評価点:36点/2004年/日本
監督:紀里谷和明
とにかく映像に「快」がない。
太平洋戦争が50年も続いているパラレルな世界。
戦争と、様々な公害に人々はつかれきっていた。
東博士(寺尾聡)は、「新造細胞」という細胞を人間の体内から見つけ出し、人間の体を自由に再生できる研究を会議で発表し、軍からの援助を得て一年が経っていた。
そんなある日、東の研究がはじまったころに戦争に行った息子の鉄也(伊勢谷友介)が、戦死したことを知らせる電話が、博士のもとに届く。
その電話を受け取ったとき、突如として研究所に落雷が起こり、行き詰っていた「新造細胞」の研究が完遂される。
しかし、よみがえった実験材料の人間たちは、あまりに「人間」とはかけはなれた姿をしていた。
危険を感じた軍は、彼らを抹殺しようと試みる。
なんとか逃げ出せた四人の「新造人間」たちは、人間たちに復讐を誓う。
紀里谷和明といえば、宇多田ヒカルの夫(当時)というイメージがある。
それは、実際に夫であるというよりも、ヒカルのプロモーション・ビデオを撮り、その独特の世界観を構築してみせたからだと思う。
僕は、そのPVを全てDVDで持っているわけだが、個人的には好きな世界観を持っていると、評価している。
その紀里谷監督が、どんな映画を撮るのか。
宇多田ファンである僕にとって、それは見届けなければいけない義務である。
ミュージック・ビデオ畑の監督であるため、どうしても不安が残る。
「ファイナル・ファンタジー」のような映画になることだけが、僕にとっての危惧であった。
▼以下はネタバレあり▼
僕は、原作であるアニメの「キャシャーン」を観ていない。
よって、それと比較する事は出来ないが、「CASSHARN」の世界観を考えてみよう。
日本で戦争が続いていたら?、という設定の上にあるこの世界は、「亜細亜連邦共和国」という巨大な共和国が舞台になっている。
戦争が続き、人々はつかれきっている。
多くの人が、病気や怪我に悩まされている状況は、「新造細胞」を望む世界であると言っていい。
治めている役人たちも、病気や怪我を背負っていることが、見た目にもわかるということが、それらを象徴している。
そんな彼らが求めるのは、「戦争」のない「平和」ではなく、「人体のスペア」である。
公害に犯されても、戦争で手足を失っても、再生する肉体。
「新造細胞」の研究は、彼らにとって、まさに「理想」を可能にする夢の研究なのである。
この「理想」をもつ世界観と、ラストで明かされる隠されたプロットとは有機的に繋がっている。
「ブライキング・ボス(唐沢寿明)は実は人間であった」
この事実は、「新造細胞」の開発のために第七管区の人間たちを片端から虐殺し、死体を集めたということでもある。
これによって、息子が起こしたクーデターの意味、彼らにとっての戦争の真相、鉄也が生前に犯してしまった罪などの伏線が、一気に繋がることになる。
整理してみよう。
公害と長い戦争により、人体に無視できない影響が出始める。
そこで、「新造細胞」という研究に目をつけた政府たちは、東鉄也をはじめとした兵隊を、人類の祖オリジナル・ヒューマンであった第七管区の人々に送り込み、彼らを殺害させ、研究材料としてストックしていく。
そこに住んでいた生前のブライキングは、鉄也たちに殺されてしまう。
そして雷が落ちた日、哲也は手りゅう弾により死亡し、雷の下にいたブライキングの死体は、「新造細胞」の効果により復活する。
彼は死んでいたときの記憶がなかったため、自分は「新造人間」であると信じ、人類に反旗を翻すのである。
ちなみに、ロボットであったアニメと違い、「人間」であったということの伏線の一つが、ヘルメットをかぶらない鉄也にある。
彼のかぶるべきヘルメットが、敵の襲撃によって壊されてしまう。
壊れたヘルメットのカットは、「顔を出し、人間として振舞う」という、監督のメッセージでもある。
その「人間」キャシャーンに敵対するブライキングも、また然りなのである。
しかし、これらは全て矛盾をはらんだものである。
すなわち、「壊す」ことが前提の再生であるということである。
彼らの「愛」は、自分たちが奪い、奪われる存在である事を前提にしている。
公害で戦争で、壊れてしまった肉体を「取り戻す」。
戦争という条件下で考えられる愛は、すべては「取り戻す」ためのものである。
このことに気づかない人々は、死への「恐怖」しかなく、彼らの愛は、ひるがえって全て他人への略奪になってしまう。
この点を無視してしまったラストの鉄也の「希望」は、非常に空回りした印象を持ってしまう。
理想を掲げているが、胸を突いてこない。
「戦争はいけない」そんなありきたりの言葉を口にしたとしても、「気づいた」ことがあまりに表層的であるため、感動できない。
「ここで終らせよう」という彼の台詞は、やはり自己中心的なものではないか。
彼と他者との戦いに終止符が打てたとしても、
他者と他者との戦いを収めさせたとはとても思えない。
恨む相手も恨む自分も死んでしまった。
だから恨むことは辞めましょう、という結論に思える。
死んでしまい一つになることが、彼の結論なのだろうか。
「新世紀エヴァンゲリオン」では一つになることを目的としながらも、結局自分の足で歩きたい、という結論に至ったのに対し、死んだ魂が一つに重なりあったまま終ってしまう本作は大きな違いがある。
ラストの彼の言葉が胸をついてこない理由は、まだまだある。
人間不在のCGによる世界である。
徹頭徹尾、映画の世界はCGで構築されている。
過剰ともいえるほどの綺麗な、コンピューターで「計算」された世界である。
短い時間をそれで見せるのなら効果的かもしれない。
しかし、過剰なほどに非日常的な、「人間」の居ない世界では、とてもじゃないが、彼の思い描く人間が手を取り合うテーマを表現できない。
綺麗で光溢れる世界を撮れば撮るほど、その異常な、人工的な画は人間のもつ温かさを失っていく。
「マトリックス・レボリューションズ」でお腹いっぱいになったのと、状況はよく似ている。
役者が構築する雰囲気を無視して、上から厚く塗りこめた。
そんな印象を持ってしまう。だから、鉄也の境地にはどうしても至れない。
そして、上映時間が長すぎるという点も大きい。
上映時間が長すぎるため、テーマが散逸し、ラストで明かされるブライキングの出生も、衝撃が小さい。
もっと問題をスリムに、すっきりとみせる必要があっただろう。
だらだらと方向性をもたないシナリオは、観客を疲れさせるだけである。
最後に、強すぎるメッセージ性である。
戦争はいけない。愛を叫ぼう。
そうしたテーマを受け取る事は十分出来る。
しかし、鉄也の最後の境地は、あまりに直接的に表現されすぎている。
ラストの10分ほどはまるで「新世紀エヴァンゲリオン」である。
「エヴァ」は、主人公が自分に向き合うための物語である。
しかし、この「CASSHARN」はそうではない。
彼の至った境地を、彼の言葉によって直接提示する必要は全くない。
長すぎる上映時間で、しかも延々とCGだけで見せられる世界の連続、その上、お説教くさい彼のナレーション。
しかもその境地は、問題の本質からずれている。
これでは紀里谷監督の主張が、観客に受け入れられる可能性は低い。
映像は確かに綺麗である。
そこにある世界観も、独特であり、見るべき点である。
同様に、音楽もすばらしい。
棒読みが目立った伊勢谷友介以外のキャスティングは、良かったと思う。
そこに流れている哲学も、理解はできるし、共感したい。
しかし、感動はできないし、伝わってくるメッセージも弱い。
何より、展開や上映時間無視の脚本が悪すぎると思う。
CGでは映画はできない。
作り物で、役者をそこに存在させない映画は、成立できない。
どこまでも「人間」を追求してほしかった。
(2004/5/2執筆)
監督:紀里谷和明
とにかく映像に「快」がない。
太平洋戦争が50年も続いているパラレルな世界。
戦争と、様々な公害に人々はつかれきっていた。
東博士(寺尾聡)は、「新造細胞」という細胞を人間の体内から見つけ出し、人間の体を自由に再生できる研究を会議で発表し、軍からの援助を得て一年が経っていた。
そんなある日、東の研究がはじまったころに戦争に行った息子の鉄也(伊勢谷友介)が、戦死したことを知らせる電話が、博士のもとに届く。
その電話を受け取ったとき、突如として研究所に落雷が起こり、行き詰っていた「新造細胞」の研究が完遂される。
しかし、よみがえった実験材料の人間たちは、あまりに「人間」とはかけはなれた姿をしていた。
危険を感じた軍は、彼らを抹殺しようと試みる。
なんとか逃げ出せた四人の「新造人間」たちは、人間たちに復讐を誓う。
紀里谷和明といえば、宇多田ヒカルの夫(当時)というイメージがある。
それは、実際に夫であるというよりも、ヒカルのプロモーション・ビデオを撮り、その独特の世界観を構築してみせたからだと思う。
僕は、そのPVを全てDVDで持っているわけだが、個人的には好きな世界観を持っていると、評価している。
その紀里谷監督が、どんな映画を撮るのか。
宇多田ファンである僕にとって、それは見届けなければいけない義務である。
ミュージック・ビデオ畑の監督であるため、どうしても不安が残る。
「ファイナル・ファンタジー」のような映画になることだけが、僕にとっての危惧であった。
▼以下はネタバレあり▼
僕は、原作であるアニメの「キャシャーン」を観ていない。
よって、それと比較する事は出来ないが、「CASSHARN」の世界観を考えてみよう。
日本で戦争が続いていたら?、という設定の上にあるこの世界は、「亜細亜連邦共和国」という巨大な共和国が舞台になっている。
戦争が続き、人々はつかれきっている。
多くの人が、病気や怪我に悩まされている状況は、「新造細胞」を望む世界であると言っていい。
治めている役人たちも、病気や怪我を背負っていることが、見た目にもわかるということが、それらを象徴している。
そんな彼らが求めるのは、「戦争」のない「平和」ではなく、「人体のスペア」である。
公害に犯されても、戦争で手足を失っても、再生する肉体。
「新造細胞」の研究は、彼らにとって、まさに「理想」を可能にする夢の研究なのである。
この「理想」をもつ世界観と、ラストで明かされる隠されたプロットとは有機的に繋がっている。
「ブライキング・ボス(唐沢寿明)は実は人間であった」
この事実は、「新造細胞」の開発のために第七管区の人間たちを片端から虐殺し、死体を集めたということでもある。
これによって、息子が起こしたクーデターの意味、彼らにとっての戦争の真相、鉄也が生前に犯してしまった罪などの伏線が、一気に繋がることになる。
整理してみよう。
公害と長い戦争により、人体に無視できない影響が出始める。
そこで、「新造細胞」という研究に目をつけた政府たちは、東鉄也をはじめとした兵隊を、人類の祖オリジナル・ヒューマンであった第七管区の人々に送り込み、彼らを殺害させ、研究材料としてストックしていく。
そこに住んでいた生前のブライキングは、鉄也たちに殺されてしまう。
そして雷が落ちた日、哲也は手りゅう弾により死亡し、雷の下にいたブライキングの死体は、「新造細胞」の効果により復活する。
彼は死んでいたときの記憶がなかったため、自分は「新造人間」であると信じ、人類に反旗を翻すのである。
ちなみに、ロボットであったアニメと違い、「人間」であったということの伏線の一つが、ヘルメットをかぶらない鉄也にある。
彼のかぶるべきヘルメットが、敵の襲撃によって壊されてしまう。
壊れたヘルメットのカットは、「顔を出し、人間として振舞う」という、監督のメッセージでもある。
その「人間」キャシャーンに敵対するブライキングも、また然りなのである。
しかし、これらは全て矛盾をはらんだものである。
すなわち、「壊す」ことが前提の再生であるということである。
彼らの「愛」は、自分たちが奪い、奪われる存在である事を前提にしている。
公害で戦争で、壊れてしまった肉体を「取り戻す」。
戦争という条件下で考えられる愛は、すべては「取り戻す」ためのものである。
このことに気づかない人々は、死への「恐怖」しかなく、彼らの愛は、ひるがえって全て他人への略奪になってしまう。
この点を無視してしまったラストの鉄也の「希望」は、非常に空回りした印象を持ってしまう。
理想を掲げているが、胸を突いてこない。
「戦争はいけない」そんなありきたりの言葉を口にしたとしても、「気づいた」ことがあまりに表層的であるため、感動できない。
「ここで終らせよう」という彼の台詞は、やはり自己中心的なものではないか。
彼と他者との戦いに終止符が打てたとしても、
他者と他者との戦いを収めさせたとはとても思えない。
恨む相手も恨む自分も死んでしまった。
だから恨むことは辞めましょう、という結論に思える。
死んでしまい一つになることが、彼の結論なのだろうか。
「新世紀エヴァンゲリオン」では一つになることを目的としながらも、結局自分の足で歩きたい、という結論に至ったのに対し、死んだ魂が一つに重なりあったまま終ってしまう本作は大きな違いがある。
ラストの彼の言葉が胸をついてこない理由は、まだまだある。
人間不在のCGによる世界である。
徹頭徹尾、映画の世界はCGで構築されている。
過剰ともいえるほどの綺麗な、コンピューターで「計算」された世界である。
短い時間をそれで見せるのなら効果的かもしれない。
しかし、過剰なほどに非日常的な、「人間」の居ない世界では、とてもじゃないが、彼の思い描く人間が手を取り合うテーマを表現できない。
綺麗で光溢れる世界を撮れば撮るほど、その異常な、人工的な画は人間のもつ温かさを失っていく。
「マトリックス・レボリューションズ」でお腹いっぱいになったのと、状況はよく似ている。
役者が構築する雰囲気を無視して、上から厚く塗りこめた。
そんな印象を持ってしまう。だから、鉄也の境地にはどうしても至れない。
そして、上映時間が長すぎるという点も大きい。
上映時間が長すぎるため、テーマが散逸し、ラストで明かされるブライキングの出生も、衝撃が小さい。
もっと問題をスリムに、すっきりとみせる必要があっただろう。
だらだらと方向性をもたないシナリオは、観客を疲れさせるだけである。
最後に、強すぎるメッセージ性である。
戦争はいけない。愛を叫ぼう。
そうしたテーマを受け取る事は十分出来る。
しかし、鉄也の最後の境地は、あまりに直接的に表現されすぎている。
ラストの10分ほどはまるで「新世紀エヴァンゲリオン」である。
「エヴァ」は、主人公が自分に向き合うための物語である。
しかし、この「CASSHARN」はそうではない。
彼の至った境地を、彼の言葉によって直接提示する必要は全くない。
長すぎる上映時間で、しかも延々とCGだけで見せられる世界の連続、その上、お説教くさい彼のナレーション。
しかもその境地は、問題の本質からずれている。
これでは紀里谷監督の主張が、観客に受け入れられる可能性は低い。
映像は確かに綺麗である。
そこにある世界観も、独特であり、見るべき点である。
同様に、音楽もすばらしい。
棒読みが目立った伊勢谷友介以外のキャスティングは、良かったと思う。
そこに流れている哲学も、理解はできるし、共感したい。
しかし、感動はできないし、伝わってくるメッセージも弱い。
何より、展開や上映時間無視の脚本が悪すぎると思う。
CGでは映画はできない。
作り物で、役者をそこに存在させない映画は、成立できない。
どこまでも「人間」を追求してほしかった。
(2004/5/2執筆)
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