評価点:45点/2016年/アメリカ/129分
監督:ジョン・M・チュウ
失われた信頼関係
秘密結社アイは、前作の騒動から一転身を隠すように4人のホースメンに指示し、四人は次の活動を伺っていた。
FBI捜査官のディラン(マーク・ラファロ)は捜査官としてホースメンをサポートしようとしていた。
いよいよ満を持して彼らは新しく発売される端末に、すべての個人情報を監視するシステムが仕組まれていることを暴くことになった。
プレゼンをたくみに掌握しようとしたが、逆に四人とディランの正体を暴かれてしまう。
四人が逃げ込む予定だったトンネルを抜けると、そこはマカオだった。
窮地に立たされた四人の前に現れたのは、おっさんになったハリー・ポッター(ダニエル・ラドクリフ)だった。
映画「グランド・イリュージョン」の続編。
デヴィッド・カッパーフィールドが監修していることでも話題になった。
前作のヒットによって、本作はなかなか話題になり、トレーラーがそこかしこで流れていた。
私はやはり見ることができなかったので、Amazonさんに依存した。
前作のことを驚くほど忘れていたことを考えると、前作もそれほど好きじゃなかったのだろう。
ただ、この映画はほとんど連続して見ないと理解できないような作品になっている。
どうしても見たい、ジェシー・アイゼンバーグが大好きだ、という人は前作を少しでもおさらいしておくとよいだろう。
まあ、とくにおすすめする程の映画ではないが。
▼以下はネタバレあり▼
はっきり言っておもしろくはない。
完全に方向性を間違えてしまった、続編だと言えるだろう。
私に言わせれば、ほとんど見る価値がない映画と言っても言い過ぎではない。
本当に時間を無駄にしたという感じが否めない。
前作のことはあまり覚えていないので掘り返すのはやめておこう。
タイトル通り(邦題だけど)、観客と観衆を罠にかけてイリュージョンを見せるのがこの映画のコンセプトだろう。
だが、どこを切ってもイリュージョンはなくて、どちらかというと詐欺だけが繰り返される。
前作でミスディレクションを見せてしまったこともあり、観客は常に「何かの伏線だろう」という見方を余儀なくされる。
その中で重要なのは「何が確定的な、信じて良い出来事なのか」ということだろう。
モーガン・フリーマンの振るまい、アイの思惑、おっさんポッターの言動、四人の行動。
どれもが「あとでひっくり返される」ことを前提に進んでいくため、観客は信じるものを失っていく。
ただ確定的なのは、ライオネル・シュライクという伝説的な男が水中脱出のトリックで失敗してその復讐のためにディランが行動している、という点だけだ。
だが、前作であれだけの華々しいデビューを見せたディランが、まだFBI捜査官を続けていることに驚きを隠せないし、彼は全く使えない「捜査官」に成り下がっている。
二重生活がまったく上手くいっておらず、銭形よりも酷い印象だ。
そういう彼に感情移入することは難しい。
そもそも前作後の、今の境遇を印象的に描いてくれないので、「おっさんまだトラウマなってんの?」というジェイソン・ボーンばりに引っ張られている感じがぬぐえない。
そうなるとジェシー・アイゼンバーグやその他の三人に、もう少し感情移入できる余地があれば良かったがそれもない。
特に酷いのは、何の条件もなしに、新しいメンバーとしてルーラという女性を迎えてしまうということだ。
彼女は黒幕なのか、裏切り者なのか、単なる鬱陶しい女キャラなのか、わからない。
メンバーに加えるということがきわめて重要なのに、あっさり加わってしまう。
彼女を視点人物にして、物語を体験させるようにすれば、多少イリュージョンも楽しめたかもしれないが、この人も舞台に上がってしまって、観客は置いてけぼりになる。
よって、信じるべき場所や人物、方向性がないままに、「じつは嘘でした」ということを連発されるので「ふーん」という感想以外持てない。
これは完全にシナリオと演出のミスだろう。
私たちはトリックを見破る前に、観客と制作陣たちとの信頼関係を結べない。
それで安心してだまされることは不可能だ。
劇中の観客はいい。
楽しそうにだまされていれば良いのだから。
だが、物語がある映画では、観客と制作陣(監督)との信頼関係が絶たれてしまえば、作品の粗ばかりが目に付いてしまう。
最後のイリュージョンも、まったく緊迫感がない。
飛行機に入れられても、「どうせ助かる」という見方しかできない。
(飛行機の中で「(チップが)本物なのか?」という仲間内のくだりは、全く必要がなかった。
それは映画の観客をだますだけのものであり、劇中の観客には必要がなかった台詞だ。
このあたりの不自然さがきわめて残念だ)
マカオの不自然さや、アイの正体不明さ、敵の行動の不自然さ(目立ちたい彼らを成敗したいなら、私なら「悪の法則」のように人知れず残酷に殺す)、マカオのマジシャンズ・ストアのご都合主義。
すべてが必然性を感じさせない展開に、辟易してしまう。
その中でも厳しいのは、アイという存在の不安定さだ。
この映画の敵は、チップによってすべての情報を管理しようとするという現代にありがちな(というか既に実現している古い)技術をもつ。
誰かわからない者が、いつの間にか情報を管理する、パノプティコンを題材にしている。
確かに怖い。
だが、アイも全く同じであるという点が見過ごされているのがさらに怖い。
アイの主体性が不明であるがゆえに、アイはどうしてそれを見抜いたのか、そもそもだれがそれを「だめだ」と判断したのか。
その不安定さが、私たち観客の居心地を悪くさせる。
「アイ、お前もおんなじやん」ということだ。
マカオの怪しい小道具屋までがアイの一員だったと知ると、ますます猜疑心が強くなる。
結果、モーガン・フリーマンまでも「良いやつ」だったと知らされるT、唯一頼りになっていたディランの復讐心さえも「茶番だった」ことになる。
もはや何をしたいのか、理解できない。
破綻。
この二文字を送りたい。
監督:ジョン・M・チュウ
失われた信頼関係
秘密結社アイは、前作の騒動から一転身を隠すように4人のホースメンに指示し、四人は次の活動を伺っていた。
FBI捜査官のディラン(マーク・ラファロ)は捜査官としてホースメンをサポートしようとしていた。
いよいよ満を持して彼らは新しく発売される端末に、すべての個人情報を監視するシステムが仕組まれていることを暴くことになった。
プレゼンをたくみに掌握しようとしたが、逆に四人とディランの正体を暴かれてしまう。
四人が逃げ込む予定だったトンネルを抜けると、そこはマカオだった。
窮地に立たされた四人の前に現れたのは、おっさんになったハリー・ポッター(ダニエル・ラドクリフ)だった。
映画「グランド・イリュージョン」の続編。
デヴィッド・カッパーフィールドが監修していることでも話題になった。
前作のヒットによって、本作はなかなか話題になり、トレーラーがそこかしこで流れていた。
私はやはり見ることができなかったので、Amazonさんに依存した。
前作のことを驚くほど忘れていたことを考えると、前作もそれほど好きじゃなかったのだろう。
ただ、この映画はほとんど連続して見ないと理解できないような作品になっている。
どうしても見たい、ジェシー・アイゼンバーグが大好きだ、という人は前作を少しでもおさらいしておくとよいだろう。
まあ、とくにおすすめする程の映画ではないが。
▼以下はネタバレあり▼
はっきり言っておもしろくはない。
完全に方向性を間違えてしまった、続編だと言えるだろう。
私に言わせれば、ほとんど見る価値がない映画と言っても言い過ぎではない。
本当に時間を無駄にしたという感じが否めない。
前作のことはあまり覚えていないので掘り返すのはやめておこう。
タイトル通り(邦題だけど)、観客と観衆を罠にかけてイリュージョンを見せるのがこの映画のコンセプトだろう。
だが、どこを切ってもイリュージョンはなくて、どちらかというと詐欺だけが繰り返される。
前作でミスディレクションを見せてしまったこともあり、観客は常に「何かの伏線だろう」という見方を余儀なくされる。
その中で重要なのは「何が確定的な、信じて良い出来事なのか」ということだろう。
モーガン・フリーマンの振るまい、アイの思惑、おっさんポッターの言動、四人の行動。
どれもが「あとでひっくり返される」ことを前提に進んでいくため、観客は信じるものを失っていく。
ただ確定的なのは、ライオネル・シュライクという伝説的な男が水中脱出のトリックで失敗してその復讐のためにディランが行動している、という点だけだ。
だが、前作であれだけの華々しいデビューを見せたディランが、まだFBI捜査官を続けていることに驚きを隠せないし、彼は全く使えない「捜査官」に成り下がっている。
二重生活がまったく上手くいっておらず、銭形よりも酷い印象だ。
そういう彼に感情移入することは難しい。
そもそも前作後の、今の境遇を印象的に描いてくれないので、「おっさんまだトラウマなってんの?」というジェイソン・ボーンばりに引っ張られている感じがぬぐえない。
そうなるとジェシー・アイゼンバーグやその他の三人に、もう少し感情移入できる余地があれば良かったがそれもない。
特に酷いのは、何の条件もなしに、新しいメンバーとしてルーラという女性を迎えてしまうということだ。
彼女は黒幕なのか、裏切り者なのか、単なる鬱陶しい女キャラなのか、わからない。
メンバーに加えるということがきわめて重要なのに、あっさり加わってしまう。
彼女を視点人物にして、物語を体験させるようにすれば、多少イリュージョンも楽しめたかもしれないが、この人も舞台に上がってしまって、観客は置いてけぼりになる。
よって、信じるべき場所や人物、方向性がないままに、「じつは嘘でした」ということを連発されるので「ふーん」という感想以外持てない。
これは完全にシナリオと演出のミスだろう。
私たちはトリックを見破る前に、観客と制作陣たちとの信頼関係を結べない。
それで安心してだまされることは不可能だ。
劇中の観客はいい。
楽しそうにだまされていれば良いのだから。
だが、物語がある映画では、観客と制作陣(監督)との信頼関係が絶たれてしまえば、作品の粗ばかりが目に付いてしまう。
最後のイリュージョンも、まったく緊迫感がない。
飛行機に入れられても、「どうせ助かる」という見方しかできない。
(飛行機の中で「(チップが)本物なのか?」という仲間内のくだりは、全く必要がなかった。
それは映画の観客をだますだけのものであり、劇中の観客には必要がなかった台詞だ。
このあたりの不自然さがきわめて残念だ)
マカオの不自然さや、アイの正体不明さ、敵の行動の不自然さ(目立ちたい彼らを成敗したいなら、私なら「悪の法則」のように人知れず残酷に殺す)、マカオのマジシャンズ・ストアのご都合主義。
すべてが必然性を感じさせない展開に、辟易してしまう。
その中でも厳しいのは、アイという存在の不安定さだ。
この映画の敵は、チップによってすべての情報を管理しようとするという現代にありがちな(というか既に実現している古い)技術をもつ。
誰かわからない者が、いつの間にか情報を管理する、パノプティコンを題材にしている。
確かに怖い。
だが、アイも全く同じであるという点が見過ごされているのがさらに怖い。
アイの主体性が不明であるがゆえに、アイはどうしてそれを見抜いたのか、そもそもだれがそれを「だめだ」と判断したのか。
その不安定さが、私たち観客の居心地を悪くさせる。
「アイ、お前もおんなじやん」ということだ。
マカオの怪しい小道具屋までがアイの一員だったと知ると、ますます猜疑心が強くなる。
結果、モーガン・フリーマンまでも「良いやつ」だったと知らされるT、唯一頼りになっていたディランの復讐心さえも「茶番だった」ことになる。
もはや何をしたいのか、理解できない。
破綻。
この二文字を送りたい。
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