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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

マトリックス・リローテッド

2008-05-18 10:19:43 | 映画(ま)
評価点:57点/2003年/アメリカ

監督:アンディ・ウォシャウスキー、ラリー・ウォシャウスキー

話題の新感覚ムーヴィー第二弾!

現実世界の最後の砦、ザイオンは人工知能の攻撃が迫りつつあった。
侵略が残り数十時間となり、ザイオンの評議会では意見が対立していた。
すなわち、「予言者」の予言を信じ、危機回避を救世主ネオ(キアヌ・リーブス)によって図るか。
他方、残る全ての船をザイオンの警備に集結させ、守りを固めるか。
ネオを選択した評議会は、彼を予言者の下へ送り込む。
再び予言者にであった彼は、ある場所である人物に会うように指示される。

▼以下はネタバレあり▼

前作がいろいろな意味であまりにも衝撃的だったため期待は否が応でも高まる。
しかし、その期待にそうことができたかと聞かれると、「NO」と答えるだろう。

この映画は、はっきり言えば評価の仕様がない。
なぜなら終わらないからだ。
「スターウォーズ」シリーズの二作目が単体で評価できないのと同じ理由だ。
ここで前作「マトリックス」を思い出してみよう。
前作は、続編がなくとも自足していた。
あれで終わっていても、まあ、納得はできるだろう。
今回の「リローデッド」はできない。映画として自足していないからだ。
三部作ということを考えれば、当然だといえばそうだ。
しかし、この隔たりは小さくない。
最初(「1」)から三部作として観るのと、二作目から三部作として観るのと全く意味が違う。
肩透かしを食らった、という印象だ。
「二作目」になったことから、「1」から「3分の1」に変化していると考えてもらいたい。

前作の衝撃の殆んど全ては、アクションではなくその世界観にある。
全ては「マトリックス」という仮想現実の中で飼育されているという事実。
この「リローデッド」では、前作まで明かされた衝撃の事実、二項対立(現実とマトリックス)が、さらに「ひっくり返され」てしまう。
それは物語終盤、ネオが「ソース」に出会うときに明かされる。

今まで、ザイオンの人々(現実の人々)が信じてきた「現実」は実はマトリックスという仮想空間が人間に「希望」という乱数を加えた、いわば計算されたものだったのだ。
ザイオンは、コンピューーターに造られた組織であり、そのザイオンは過去五回も再生と全滅を繰り返している。。。
そのザイオンという「希望」の乱数により、マトリックスは安定し人間の脳から生まれる電気信号を取り込みコンピューターは自足する。
目の前の「希望」は、人間にとって活力を与えるのである。
しかし「希望」は逆に理性的な選択を狂わし、幻想に酔わせる効果も同時にあることを、彼ら人工知能は発見していたのである。

ザイオンという最後の希望さえ造られたものだった。
このひっくり返しが、この映画最大の「衝撃」となっている。
現実をコントロールしている仮想現実。
それは、二重の意味でコントロールしていたということだ。
ちなみにこの事実には、伏線が張られている。
評議員が「私たちは機械につながれているようだ」とネオに話す。
これはシンボリックな表現ではなく、実は事実だったということだ。

だいたい、三部作にすると「設定の説明」ー「つなぎ」ー「結末」という
つながりになってしまうのだが、二作目でさらにひっくり返したことは「つなぎ」という印象をある程度払拭できたのではないか。

しかしその衝撃を生み出すために、一作目以上に説明的な表現が多いのが非常につらい。
特に冒頭の船長同士の議論。
「ザイオンに敵が迫っている」
「ザイオンでは救世主というものを信じない人がいる」
「予言者も信じない人がいる」
「予言者からの連絡を待つ人間が要る」
「ネブカドネザル号は補給する必要がある」など
という事実を一気に理解させられるために、無理が生じる。
しかも出てくる登場人物は見たことのない人ばかり。
それぞれの登場人物の人間関係も把握しないといけない。
そうこうしているうちにエージェントがやってくるという展開の速さ。
ここでつまづくと、映画の世界観に入り込めなくなってしまうので余計につらい。
全く理解できないほどではないが、負担は大きい。
しかも事態はかなり緊迫しているという切羽詰った状況なのだ。

スミスとのやりとりや、予言者とのやり取りも理解しにくい。
これらの理解を妨げているのは、それぞれが使う用語が独特なものである上、それを説明するための言葉が、観念的なためだ。
「選択」と「理由」の問答にしても、わかったようなわからないような。。。
言わば「言葉遊び」であり、明確に規定されるような説明ではないのだ。
だから意味ありげに響くが、全然説明できていないし
実際は何も言っていないのと同じくらい中身のない言葉なのだ。
これは前作にも言えることで、表層的なレトリックでごまかしているだけだ。
こんな禅問答では世界観を把握するには不適当だ。
これは何度も映画館に足を運ばせるある種の演出だろうか。

そして世界観の崩壊が指摘できる。
前作では主にマトリックス内で展開したのに対して今回は現実世界でもどんどん物語が展開する。
はじめてザイオンという街が登場するしそこには何千、何万という人間の生活も描かれる。
そこで営む人間たちは非常に情熱的で人間的だ。
マトリックスとの対比は明らかだ。
いただけないのは、大衆(ザイオン)対、悪政(人工知能)という安易な構造で描いたことだ。
この対立構造で一気に陳腐なアメリカ映画の典型のひとつに成り下がってしまった。
モーフィアス(ローレンス・フィッシュバーン)が演説するシーンなどはあらゆる映画で描かれてきた典型的なものだ。
あれだけ無個性に、デジタル的な世界観を作り上げこれまでにない概念をうちたててきたこのシリーズがこんな安易な「現実」を描いたことは、がっかりだ。

これでは「スパイダー・マン」と変わらないじゃないか。
アメリカで初日の興行成績が「スパイダー・マン」を抜いてトップになった訳がここに見え隠れする。
アメリカンな発想が一概に悪いとはいわない。
しかし、この映画でこんなありきたりな対立は観たくなかった。

「キスして」とせまるパーセフォニー(モニカ・ベルッチ)もデジタルな世界観を壊しているし、ザイオンで踊り狂う人間たちを見ていると、ため息が出る。
前作で作り上げられた世界が一気に音を立てて壊れていくのが聞こえてくるようだ。

さて、まだ触れていない重要な要素が残っている。
それはもちろん「アクション」だ。
これに関しては、単純にすごかったと言える。
多少長さを感じたが、カメラワークといい、釣りまくりのカンフーといい文句なしのレヴェルだと思う。
けど、このアクションだけが映画としての「売り」とするには、ちょっと厳しいだろう。
あまりにも「スーパー・マン」しすぎているし。
そもそも最近の映画はそれだけで売るのは不可能だ。
前作では、あくまでもプラス・アルファの部分が良かったのだ。

映画として面白いことは確実だ。
しかし前作までの面白みが影を潜めたこともまた確実だ。
さて、日本の観客はこれをどう評価するのかな。

(2003/5/25執筆)

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