評価点:50点/2015年/アメリカ/126分
監督:コリン・トレボロウ
同工異曲の超大作。
「ジュラシック・パーク」から20年経った。
遺伝子操作による恐竜の復活は、もはや「危険なパーク」ではなく、「動物園のゾウ」レベルまで一般化した。
それでも唯一無二の「ジュラシック・ワールド」では毎日2万人の来場者があった。
その重役のクレア(ブラス・ダラス・ハワード)は新たな遺伝子操作によってより強力な恐竜「インドミナス・レックス」を育てていた。
そんなある日、「ジュラシック・ワールド」に、二人の兄弟が訪れた。
ザックとグレイは彼女の甥っ子にあたり、彼女がエスコートして見学する予定だったのだ。
しかし、彼女は株主たちに説明するのに忙しく、二人の兄弟は自由勝手に園内を見学し始める。
そして、そのインドミナス・レックスが檻の中から脱走するという事件が起こる。
「パーク」シリーズの原案はあのマイクル・クライトンだった。
しかし、彼が亡くなった今、このシリーズに新しい「何か」をどのようなアイデアでもたらすのか。
正念場となった本作だ。
「Yahoo!」のレビューを少し覗いたが、どうやら吹き替えがひどいらしい。
私は字幕3D版で鑑賞したのでそのあおりは受けていない。
字幕か吹き替えかよりも、シナリオをどうにかしてほしい、そんな凡作である。
ちなみに、もっと早く見ていたのだが、いろいろあって、この時期にアップすることになった。
申し訳ありません。
▼以下はネタバレあり▼
残念ながら、予定調和の中終幕まで突き進んだ。
「ジュラシック・パーク」シリーズと全く同じ結構で、全く同じ破綻で、全く同じ結末を迎えた。
何が変わったのか。
それは3Dになったというだけの話だ。
何も変わっていない。
それどころか、見せ方や設定、展開に不自然さが目立ち、完成度は低下している。
話の流れが、むしろ観客への皮肉ではないかと思われるふしもあって、むしろカタルシスよりも不快感を覚えて帰ることになりそうだ。
「ワールド」という新しいアトラクション施設が誕生し、来場者は2万人を越えていた。
この施設は巨額の資本が投入され、より新しい恐竜を蘇らせることが責務となっていた。
そこで開発されたのが、インドミナス・レックスである。
だが予想通り、複数の遺伝子操作によって誕生したこの恐竜は、人間を驚かせるほどの知能と能力を持っていた。
体温を調節し、GPSを抜き取り、擬態まで身についている。
凶暴さは群を抜き、なおかつコミュニケーション能力さえ有している。
このスーパー恐竜は、やがて檻の中から飛び出し、自分の「生物的地位」を確認すべく、周りの恐竜や人間たちを襲いまくる。
研究者は「自然の摂理」と言い訳して、CEOは「もっと怖いものを作れ」と言い、軍人は「これが新しい兵器となる」と意気込む。
主人公たちは、「人間の横暴さは自然に負ける」などという30年も前のテーゼを口に出す。
この既視感たっぷりの展開は、「パーク」で使い古された展開そのものだ。
何も新しくない。
DNAによる恐竜の復活というモティーフは、あの1990年代初頭には目新しいことだったが、今ではすっかりおなじみ(もちろん現実では恐竜の復活は実現されていないが)の知識だ。
その知識をもとに、カエルのDNAやラプトルのDNAをくっつけたらこんなんできましたけど? と言われても全く説得力がない。
DNAを足し算すれば新しい生物ができあがるなんていうのはとても信じがたい「計算」だからだ。
何も学ばない「ワールド」の人たちは、全くおなじミスをして、全く同じ惨劇を繰り返す。
けれども、彼らはこう宣うのだ。
「次々に新しいアトラクションを導入しないと客は満足しないのよ」と。
これはまさに観客に向けられたアイロニーである。
「同工異曲でも新しい映画を制作しないとあんたたちは満足しないでしょ? だからアイデアもないけれどこの映画を企画したの。悪い?」
といっそ言い換えてくれたほうがすっきりする。
馬鹿にしているとしかいいようのない台詞だが、ここにこの映画の象徴が現れているとしか思えない。
そもそもこの映画を制作した人々はどれくらい恐竜についてリサーチしたのだろう。
恐竜と人間が信頼を結んだり、恐竜が足し算で擬態したり、どれくらい生物学者とセッションしたのだろう。
マイクル・クライトンが遺した偉大な作品をこのような形で浪費されるのはとてもじゃないが我慢できない。
この作品には、やはり、恐竜に対する畏怖がないのだ。
尊敬がないのだ。
奇しくも、主人公のオーウェンに「俺たちはリスペクトし合っている」という薄っぺらい台詞を言わせてしまったように、その台詞と真逆で全く尊敬の念はないのだ。
だから、この映画は、恐竜が「怖い」生き物以外何物でもないことを強調する。
だって、「パーク」から20年も経っているんでしょ?
しかも、毎年のように新しい恐竜を見せないと人気もおぼつかないんでしょ?
そんな世界に、「恐竜ってすごい」という感情が芽生えるだろうか。
3Dの映像はすごいよ。
けれども、それは「恐竜」そのもの、生物そのものへの感情ではないだろう。
こういうシナリオしか引き出せなかった時点で、この映画は「エンターテイメントとして新しい何かを観客にもたらす」という基本概念を欠落させてしまったのだ。
そしてそれは徹頭徹尾、あらゆるところに反映されている。
一つは、ラストでティラノサウルスのゲートをクレアが開けに行って闘わせるシークエンス。
なんと、発煙筒をもった彼女は今の今まであのジャングルをハイヒールで駆け巡っていたことを教えてくれる。
キャラクター造形も甘い。
なぜ元海軍がラプトルを手なずけようと考えたのか、理解できない。
同じようにホスキンスがラプトルを軍事利用できると考えた理由も定かではない。
明らかに高コストで人間よりも時間が掛かる訓練で無人機よりも成果を上げるとは考えがたい。
演出もだめだめだ。
映像の教科書とも言える「ジュラシック・パーク」はどのシーンもどのカットもすべて観客をわくわくさせるために計算されている。
必ず伏線を張って恐竜の訪れを示したり、全体像を見せずに登場人物たちの表情だけで緊迫感を出していたり。
そういう緻密さがなくなり、ただ「ばくばく」食べてしまうだけだ。
だから、怖くないのだ。
3Dにすれば映像は楽しくなるわけではない。
そんな基本的なことも忘れてしまったのか。
クリス・プラットが「絶対失敗できない作品」と言いながら、大きな失敗をしてしまったシリーズ。
これで吹き替えが棒読みだったら、目も当てられないよね。
監督:コリン・トレボロウ
同工異曲の超大作。
「ジュラシック・パーク」から20年経った。
遺伝子操作による恐竜の復活は、もはや「危険なパーク」ではなく、「動物園のゾウ」レベルまで一般化した。
それでも唯一無二の「ジュラシック・ワールド」では毎日2万人の来場者があった。
その重役のクレア(ブラス・ダラス・ハワード)は新たな遺伝子操作によってより強力な恐竜「インドミナス・レックス」を育てていた。
そんなある日、「ジュラシック・ワールド」に、二人の兄弟が訪れた。
ザックとグレイは彼女の甥っ子にあたり、彼女がエスコートして見学する予定だったのだ。
しかし、彼女は株主たちに説明するのに忙しく、二人の兄弟は自由勝手に園内を見学し始める。
そして、そのインドミナス・レックスが檻の中から脱走するという事件が起こる。
「パーク」シリーズの原案はあのマイクル・クライトンだった。
しかし、彼が亡くなった今、このシリーズに新しい「何か」をどのようなアイデアでもたらすのか。
正念場となった本作だ。
「Yahoo!」のレビューを少し覗いたが、どうやら吹き替えがひどいらしい。
私は字幕3D版で鑑賞したのでそのあおりは受けていない。
字幕か吹き替えかよりも、シナリオをどうにかしてほしい、そんな凡作である。
ちなみに、もっと早く見ていたのだが、いろいろあって、この時期にアップすることになった。
申し訳ありません。
▼以下はネタバレあり▼
残念ながら、予定調和の中終幕まで突き進んだ。
「ジュラシック・パーク」シリーズと全く同じ結構で、全く同じ破綻で、全く同じ結末を迎えた。
何が変わったのか。
それは3Dになったというだけの話だ。
何も変わっていない。
それどころか、見せ方や設定、展開に不自然さが目立ち、完成度は低下している。
話の流れが、むしろ観客への皮肉ではないかと思われるふしもあって、むしろカタルシスよりも不快感を覚えて帰ることになりそうだ。
「ワールド」という新しいアトラクション施設が誕生し、来場者は2万人を越えていた。
この施設は巨額の資本が投入され、より新しい恐竜を蘇らせることが責務となっていた。
そこで開発されたのが、インドミナス・レックスである。
だが予想通り、複数の遺伝子操作によって誕生したこの恐竜は、人間を驚かせるほどの知能と能力を持っていた。
体温を調節し、GPSを抜き取り、擬態まで身についている。
凶暴さは群を抜き、なおかつコミュニケーション能力さえ有している。
このスーパー恐竜は、やがて檻の中から飛び出し、自分の「生物的地位」を確認すべく、周りの恐竜や人間たちを襲いまくる。
研究者は「自然の摂理」と言い訳して、CEOは「もっと怖いものを作れ」と言い、軍人は「これが新しい兵器となる」と意気込む。
主人公たちは、「人間の横暴さは自然に負ける」などという30年も前のテーゼを口に出す。
この既視感たっぷりの展開は、「パーク」で使い古された展開そのものだ。
何も新しくない。
DNAによる恐竜の復活というモティーフは、あの1990年代初頭には目新しいことだったが、今ではすっかりおなじみ(もちろん現実では恐竜の復活は実現されていないが)の知識だ。
その知識をもとに、カエルのDNAやラプトルのDNAをくっつけたらこんなんできましたけど? と言われても全く説得力がない。
DNAを足し算すれば新しい生物ができあがるなんていうのはとても信じがたい「計算」だからだ。
何も学ばない「ワールド」の人たちは、全くおなじミスをして、全く同じ惨劇を繰り返す。
けれども、彼らはこう宣うのだ。
「次々に新しいアトラクションを導入しないと客は満足しないのよ」と。
これはまさに観客に向けられたアイロニーである。
「同工異曲でも新しい映画を制作しないとあんたたちは満足しないでしょ? だからアイデアもないけれどこの映画を企画したの。悪い?」
といっそ言い換えてくれたほうがすっきりする。
馬鹿にしているとしかいいようのない台詞だが、ここにこの映画の象徴が現れているとしか思えない。
そもそもこの映画を制作した人々はどれくらい恐竜についてリサーチしたのだろう。
恐竜と人間が信頼を結んだり、恐竜が足し算で擬態したり、どれくらい生物学者とセッションしたのだろう。
マイクル・クライトンが遺した偉大な作品をこのような形で浪費されるのはとてもじゃないが我慢できない。
この作品には、やはり、恐竜に対する畏怖がないのだ。
尊敬がないのだ。
奇しくも、主人公のオーウェンに「俺たちはリスペクトし合っている」という薄っぺらい台詞を言わせてしまったように、その台詞と真逆で全く尊敬の念はないのだ。
だから、この映画は、恐竜が「怖い」生き物以外何物でもないことを強調する。
だって、「パーク」から20年も経っているんでしょ?
しかも、毎年のように新しい恐竜を見せないと人気もおぼつかないんでしょ?
そんな世界に、「恐竜ってすごい」という感情が芽生えるだろうか。
3Dの映像はすごいよ。
けれども、それは「恐竜」そのもの、生物そのものへの感情ではないだろう。
こういうシナリオしか引き出せなかった時点で、この映画は「エンターテイメントとして新しい何かを観客にもたらす」という基本概念を欠落させてしまったのだ。
そしてそれは徹頭徹尾、あらゆるところに反映されている。
一つは、ラストでティラノサウルスのゲートをクレアが開けに行って闘わせるシークエンス。
なんと、発煙筒をもった彼女は今の今まであのジャングルをハイヒールで駆け巡っていたことを教えてくれる。
キャラクター造形も甘い。
なぜ元海軍がラプトルを手なずけようと考えたのか、理解できない。
同じようにホスキンスがラプトルを軍事利用できると考えた理由も定かではない。
明らかに高コストで人間よりも時間が掛かる訓練で無人機よりも成果を上げるとは考えがたい。
演出もだめだめだ。
映像の教科書とも言える「ジュラシック・パーク」はどのシーンもどのカットもすべて観客をわくわくさせるために計算されている。
必ず伏線を張って恐竜の訪れを示したり、全体像を見せずに登場人物たちの表情だけで緊迫感を出していたり。
そういう緻密さがなくなり、ただ「ばくばく」食べてしまうだけだ。
だから、怖くないのだ。
3Dにすれば映像は楽しくなるわけではない。
そんな基本的なことも忘れてしまったのか。
クリス・プラットが「絶対失敗できない作品」と言いながら、大きな失敗をしてしまったシリーズ。
これで吹き替えが棒読みだったら、目も当てられないよね。
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