評価点:78点/2014年/アメリカ/106分
監督:デイミアン・チャゼル
相容れない他者がもつ唯一の共通の言語。
アメリカ最高峰の音楽院に入学したドラマーのアンドリュー・ニューマン(マイルズ・テラー)は、フレッチャー教授(J・K・シモンズ)のバンドに入れる機会をうかがっていた。
あるとき教授から誘われて見習いとして入団することを許されたが、その雰囲気は晴れ晴れしい外からの様子とは違い、熾烈を極めるものだった。
ずっと見ようと思っていてなかなか見られていなかった作品。
終始重苦しく、見るにはある程度の覚悟と準備が必要だろう。
こういう作品が好きかどうかによって好みも分かれそうだ。
私はJ・K・シモンズが好きなのもあって大好きな作品だ。
同じ監督の「ラ・ラ・ランド」では全然乗れなかったが、こちらはおもしろかった。
▼以下はネタバレあり▼
この映画をどういう立場の人が見るかによって捉え方が変わるだろうと思う。
特に日本では「ブラック部活」という言葉が蔓延っていることもあって、「なんだこの映画は!」と怒りたくなる人もいるのではないか。
もしくは「やっぱりある程度の痛みは教育に必要だよね」というような的外れなメッセージを受けとってしまう人もいそうだ。
この映画はそういうところに主題はない。
この話は教育的な観点で見るべきではないし、そんなことは描かれていない。
テーマを一言で言えば、他者とはなにか、芸術とは何か、という点に集約される。
真の芸術に迫るためには、だめなものと良いものとの違いに線を引くことにある。
その違いを知っているのはそれほど多くない。
もちろん私にもわからない。
フレッチャーが話していたように「これくらいでいいよ、大丈夫」と言ってしまえば、真の芸術は生まれない。
徹頭徹尾、良いものを求める、極めて強い意志と覚悟そして、審美眼が必要になる。
その時必要になるのは、デジタル機器や高級な楽器ではない。
必要なのは「だめだ、違う」ということができる他者だ。
他者という存在なくしては真理に近づくことはできない。
フレッチャーという教授は、楽団の他者であり続けた。
手法が正しかったかどうかは知らない。
ただ最高級のジャズを、その境地に達するためには、妥協を許さない他者であり続けることだけだった。
ニューマンはその意味を理解していた。
だからどれだけ罵られても音楽を捨てなかったし、努力することができた。
ニューマンにとってフレッチャーは自分を真理へと導くための他者であり、自分を犯し、自分を脅かし、自分を肯定する唯一の存在だった。
誤解を恐れずに言うなら、それは教授や指揮者でなくてもよかった。
父親や観客でも良い。
とにかく自分のドラムを「だめだ、違う、もっと高みを目指せ」と伝えてくれる辛辣な者であればよかったのだ。
そういう他者との唯一の共通言語は、「良い音楽かどうか」という点だけだ。
紆余曲折合った二人は、ラストの舞台上で和解する。
二人は良い音楽に出会うことで、共通の言語を手に入れる。
ここだけは二人が同じ境地に達することができた。
この瞬間こそ、この映画で描くべきだった点であり、それまでの過程は、その和解を生むための相克でしかない。
逆に言えば、それまでの両者のやりとりはどこまで本音を語っていたのかはわからない。
特に終盤でノーマンが音楽院を去ったあと、フィッシャーと再会したときの場面。
フィッシャーはどこまで本音を語っていたのだろうか。
「生徒に謝罪などするつもりはない」
「結局は私は育てられなかった」
「ドラマーを探している。あの二人はおまえを引き上げるための起爆剤だった」
どのあたりまで彼は本音を語っていたのか。
そう考えると、楽譜が消えたあの場面は、フィッシャーがわざと持ち去ったのかもしれない。
ノーマンを表舞台に立たせるための罠だったのかもしれない。
かくして、フィッシャーの考えたとおりノーマンは一流の音楽を奏でることができるドラマーになった。
ラストは「どんな挫折でも舞台に立ち続けるだけの覚悟がある」ことを示したわけだ。
だから、フィッシャーの思惑どおりに、彼は大成した。
では、フィッシャーは一流の育手(そだて)だったのか。
私はそうは思わない。
ノーマンは「やっぱりおれが間違っていたんだ」とかフィッシャーは「だから俺のやり方は正しかったのだ」といったような結論になっているわけではない。
これは教育のドラマではなく、他者という存在に出会い、己を高めることで真理に到達するという芸術のドラマなのだ。
この点は極めて重要だろう。
ノーマンとフィッシャーは、生徒と教師という関係ではない。
未熟から真理へという成長の過程で、絶対的に必要な他者という存在を描いた作品だ。
だからノーマンがフィッシャーへ復讐する物語でもない。
(もちろんその逆でもない。)
ノーマンはどれだけ罵られようとも、そして一度諦めかけた夢を、罠であったとしても、もう一度追うことを決めた。
それは「フィッシャーのせいだ」というような恨みから来るものではない。
むしろ真逆で、自分のふがいなさがわかったからこそ、もう一度舞台に立つことを決めるのだ。
もちろんそれを示すのが元恋人への謝罪の電話だ。
「僕が悪かった」というのは恋人に対してではない。
むしろ、他の人のせいにして自分が音楽に対して、謙虚に真摯に向き合うことをしてこなかったことの裏返しだ。
だからこそ、罠に気づいた後ももう一度演奏することを決めるのだ。
それは他者に左右されない、確固たる自己を確立させたということだ。
絶対譲らない、おれが音楽を作り出すドラマーなのだ、という宣言だ。
「合図を出す!」という台詞はそれを象徴する。
見ていて気持ちいい映画ではない。
むしろ暗くさせるし、見るためにはパワーがいる。
けれども、それこそが他者に向き合って芸術を成すことの本質なのだろう。
「スパイダーマン」を辛辣に報道するJ・K・シモンズは、やはり主人公の絶対的な他者なのだ。
監督:デイミアン・チャゼル
相容れない他者がもつ唯一の共通の言語。
アメリカ最高峰の音楽院に入学したドラマーのアンドリュー・ニューマン(マイルズ・テラー)は、フレッチャー教授(J・K・シモンズ)のバンドに入れる機会をうかがっていた。
あるとき教授から誘われて見習いとして入団することを許されたが、その雰囲気は晴れ晴れしい外からの様子とは違い、熾烈を極めるものだった。
ずっと見ようと思っていてなかなか見られていなかった作品。
終始重苦しく、見るにはある程度の覚悟と準備が必要だろう。
こういう作品が好きかどうかによって好みも分かれそうだ。
私はJ・K・シモンズが好きなのもあって大好きな作品だ。
同じ監督の「ラ・ラ・ランド」では全然乗れなかったが、こちらはおもしろかった。
▼以下はネタバレあり▼
この映画をどういう立場の人が見るかによって捉え方が変わるだろうと思う。
特に日本では「ブラック部活」という言葉が蔓延っていることもあって、「なんだこの映画は!」と怒りたくなる人もいるのではないか。
もしくは「やっぱりある程度の痛みは教育に必要だよね」というような的外れなメッセージを受けとってしまう人もいそうだ。
この映画はそういうところに主題はない。
この話は教育的な観点で見るべきではないし、そんなことは描かれていない。
テーマを一言で言えば、他者とはなにか、芸術とは何か、という点に集約される。
真の芸術に迫るためには、だめなものと良いものとの違いに線を引くことにある。
その違いを知っているのはそれほど多くない。
もちろん私にもわからない。
フレッチャーが話していたように「これくらいでいいよ、大丈夫」と言ってしまえば、真の芸術は生まれない。
徹頭徹尾、良いものを求める、極めて強い意志と覚悟そして、審美眼が必要になる。
その時必要になるのは、デジタル機器や高級な楽器ではない。
必要なのは「だめだ、違う」ということができる他者だ。
他者という存在なくしては真理に近づくことはできない。
フレッチャーという教授は、楽団の他者であり続けた。
手法が正しかったかどうかは知らない。
ただ最高級のジャズを、その境地に達するためには、妥協を許さない他者であり続けることだけだった。
ニューマンはその意味を理解していた。
だからどれだけ罵られても音楽を捨てなかったし、努力することができた。
ニューマンにとってフレッチャーは自分を真理へと導くための他者であり、自分を犯し、自分を脅かし、自分を肯定する唯一の存在だった。
誤解を恐れずに言うなら、それは教授や指揮者でなくてもよかった。
父親や観客でも良い。
とにかく自分のドラムを「だめだ、違う、もっと高みを目指せ」と伝えてくれる辛辣な者であればよかったのだ。
そういう他者との唯一の共通言語は、「良い音楽かどうか」という点だけだ。
紆余曲折合った二人は、ラストの舞台上で和解する。
二人は良い音楽に出会うことで、共通の言語を手に入れる。
ここだけは二人が同じ境地に達することができた。
この瞬間こそ、この映画で描くべきだった点であり、それまでの過程は、その和解を生むための相克でしかない。
逆に言えば、それまでの両者のやりとりはどこまで本音を語っていたのかはわからない。
特に終盤でノーマンが音楽院を去ったあと、フィッシャーと再会したときの場面。
フィッシャーはどこまで本音を語っていたのだろうか。
「生徒に謝罪などするつもりはない」
「結局は私は育てられなかった」
「ドラマーを探している。あの二人はおまえを引き上げるための起爆剤だった」
どのあたりまで彼は本音を語っていたのか。
そう考えると、楽譜が消えたあの場面は、フィッシャーがわざと持ち去ったのかもしれない。
ノーマンを表舞台に立たせるための罠だったのかもしれない。
かくして、フィッシャーの考えたとおりノーマンは一流の音楽を奏でることができるドラマーになった。
ラストは「どんな挫折でも舞台に立ち続けるだけの覚悟がある」ことを示したわけだ。
だから、フィッシャーの思惑どおりに、彼は大成した。
では、フィッシャーは一流の育手(そだて)だったのか。
私はそうは思わない。
ノーマンは「やっぱりおれが間違っていたんだ」とかフィッシャーは「だから俺のやり方は正しかったのだ」といったような結論になっているわけではない。
これは教育のドラマではなく、他者という存在に出会い、己を高めることで真理に到達するという芸術のドラマなのだ。
この点は極めて重要だろう。
ノーマンとフィッシャーは、生徒と教師という関係ではない。
未熟から真理へという成長の過程で、絶対的に必要な他者という存在を描いた作品だ。
だからノーマンがフィッシャーへ復讐する物語でもない。
(もちろんその逆でもない。)
ノーマンはどれだけ罵られようとも、そして一度諦めかけた夢を、罠であったとしても、もう一度追うことを決めた。
それは「フィッシャーのせいだ」というような恨みから来るものではない。
むしろ真逆で、自分のふがいなさがわかったからこそ、もう一度舞台に立つことを決めるのだ。
もちろんそれを示すのが元恋人への謝罪の電話だ。
「僕が悪かった」というのは恋人に対してではない。
むしろ、他の人のせいにして自分が音楽に対して、謙虚に真摯に向き合うことをしてこなかったことの裏返しだ。
だからこそ、罠に気づいた後ももう一度演奏することを決めるのだ。
それは他者に左右されない、確固たる自己を確立させたということだ。
絶対譲らない、おれが音楽を作り出すドラマーなのだ、という宣言だ。
「合図を出す!」という台詞はそれを象徴する。
見ていて気持ちいい映画ではない。
むしろ暗くさせるし、見るためにはパワーがいる。
けれども、それこそが他者に向き合って芸術を成すことの本質なのだろう。
「スパイダーマン」を辛辣に報道するJ・K・シモンズは、やはり主人公の絶対的な他者なのだ。
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