評価点:64点/2005年/アメリカ
監督:マーク・フォースター
観た後に誰かに勧めたくなるサスペンス。
車を自分で燃やしたというヘンリーは精神科医にかかっていた。
彼の主治医のベスが療養のために休むことになったので、サム・フォスター(ユアン・マクレガー)が代診することになった。
サムと距離を置こうとするヘンリー(ライアン・ゴズリング)は、「もうすぐ雹が降るから帰る」と言い出す。
晴天だった空を見ていぶかしがったサムだったが、はたして本当に雹が降ってくる。
不審に思ったサムはヘンリーについて詳しく調べ始めるが…。
随分前に、サイトの書き込みでこの映画を薦めてもらった。
けれども、近所のGEOには置いていなかったので、そのままになっていた。
TSUTAYAに入会したので、検索をかけてみるとあったので、借りてみた。
日本ではそれほど話題にならなかった映画で、きっとレンタルDVDでも探しにくいだろう。
ちょっと目先を変えた作品なので、わかりやすい映画ではない。
ユアン・マクレガーファンなら観るべき作品だろう。
▼以下はネタバレあり▼
物語は意味深な冒頭からスタートして、何一つ確かなものがない状態で進んでいく。
様々な予想が飛来するが、ラストではその真相が明らかになる。
その真相もまた少し曖昧なので、余計にやきもきする。
やきもきするので、もう一度見直して観たくなるが、二度観てもやはりやきもきしたままだった。
おそらく、そういう映画なのだろう。
ヘンリーが自殺を宣言し、天気を予言し、盲目の老人を治療する。
サムは死んだ人間と話し、同じ状況を何度も経験し、妙な言葉を耳にする。
そうした違和感が、伏線があるものの、完全に解消するにはラストの真相が明かされるシークエンスまで待たなければならない。
真相はわかりやすい。
ヘンリーは交通事故を起こし、瀕死の状況にあった。
物語の全ては、その状況でみた幻想だったのだ。
幻想とするか、想像とするか、夢とするか。
そこには議論が必要かも知れないが、僕は幻想と呼んでおきたい。
想像とするにはあまりにも具体的で、確固たるものだし、夢という言葉とはすこし違和感を持つ。
やはり幻想ということばがもっともしっくりくるように思うのだ。
ちなみに「ステイ」とは滞在する、留まるといった意味がある。
冠詞がないため、おそらく動詞の「stay」だろう。
死に際に短い時間、stayした幻想を描いていると考えられる。
まずは読み解ける範囲内で、彼の現実の状況を確認しておこう。
彼はアーティストだった。
学生の彼は、美術を学び、教師たちからは「別の世界を想像できる独創性をもっている」と言われていた。
彼が死に間際に様々な情報を、自分なりに組み立てたのは、彼のそういった特殊な力によってだろう。
彼はアシーナという女性とつきあっていた。
彼女への求婚をかねて両親をつれて、ドライブしていたところ、前輪のタイヤが脱輪し、事故を起こした。
彼は脇見運転だったと考えて、そのミスを許して欲しいと願っていた。
最後に両親を殺してしまった罪をあがないたいと考えたわけだ。
21歳の誕生日だった。
絵を見せない主義だったのかもしれない、彼は自分で満足できる絵を残せずに死んだのだろう。
だからこそ、アーティストだった別の人間を作り上げて、それに自分を重ね合わせて幻想を作り上げた。
だが、幻想を作り上げる一方で、彼は死を悟っていた。
21歳の自殺をする、という仕草をしたのは、自分がもう死に際にいることを知っていたからだ。
彼はその死に際、走馬燈のような幻想を作り上げたのだ。
勿論、それは意図して作られたものではなく、死に間際に見えた、まさに無意識の世界だった。
そう考えると、幻想と現実との関係が密であることがわかってくる。
子どもが振り返りながら「あの人もう死ぬの?」という子ども。
「まだ若い子なのに!」と叫ぶ精神疾患の患者。
「許してくれ」と殴り書きされた壁。
雹と光を見間違えたこと。
婚約指輪を渡しそびれた悔い。
主治医だったというベスは、事故の当事者である1人の名前だった。
幻想の中にも、現実に押し戻そうとする映像が挿入される。
それは彼の幻想が終わりに近づいていることを示し、この幻想そのものがヘンリーの意識であることを示している。
端的なのは、サムとヘンリーが混同されるシークエンスだ。
ヘンリーが初めて両親について語ったシークエンスでは、サムとヘンリーが柱の影で入れ違っていく。
それだけではなく、ライラが描いていた絵が実はヘンリーのものだった、といった伏線もある。
エンドロールで子どもの頃の写真が出されているのは、この映画が走馬燈であることを示している。
死に際に見る物語、という設定は興味深い。
そこには、若くして死んでいくという悲しみがある。
スタイリッシュでそれでいて美的センス溢れる映像も魅力的だ。
シークエンスとシークエンスをつなげる演出も、ハイセンスだ。
だが、僕としてはカタルシスが大きくなかった。
二度見たが、それもそのカタルシスの小ささを確認したかったからだ。
それは回収し切れていない、説明しきれない描写やシーンが多すぎるからだろう。
そして、現実と幻想とがリンクしていないと考えるしかない部分もある。
例えば、父親とされる男がなぜ盲目だったのだろう。
そこにどんな意図があるのだろうか。
精神科医としてサムとライラを登場させ、その2人の関係が医者と患者という関係にどのような象徴性をみることができるだろう。
看護婦だと名乗ったライラ(現実)とはあまりにもかけ離れている。
こういった点を言い出せばきりがない。
思わせぶりな伏線として様々な怪異が登場するが、その全てを劇中では説明し切れていない。
確かに、想像することはできる。
無理に読み解こうと思えばできるのかもしれない。
けれども、あれだけ思わせぶりなカットを連続させておきながら、結局そのオチが「あとは想像にお任せします」ではちょっと物足りない。
実際に、思い描いた幻想のすべてを説明できるかどうかというのは問題ではない。
映画である以上、納得できる作りにしておかないとカタルシスが小さくなってしまうことが問題なのだ。
もう一つ。
僕にとっては、この映画を1本の映画として取り出してみることができなかった。
死に際に見る幻想という設定は、今敏が亡くなった前後に見たことを抜きにして捉えることはできなかったのだ。
今敏は死に際にどんな幻想を描いたのだろう。
どんな走馬燈を見たのだろう。
サムとライラはラストで結ばれる方向で幕を閉じる。
その後二人がどのような関係になるのかはわからない。
しかし、二人には確実にヘンリーが抱いた「想い」を受け取ったと読める終わらせ方だ。
僕は今敏もまた、彼が思い描いた「想い」を、僕たちが無意識的にではあれ、受け取っているのだと信じたい。
そして僕は死ぬときどんな走馬燈を描くのだろう。
そんなことばかり考えさせられる映画だった。
監督:マーク・フォースター
観た後に誰かに勧めたくなるサスペンス。
車を自分で燃やしたというヘンリーは精神科医にかかっていた。
彼の主治医のベスが療養のために休むことになったので、サム・フォスター(ユアン・マクレガー)が代診することになった。
サムと距離を置こうとするヘンリー(ライアン・ゴズリング)は、「もうすぐ雹が降るから帰る」と言い出す。
晴天だった空を見ていぶかしがったサムだったが、はたして本当に雹が降ってくる。
不審に思ったサムはヘンリーについて詳しく調べ始めるが…。
随分前に、サイトの書き込みでこの映画を薦めてもらった。
けれども、近所のGEOには置いていなかったので、そのままになっていた。
TSUTAYAに入会したので、検索をかけてみるとあったので、借りてみた。
日本ではそれほど話題にならなかった映画で、きっとレンタルDVDでも探しにくいだろう。
ちょっと目先を変えた作品なので、わかりやすい映画ではない。
ユアン・マクレガーファンなら観るべき作品だろう。
▼以下はネタバレあり▼
物語は意味深な冒頭からスタートして、何一つ確かなものがない状態で進んでいく。
様々な予想が飛来するが、ラストではその真相が明らかになる。
その真相もまた少し曖昧なので、余計にやきもきする。
やきもきするので、もう一度見直して観たくなるが、二度観てもやはりやきもきしたままだった。
おそらく、そういう映画なのだろう。
ヘンリーが自殺を宣言し、天気を予言し、盲目の老人を治療する。
サムは死んだ人間と話し、同じ状況を何度も経験し、妙な言葉を耳にする。
そうした違和感が、伏線があるものの、完全に解消するにはラストの真相が明かされるシークエンスまで待たなければならない。
真相はわかりやすい。
ヘンリーは交通事故を起こし、瀕死の状況にあった。
物語の全ては、その状況でみた幻想だったのだ。
幻想とするか、想像とするか、夢とするか。
そこには議論が必要かも知れないが、僕は幻想と呼んでおきたい。
想像とするにはあまりにも具体的で、確固たるものだし、夢という言葉とはすこし違和感を持つ。
やはり幻想ということばがもっともしっくりくるように思うのだ。
ちなみに「ステイ」とは滞在する、留まるといった意味がある。
冠詞がないため、おそらく動詞の「stay」だろう。
死に際に短い時間、stayした幻想を描いていると考えられる。
まずは読み解ける範囲内で、彼の現実の状況を確認しておこう。
彼はアーティストだった。
学生の彼は、美術を学び、教師たちからは「別の世界を想像できる独創性をもっている」と言われていた。
彼が死に間際に様々な情報を、自分なりに組み立てたのは、彼のそういった特殊な力によってだろう。
彼はアシーナという女性とつきあっていた。
彼女への求婚をかねて両親をつれて、ドライブしていたところ、前輪のタイヤが脱輪し、事故を起こした。
彼は脇見運転だったと考えて、そのミスを許して欲しいと願っていた。
最後に両親を殺してしまった罪をあがないたいと考えたわけだ。
21歳の誕生日だった。
絵を見せない主義だったのかもしれない、彼は自分で満足できる絵を残せずに死んだのだろう。
だからこそ、アーティストだった別の人間を作り上げて、それに自分を重ね合わせて幻想を作り上げた。
だが、幻想を作り上げる一方で、彼は死を悟っていた。
21歳の自殺をする、という仕草をしたのは、自分がもう死に際にいることを知っていたからだ。
彼はその死に際、走馬燈のような幻想を作り上げたのだ。
勿論、それは意図して作られたものではなく、死に間際に見えた、まさに無意識の世界だった。
そう考えると、幻想と現実との関係が密であることがわかってくる。
子どもが振り返りながら「あの人もう死ぬの?」という子ども。
「まだ若い子なのに!」と叫ぶ精神疾患の患者。
「許してくれ」と殴り書きされた壁。
雹と光を見間違えたこと。
婚約指輪を渡しそびれた悔い。
主治医だったというベスは、事故の当事者である1人の名前だった。
幻想の中にも、現実に押し戻そうとする映像が挿入される。
それは彼の幻想が終わりに近づいていることを示し、この幻想そのものがヘンリーの意識であることを示している。
端的なのは、サムとヘンリーが混同されるシークエンスだ。
ヘンリーが初めて両親について語ったシークエンスでは、サムとヘンリーが柱の影で入れ違っていく。
それだけではなく、ライラが描いていた絵が実はヘンリーのものだった、といった伏線もある。
エンドロールで子どもの頃の写真が出されているのは、この映画が走馬燈であることを示している。
死に際に見る物語、という設定は興味深い。
そこには、若くして死んでいくという悲しみがある。
スタイリッシュでそれでいて美的センス溢れる映像も魅力的だ。
シークエンスとシークエンスをつなげる演出も、ハイセンスだ。
だが、僕としてはカタルシスが大きくなかった。
二度見たが、それもそのカタルシスの小ささを確認したかったからだ。
それは回収し切れていない、説明しきれない描写やシーンが多すぎるからだろう。
そして、現実と幻想とがリンクしていないと考えるしかない部分もある。
例えば、父親とされる男がなぜ盲目だったのだろう。
そこにどんな意図があるのだろうか。
精神科医としてサムとライラを登場させ、その2人の関係が医者と患者という関係にどのような象徴性をみることができるだろう。
看護婦だと名乗ったライラ(現実)とはあまりにもかけ離れている。
こういった点を言い出せばきりがない。
思わせぶりな伏線として様々な怪異が登場するが、その全てを劇中では説明し切れていない。
確かに、想像することはできる。
無理に読み解こうと思えばできるのかもしれない。
けれども、あれだけ思わせぶりなカットを連続させておきながら、結局そのオチが「あとは想像にお任せします」ではちょっと物足りない。
実際に、思い描いた幻想のすべてを説明できるかどうかというのは問題ではない。
映画である以上、納得できる作りにしておかないとカタルシスが小さくなってしまうことが問題なのだ。
もう一つ。
僕にとっては、この映画を1本の映画として取り出してみることができなかった。
死に際に見る幻想という設定は、今敏が亡くなった前後に見たことを抜きにして捉えることはできなかったのだ。
今敏は死に際にどんな幻想を描いたのだろう。
どんな走馬燈を見たのだろう。
サムとライラはラストで結ばれる方向で幕を閉じる。
その後二人がどのような関係になるのかはわからない。
しかし、二人には確実にヘンリーが抱いた「想い」を受け取ったと読める終わらせ方だ。
僕は今敏もまた、彼が思い描いた「想い」を、僕たちが無意識的にではあれ、受け取っているのだと信じたい。
そして僕は死ぬときどんな走馬燈を描くのだろう。
そんなことばかり考えさせられる映画だった。
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