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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

マトリックス

2008-05-20 22:24:07 | 映画(ま)
評価点:82点/1999年/アメリカ

監督:アンディ・ウォシャウスキー、ラリー・ウォシャウスキー

スタイリッシュな映像が話題になった作品。

1999年、トーマス・アンダーソン(キアヌ・リーブス)は有数のソフト会社のプログラマー。
彼には別の顔があり、「ネオ」というハンドルネームで違法なアクセスを繰り返す天才ハッカーだった。
彼は自分の住む世界に違和感を持ち、それをコンピューターの世界で解消しようとしていたのだ。
そこで知った「マトリックス」という謎を求め、パソコン上に現れた言葉に導かれるままに、
モーフィアス(ローレンス・フィッシュバーン)という人物と接触する。
真実を知りたいと思ったネオは、「真実」を知ることのできる「赤いピル」を飲む。

▼以下はネタバレあり▼

いまさら紹介する必要はないだろう。
圧倒的な映像技術は、ジュラシックパーク以来のコンピューター技術の進化を我々にみせつけてくれた。
確かに、スローと早送りを織り交ぜたスタイリッシュな映像は観る者を興奮させる。
しかし、この映画が受けたもうひとつの理由は、「マトリックス」という世界観だろうと思う。

今まで現実だと思われていた世界は全て「マトリックス」という、コンピューターが造った世界。
本当の現実は、約2199年で人類の殆んどは人工知能をもったコンピューターに支配されている。
「彼ら」は、人間が持つ脳の電気信号からうまれる熱量を原動力にしその電気信号を生み出すために大掛かりなリアル世界「マトリックス」を創造した。
主人公ネオに課された運命は、その奴隷となった人々を解き放つこと。
しかし「現実」は厳しく、裏切る仲間まで登場するほど悲惨な状況である。

「夢から覚めてもまだ夢を見続けているような感覚を持ったことはあるか」
ニーチェなどの哲学者が言うように、人間は認識せずには実物があるかどうか確認することが困難である。
敢えて哲学書を読まなくても、そうした哲学が今までの世界的思想の根幹を成しているために
この考え方は、ある程度理解できるものと思う。
自分が夢(マトリックス)にいるのか、現(現実)にいるのか、決定できる人間はいない。
夢オチが物語の結末の代表であることもそれを証明する。
コンピューター技術が進むにつれ、ますますその「恐怖」は増大するといえる。
この恐怖に感情移入できた観客が大勢いたためにこの映画はヒットしたのだろう。

そしてスタイリッシュな映像と、この仮想空間という考え方が完全にマッチしたことによって
これまでにない、革新的な映画となったのだ(ということらしい。)
生物的な機械が敵となる現実と機械的な人間が敵となる仮想空間との融合が見せる世界。
世界までもがスタイリッシュに、デジタルになったとき主人公たちの個性は、完全に消滅する。
この映画には僕らが住む世界の固有名詞が全く出てこない。
もともと「現実」にいたネオは、ハンドルネームであり、HNにはもともと出身地も最終学歴も身分もない世界で使われる。
完全に「個」を失った世界であり、デジタル化された主人公として選択しているのである。

もっと言えばキャスティングも同様のことが指摘できる。
ネオ役のキアヌ・リーブスは、この映画以前に売れた映画といえば「スピード」くらいだ。
いや、キアヌ好きからの反論は受け付けない。
ブラッド・ピットなどは、敢えて「売れそうもない(失礼)」映画に出ているが
それでもセックス・シンボルとして輝き続けている(本人は嫌がっているが)。
そうした大スターを使わないで、ちょっとマイナーな(それは言い過ぎかも)、
キアヌを主人公に抜擢したのは、そうした余計なイメージを持っていないからだろう。

はっきり言えば、黒が映える、黒髪の長身で白人なら誰でもよかったのだ。
別にキアヌに対して批判的な気持ちで言っているのではない。
むしろ大成功したのは、キアヌのそうした特性をきちんと料理できたからに他ならないのだから。
黒いコートに黒い拳銃。
衣装を見ただけでも個性を消し去ろうとしている意図が見えるではないか。
ヒロインがとびきりの美人でないのも、当然そうだ。

マトリックスというコンピューターに創造された世界がデジタルというよりも、
むしろ、映画そのものがデジタル化しているのである。
それまで生きてきたアナログ的な土の匂いを消し、無味乾燥な表層的な世界観を作り上げているのである。

しかしこの映画を語るにはそれだけでは不十分だ。
本当に僕が問題にしたいのは、この映画ではデジタル化が徹底されていないことである。
それはネオが救世主かどうかが決定される鍵だ。
「私が愛した男が救世主だと予言者は言ったわ」
この台詞に僕は違和感を持った。
明らかに今まで構築してきた世界観を覆す、なんと感情的な台詞だろう。
「(厳密に言えばまだ)救世主でない」ことを覆すためには、そうした仕掛けが必要だったことは十分に察する。
でも、恋愛という、いかにも手垢のついたキーワードを物語の核心的な要素として使ってしまうとそれまでの流れが切れてしまう。
それまで、殆んど感情的でない乾式の世界を構築してきたにもかかわらず、いきなり恋愛を持ち出されると出鼻をくじかれた思いがする。
しかも、それまで好いた惚れたの映画の物語としての準備が全くないのにだ。

この映画の残念なところはそこだ。
もっと必然性ある要素をキーにもってきてほしかった。
そうすれば、名前にこめられた意味ありげなコードも効いてきたはずだった。

とにもかくにも、この映画が売れたひとつの原因にはデジタル化した世界があるに違いない。
そのデジタルが心地よいと感じたあなたは、現代っ子なのだろう。
しかしこの世界に対して、多少の気持ち悪さを感じることができたら
それはあなたがまだ「あたたかさ」を保っている証拠なのかもしれない。

(2003/05/18執筆)

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