secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

マン・オブ・スティール

2013-09-16 08:22:39 | 映画(ま)
評価点:65点/2013年/アメリカ/143分

監督:ザック・スナイダー

SFなんですね、スーパーマンって。

高度な科学技術によって発展してきた惑星クリンプトンは、発達しすぎたため破滅の危機に瀕していた。
ゾッド将軍は元老院に対して楯突き、反乱を起こす。
危機を悟ったジョー・エル(ラッセル・クロウ)は自然出産で生まれた我が子を環境のよく似た地球に送り込む。
ゾッドの抵抗にあったジョーは、その場で殺されてしまう。
ゾッドの反乱は未然に防がれたものの、クリンプトンは崩壊してしまう。
それから33年後、地球。
クラーク・ケント(ヘンリー・カヴィル)は放浪の旅を続けていたが……。

ダークナイト」シリーズのクリストファー・ノーランが制作・脚本を担当したという話題作だ。
監督には「300」や「ウォッチ・メン」の監督であるザック・スナイダーを迎えた。
音楽はあのハンス・ジマー。
最近のノーランの映画の音楽を担当している人である。
さらに、バットマンとスーパーマンをコラボレーションさせた映画も制作が決定している。

何度もリトールドされてきた、スーパーマン。
果たしてどのような作品になっているのか。
どうやら脚本以外ではあまりノーランは細かな指示は出さなかったようだ。
シナリオはノーラン、ザックがメガホンという役割分担がなされていたらしい。

時間の関係上、私は2Dでしか見ることができなかった。
このところ、3Dの評判がよろしくない作品が多いので、それほど印象は変わらないと踏んだためでもある。

▼以下はネタバレあり▼

「スーパーマン」には全く興味がなかったので、これまでまともに見た記憶がない。
幼少期、テレビで放映されていたのを少し見た記憶がある程度だ。
あのダサいコスチュームに、甘いマスク。
変身もののヒーローではダントツで有名な作品だが、私にはあまりなじみがない。
それは「バットマン」も同じことだったので、そのあたりの思い入れは皆無だと思って以下を読んでいただこう。

新たに語り直しされるということで、「ビギンズ」と同じように、スーパーマンの生い立ちに多くの時間が割かれている。
私としては地球上での出来事がメインになると思っていたのに、クリンプトンでの出来事がかなりのウエイトが置かれて意外だった。
もちろん、このウェイトのかけかたは、何を描きたいのかという点に関わっている。

この物語は、クリンプトン対(現代の)地球という対立構造を持っている。
クリンプトンの象徴とも言えるのが、デザイン・ヒューマンのゾッド将軍である。
彼は生まれながらにして将軍という責務を背負っている。
なぜならクリンプトンの総ての人間(まあ、人類ではないけれど)は、意図的に作られた者であるという。
だから、彼の反乱は彼個人の暴走ではなく、惑星そのものに仕組まれた「逡巡」と言える。
彼は当たり前の責務を果たそうと、元老院に押し入るのだ。
それは徹底的に理性的に管理されたものである。
民を守る、彼のアイデンティティ、存在意義はそこにしかない。

対する地球は、自然分娩が当たり前に行われている世界だ。
理性で話し合う知恵を持ち合わせているが、感情のまま衝動的に動くという「未熟さ」を持っている。
同じように生まれたクラーク(=カル・エル)は、地球人たちの厳しい迫害に遭いながらも、全てを定められてしまった硬直したクリンプトン人と対立する。
自分が生まれた地の者たちのために戦うのか、それとも同胞たちとともに志を同じくするのかという選択を迫られる。

この物語が、いかにもノーラン風だなと思うのはこの対立軸だ。
多くの人はすぐにわかったことだろうが、この対立は「未来の地球」と「現在の地球」という対立である。
クリンプトン人は徹底的に理性で物事をとらえている。
人々は計画的に産み落とされ、どのような役割を担うのか、生まれる前から定められている。
発展した技術はあきらかに地球人たちより上だ。
故に、資源が枯渇し、他の地を探さざるを得なくなった。
地球はそこまで徹底的な合理主義に至ってはいない。
けれども、人間はこれまでの歴史の流れを見る限り、理性的で合理的な社会を目指そうとしてきたことは明らかだ。
だから、この対立は、いずれ人間が陥るだろうという意味において、未来と現在の対立なのだ。

枯渇していく資源をどのように分配するのかという問題は、国と国の共時的な問題ではなく、現在と未来の通時的な問題だと言ったのは岩井克人である。
ジョー・エルが、人類を信じろ、と息子に訴えるのは、行き過ぎた未来の地球の間違いをどのように正すのかという問いが込められている。

この映画はその意味で、サイエンス・フィクションでありながら、サイエンス・フューチャーでもある。

異星人であるクラーク・ケントが悩まされるのは無理もない。
父親から託された難題をいきなり迫られることになる。
やっと見つけた同胞をこの手で殺さなければならないという宿命を背負わされる。
それまで怪物として恐れられ、居場所を持たなかったクラークにとっては非常に厳しい決断である。
タイム・トラベルの話ではないが、ジョー・エルの立場から考えると過去に戻ってその過ちをただそうとする物語とも言えそうだ。

アメリカを象徴するコスチュームは、依然として受け継がれている。
ただし、今回の自由の意味合いは、重力からの自由、重く鈍い肉体からの自由ではない。
遺伝子に込められた宿命、理性的で合理的なクリンプトンからの自由だ。
生き方に縛られたゾッドは他の惑星を蹂躙することで生きるという道しか見出すことができなかった。
また、そもそもクリンプトンの人々は、合理的に物事を判断してきたにもかかわらず、思考停止に陥り、滅亡した。

しかし、自然分娩で生まれたカル・エルは、そうした「定められた生き方」から解放された唯一のクリンプトン人である。
選択することの自由、自分の意志で生きる自由を持つ人間として物語に置かれている。
かつてのスーパーマンがどのような意味合いにおいて「ヒーロー」だったのか比較することはできないが、少なくともこの映画ではそのように描かれている。
いわば「悩む自由」を有するヒーローをノーランは描いたのだ。
クリンプトン人としてではなく、人類のためにゾッドを殺すと言うことは、クラーク・ケントとして生きていくこと、もっと言うならアメリカ人として生きていくことを彼は選択する。
移民としてのスーパーマンでもあるわけだ。

ただ、私はそれほど心躍る印象を受けなかった。
一つはやはりSFすぎたということだ。
ゴテゴテとした「マイティ・ソー」のようなクリンプトンの世界観がなじめない。
脇役に魅力的なキャラクターがいない。
ラストに向けての物語の収束していく様がカタルシスにつながっていかない。
ジョー・エルが死んだはずなのに何度も出てきて、ありがたみがない。
ヒロインのエイミー・アダムスが私の好みではない。
などなど、いまいちおもしろく感じられなかった。
こんなことなら、ノーランが自分で撮って欲しかったというとザック監督のファンに怒られてしまうのだろう。

余談だが、気になったことがある。
青と赤のコスチュームはアメリカの国旗を意識したコスチュームであることは疑いない。
だが、マリア像の伝統的な描き方は赤い衣に青いマントをまとっている。
それを反転させたスーパーマンはどのような意味を持つのだろうか。
考え過ぎなのか、偶然なのか、私が無知なのか、だれか教えて欲しい。


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