は自ら助ける者を助ける」とね「そのとおり」

・自分が神になるのならば頷ける
・自分自身が神になり、自分に寄り添い
・自分を見守り・助けることは可能なのだ
・自らが自分自身を助けることになるのだ
・自分自身を信じなさい

人は一生かけて神(仏)になる道を歩むことが必要ということ
そうしないと
 ・神(仏)はいない
 ・神(仏)は貴方を見守ってなく
 ・神(仏)はいつも貴方とともにおらず
 ・神(仏)は必ず貴方を助けてくれない
 ・神(仏)は信じられない

神様をお参りした帰りに交通事故に遭い死んでしまったのは、
その人に「神はいない、見守らず、助けてくれない」ことになる
幾らお参りしても自分が神になる努力をせず、
神からほど遠い生き方をしていたことになるのだ

禅宗で白隠禅師座禅和讃で「衆生本来仏なり」という
すなわち、仏とは自分のことなのだ
仏性があることを自覚せずフシダラな生き方をしている人に
仏はいないことになる
だから
何となく仏像を拝んだり、寺院巡りをやっているのではご加護はない
仏像は像、像はイメージ、仏像は神や仏ではない、
あまりに仏像をあたかも本物の神・仏のように拝むべきではないと思う
賽銭を沢山やるか、拝む回数や丁寧さも関係ない
葬儀が、墓石が、礼拝の仕方が、仏壇が、戒名がどうのではない
ひたすら自分自身の仏性に目覚め、磨かなければならない


在家だろうが出家だろうが、
自分の中に本来ある仏性を磨かなくてはならないのだ
キリストさんや仏様が貴方の近くにいて守ってくれるわけではない
神を崇め、神の力で何とかしようというのは間違い
「困った時の神頼み」は完璧な間違いなのだが
何故か人は困ると神社や寺に出かけ、お賽銭をあげて拝む
いくら丁寧で賽銭をはずんだところで神や仏の加護はない

仏像・賽銭・念仏・お祈り
 やらないよりやったほうがよいが、直接的な効果はない
座禅・修行・勉強・作務・山に篭って日々地味な研鑽を
真剣にやり続ける

たかが信仰されど信仰
きちんと真面目にこつこつと
そして大事なことは
頭で、あれこれ考えることより、むしろ頭を空っぽにして
無心で身体を動かすこと
平常心、笑顔と笑いを忘れない

ところで
白隠禅師座禅和讃を唱えられますか?

私が唱えるのが
 ・般若心経
 ・座禅和讃
 ・四弘誓願文
 ・食事五観の偈
 ・菩提和讃

座禅や禅宗を知らない人もお経は是非暗記するまで唱えて欲しい
お経は、自分が仏に近づけるように仏前で誓うことなのである

あと毎朝仏壇で唱えるのが
南無阿弥陀仏 
具体的には次のように唱える
(おはようございます、昨日はありがとうございました。
なんまんだ、なんまんだ、なんまんだ、なんまんだ、
なんまんだ、なんまんだ、なんまんだ、なんまんだ、
なーむあみだぶつ、なーむあみだぶ、
本日もよろしくお願いします)

それ以前に大事だったことは、
都会暮らしを捨て、一人で自然だけの山暮しを長く続けたこと
年月はかかるが、手っ取り早いのは山に長年篭ること
人という嘘誤魔化しを断ち切り、嘘誤魔化しの無い自然に暮らす
自分の仏性を取り戻す近道であろう
麻薬患者が麻薬を断ち切るために専用個室に拘束されるようなもの
・まず過去染み付いた嘘誤魔化し・間違いを捨てる
・部屋の整理整頓清掃
・生活ルールの見直し
・身体を正し、健康的な暮し
・心を正す
山暮しを勧めるが、都会人は臆病だ、「なぜ、こんなところに住める?」
すでにそういう心が信仰から遠いのだ
なにか怖がる、面倒臭がる、嫌がる、そんなことで神・仏になれもんか
まず自然と楽しく交わることが出来ない、そんな人間には信仰は無理だ
私の経験では、どんなところにも住めるというのは信仰の一つの条件だ


以上、宗教や信仰について述べたが、雑駁な分かりにくい話で
恐縮です。間違いもあると思うが、あくまで現在74歳の私の考え
しかも雑感に過ぎません、どうぞ皆さまも自分自身で考えて下さい
間違いもあるかもしれませんが、考えるヒントになればと書きました

価値基準が経済とか効率とか利益ではなく宗教感から見て欲しい
そして暮らしや生き方や人との付き合い方を正しく律して欲しい


夏暑いので部屋で1時間ストレッチや体操や筋肉トレをやっています
毎日スーパーまでサイクリング、夏以外は一日30分ポールウオーキング
空地の草むしり、野菜作り、室内壁打ち卓球、大工。片づけ・・・
禅修行では作務も大事な修行の一つです、身体動かしていますか
高齢化で歳だからと諦め神頼みにせず、自力で身体を動かすこと
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