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苦境のフジモリファミリー 分断進むペルー

2018-12-16 07:00:00 | 報道/ニュース

11月15日 国際報道2018


経済成長進む南米ペルー。
一方で格差が広がり貧困層と富裕層の分断が進んでいる。
その貧困層から根強い支持を集めるのが
フジモリ元大統領と最大政党の党首である長女のケイコ氏などフジモリファミリーである。
これに対し中間層や富裕層を中心に支持を集める政権側は攻勢に出ている。

ペルーで今も大きな力を持っていると言われるフジモリ元大統領を中心とするフジモリファミリー。
アルベルト・フジモリ元大統領の子どもたちも有力な政治家へと成長している。
長女のケイコ氏は
これまで2度大統領選挙に立候補し
格差の是正を訴え貧困層を中心に支持を得た。
今も最大政党の党首で次期大統領の有力候補となっている。
次男のケンジ氏も前回の選挙で議員最多の得票で当選。
ペルーでいま最も人気のある政治家と言われている。
一方 現職のビスカラ大統領。
景気の回復や雇用の改善など経済政策を積極的に打ち出し
富裕層や知識層から支持を得ている。
ビスカラ大統領は定数130のペルー議会で10議席ほどの少数派の政党に属していて
議会で61議席を占めるケイコ氏の政党に圧倒されている。
現政権にとってはフジモリファミリーはいわば“目の上のたんこぶ”のような存在である。

首都リマの貧困層が多く住む地域。
トタン屋根の家が密集し電気や水道も十分に整備されていない。
この地区を取り囲むように築かれた全長10㎞の壁。
隣接する富裕層の住民が貧しい人が入り込むのを防ぐために作ったのである。
社会から隔絶され貧困に苦しむ人たち。
彼らの多くがフジモリ元大統領の再来を望んでいる。
その理由はフジモリ元大統領が力を注いだ貧困層の救済にある。
その政策を象徴するのが首都リマの郊外にある町
その名も「アルベルト・フジモリ」である。
20年前にフジモリ元大統領が支援して作られた。
町には長女のケイコ氏が父親の支持者を集めて起ち上げた政党の旗が掲げられている。
フジモリ氏は貧困層の生活改善のため
都市と地方の間にインフラを整備。
何も無かった砂漠に建設されたこの町はいまでは人口3万の町に成長している。
バラックのような建物に家族と共に暮らしていた女性はこの町の誕生とともに移り住んだ。
「フジモリ氏にはとても感謝しています。」
フジモリ氏の政策がなければ路頭に迷っていたという。
これからのこの町でフジモリ氏を支持し続けるという。
「人格者であるフジモリ氏なら
 私たちのような貧しい人たちも救ってくれると確信しました。
 だからずっと支持してきたし
 今は彼の子どもたちも応援しています。」
貧困層の人々は長女のケイコ・フジモリ氏などフジモリファミリーにも期待を寄せている。
定数130のペルー議会での最大勢力は61議席を占めるケイコ氏の政党。
ビスカラ大統領が所属する政党を圧倒している。
しかしいまペルーの政治に変化が生じ始めている。
都市部など一部の地域や知事や市長の選挙で富裕層が支持する候補が当選するなど
政権側が勢いを増しつつある。
その要因の1つが経済成長である。
海外からの投資を積極的に呼び込み
2018年の経済成長率は10%近くに達するという見方もある。
政権側はこのタイミングを絶好のチャンスととらえ攻勢に出ている。
10月 大手ゼネコンから違法な金を受け取ったとして逮捕されたケイコ氏。
裁判所はケイコ氏が海外に逃亡する恐れがあるとし
3年間拘束することを認めた。
裁判が行われている建物の前では
フジモリファミリーを支持する市民と反発する市民と衝突が起き混乱が拡大。
深刻な対立によって国民の分断が広がっている。
「こんなの茶番だ。
 反フジモリ派の仕業だ。」
「フジモリファミリーは犯罪者集団だ。」

10月にペルーで行われた統一地方選挙でケイコ氏の政党は思うように指示を伸ばせなかった。
ケイコ氏の政党はこれまで知事や市長のポストをほぼ独占してきたが
経済が好調な都市部を中心に多くの候補が落選した。
ケイコ氏の捜査を進める検察官のなかには
父親のアルベルト・フジモリ氏が大統領だった時代に
テロリストだとして弾圧された学生運動の元メンバーも多数含まれていると言われ
父親への恨みをいわば“娘で返している”という見方もある。
今後フジモリファミリーを支持する貧困層と
現政権側の富裕層・知識層との分断は一層深まりそうである。
政権側はケイコ氏に狙いを定めて捜査を継続する構えで
3年後の大統領選挙に立候補できるかどうかは微妙な情勢である。
そこでいま注目されているのがケイコ氏の弟のケンジ氏である。
地元メディアの多くは
ケイコ氏が厳しい状況に置かれている今
次にフジモリファミリーを率いていくのはケンジ氏になるとみている。
追い詰められるフジモリファミリーだが
支持者である貧困層の結束はむしろ強まっているようにも感じる。
ペルーの政治的な対立が終息するかどうかは
フジモリファミリーが引き続きカギを握ることになりそうである。



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銀座2丁目  メルジェリーナ (Mergellina)

2018-12-15 07:00:00 | グルメ

 

  


銀座一丁目駅から84m

http://www.mergellina.jp/




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日本ワイン快進撃!こだわりのブドウに秘密あり

2018-12-14 07:00:00 | 報道/ニュース

11月15日 おはよう日本



外国産のイメージが強いワインだが
いま注目されているのが
日本産のブドウだけを使い国内で醸造された日本ワイン。
国際コンクールで受賞が相次ぎ
世界中のワイン通をうならせている。

日本ワイン発祥の地 山梨県。
日照時間が長く
水はけのよい土地で
ブドウの栽培が盛んに行われてきた。
最高峰の大会で5年連続金賞に輝いたワインが造られた醸造所。
醸造責任者の三澤彩奈さんは100年近く続くワイナリーの後継者である。
フランスやチリなどでワイン作りを学んできた。
三澤さんの白ワインはほのかにリンゴの香りがする繊細な味わいが特徴である。
こだわってきたのは長年地元で栽培されてきた固有種「甲州」。
甘みの中に適度な酸味があるブドウである。
しかし「甲州」の糖度は16~18度。
美味しいワインにするためには20度前後必要で
少し糖度が足りない。
そこで三澤さんは栽培方法を大きく変えた。
それまでの棚の栽培では枝は横に広がり房もたくさんつくが
1つ1つの糖度を上げるには現愛がある。
そのため三澤さんは垣根栽培に切り替え
日当たりを良くして光合成の量を増やすとともに
畝(うね)と作って水はけをよくすることで地中から吸い上げる吸い上げる水分の量を減らそうとした。
こうすることで房の数を抑えブドウの風味も凝縮できると考えたのである。
すると数年後
糖度が25度の実が出現した。
これを増やして平均で20度を超える「甲州」を作ることに成功したのである。
(中央葡萄酒 三澤彩奈さん)
「従来の甲州の房とはまったく見た目も違っていたのですごく驚いた。
 醸造家が開拓しきれていなかった甲州の魅力があると思う。
 深みや複雑味のある味わい
 そういうものを追求していきたい。」
独創的な方法でわずか3年で銀賞を受賞した人もいる。
1人でワイン造りを行なっている渋谷英雄さん(56)である。
渋谷さんがこだわるのは「マスカット・ベーリーA」という日本の固有種。
フレッシュな果実の香りとほど良い甘さが特徴のブドウである。
(ドメーヌヒデ 渋谷英雄さん)
「日本の品種で世界を目指したい。
 おいしいワインを造りたい。
 日本独自のというのが大きくあった。」
もともとダイビングインストラクターなどの仕事をしていたが
ワイン好きが高じて50歳を前にワインの世界に飛び込んだ渋谷さん。
ほれ込んだ「マスカット・ベーリーA」をさらに濃い味に改良し
濃厚で深みのあるワインを造りたいと挑戦を続けてきた。
その1つが畑にまく水。
なんと海水を使おうというのである。
この日は海の無い山梨県から新潟県まで海水をくみに行った。
渋谷さんの畑はミネラル分が少ないため
海水を葉に吹きかけ補う。
試行錯誤を繰り返し枯れない濃度を見つけた。
さらに収穫のタイミングにも独自の理論がある。
ブドウを摘むのは月の引力が大きく影響する大潮の日。
このときこそブドウの実の水分が地中に引っ張られ
最も濃いブドウが獲れると考えている。
(ドメーヌヒデ 渋谷英雄さん)
「満ち潮引き潮の時にブドウを食べてみると
 みずみずしさが全然違う。」
そして造り始めて3年目の今年
手塩にかけた赤ワインを世界最高峰のワインコンクールに出品したところ
なんと銀賞を受賞した。
(ドメーヌヒデ 渋谷英雄さん)
「泣いちゃいました。
 このブドウで賞がもらえるとは思っていなかった。
今年からは味を凝縮させた干しブドウでワインを造るなど
あくなき挑戦は続いている。
(ドメーヌヒデ 渋谷英雄さん)
「もっとおいしいワインを造りたいというのと
 自分がやりたいこと信じていることを素直にやっていき
 その成果を見ていく。
 1年1年が勝負
 そんな感覚でやっている。」



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“コシヒカリ発祥の地” ブランド米競争に参戦

2018-12-13 07:00:00 | 報道/ニュース

11月14日 おはよう日本


福井県の新しいブランド米いちほまれ
全国での本格発売に合わせて県内や首都圏 関西圏などでCMを放送。
一方 この秋販売開始された富山県のブランド米富富富(ふふふ)のCMも。
さらに石川県も去年からブランド米ひゃくまん穀の販売を開始。
いまブランド米市場は空前の大混戦となっている。
背景には深刻な米離れがある。
国内での米の年間1人あたりの消費量はこの60年で半分にまで落ち込んでいる。
価格の下落も続くなか
県内の米農家は収穫時期が異なる複数の品種を育てることで収入の安定につなげている。
人口減少で今後も国内市場の縮小が見込まれることから
新しいブランド米をきっかけに県産米全体の底上げを図る狙いがある。
そのためにカギをにぎるのが県外へのPR。
いちほまれは今年
首都圏や関西圏など県外向けにおよそ2,000トン
県内向けのおよそ2倍の量を出荷する予定である。
しかし課題は知名度不足である。
62年前 農学博士の石墨慶一郎氏を中心にコシヒカリの開発に成功した福井県。
しかしコシヒカリ発祥の地が福井であることは県外ではあまり知られていない。
そこで今回 県とJAが力を入れたのが広告戦略。
CMだけで総額1億円以上を費やした。
(県福井米戦略課)
「基盤のない首都圏 関東方面については
 『福井ってどこ』から始まって
 『そこのお米なんですよ』しかも『コシヒカリじゃないんですよ』
 そうとうPRには力を入れていかないと。」
知ってもらった後は実際に食べてもらうこと。
県外でのデパートやスーパーでの販売戦略も強化した。
「コンシェルジュ」と呼ばれる専門の販売員を各地の売り場に配置。
炊きたてのいちほまれをふるまい
ターゲットにしている一般家庭の主婦層に直接アピールする。
(コンシェルジュ)
「もちもちっとして
 かんでいくと甘みも増しますので。
 つぶつぶ感があるので。」
(客)
「これ試してみますわ。
 お米買いに来たのよ。」
「デザインも良くて
 金で
 おいしそうに感じた。」
売場にはCMを流す小型のモニターも設置。
通りかかった客にもPRできるよう細かな工夫である。
いちほまれをきっかけに福井の米の品質の良さを知ってもらい
ハナイチゼンなど
より価格が安い多品種の販売にもつなげられるか
福井産の米全体の生き残りをかけた挑戦が始まっている。
(県福井米戦略課)
「“福井のいちほまれ”がバンと名前が出れば
 『いちほまれの福井県か』なのか
 『福井のコシヒカリ』なのか
 『ハナイチゼン』なのか
 『あきさかり』なのか
 全体の評価も上げられるのではないか。
 最終的には全国的なお米にしていきたい。」


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年末に向けて

2018-12-12 07:00:00 | 編集手帳

11月15日 編集手帳

 

 ロシアの西部地域に伝わることわざらしい。
<苦しいことは6日ごとにやってくる。
 喜びは100日おいてやってくる>

おそらく<6日ごと>に含みがある。
歓喜はなかなかこないのに、
苦痛はというと1週間と待たずにやってくるのである。
壁のカレンダーに目をやりながら、
ぼんやりしてしまった。
苦しいこと、
つらいこと、
困ったこと…
今年はあと何回あるのだか。

年賀はがきが発売された。
クリスマスケーキの予約が始まった。
NHK紅白歌合戦の出場歌手も発表された。
今年をたたみ、
来年を迎える準備があちらこちらで忙しくなっている。

若い人のふりはしない。
「キンプリ、純烈、あいみょん…」。
紙面の一覧で見た紅白初出場の歌手の名前が、
ちんぷんかんぷんである。
大みそか、
ああこんな歌がはやっていたのかとテレビ桟敷で感心するのが毎年の習いになっている。
たまっていく仕事にため息をつきつつ、
この初冬もとりあえずそこをめざそうと思った次第である。

年末に向け、
多忙を極める職場は多い。
きのう北海道旭川で初雪が降った。
平年より遅いとはいえ、
寒さは増すのだろう。
ご自愛を。


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第1次世界大戦終結100年 “平和活動”の狙いは

2018-12-11 07:00:00 | 報道/ニュース

11月12日 国際報道2018



人類史上初めて世界規模の戦争となった第1次世界大戦(1914-1918)。
死者の数は1,800万人にのぼると言われている。
フランスでは今も5万人の行方が分からず
遺骨の鑑定が続いている。
2度の世界大戦の反省からヨーロッパは
国家間の協調や話し合いでの問題解決を推し進めてきたはずだった。
しかしいま移民問題やEUのあり方などをめぐり分断が深まっている。
(イタリア サルビーニ内相)
「イタリアのルーツはイタリア人が決める!
 ドイツでもフランスでもEUでもない。」
11月11日にパリで開かれた第1次世界大戦の終結から100年の追悼式典。
フランスのマクロン大統領は各国の首脳を前に
“自国第一主義”や“排他的な風潮”に警鐘を鳴らした。
(フランス マクロン大統領)
「愛国心とはナショナリズムの対極にあるものだ。
 恐怖心から対立するのではなく
 希望を積み重ねよう。」
マクロン大統領が主催した式典には
アメリカのトランプ大統領やロシアのプーチン大統領など60カ国余りの首脳が参列した。
ヨーロッパでは社会の右傾化や排他的な動きが広がる現状が
第1次世界大戦から第2次世界大戦へと向かった1930年代と似ていると指摘されるなか
ここ最近 マクロン大統領の国際協調を訴える発言が目立っている。

第1次世界大戦の主戦場となったヨーロッパ。
1914年から4年間続いた戦争でヨーロッパを中心に約1,800万人が犠牲になった。
戦後処理はフランスなど戦勝国主導で進められ
1919年 敗戦国ドイツにばく大な賠償金を課したベルサイユ条約が結ばれた。
しかしこれが重い負担となりドイツ市民は苦しい生活を強いられた。
こうしたなか
ポピュリズム大衆迎合的な政策を掲げ国民に絶大な支持を受けたのがナチスだった。
ヒトラーのもと1930年代の選挙で躍進し
ドイツは第2次世界大戦へと突き進み
ヨーロッパは再び戦場となってしまう。
この2度の世界大戦の反省から生まれたのが現在のEU=ヨーロッパ連合である。
多国間主義=加盟国が協力して問題解決にあたることを理念としてきた。
しかしいまヨーロッパの各国ではEUに懐疑t機な勢力が支持を伸ばし
EUの理念が揺らいでいるとの懸念が出ている。

第1次大戦から100年の節目に合わせフランスが力を入れているのが“平和教育”である。 
パリ市内の小学生たちが向かったのは大戦で犠牲になった兵士の慰霊碑。
慰霊碑には兵士の横顔が刻まれていて
子どもたちはスケッチをして気づいた点を書き留める。
「つらそうだけど
 肩の上に平和の象徴のハトがいます。」
第1次世界大戦に関する授業を夏休み明け以降毎日のように行なってきたクラスがある。
終戦100年をきっかけに
戦争から教訓を学んでほしいとの考えからである。
「慰霊碑を見てどんなことを思いましたか?」
「兵士がフランスを守るために勇敢に戦って亡くなったことに悲しくなりました。」
「慰霊碑の兵士は友だちを失い
 自分だけが生き残って悲しんでいるように見えました。
 戦争よりも平和がいいと感じました。」
フランス政府は5年前から
自治体・市民団体・学校などが第1次大戦を振り返るプロジェクトを後押しし
その数は6,000件を超えた。
教育とともに力を入れているのが大戦にまつわる品々の収集である。
ドイツ軍の砲撃を受けた教会のステンドグラスは市民が自宅に保管していたものである。
ほかにも個人が持っていた写真やヘルメット
戦場の兵士が書いた日記など
幅広く提供を受けている。
こうして集まったものに市民が気軽にふれることができるよう
デジタル化してインターネットで公開しているのである。
(大戦終結100周年行事 責任者)
「兵士だけでなく市民の戦争体験も知ることができます。
 共通の歴史を記憶することで
 社会の絆が強まります。」
大戦終結の節目にあたる11月
マクロン大統領は1週間かけて当時の激戦地10か所以上をまわった。
10日にはドイツが休戦調停に調印した北部コンピエーニュにメルケル首相を招待し
あらためて不戦の誓いを立てた。
(フランス マクロン大統領)
「流血や苦しみ・涙を乗り越えて得られた
 貴重な平和・友情を守らなければならない。」
マクロン大統領が歴史を振り返る重要性を訴えていr背景には
いまのEUが置かれた状況がある。
2度の大戦の反省から
各国が協力して問題解決にあたるという理念のものに生まれたEU。
しかしヨーロッパではいま
EUに失望する市民が増え
自国第一主義を掲げる政党が支持を伸ばしている。
ドイツでは右派政党「ドイツのための選択肢」が躍進。
イタリアやハンガリーでは
移民の受け入れ制限など排他的な主張を掲げEUに批判的な政治家が政権をとった。
来年5月に予定されているヨーロッパ議会選挙では
こうした勢力の結集を目指している。
(ハンガリー オルバン首相)
「多くのことを変えたい。
 欧州には新しい委員会都議会が必要だ。」
(イタリア サルビーニ内相)
「マクロン大統領の支持率は非常に低く
 外国の政府に説教を述べてばかりだ。」
専門家は
今のヨーロッパは1930年代に排他的な勢力やファシズムが台頭し
第2次大戦につながった状況と酷似していると指摘する。
(国際政治学者 ドミニク・モイジ氏)
「人々が恐怖にとらわれ
 排他的になり
 極端な国家主義に陥る姿は当時とそっくりだ。
 大衆迎合の政治が平和を脅かしたことを忘れてはならない。」
こうしたなかフランス大統領府は
先月 議会選挙に向けたPR動画を公開。
ヨーロッパの協調を訴えるマクロン大統領だが
排他的な主張を掲げるイタリアやハンガリーの政権幹部の言動を厳しく批判している。
動画は公開から2週間余りで100万回以上再生され
波紋を広げている。
自国第一主義との対決姿勢を強めるマクロン大統領。
市民の間では違和感を感じる人も出ている。
「自分の考えと違う人を“ポピュリスト”と決めつけている。
 まだまだ若くて世の中の現実が見えていない。」
「マクロン大統領かファシストかの二択しかないと思い込ませようとしている。」



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筒井康隆さんの魅力

2018-12-10 07:00:00 | 編集手帳

11月11日 編集手帳

 

 フランス語で最も使用頻度の高いeの文字を一度も使わずにジョルジュ・ペレックは長編『煙滅』を書き上げる。

この実験作に発奮して、
筒井康隆さんが執筆したのが小説『残像に口紅を』である。
あいうえお45文字と濁音・半濁音が、
話の進行につれて一文字ずつ消え、
最後は「ん」だけが残るという驚天動地の作品だ。

常に高度な実験に挑みつつ、
大衆性を失わない。
類いまれなる筒井さんの魅力を総括するのは難題で、
ある意味、
実験的な催しと言えよう。
東京の世田谷文学館で開催中の筒井康隆展を見た。
「1960年2月12日午後10時32分。
 阪急電車梅田―千里山間の車内で作家になろうと決意」など年譜の文言がもう楽しい。
資料も1000点、
現役作家では異例の規模だろう。

<ああびっくりした。
 「私の展覧会」などというものがあってたまるものか…
 開会までにおれが死んだ場合は別であるが、
 今のところそんなに早く死ぬ予定はない>とは、
ご本人が寄せた一文である。
御年84歳。

以前に、
テレビで又吉直樹さんが語っていたのを思い出す。
「小説退屈やん、って言われた時の切り札が筒井さん」



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お遍路文化を学ぶアメリカ人

2018-12-09 07:00:00 | 報道/ニュース

11月12日 おはよう日本


お遍路さんが身にまとう白衣を着た女性。
アメリカから徳島県にやってきた オリビア・キベルさん(24)である。
去年ハーバード大学を卒業したオリビアさん。
四国遍路の文化を学びたいと
大学の奨学金を得てやってきた。
きっかけは3年前の夏休み。
スペインの巡礼道を尋ねたことである。
旅の途中で会った巡礼者から
遠く離れた日本にある“もうひとつの巡礼道”について聞いた。
そこでは巡礼者をあたたかくもてなす文化“お接待”が根づいているというのである。
(オリビア・キベルさん)
「私がとても興味をひかれるのは
 他人に対する寛容な行為を通して人々がつながり合うとはどんなことなのか。
 このことは特に四国遍路にあてはまると思います。」
念願かなって日本を訪れたオリビアさん。
一番札所 鳴門市の霊山寺の近くにあるお遍路さんの宿でボランティアを始めることにした。
オリビアさんがお遍路について学ぶ先生は
宿の管理人 76歳の高原道隆さんである。
高原さんは20年以上かけて100回以上四国遍路をめぐったお遍路の達人。
何気ない朝食もオリビアさんにとって学びの機会である。
実はこの朝食
“お接待”として無料でふるまわれているのである。
宿の朝食から
お遍路さんをもてなすあたたかい心を学んだ。
オリビアさんは“お接待”の文化が地域に深く根ざしていることにも気づいた。
この日 授業の一環として四国遍路を学びにやって来た地元の中学生の輪に加わった。
中学生と一緒に
お茶などをふるまう“お接待”に取り組む。
1時間以上たちっぱなしでお接待を続けていると中学生がお茶をふるまってくれた。
オリビアさんは“お接待”の文化が教育の場でも若い世代に伝えられていることに驚いた。
“お接待”の心を少しずつ学んできたオリビアさん。
積極的に“お接待”にも挑戦する。
この日オリビアさんが声をかけたのはフランスとスイスから来たという二人組。
四国遍路は初めての経験だという。
初めて訪れたふたりも無事に参拝することができた。
「彼女たちはとても親切。
 会えてとてもよかった。」
(オリビア・キベルさん)
「ここに来られて本当に幸運だと思っています。
 すでにたくさんのことを学びましたし
 ここの人々や精神に対して
 今まで以上に感謝しています。
 どうもありがとう。」
四国で暮らす人々が育んできた“お接待”の文化。
このあたたかな文化に共感する人が世界にも少しずつ広がろうとしている。



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銀座5丁目 吉野 三笠会館本店 (よしの)

2018-12-08 16:34:02 | グルメ




 
                  (食べログより)

 

 

地下鉄「銀座駅」 B5出口より徒歩2分
銀座駅から62m


http://www.mikasakaikan.co.jp/restaurant/japanese/yoshino/index



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“世界一の島” ボラカイ島 再開も・・・

2018-12-08 07:00:00 | 報道/ニュース

11月9日 キャッチ!ワールドEYES


海の水質汚染が深刻化し
半年ものあいだ閉鎖されるという異例の措置が取られた
フィリピン中部のリゾート地 ボラカイ島。

(フィリピン プヤット観光相)
「ボラカイ島の再開を宣言します!」
10月26日 半年間の閉鎖を経て観光客の受け入れが再開されたボラカイ島。
アメリカの旅行雑誌で“世界一の島”にも選ばれたビーチリゾート。
その再開を待ちわびた観光客たちが初日から次々と訪れた。
(日本人観光客)
「何回も来ているが
 前と比べるとゴミがなくなっているかなと楽しみにして来た。」
(ドイツ人観光客)
「きれいになった島で休日を楽しみます。」
観光客の立ち入りが半年間禁止されたことで
再び美しい海が戻っていた。
閉鎖される前の年には200万人の観光客が訪れたボラカイ島。
大勢の観光客を目当てに乱立したホテルなどが汚水をそのまま海に流していた。
その結果
売りだった青い海と白い砂浜には大量の藻と悪臭が。
閉鎖された半年間にフィリピン政府は島の改造に乗り出した。
しかし20年以上にもわたる無秩序な観光地開発がもたらした負の遺産が立ちはだかった。
地面の中から現れたのはホテルや住宅などが違法に設置した下水管。
下水道料金を支払うのを避けるため設けられたもので
ここから汚水が海に直接流されていた。
その数は当初の想定をはるかに超える2,000か所以上。
実態の把握もままならない状況に追い込まれ
閉鎖中の半年で改善するという計画は立ち消えになった。
急きょ政府が求めたのは
ホテルの自己負担で敷地内に下水の浄化槽を設けることだった。
営業再開のために800万円もかけて浄化槽を整備したホテル。
一方で多くのホテルは予期せぬ巨額の費用を支払えず
いまも6割以上のホテルが営業を再開出来ていない。
フィリピン政府は
「下水管の工事だけでなくホテルなど地元の人たちの意識を変える必要もあり
 抜本的な解決には時間がかかる」と話す。
(観光インフラ企業経済区庁 COO)
「多くの人は下水管を設置すれば何を流しても良いと思っているんです。
 我々はインフラの整備だけでなく
 意識改革もしなければならないのです。」
下水問題とともにフィリピン政府は
大勢の観光客を受け入れるためのインフラの整備に取り組んでいる。
しかし市民の生活を顧みない強引なやり方に反発も広がっている。
ビーチにつながる狭い道沿いに違法に建てられていた住宅やレストランは全て取り壊し。
汚水を海に流していたとみられる建物を減らすとともに
リゾート地にふさわしくない交通渋滞をなくすために道路を広げた。
道路の拡張に合わせて半分が切り取られた家。
家の持ち主の65歳の男性。
十分な説明も受けられないまま
20年以上家族と共に暮らした家を失った。
(家の持ち主)
「政府の人間に“協力しないと訴える”と言われたんです。
 何のための道路拡張なんですか。
 ここは観光角の来る遊泳場じゃない。
 政府が何を考えているのか分かりません。」
この他にもフィリピン政府は
排ガスを減らそうと
島で唯一の公共交通である三輪タクシーの電動化を進めている。
そのしわ寄せを真っ向から受けているのが
これまでガソリンの三輪タクシーを運転していたドライバーたちである。
ガソリンの三輪タクシーを15年運転してきたドラ―バー。
電動の三輪タクシーを会社から借りる料金が
収入の半分以上になってしまうため
生活ができなくなるという。
今後 島ではガソリンの三輪タクシーは禁止されるため
ほかに選択肢は無いということである。
(三輪タクシー運転手)
「政府の支持なのでどうしようもない。
 反対したけど聞いてもらえなかった。」
半年間の閉鎖を経て再開された“世界一の島”ボラカイ島。
今も乱開発がもたらした負の遺産と向き合い続けている。





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ヨーロッパ仕立ての愛を、柔らかな調べにのせて

2018-12-07 07:00:00 | 編集手帳

11月9日 編集手帳

 

 1970年代初め、
日本の音楽界はあるミステリーに沸いた。
発端は仏クラシック界の大物チェリストが来日中に漏らした一言だった。
「あれは私の曲だよ」

当時はフランス映画ブーム。
街のいたるところで『男と女』や『白い恋人たち』の音楽がかかり、
フランシス・レイという作曲家が知られていた。
レイはクラシック音楽家の仮の姿か? 
謎が深まるなかレイ氏が取材に応じ、
チェリストの冗談だとわかった。

この騒ぎもファンの関心ゆえだろうか。
レイ氏が86歳で亡くなった。
サントラ盤がレコード店の中央に置かれた時代を懐かしむ方は多かろう。

かつて本紙に映画音楽にかかわる喜びを語っている。
「音楽をせりふ同然に使い、
 観客の想像にゆだねる。
 それが面白いのです」。
『ある愛の詩(うた)』は越路吹雪さんが岩谷時子さんの訳詞でカバーしている。
『愛と哀(かな)しみのボレロ』は戦争に引き裂かれた家族の愛を描く。
ヨーロッパ仕立てのさまざまな愛を、
柔らかな調べにして運んだ人だろう。

当欄の前段で『男と女』と書いたところ、
しばらく耳の奥にメロディーが響いて止まらなかった。
♪ダバダバダ…


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登山家・平出和也 未知の山へ挑む理由

2018-12-06 07:00:00 | 報道/ニュース

11月8日 おはよう日本


日本を代表する世界でもトップレベルの登山家 平出和也さん。
今年9月に
“登山界のアカデミー賞”とも呼ばれ
世界的に優れた登山家に贈られるピオレドール賞を受賞した。
誰も登ったことのない山やルートにこだわった挑戦が評価された。

エベレストをはじめヒマラヤの8,000m級の山など
世界の名だたる山の頂に立ってきた平出和也さん。
こだわっているのが未踏峰や誰も登ったことがない新ルートを登ることである。
今回 ピオレドール賞の受賞のきっかけとなったのが
パキスタンにあるシスパーレ(7,611m)の登頂である。
これまで登られたことのない標高差2,700mの北東壁を制覇した。
(平出和也さん)
「人が歩いていない
 自分が初めて歩いて
 自分の足跡が道になるような活動をしたいと思っていた。
 課題を見つける嗅覚は僕の中では大切だと思っていて
 インターネットで簡単に答えが見つかってしまう時代だとは思うけど
 正直そんなもの全くない。
 すべて自分で探す。
 すべて自分で決断して。
 だからこそやりがいがある。」
実は平出さんはシスパーレにこれまで3回挑んでいる。
今回4回目にして初めて登頂に成功した。
失敗を重ねてきたからこそ数多くのことを学んだという。
(平出和夫さん)
「登れなかったときほど自分に何が足りないのか。
 登山家としてもそうだが
 大きく言えば
 人間として何が足りないのか。
 そんなことを教えてくれる場所が僕にとっては山。
 昨日の自分よりちょっと頑張ってみようかなという
 その積み重ねをしているような感じがある。」
そして平出さんはいま次の目標に動き出している。
目指すのは世界で2番目に高山 K2。
遭難者が多く
その厳しさから「魔の山」と呼ばれている。
平出さんは誰も足を踏み入れたことがない新ルートに挑むべく
この夏 偵察登山に向かった。
ほとんど情報の無い 道なき道。
ロープでつながっていたパートナーが氷河の継ぎ目クレバスに落ちてしまった。
平出さんは
「年を重ねるごとに山の怖さが増しその分冷静に考えるようになっている」という。
(平出和夫さん)
「困難を目前にした時
 それが危険なのか
 困難なのか
 そのどちらなのか考える。
 危険であればもちろん命がかかっているので帰る。
 でも困難であれば
 自分が努力すれば自分が頑張れば克服できる。
 困難であれば果敢に挑戦する。
 そんな判断で登山をしている。」
偵察登山では
標高差3,000mに及ぶまだ誰も登ったことがない岸壁を自分の目で確認することができた。
壁を前にして平出さんは
課題を1つ1つ克服していけば
人類未踏のルートからK2にのぼることも夢ではないと感じたという。
(平出和夫さん)
「雲の上の自分になれないと挑戦できないような挑戦に魅力を感じていて
 それは自分が成長すればできるようになる。
 僕たちは限られた時間の中で生きているので
 だからこそまだ知らない自分に出会ってみたいという
 そんな好奇心がそうさせているのではないか。」



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“独裁者”フランコ総統 進む歴史の清算

2018-12-05 07:00:00 | 報道/ニュース

11月7日 キャッチ!ワールドEYES


1970年代まで40年にわたってスペインを支配した独裁者フランコ総統。
フランコ総統の遺体は国の慰霊施設で手厚く埋葬されているが
今年発足したサンチェス政権は
「ほかの戦没者に敬意を欠く」などとして別の場所に移す方針を決定した。
独裁政権を否定し歴史を清算するのが狙いだが
フランコ総統の遺族や保守派などは強く反発している。
フランコ総統については独裁者と評価がある一方
国を飛躍的に発展させたなどとして
いまだに英雄視する市民も少なくない。
スペインはいま歴史の清算にどのように向き合おうとしているのか。

10月 スペイン中部の山間部で重機が路肩を降り起こしていた。
フランコ総統の支持者によって殺害された人たちの遺骨を発掘する作業である。
スペインでは今も11万人余がこうしたかたちで埋まっていると見られ
各地でNGOなどによる発掘が行われている。
(NGO 歴史記憶回帰教会)
「2000年からこれまでに約8,000の遺体を掘り出しました。
 国内に複数の人が埋められている場所が2,500か所あるとみられています。」
80年余前2人の親族がここで殺害され埋められたという88歳の女性。
(遺族)
「このあたりに2人が埋まっています。
 正確な場所は分からないけど
 父方の叔父さんとその甥です。」
2人はフランコ派の男たちに射殺されたという。
村の住民も多くが知っていたが
独裁体制が続く中ではこの話に触れることはタブーだった。
「なぜ殺されたのか。
 共産主義だったから。
 ただそれだけの理由です。
 遺骨を掘り起こしていると
 村の人たちに伝えたのに皆 無関心です。
 言葉がありません。」
1930年代スペインで起こった内戦で
フランコ将軍率いる反乱軍が勝利。
その後40年にわたり独裁体制を築き
この間 左派など反体制派を中心に数十万人が弾圧により殺害されたという。
フランコ総統の死から40年余。
いまだに影を落とす独裁時代の過去を清算しようという取り組みが動き始めている。
首都マドリード近郊にある国の慰霊施設 戦没者の谷。
フランコ総統の指示で建設されたこの施設には
スペイン内戦の戦没者3万人余が埋葬されていて
自信も手厚く葬られている。
ところが今年発足した中道左派のサンチェス政権は
独裁体制を否定するためフランコ総統の遺体を運び出す方針を決定。
遺族の希望に沿って別の場所へ移すとしている。
与党の議員は「独裁者が手厚く葬られている現状は民主国家にふさわしくない」と主張。
(社会労働党 オドン・エルロサ議員)
「国民を殺害し
 国の経済や文化に打撃を与えた独裁者が
 内戦などで亡くなった3万2,000人の人たちに背を向け
 名誉ある埋葬をされていることは
 民主主義の尊厳を損なうものです。」
これに対してフランコ総統の支持者は強く反発している。
スペインではいまもフランコ総統を
“国の礎を築き伝統的な価値観やキリスト教の教えを守った英雄”とみなす国民が少なくない。
フランコ総統の業績を伝える活動を行なっている財団。
チチャロ会長は「総統の遺体を移すことは歴史に対する冒とくだ」と訴える。
(フランコ財団 チチャロ会長)
「何百万人ものスペイン人の気持ちを傷つけるだけだ。
 今のスペインがあるのは60年代に飛躍的に発展させたフランコ総統のおかげです。」
ところがいま話は思わぬ方向に向かっている。
マドリード中心部にあるアルムデナ大聖堂。
王宮に面し
多くの観光客らが訪れる。
フランコ総統の遺族は
ここの地下に所有するスペースに総統の遺体を埋葬する考えを明らかにしたのである。
首都の中心部にフランコ総統が葬られることには市民からも反発の声が上がっている。
(市民)
「大聖堂はだめです。
 誰にもわからないところにすればいいのに。」
「大聖堂に移すのであれば動かさない方がいいです。」
「総統の家族が埋葬されている別の場所に移せばいいのに。」
大聖堂の近くにある店では
遺体が移されると大聖堂が支持者が集まる
いわゆる聖地となり
対立の震源地になると不安を隠さない。
(美術品販売店 店主)
「巡礼の場所になるおそれがあり
 対立を生むようなことは避けるべきです。」

過去を清算する取り組みは
2007年に社会労働党率いる政権下で法制化された。
独裁体制を非難し
犠牲者の名誉を回復することや
フランコ派に由来する地名を改めるとしている。
しかしその後フランコ派の流れを生む中道右派の政権に変わったことで
この6年間は動きが止まっていた。
フランコ総統の遺体を移すことは
過去の清算に取り組む政権に交代したことを強く印象付けるもので
サンチェス政権にとっては重要な政策なのである。
遺族は自分たちが所有する大聖堂の地下に埋葬するとしているため
今のところ法的には問題がない。
このため政府は大聖堂を管理運営するカトリック教会も巻き込んで解決策を見出そうとしていて
副首相がバチカンを訪れた。
政府としてはカトリック教会が遺族を説得することを期待している。
しかし教会側は
この問題はスペイン政府と遺族の間で解決されるべきだという立場だと伝えられている。
このため政府は2007年に制定した法律を改正して阻止することも検討している。
ドイツやイタリアは第二次世界大戦で敗戦国となって
国際社会の厳しい監視の中で
独裁体制が明確に否定された。
しかし大戦では中立をつらぬき敗戦国にならなかったスペインは
独裁体制が存続し
総統の死後も否定されないまま民主化が進んだ。
それだけに国内にはいまだにフランコ総統をたたえる声も根強くある。
サンチェス政権としては国内に残る独裁政権の象徴を取り除くとともに
いまだ地中にある犠牲者を家族のもとに返すなどして
過去の清算を進めるとみられる。
しかしフランコ総統の遺体を移すという今回の取り組みでも難しさが浮き彫りになったように
抵抗勢力は少なくない。
スペインが過去との決別を果たせるのか
サンチェス政権の手腕が問われている。




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前駐イラク大使 SNSで大人気の訳

2018-12-04 07:00:00 | 報道/ニュース

11月5日 国際報道2018


インフルエンサーとは
ツイッターやインスタグラムなどのソーシャルメディアで大きな影響力を持つ人々のこと。
イラクで話題となった動画。
今年7月までイラク大使を務めた岩井文男さんである。
(在イラク日本大使館フェイスブックより)
「今日はとても暑いけど
 断食で体調崩さないようにね。」
W杯出場をかけた日本とイラクの試合に合わせて投稿され
大使館の動画としては異例の70万回以上の再生を記録した。
あなたの発音はとても素晴らしい
日本の大使はみんなの心をつなげてくれる
イラクには3度目の駐在だった岩井さん。
本来であれば町で人々と直接交流したいと考えていた。
しかし当時のイラクは過激派組織ISイスラミックステートとの戦闘の真っ最中。
外国人が外出するのは難しい状況だった。
そこで思いついたのがSNSを使った動画配信だったという。
(前駐イラク大使 岩井文男さん)
「人々と触れ合って
 日々何を考えているか
 じかに聞きたいが
 それができないのでSNSでなら
 日々イラクの人が何を思って生きているのかを感じられる。」
その後も岩井さんはイスラム教の祭りや日本の正月などに合わせてメッセージを次々に発信。
大使館のフェイスブックのフォロワーは11万人と就任前の40倍にまで伸びた。
現地のファンから肖像画をプレゼントされるなど岩井さんの人気が高まった。
(前イラク大使 岩井文男さん)
「私が意図してアラビア語で発信し
 時にはイラクの方言で発信し
 外国人だけどこの人はイラクのことを考えていると伝わったのかな。」
岩井さんは帰国した今も個人のアカウントを使ってアラビア語での投稿を続け
イラクの人々と交流している。
この日“NHKの取材を受けている”と投稿すると
「4分で“いいね!”は117になりました。」
インフルエンサーとなりイラクの人の心をつかんだ岩井さん。
その秘訣は現地の人に寄り添うことだという。
(前駐イラク大使 岩井文男さん)
「食べ物であれ
 着るものであれ
 いろいろと観察して
 そして彼らとともに嘆き悲しむ。
 私自身を彼らが身近に感じてくれた。」
イラクの日本大使館では現在も後任の大使やスタッフが投稿を続けている。




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新潟からフランスへ ル レクチェの里帰り

2018-12-03 07:00:00 | 報道/ニュース

11月5日 おはよう日本


洋なしの品種 ル レクチェ。
このル レクチェは新潟市が地元のブランド品として売り出そうとしているが
そこで取り組んでいるのが原産国フランスへの里帰りである。
10月 新潟市の職員がパリを訪れた。
面会したのはフランスで広い人脈を持つ人物である。
「ル レクチェのおいしさを伝えるイベントをしたい。
 どういう風に伝えたら心に響くか。」
「フランス人はコンビネーション好き。
 例えばル レクチェとチーズ
 ル レクチェとお酒。」
19世紀からフランスで栽培されていたル レクチェ。
しかし病気に弱く栽培が難しいことから
フランスでは栽培されなくなった。
新潟で栽培が始まったのは明治時代。
ロシアのウラジオストクへ輸出しようと
農家の小池左右吉氏がフランスから苗木を輸入したのが始まりである。
しかし当時は生産が安定せず商売にはならなかった。
それでも料亭など一部で人気があったため細々と栽培は続いていたという。
(小池左右吉氏の孫で農家)
「ひとつ食べればやめられない味。
 香りが良くて甘みが強くて。」
“幻の西洋なし”とも言われていたル レクチェが表舞台に登場したのは1980年代だった。
大きな理由は減反政策。
新潟県はコメと並ぶ特産品にしようと栽培技術の研究を始めたのである。
品質の良い果実を安定的に収穫するため試行錯誤を繰り返した。
そしてマメナシという木に接ぎ木するのが最も適していることがわかったのである。
ル レクチェが新潟にやってきてから100年が経っていた。
(小池左右吉氏の孫で農家)
「桃栗3年 柿8年
 梨のばか野郎18年。
 辛抱強さがある。」
大切に育ててきたル レクチェを特別な価値を持った特産品としてもっと多くの人に知ってほしい。
その方法として新潟市が考えたのが原産国フランスへの里帰りだった。
去年には三つ星レストランのフランス人シェフ
ピエール・ガニェール氏に依頼してル レクチェのデザートを作ってもらい
「すばらしい食材だ」と高い評価を得た。
今年はパリで有名レストランのシェフやジャーナリストに食べてもらうイベントを企画している。
(Restaurant ES シェフ)
「何種類くらい作ってほしいという希望はありますか。」
「3~4種類くらいは欲しい。」
「生と火を入れたものを組み合わせたら
 すごくいいものが出来るような気がする。」
(新潟市南区区役所)
「フランスが原産国でそれが新潟市南区に110年前に輸入されて
 その苗木を大事に育ててきて
 ル レクチェのとろけるような舌触り
 芳潤な香りという部分を説明して
 実際に食べてもらえばその良さは分かってもらえるかな。」
祖父が持ち込んだル レクチェをいまも大切に育てる孫も里帰りに期待を寄せている。
(小池左右吉氏の孫で農家)
「本当に素敵な話ですよね。
 いい品物に仕上げてフランスに定期的に送れればいいことだなと。」

 


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