評価点:70点/2013年/日本/120分
監督・脚本・編集:是枝裕和
「脳の時代」における、象徴的で現代的な問いかけ。
12月、息子・慶多(二宮慶多)に私立の小学校受験をさせた野々宮良多(福山雅治)の元に産婦人科の病院から連絡があった。
話によると、慶多は他の家族の子どもと取り違えられた可能性がある、ということだった。
DNAを調べるとやはり斎木家の琉晴(黄升)と取り違えていたということが判明する。
ショックを隠しきれない野々宮夫婦だったが、病院側からお互いの子どもを元の両親に戻すプログラムを提案される。
これまで、是枝監督とはどうも相性が悪い。
けれども、今回は話題作であったことと、モティーフがおもしろそうだったので劇場まで足を運んだ。
実写の日本映画を見に行くこと自体がかなり久しぶりの経験だった。
年配の観客が大勢詰めかけており、休日の映画館はファースト・ショウでもほぼ満員状態だった。
映画館を後にするときは、概ねみな満足した様子だった。
ハリウッド映画化されることもあり、万人受けする映画であることは間違いなさそうだ。
▼以下はネタバレあり▼
養老孟司はその評論で、「戦争の時代は遺伝子が強く、平安の時代になると脳の時代となる」というようなことを書いていた。
つまり、生きるか死ぬかという選択に迫られるような時代には、動物的な闘争本能が駆り立てられる。
一方、国が落ち着き、平和な状態になると、脳によって物事を押し進める時代となる。
街の整備などはまさに脳が考えたことをアウトプットすることによってできあがる。
この映画を見ながら、何度も繰り返される「血」ということばを聞きながら私はそんなことを考えていた。
そして、そんなことを考えると、この物語が行き着く先は一つしかないのだろうとも考えていた。
物語の中盤ほどまで、非常におもしろかった。
「血」と「6年間」のどちらを選ぶのか、淡々と描かれる展開にとてつもない緊張感があった。
けれども、中盤以降、一つの結論に向けてひた走り始めると一気に物語への興味が薄れてきた。
少なくとも、「どちらに転ぶのか」というおもしろさはなくなってしまった。
もう少し話を丁寧に進めようか。
良多は仕事熱心な父親だった。
「自分と同じように慶多も優秀な人間に育つに違いない」という考えのもとに、小学校受験をさせる。
高校や中学校は知らないが、小学校受験は明らかに「親がどのような子どもに育てたいか」という観点が強く反映される。
だからこそ、親子で面接試験があるのだ。
慶多もその父親の期待に応えようと、ピアノの練習を毎日こなしている。
しかし、父親が直接息子とふれあうのは限定的だ。
「なんでも自分でさせるのが教育方針」という彼は、お風呂も一緒に入ることはしない。
仕事は忙しく、その仕事に誇りをもって生きている。
一方、取り替えられてしまった斎木家は長男として育てられている。
琉晴の下に二人の弟と妹がいる。
決して裕福な家庭とは言えない斎木家の父親は、自営業である。
ゆるい商売しか考えていないし、仕事に対して大きな野心を抱いているわけでもない。
ただし、子どもと一緒に遊び、同じ時間を共有することを大切にしている。
真反対の父親像であり、家庭環境もずいぶん違う。
語弊がある言い方をあえてするなら、一昔前の父親像だ。
良多は当初(映画でいうと中盤まで)、父親として適正があるのは自分だと揺るぎない信念を持っていた。
だから、「二人とも引き取る可能性はないのか」ということを弁護士と相談し合っていく。
収入が低く、箸の持ち方も教育できない斎木家は父親として自分の子(慶多)を任せられるのかという不安を覚える。
下品でお金のことばかり口にする斎木の夫妻は、同じ親として相容れるところがなさ過ぎるように見えていた。
しかし、状況は次第に変化を見せていく。
良多は自分は良き父親であるという父親像を次第に揺るがしていく。
ありきたりな言い方になってしまうが、「子どもを取り替えると言うことはこれまでの6年間どのように父親であったかを問うこと」と同じだからだ。
明らかに不十分だと思えた斎木(リリー・フランキー)は、子どもを育てることに意外にも信念を持っていた。
しかし、自分には「優秀な子を育てる」ということ以上に確固たる父親像がなかったことに気づき始める。
「そして父になる」はそのタイトル通り、「野々宮良太という人物がどのようにして「父親」を発見するか」という物語である。
教育者でありながら、保護者であるはずの父親というものがどういう態度をとるべきなのか、彼の中で揺らいでいく。
そして、自分の過去、すなわち自分もまた腹違いの母親に育てられていたということを見つめ直す。
父親である自分は、子どもである自分とどのように向き合うかという問いに変換されていく。
そして、腹違いでも立派に大人として育ててくれたことを改めて受け止めて、「慶多の父親になる」ことを選択する。
「血」ではなく、「遺伝子」ではなく、「脳の時代」を象徴する選択をとるのだ。
この映画は必然的にそのような選択をする。
それについて「タラレバ」を挟む余地はない。
だから良い映画である。
上手いシナリオであることは言えるだろう。
けれども、私にはどうも納得いかないし、どうもしこりが残る。
良多の選択があまりにも「感情にまかせた一時的なもの」にしか見えないのだ。
その象徴的とも言えるシークエンスが、斎木家に慶多を迎えにいくラストである。
残っていたデジタルカメラの画像を見て、自分が慶多に愛されていることを知った良多は、父親として慶多を育てる決心を固める。
そこで、迎えに行こうとするのだが、慶多は逢ってはいけないという言いつけを守ろうと賢明に彼から逃げる。
6年間。
子どものいない私には、それがどれくらいの期間なのか想像もつかない。
しかし、少なくとも野々宮家の選択は「今が辛いからどうにかしたい」という感情にまかせた行動にしか見えないのだ。
寂しがって琉晴が斎木家に会いに行った。
「どうして叱ってやらなかったんですか」
あれだけ悩んでいた良多がそのような台詞を言うとはちょっと思えない。
父親として振る舞おうと必死なのはわかるが、なぜそこに「先を見据えた葛藤」がなかったのか。
6年間を取り戻すには長期戦になることは覚悟するべきだし、「一生背負っていく」ことも考えざるを得ない。
野々宮家の夫妻が悩んでいるのは、「今の感情のやり場をどのようにすればいいのか」という点だけに見える。
あのような結論では、慶多が何かで躓くたびに「やっぱり取り替えた方がよかったかも」「斎木家の血が流れているから」と逃げるような気がする。
私なら、「どちらかを選ぶか」という「選択」の問題ではなく、「共に関わりながら生きる」という「共生」の可能性をさぐる結論にしただろう。
あの二つの家族なら、きっとお互いをもっと寄り添い合いながら生きるという結論を見いだせたような気がする。
それなら「引用問題」でもめるような記事は出なかったような気もする。
中盤までは淡々と、それでいて緊張感があるように描かれていた。
しかし後半は「結末」へと急ぎすぎた印象を受けた。
あるいは、もっと不親切に、さらに淡々と描いておいた方が深みが生まれた気がする。
観客をもっと信じて、感情を画面から消した方が、より感情がにじみ出たのではないだろうか。
それほど酷評するほどの欠点ではないが、物足りない。
当初、デジカメで自分の写真を見るシークエンスはなかったらしい。
周りから提案されて撮り、それを入れたという。
う~ん、なかったほうがよかったのではないかな~。
監督・脚本・編集:是枝裕和
「脳の時代」における、象徴的で現代的な問いかけ。
12月、息子・慶多(二宮慶多)に私立の小学校受験をさせた野々宮良多(福山雅治)の元に産婦人科の病院から連絡があった。
話によると、慶多は他の家族の子どもと取り違えられた可能性がある、ということだった。
DNAを調べるとやはり斎木家の琉晴(黄升)と取り違えていたということが判明する。
ショックを隠しきれない野々宮夫婦だったが、病院側からお互いの子どもを元の両親に戻すプログラムを提案される。
これまで、是枝監督とはどうも相性が悪い。
けれども、今回は話題作であったことと、モティーフがおもしろそうだったので劇場まで足を運んだ。
実写の日本映画を見に行くこと自体がかなり久しぶりの経験だった。
年配の観客が大勢詰めかけており、休日の映画館はファースト・ショウでもほぼ満員状態だった。
映画館を後にするときは、概ねみな満足した様子だった。
ハリウッド映画化されることもあり、万人受けする映画であることは間違いなさそうだ。
▼以下はネタバレあり▼
養老孟司はその評論で、「戦争の時代は遺伝子が強く、平安の時代になると脳の時代となる」というようなことを書いていた。
つまり、生きるか死ぬかという選択に迫られるような時代には、動物的な闘争本能が駆り立てられる。
一方、国が落ち着き、平和な状態になると、脳によって物事を押し進める時代となる。
街の整備などはまさに脳が考えたことをアウトプットすることによってできあがる。
この映画を見ながら、何度も繰り返される「血」ということばを聞きながら私はそんなことを考えていた。
そして、そんなことを考えると、この物語が行き着く先は一つしかないのだろうとも考えていた。
物語の中盤ほどまで、非常におもしろかった。
「血」と「6年間」のどちらを選ぶのか、淡々と描かれる展開にとてつもない緊張感があった。
けれども、中盤以降、一つの結論に向けてひた走り始めると一気に物語への興味が薄れてきた。
少なくとも、「どちらに転ぶのか」というおもしろさはなくなってしまった。
もう少し話を丁寧に進めようか。
良多は仕事熱心な父親だった。
「自分と同じように慶多も優秀な人間に育つに違いない」という考えのもとに、小学校受験をさせる。
高校や中学校は知らないが、小学校受験は明らかに「親がどのような子どもに育てたいか」という観点が強く反映される。
だからこそ、親子で面接試験があるのだ。
慶多もその父親の期待に応えようと、ピアノの練習を毎日こなしている。
しかし、父親が直接息子とふれあうのは限定的だ。
「なんでも自分でさせるのが教育方針」という彼は、お風呂も一緒に入ることはしない。
仕事は忙しく、その仕事に誇りをもって生きている。
一方、取り替えられてしまった斎木家は長男として育てられている。
琉晴の下に二人の弟と妹がいる。
決して裕福な家庭とは言えない斎木家の父親は、自営業である。
ゆるい商売しか考えていないし、仕事に対して大きな野心を抱いているわけでもない。
ただし、子どもと一緒に遊び、同じ時間を共有することを大切にしている。
真反対の父親像であり、家庭環境もずいぶん違う。
語弊がある言い方をあえてするなら、一昔前の父親像だ。
良多は当初(映画でいうと中盤まで)、父親として適正があるのは自分だと揺るぎない信念を持っていた。
だから、「二人とも引き取る可能性はないのか」ということを弁護士と相談し合っていく。
収入が低く、箸の持ち方も教育できない斎木家は父親として自分の子(慶多)を任せられるのかという不安を覚える。
下品でお金のことばかり口にする斎木の夫妻は、同じ親として相容れるところがなさ過ぎるように見えていた。
しかし、状況は次第に変化を見せていく。
良多は自分は良き父親であるという父親像を次第に揺るがしていく。
ありきたりな言い方になってしまうが、「子どもを取り替えると言うことはこれまでの6年間どのように父親であったかを問うこと」と同じだからだ。
明らかに不十分だと思えた斎木(リリー・フランキー)は、子どもを育てることに意外にも信念を持っていた。
しかし、自分には「優秀な子を育てる」ということ以上に確固たる父親像がなかったことに気づき始める。
「そして父になる」はそのタイトル通り、「野々宮良太という人物がどのようにして「父親」を発見するか」という物語である。
教育者でありながら、保護者であるはずの父親というものがどういう態度をとるべきなのか、彼の中で揺らいでいく。
そして、自分の過去、すなわち自分もまた腹違いの母親に育てられていたということを見つめ直す。
父親である自分は、子どもである自分とどのように向き合うかという問いに変換されていく。
そして、腹違いでも立派に大人として育ててくれたことを改めて受け止めて、「慶多の父親になる」ことを選択する。
「血」ではなく、「遺伝子」ではなく、「脳の時代」を象徴する選択をとるのだ。
この映画は必然的にそのような選択をする。
それについて「タラレバ」を挟む余地はない。
だから良い映画である。
上手いシナリオであることは言えるだろう。
けれども、私にはどうも納得いかないし、どうもしこりが残る。
良多の選択があまりにも「感情にまかせた一時的なもの」にしか見えないのだ。
その象徴的とも言えるシークエンスが、斎木家に慶多を迎えにいくラストである。
残っていたデジタルカメラの画像を見て、自分が慶多に愛されていることを知った良多は、父親として慶多を育てる決心を固める。
そこで、迎えに行こうとするのだが、慶多は逢ってはいけないという言いつけを守ろうと賢明に彼から逃げる。
6年間。
子どものいない私には、それがどれくらいの期間なのか想像もつかない。
しかし、少なくとも野々宮家の選択は「今が辛いからどうにかしたい」という感情にまかせた行動にしか見えないのだ。
寂しがって琉晴が斎木家に会いに行った。
「どうして叱ってやらなかったんですか」
あれだけ悩んでいた良多がそのような台詞を言うとはちょっと思えない。
父親として振る舞おうと必死なのはわかるが、なぜそこに「先を見据えた葛藤」がなかったのか。
6年間を取り戻すには長期戦になることは覚悟するべきだし、「一生背負っていく」ことも考えざるを得ない。
野々宮家の夫妻が悩んでいるのは、「今の感情のやり場をどのようにすればいいのか」という点だけに見える。
あのような結論では、慶多が何かで躓くたびに「やっぱり取り替えた方がよかったかも」「斎木家の血が流れているから」と逃げるような気がする。
私なら、「どちらかを選ぶか」という「選択」の問題ではなく、「共に関わりながら生きる」という「共生」の可能性をさぐる結論にしただろう。
あの二つの家族なら、きっとお互いをもっと寄り添い合いながら生きるという結論を見いだせたような気がする。
それなら「引用問題」でもめるような記事は出なかったような気もする。
中盤までは淡々と、それでいて緊張感があるように描かれていた。
しかし後半は「結末」へと急ぎすぎた印象を受けた。
あるいは、もっと不親切に、さらに淡々と描いておいた方が深みが生まれた気がする。
観客をもっと信じて、感情を画面から消した方が、より感情がにじみ出たのではないだろうか。
それほど酷評するほどの欠点ではないが、物足りない。
当初、デジカメで自分の写真を見るシークエンスはなかったらしい。
周りから提案されて撮り、それを入れたという。
う~ん、なかったほうがよかったのではないかな~。
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