10月31日 読売手帳
西鉄の“鉄腕”稲尾和久投手は新人の年、
巨人との日本シリーズ初戦に1イニングだけ登板した。
1956年(昭和31年)である。
打席に川上哲治選手が入った。
稲尾投手は無意識のうちに一歩、二歩とマウンドから歩み寄り、
「よろしくお願いします」と帽子を脱いで敬礼してしまったという。
「勝負の世界で“よろしくお願いします”もないものだが…」と稲尾さんの回想にある。
“打撃の神様”と呼ばれた川上さんが93歳で亡くなった。
野球を知らない人も“赤バットの川上”は知っていた。
川上さんがシーズンを通して赤いバットを用いたのは1947年(昭和22年)たった1年だけという。
テレビのなかった当時、
赤バットを実際に見た人はそういないはずである。
多くの人は打席で一閃いっせんする赤い色を瞼まぶたに浮かべて、
混乱と窮乏に生き惑う日常を忘れたのだろう。
背番号「16」は戦後史の1ページでもある。
折しも、
巨人と楽天による日本シリーズのさなかである。
昨夜も天上のベンチから熱戦を見守ったことだろう。
「昔はボールが止まって見えたな…」などと、
熊本なまりの温かい抑揚でつぶやきつつ。
西鉄の“鉄腕”稲尾和久投手は新人の年、
巨人との日本シリーズ初戦に1イニングだけ登板した。
1956年(昭和31年)である。
打席に川上哲治選手が入った。
稲尾投手は無意識のうちに一歩、二歩とマウンドから歩み寄り、
「よろしくお願いします」と帽子を脱いで敬礼してしまったという。
「勝負の世界で“よろしくお願いします”もないものだが…」と稲尾さんの回想にある。
“打撃の神様”と呼ばれた川上さんが93歳で亡くなった。
野球を知らない人も“赤バットの川上”は知っていた。
川上さんがシーズンを通して赤いバットを用いたのは1947年(昭和22年)たった1年だけという。
テレビのなかった当時、
赤バットを実際に見た人はそういないはずである。
多くの人は打席で一閃いっせんする赤い色を瞼まぶたに浮かべて、
混乱と窮乏に生き惑う日常を忘れたのだろう。
背番号「16」は戦後史の1ページでもある。
折しも、
巨人と楽天による日本シリーズのさなかである。
昨夜も天上のベンチから熱戦を見守ったことだろう。
「昔はボールが止まって見えたな…」などと、
熊本なまりの温かい抑揚でつぶやきつつ。