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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

興奮のるつぼ

2008-06-15 13:04:15 | 日記
あれからもう一週間もたってしまったのか、と感慨深く思う。
今思えば、あれは夢だったのかもしれない、とさえ思う。

6月8日、京セラドームでは最高のフィナーレを迎えていた。
僕は、そのとき、幸運にも、アリーナの前から三番目という絶好の位置でラルクアンシエルのライブに参加していた。

僕は2000年の大阪ドーム公演以来、ラルクアンシエルのライブ・コンサートに何度も足を運んでいる。
けれども、アリーナで、しかも三番目という近さを得たことはなかった。
何万人と入るドームで、それだけの近い席を得ることはもはやないだろう。

かつてない興奮であったととを、自慢したいためにここの記事を書いているのでない。
僕はこの幸運な体験をしているときに、冷静に分析する自分もいた。

それは、「なぜこんなに気持ちいのだろう」ということだ。
アリーナの様子を、たとえばスタンドの上段から見ていると、見事に揃っている腕の振りや体の動きに感動すら覚える。
ラルクアンシエルよりもぴったりと合っていたのは、グレイのEXPOだった。
一拍目から全員の腕があっていたのだ。
僕は自然と鳥肌が立った。

なぜこんなに興奮するのだろう。
おそらく、この感動や興奮は、ミュージシャンが一人で自分のためだけに歌ってくれても、得られない種類のものだ。
何万人という自分と同じ観衆がいるからこそ、この楽しさはある。
しかも、宇多田ヒカルのようにあまりライブ・コンサートをしないようなミュージシャンであっても、その種類の感動はない。
観衆が一体となる感覚は得られない。

なぜここまで感動できるのだろうか。
それは、きっと全員が同じ思いで、同じリズムで盛り上がっているからに違いない。
そこには一体感による恍惚感がある。
アリーナ席を得ることができるのは、ファンクラブの人間だけでない。
平等に与えられたチャンスは誰にでもある。
だが、アリーナの盛り上がり方は、異常だ。
それは妙な連帯感が生まれるからに他ならない。
そして、アリーナ席をなんとしてでも取りたいと思う人が多いのは、ミュージシャンと物理的に近いからだけではないことに同時に気づいたのだ。

ライブ・コンサートによる一体感。
これを味わうためには、やはりアリーナ席という独特な空間に身をおく必要があるのだ。

傍からみると、それは奇妙な光景のはずだ。
たとえるなら、アリの行列のような勤勉さと統制の取れた動きだ。
いや、北朝鮮の軍隊の動きにさえ共通項があるような気がする。
ニュースで見ている北朝鮮の軍人たちの様子は、異常に映るが、
ライブ・コンサートの様相もそれに近いものがある。

それというのは、人間の本質的な欲望、欲求にあるのかもしれない。
つまり、大勢の人間と一体となるときに得られる恍惚感。
統制という名の享楽。
人間はどこかでそれを求めているのかもしれない。
祭りもおなじことなのかもしれない。
あるいは運動会での行進も、ダルイのだけれど、それでもなお、それをさせるのは人間の本質的な欲望なのかもしれない。

それは、秩序を破りたいという人間の欲求には相反するものではある。
だが、みなと一体になりたいというのも、人間にはきっと備わっているのだろう。
いや、群れで生活する生き物共通の普遍的な欲求なのかもしれない。

壊すことと創ること。
ともに表裏一体でありながら、その揺らぎの中で僕たちは日々生きているのだろう。
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