評価点:78点/1996年/アメリカ/110分
監督:ブライアン・デ・パルマ
元祖サスペンス・アクション。
IMFのエージェントチームは、イーサン(トム・クルーズ様)を中心として東欧にいる工作員の名簿を盗もうとしている男を監視し、リストを盗み出すところを撮影するという任務を与えられる。
変装して完璧に監視し、盗み出したところを撮影に成功するが、何者かに待ち伏せされており、チームは全滅する。
なんとか逃れたイーサンは、上司であるユージーン・キトリッジ(ヘンリー・ツェニー)に、このミッションは裏切り者を探し出すブラフだったと告げられる。
生き残ったイーサンは裏切り者だと嫌疑を掛けられる。
その場を離れたイーサンはチームが合流するはずだったホテルに辿り着き、裏切り者のJOBとして取引相手にメールをする。
手に入れられなかった工作員のNOC名簿を本当に盗み出し、裏切り者をあぶり出す交渉を始める。
IMFからの追っ手を逃れつつ、CIA本部から、NOCの工作員名簿を盗み出す不可能な作戦を敢行する。
人気シリーズの第一作。
何度も見ているが、ちょっとした気まぐれで見直した。
今更何を言うねん、という気もあるが、まあ、お時間が許す限りお付き合いいただければ幸いである。
もちろん、まだ実は見ていない、という人は見れば良いと思う。
古くさい描写はもちろんあるが、サスペンスとしても、アクションとしても、映画としてもおもしろい。
今振り返ると、それまでの作品と、これからの作品を繋ぐような記念碑的な作品にさえ思える。
映像技術がどんどん発展していく前と、その後のちょうど中間地点にあるような映画だ。
技術は古くても、映画としての見せ方は教科書のようなセオリーを踏襲している。
だからこそ、面白さは色あせない。
十分見る価値はあると思う。
▼以下はネタバレあり▼
我らがトム様が、人気シリーズを世に生み出した記念碑的な作品だ。
そして、工作員の名簿を云々するというのは、今でも変わらないよくあるシチュエーションだ。
冷戦が終わり、きな臭い諜報活動など必要がないとされるようになった時代。
今でもエージェントなどのスパイチームは当然暗躍しているだろうが、冷戦という背景がなくなった当時とまた状況は違うだろう。
時代は感じつつ、それでも古くならない普遍的な近代国家の国防に関わる物語なのかもしれない。
私がこのシリーズが好きなのは、基本的にシナリオに味方の裏切りがない、ということ。
あったのはこの第一作のみ。
それ以降は基本的にイーサンのチームに裏切り者は出ていない。
この結構が私はこのシリーずに人気が出た要因だと考えている。
スパイを描いた作品なのに、そういう所に安心感がある、そういう倫理はフィクションを扱う制作者側にとっては重要な気がする。
さて、この作品はのっけからいきなりピンチになり、誰からも協力してもらえないという絶体絶命のピンチに陥る。
オチを知っている今から見ると、確かに不自然な描写が多いわけだが、それを巧みに見せている。
当時の最新技術(虚構だけど)を見せながら、それでも人間味ある描写が多いことで、物語に没入できる素地を作っている。
分かり易いのはクレア(エマニュエル・ベアール)とのやりとりだ。
一人生き残ったクレアは、イーサンのもとを訪れて、夫のジムの敵を討ちたいと申し出る。
そこには一切の嫌疑はないのだが、未亡人となったクレアとイーサンは惹かれ合う(ように見える)。
だが、そうなった終盤でも彼女は指輪をしたままである。
生きて現れたジムも、そのまま指輪をしている。
ほとんどさりげなくしか映らないが、二人は通じ合っていることを示唆する。
観客が気づくかどうかは問題ではない。
こういう細かい描写を織り込んでいくことが、物語や真相を描いていく手法になり得る。
いわゆる、伏線だ。
種明かしされていくところだけが伏線ではない。
映像による伏線は他にもおそらくたくさんあるだろう。
だからこの映画は、「映画」であるのだ。
これまでもたくさんの映画を撮ってきた、デ・パルマらしい作品と言えるだろう。
クレアがジムと釣り合わないほどの若い美女である、という観客の期待もある。
美女がレトリックとして使われ、イーサンと恋仲になることもあり得る(むしろなってほしいという願望)だろうという、目を引く配役になっている。
イーサンでなくとも、目がくらむわけだ。
ラストでその彼女ですら裏切られてしまう、という展開も、ジムへの憎悪が観客に生まれる要素になっている。
スパイをモティーフにしているが、非常に映画的なのだ。
ミッションの中心となる、CIA本部に潜入するシークエンスも同じだ。
技術員がなんども嘔吐に悩まされるところや、彼は全く悪くないのに、アラスカに飛ばされたりするところ、ナイフだけがデスクに刺さっている描写など、非常に映画的だ。
観客が何を求めて映画館に来ているのか、そして何を感じて映画館を後にするのかということがしっかりと意識されている。
もちろんあらを探せばいくらでもあるかもしれない。
けれども、現実的かどうか、ありうるかどうか、ということよりも、映画であるかどうか、観客はそれをどのように感じたいかどうかを意識することの方が、映画としては重要だ。
残念ながら、そういう視点で映画を作ろうとしている人は少なくなったように感じる。
まだまだ学ぶことが多い、秀逸な作品だと思う。
もちろん、彼の作品がすべてそうというわけではないだろうが。
監督:ブライアン・デ・パルマ
元祖サスペンス・アクション。
IMFのエージェントチームは、イーサン(トム・クルーズ様)を中心として東欧にいる工作員の名簿を盗もうとしている男を監視し、リストを盗み出すところを撮影するという任務を与えられる。
変装して完璧に監視し、盗み出したところを撮影に成功するが、何者かに待ち伏せされており、チームは全滅する。
なんとか逃れたイーサンは、上司であるユージーン・キトリッジ(ヘンリー・ツェニー)に、このミッションは裏切り者を探し出すブラフだったと告げられる。
生き残ったイーサンは裏切り者だと嫌疑を掛けられる。
その場を離れたイーサンはチームが合流するはずだったホテルに辿り着き、裏切り者のJOBとして取引相手にメールをする。
手に入れられなかった工作員のNOC名簿を本当に盗み出し、裏切り者をあぶり出す交渉を始める。
IMFからの追っ手を逃れつつ、CIA本部から、NOCの工作員名簿を盗み出す不可能な作戦を敢行する。
人気シリーズの第一作。
何度も見ているが、ちょっとした気まぐれで見直した。
今更何を言うねん、という気もあるが、まあ、お時間が許す限りお付き合いいただければ幸いである。
もちろん、まだ実は見ていない、という人は見れば良いと思う。
古くさい描写はもちろんあるが、サスペンスとしても、アクションとしても、映画としてもおもしろい。
今振り返ると、それまでの作品と、これからの作品を繋ぐような記念碑的な作品にさえ思える。
映像技術がどんどん発展していく前と、その後のちょうど中間地点にあるような映画だ。
技術は古くても、映画としての見せ方は教科書のようなセオリーを踏襲している。
だからこそ、面白さは色あせない。
十分見る価値はあると思う。
▼以下はネタバレあり▼
我らがトム様が、人気シリーズを世に生み出した記念碑的な作品だ。
そして、工作員の名簿を云々するというのは、今でも変わらないよくあるシチュエーションだ。
冷戦が終わり、きな臭い諜報活動など必要がないとされるようになった時代。
今でもエージェントなどのスパイチームは当然暗躍しているだろうが、冷戦という背景がなくなった当時とまた状況は違うだろう。
時代は感じつつ、それでも古くならない普遍的な近代国家の国防に関わる物語なのかもしれない。
私がこのシリーズが好きなのは、基本的にシナリオに味方の裏切りがない、ということ。
あったのはこの第一作のみ。
それ以降は基本的にイーサンのチームに裏切り者は出ていない。
この結構が私はこのシリーずに人気が出た要因だと考えている。
スパイを描いた作品なのに、そういう所に安心感がある、そういう倫理はフィクションを扱う制作者側にとっては重要な気がする。
さて、この作品はのっけからいきなりピンチになり、誰からも協力してもらえないという絶体絶命のピンチに陥る。
オチを知っている今から見ると、確かに不自然な描写が多いわけだが、それを巧みに見せている。
当時の最新技術(虚構だけど)を見せながら、それでも人間味ある描写が多いことで、物語に没入できる素地を作っている。
分かり易いのはクレア(エマニュエル・ベアール)とのやりとりだ。
一人生き残ったクレアは、イーサンのもとを訪れて、夫のジムの敵を討ちたいと申し出る。
そこには一切の嫌疑はないのだが、未亡人となったクレアとイーサンは惹かれ合う(ように見える)。
だが、そうなった終盤でも彼女は指輪をしたままである。
生きて現れたジムも、そのまま指輪をしている。
ほとんどさりげなくしか映らないが、二人は通じ合っていることを示唆する。
観客が気づくかどうかは問題ではない。
こういう細かい描写を織り込んでいくことが、物語や真相を描いていく手法になり得る。
いわゆる、伏線だ。
種明かしされていくところだけが伏線ではない。
映像による伏線は他にもおそらくたくさんあるだろう。
だからこの映画は、「映画」であるのだ。
これまでもたくさんの映画を撮ってきた、デ・パルマらしい作品と言えるだろう。
クレアがジムと釣り合わないほどの若い美女である、という観客の期待もある。
美女がレトリックとして使われ、イーサンと恋仲になることもあり得る(むしろなってほしいという願望)だろうという、目を引く配役になっている。
イーサンでなくとも、目がくらむわけだ。
ラストでその彼女ですら裏切られてしまう、という展開も、ジムへの憎悪が観客に生まれる要素になっている。
スパイをモティーフにしているが、非常に映画的なのだ。
ミッションの中心となる、CIA本部に潜入するシークエンスも同じだ。
技術員がなんども嘔吐に悩まされるところや、彼は全く悪くないのに、アラスカに飛ばされたりするところ、ナイフだけがデスクに刺さっている描写など、非常に映画的だ。
観客が何を求めて映画館に来ているのか、そして何を感じて映画館を後にするのかということがしっかりと意識されている。
もちろんあらを探せばいくらでもあるかもしれない。
けれども、現実的かどうか、ありうるかどうか、ということよりも、映画であるかどうか、観客はそれをどのように感じたいかどうかを意識することの方が、映画としては重要だ。
残念ながら、そういう視点で映画を作ろうとしている人は少なくなったように感じる。
まだまだ学ぶことが多い、秀逸な作品だと思う。
もちろん、彼の作品がすべてそうというわけではないだろうが。
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