secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

セントアンナの奇跡(V)

2010-09-26 20:52:34 | 映画(さ)
評価点:76点/2008年/アメリカ・イタリア

監督:スパイク・リー

まるで球体をなぞるかのような奇跡の収束。

1983年のクリスマス前、郵便局の切手売り場は混雑していた。
切手売り場の窓口係の黒人ヘクターはもうすぐ定年を迎えようとしていた。
穏やかな表情だった彼は、ある客が来たとき表情を一変させる。
迷いなくドイツ製の古い拳銃の引き金を引いた彼は、客を撃ち殺してしまう。
新米記者のティム(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)は、何とか情報を得ようと現場に向かい、犯人の自宅捜索に立ち会うことになった。
犯人の自宅からは第二次世界大戦中に紛失した有名な彫刻の頭部が発見される。
なぜ男は射殺したのか、なぜ彫刻の頭部が男の自宅から発見されたのか…。

冒頭のストーリーだけはなんとなく知っていたが、結局観ることができずに、DVDで見ることになった。
監督のスパイク・リーといえば「マルコムX」や「25時」が鮮烈だ。
その彼が実話に基づいた作品を撮った。

戦争ものには違いがないが、それをドラマチックに描いた作品の構成はすばらしい。
奇跡の意味を知るのはおそらく物語のラストなのだろう。
けれども、その意味を知ったとき、この映画そのものが奇跡のような映画なのだと実感することになる。
名作といわれる「プライベート・ライアン」なんかよりも、数段おもしろい。

▼以下はネタバレあり▼

戦争映画なのに、まことにドラマチックだ。
どこまでも張られた伏線が、収束していく感覚は、本当に奇跡を見ているように気持ちいい。
まさに球体のてっぺんから底までを指でなぞるかのような見事な収束を見せる。
中盤、どこまで話が広がって複雑になるのだろう、本当に終わるのだろうか、と不安になるくらい話がふくらんでいく。
それが、見事に冒頭へと集まっていくのは、奇跡という他ないのだ。

話が大変ややこしい。
なぜならこの映画には三つの時間軸があり、それらが同時並行的に語られていくからだ。
いわゆる群像劇のような展開ではなく、劇中劇、物語に入れ小型に埋められた物語が三重構成になっている。
ひもとけばそれほど複雑な話ではない。
けれども、提示のされ方に戸惑うはずだ。
張られすぎた伏線とは、要するにこのことだ。

一つは1983年末に起こった殺人事件。
平凡な黒人郵便局員がいきなり年末に人を撃ち殺す。
冒頭に書いたストーリーの導入部分だ。
展開としてはここが発端となり過去の回想が続いていく。
もちろん、ラストで収束することになる。

もう一つは、1944年、イタリアが第二次世界大戦に幕を下ろした後の、ナチス侵攻が激化した頃のイタリア。
四人の黒人アメリカ兵たちがイタリアの街に迷い込み、孤立してしまうという時間軸だ。
その一人が郵便局員ヘクターだった。

さらに、その中で語られる街の自警団のようなパルメザンと呼ばれる集団が関わった事件だ。
セントアンナの大虐殺と呼ばれた歴史的な「犯罪」である。
こちらは回想の中の回想なので、それほど明確に語られるわけではない。
けれども、この時間軸で起こった出来事が、結局はヘクターの殺人の動機へとつながっていく。

ということで、批評が冗長になるが、少しだけ説明しておこう。
セントアンナの大虐殺は歴史的にも有名で、僕たち日本人は歴史の教科書で学ばないが、おそらくヨーロッパ圏では自明の出来事なのだろう。
だから、それほど細かくは描かれていないのだろうと予測する。
ともかく、イタリアのトスカーナでは自警団のパルメザンたちがドイツの侵攻を妨害していた。
そのためにトスカーナ地方がナチスの好きなようにならなかったのだ。
目の上のたんこぶだったパルメザンを叩くために焦土作戦を敢行する。
要するに、街の住人を被害者にすることで、あぶり出そうとしたのだ。
けれども、住人は彼らを差しだそうとしない。
そこで、業を煮やしたナチスは、セントアンナの教会に数百人のイタリア人を集めて尋問する。
祈りを捧げる彼らを一瞬のうちに殺してしまったのだ。
その虐殺を裏で取引していたのが、パルメザンの一人ロドルフォ(セルジオ・アルベッリ)だった。
蝶と呼ばれるリーダーだったペッピは裏切り者を捜していた矢先に、四人の黒人部隊と出くわしたのだ。

物語は回想を軸としながらも、そのセントアンナの出来事と二重で展開されていく。
僕たちにとって見えにくいのも仕方がない。

ナチスが街を襲ってきたあたりから、物語はどんどん収束する方向へ向かう。
なぜヘクターが殺人をしたのか、なぜプリマヴェーラ像を持っていたのか。
なぜ旧ドイツ軍の銃を持っていたのか。
そして、冒頭にあったカップを落としたイタリア人は誰だったのか。

僕が涙したのは、ヘクターがラストでアンジェロに救われたからではない。
物語があまりにもきれいに収まるべきところへ収まったからだ。
エンドロールに感じるのは、さわやかな印象ではない。
なぜなら、この映画は決してハッピー・エンドではないからだ。
奇跡はアンジェロとヘクターが生き残ったことではないのだ。
二人の再会がハッピーだというには、大勢の人間が犠牲になりすぎた。
冒頭で死にまくる黒人兵たちの姿に僕たちが思うべき事は、悲しみしかない。
けれども胸を打つ。

この映画はナチスについても慎重に扱っている。
従来にあったようなドイツ悪、アメリカ善のような紋切り型の戦争映画ではない。
むしろアメリカに巣くう黒人差別や、イタリアで感じた差別のない自由さ、ドイツ人にもあった正義などが印象的に描かれる。
生き残った人間は皆善人で、死んだ人間が悪人ではない。
けれども、そこには命に対する真摯なテーゼが存在する。
ドイツ語、英語、イタリア語が混じる複雑な言語をそのまま映画に採用したのは、きっとリアルさだけが理由ではあるまい。
そこには戦争の勝者敗者を超えた「倫理」や「哲学」が存在する。
9.11以降、イラク戦争でアメリカが見失ったものそのものだ。

ヘクターがナチスの銃でロドルフォを殺したのは復讐だったのだろうか。
僕は復讐ではなかったのではないかと、見終わって感じた。
一つは「終幕」であり、「約束」だったのかもしれない。

あるいは「鎮魂」なのかもしれない。

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