secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

紀元前1万年

2008-05-23 00:03:21 | 映画(か)
評価点:49点/2008年/アメリカ

監督:ローランド・エメリッヒ

物語が旧態依然。

山岳に住むヤガル族はマナクと呼ばれるマンモスを狩り生活してた。
だが、年々その量が減り、飢餓に貧していた。
ヤガル族の巫女である老婆が予言するには、青い目の娘と結ばれる青年が村を救うだろうという。
最後の狩りと呼ばれたマナクを倒したデレー(スティーブン・ストレイト)は、
祝福されエバレット(カミーラ・ベル)と結ばれることになった。
だが、その夜、馬に乗った民族からヤガル族は襲撃され、誘拐されてしまう。
助かったデレー達は彼らを追い、エバレットを救出しようとするが……。

「ID4」「デイ・アフター・トゥモロー」のローランド・エメリッヒ監督作品。
彼の作品を一言でくくるなら、「CGごり押しの典型的ハリウッド映画」だろうか。
この「紀元前一万年」もその方針、期待から一ミリもずれないところが、頼もしい。
どんな作品であれ、CGで作れたら何でもいいんではないかと疑いたくなるくらいだ。
「ID4」はぼくは手放しで褒めちぎろうと思うが、
さすがに同じような映画ばかり続けては、観客も飽きるというものだ。

気軽に楽しめる映画をご所望ならば、この映画はぴったりだろう。
だが、過剰に期待するのは何事においても良くない。
控えめに、期待せずに観に行こう。

▼以下はネタバレあり▼

タイトル通り、紀元前1万年のころの人類の生活を再現した映画だ。
タイトルにあまりにこだわる昨今において、気持ちのいいくらいにシンプルな表題だ。
だが、このタイトルが映画内の時間設定だけでなく、
物語じたいも陳腐であることを示しているとは予想だにしなかった。

ストーリーが陳腐だからと言って、もちろんそれがイクォール、マイナス評価という意味ではない。
むしろストーリーは陳腐であることのほうが、良い作品を生み出す傾向にあると僕は思っている。
正確に言うならば、「月並み」、あるいは「凡庸」、あるいは「中途半端」なのである。

上記にも述べたが、話は「往来」型の物語だ。
デレーという青年が将来を誓った相手を取り戻し、再び村に帰ってくる。
その往来の物語に、先に村を去った父親を乗り越えるという、父殺しというファクターも加わっているため、
もう、これでもかというくらい典型的な成長譚だ。
それだけではない。
ローランド・エメリッヒ監督はサービス精神旺盛なのか、考え方が旧態依然としているのか、
悪政 対 民衆というハリウッドお決まりの対立構造まで描いてみせる。
これで売れないと何で売るんだと言わんばかりのお決まりのパターンだ。
何度も言うように、要は完成度である。
言うまでもなく低いのだ。

この映画はおそらく、コメディか、ギャグ路線を狙ったものだと思う。
随所に突っ込みどころが満載なのだ。

例えばヤガル族という設定。
マナクと呼ばれるマンモスを狩って生業としているが、訪れるのが限定された季節のみ。
しかも、何年もマナクが訪れなくなっているという。
どうやって飢えをしのいでいるのかという疑問は全く明かされない。
「食料があと少ししかない」
「マナクを一頭狩れば○年は生きられる」などという台詞もないので、飢えている感が伝わらない。
そこに訪れた予言の少女。
なぜ青い眼をしているのか、アフリカっぽい大地にいるのに不自然きわまりない。
しかも「青い眼」といういかにも白人至上主義的な現代人好みに設定されている。
紀元前1万年どころか、価値観は20世紀だ。
ラストに従って、その前時代的な女性の好みはどんどんエスカレートしていく。
青い衣装を身につけた姿は、一昔前の生け贄のヒロインだ。
彼女の胸の谷間を強調するので手に負えない。
そもそも彼女は山本モナに激似なので、どこか笑えてしまう。

訪れる他の民族達も、笑いを誘うために登場しているようにしか見えない。
「木に隠れるのが得意な……」などという紹介に比べ、「死の民族の……」という、もはやどんな民族かもわからないような紹介。
さらに彼らが倒すべき相手がいる場所に、木などない。
こった民族衣装を紹介してもそれが映画的な伏線にはなりえていない。
「私たちこういうデザインを考えてみましたので見て下さい」
というファッションショーのようだ。

当然、敵になる騎馬民族の設定も不透明だ。
やたらと遠い民族を捕虜に連れて、何をしているのかと思うと、ピラミッド作り。
どこまでエジプトを馬鹿にするのかと思ってしまう。
「神が三人いたが一人だけになった」というような意味深な台詞も、
敵を知るてがかりや、倒す伏線になっていない。
彼らが信仰しているものが見えないため、倒しようもない。
倒してもカタルシスはない。
盲信しているという、そこだけを取り出して「悪政」とするには、それこそ盲信だろう。

神とされる王を倒すシーンもギャグだ。
槍を投げて、それが見事に命中。
投げる瞬間に、誰もが失敗しそうに感じなかったはずだ。
それなら「人質を解放したら引き上げろと言う要求を飲む!」などという交渉をする必要もなかったのではないか。
最初から投げとけよ、と突っ込みたくなる。
もちろん、このシーンには伏線がある。
敵のアジトを襲う前に、敵の斥候襲われたとき、仲間が槍を投げて殺す。
そのときも全くしくじるようなそぶりがない。
もう笑うしかない。

槍の名手だとか、槍を投げれば誰にも負けないとか、そういう伏線も設定もないので、不自然きわまりない。
不自然きわまりないのに、一直線に敵を殺すので笑えるのだ。

僕が個人的にヒットしたのは巫母と呼ばれる老女だ。
彼女の預言は映画的にはすごく美味しい役所だったはずなのに、彼女の預言を生かし切れなかった。
「風の谷」の大婆様のような位置づけにあるのだから、結末を予感させる意味不明な預言をあらかじめ言わせておけば、
きっと僕たちは終幕後違った印象を受けたに違いない。
彼女も笑いしか生み出さないキャラになってしまっている。
鼻血を出したり、いきなり驚いてみたり。
周りからすれば、ちょっと心配したくなる。(違う意味で。)
意味も分からずピラミッドを造る者たちも盲信なら、いきなり鼻血を出すババアを信仰している若者たちも盲信だろう。

少し話を戻そう。
父殺しの物語だと先に書いたが、実は「殺せて」いない。
息子のデレーは父親の足跡を忠実にたどることに成功しているが、父親を乗り越えるまで至っていない。
ただ、父親がしたくてもできなかったことを代わりにしただけだ。

悪政に反抗しようとしたことも、父親が下地を作っている。
また、飢えをしのぐための作物を持って帰ることも、父親のアイデアだ。
(砂漠で実るはずの作物を山岳に住むヤガル族が育てられるのか不思議だが、
それはあえて伏せておこう。)
これでは本当の意味での「父殺し」になっていない。
槍を返して、それを受け取るという物語的な記号としての成長も、しっかりと描けていない。
これではギャグのシーンだけが目立って、物語としてのカタルシスは得られようもない。
中途半端と書いたのは、そういう意味だ。
二項対立的に描くにしても、成長譚として描くにしても、確固たるものがなく自己矛盾に陥っているのだ。
ただ当たり障りのない物語に仕立て上げようとしたようにしか映らない。

そもそも、エメリッヒは、子供にでも受ける映画を作りたいのか、死や血を見せなさすぎる。
前作にあたる「デイ・アフター・トゥモロー」でもそうだった。
槍で刺されても、生け贄と称してピラミッドから落とされても、血がほとんど流れない。
死を見せないなら、対極にある生への渇望や生きる喜びを得られることもない。
もちろん、どっかのいたずらに死や血を見せる映画よりは健全なのだろうが、こちらはこちらで極端すぎると思う。

命の重みから目を背ける監督に、この映画は荷が重すぎると思う。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ノー・マンズ・ランド(V) | トップ | ジョンQ最後の決断(V) »

コメントを投稿

映画(か)」カテゴリの最新記事