評価点:81点/2014年/アメリカ/131分
監督:マット・リーヴス
映画と言うより、一つの「歴史」を見ているような緻密さ。
前作から10年、ウイルスによって人類は激減していた。
エイプ(猿)たちは自分たちの家を築き、平和に暮らしていた。
シーザー(アンディ・サーキス)は父親として、またエイプたちのリーダーとして他の者を統制していた。
あるとき、数年ぶりにエイプの森に人が現れる。
銃を持った人は、猿に驚き、発砲してしまう。
かつて実験材料にされていたコバはシーザーに激しく詰め寄り、闘いを挑み思い知らせるべきだと訴える。
シーザーは大軍を引き連れ、人間の住む街を訪れ、警告するにとどめた。
人間たちは、すでにガソリンの余力が底を突きそうになっていた。
そのためにエイプたちが住む森にある、ダムを再稼働させたいと考えていたのだが……。
何でもかんでも「ライジング」って付ければ売れると思っているでしょ。
「ダークナイト」が売れたからってそういう訳ではありませんよ。
私が最初に思った感想はこれだ。
それはともかく、前作の「ジェネシス」が非常によくできていたため、こちらも見たいと思っていた。
すると、たまたま先行上映と時間が合ったので、しかも席もあったので、強行突入することにした。
おかげで「マーニー」が見られないかも知れない。
ともかく、これは秋のおすすめ映画の一本である。
私は、コスプレの紅蓮腕(グレンカイナ)よりもこちらをおすすめしたい。
▼以下はネタバレあり▼
「猿の惑星」でどこかわからない惑星にたどり着いたはずの探検隊たちが、最後に目にするものによってここがかつての地球と呼ばれた場所だと知った、というのはあまりにも有名な話だ。
それを新たなシリーズとしてなぜ地球が猿に支配されるようになったのか、というのを描いた作品がこのシリーズだ。
非常に純粋な気持ちから一つのワクチンを作り、しかしそれが人間にはウイルスだったちという設定は説得力があった。
この新しいシリーズは、非常に緻密に、そして丁寧に未来を語っている。
だから、全てにおいて説得力があり、一つの歴史のようにさえ感じてしまう。
そのコンセプト、哲学はこの作品にも活かされている。
エイプはエイプを殺さない。
殺し合う人間の姿を見続けていたシーザーはこのことを最も大切なルールだと位置づけていた。
エイプが殺されるようなことがないように、人間との争いを避けていた。
10年という時間が流れていてもなお、人間との大きな衝突に発展してこなかったのはそのためだろう。
しかし、エイプは次第に人間化していく。
簡単にいえば、その場の感情に加えて、知識が身につき、意志が芽生える。
知情意がそろうと、エイプは次第に平穏さを求めるだけの生活では集団を維持できなくなっていく。
その典型としておかれているのがコバである。
コバは人間を強く憎んでいる。
人間は敵対すべきものだとして、シーザーに何度も訴える。
シーザーは人間の悪い部分を認めつつも、人間と争うとエイプが殺されてしまうことを懸念していた。
そしてコバが3度目に意義を申し立てたとき、決定的な亀裂となってしまう。
人間への復讐を果たしたい。
仲間のエイプを意のままにあやつりたい。
コバは人間を憎みながら、どんどん人間のような感情を募らせて、ついにシーザーの命を狙うという暴挙に出てしまう。
このあたりは、素朴なエイプが凶暴な感情を抱いていくという経緯が非常に丁寧に描かれている。
エイプの人間化が手に取るように分かり、「この争いは仕方がないものだ」という印象を強く受ける。
なぜなら、この闘いの縮図が、そのままイスラム諸国とキリスト教国との争いにそっくりだからだ。
人間はダムをほしがる。
ダムからの電力がなければそれまでの生活を維持できないからだ。
しかし、ダムはエイプの村の真ん中に位置する。
ダムを再起動させるには、エイプの村を通らなければならない。
あの、忌々しい猿の村に許可を得る必要がある。
この対立は、石油の利権を求めるイスラム教とキリスト教との闘いに酷似している。
対立を信頼へと発展させようとする人間は必ずいる。
そして相手側のエイプもそれは同じだ。
しかしお互いがお互いのことを信用し切れていない。
だから、恐怖を抱く。
もしかしたら相手は裏切るかもしれない。
裏切られたらどうしよう。
その恐怖は相手の底意を知りたいという欲求に変わり、あるときダムが決壊するように不信が争いに発展する。
エイプの物語でありながら、それが人間と人間が争いをやめられないことをまざまざと見せるような絶望的な物語になっている。
この見せ方がすばらしく上手い。
驚きはない。
だが、これほど「戦争なるもの」の元凶をしっかりと描いたのは稀有なことだろう。
だから、新しいと感じるのだ。
もちろん、それを支えているのは緻密な映像技術にあることは疑いない。
しかし、それ以上に、物語をしっかりと構成しているのだ。
ストーリーとしてのおもしろさだけではない。
物語構造を非常に丁寧に構成している。
一つは、オープニングとエンディングのシーザーが見つめるものの違いだ。
これは完全に「野生性をもった猿人」から「人間性を獲得したエイプ(新猿人)」という変化だ。
人間と対立することを覚悟したシーザーは、マルコムに「お前が逃げろ」と全面対決を示唆している。
それは人間と友好な関係性を築こうとしていたシーザーにはなかった覚悟だ。
それを彼の丹精な顔つきのカットを入れることで、上手く表現している。
それだけではない。
人間に近づいたエイプを表すために、執拗なまでに人間との共通項をあぶり出そうとしている。
象徴的なのは、ウィル(前作主人公。シーザーの育ての親)との会話をするかつての自分の姿を見て、涙するシークエンスだ。
これはゲイリー・オールドマンの家族の写真をみて涙するカットと完全に二重写しになる。
全く同じ悲しみを、平等に、エイプも人間も抱えていることを明示する。
だから、この話は人間からの目線で見ている観客も、いつのまにか1人の主人公を見ているかのように深くシーザーにも感情移入してしまうのだ。
某「トランスフォーマー」はスペクタクルを見せるのを「映画の見所」として位置づけた。
結果物語に無理がでてきて、不自然な見せ場の連続になってしまった。
全く違うコンセプトで作られたわけだが、「猿の惑星」の新シリーズは歴史そのものを紡ごうとしている。
もちろんともにすばらしい映像だが、映像を利用しようとしている目的が違う。
だから、これほどまでに完成度の差が出るのか。
最後、猿が縦横無尽に壊れた大都市を駆け回る。
まったくそこにエイプたちがいることを疑わない自分がいる。
これこそ、本当のCGの使い方ではないだろうか。
監督:マット・リーヴス
映画と言うより、一つの「歴史」を見ているような緻密さ。
前作から10年、ウイルスによって人類は激減していた。
エイプ(猿)たちは自分たちの家を築き、平和に暮らしていた。
シーザー(アンディ・サーキス)は父親として、またエイプたちのリーダーとして他の者を統制していた。
あるとき、数年ぶりにエイプの森に人が現れる。
銃を持った人は、猿に驚き、発砲してしまう。
かつて実験材料にされていたコバはシーザーに激しく詰め寄り、闘いを挑み思い知らせるべきだと訴える。
シーザーは大軍を引き連れ、人間の住む街を訪れ、警告するにとどめた。
人間たちは、すでにガソリンの余力が底を突きそうになっていた。
そのためにエイプたちが住む森にある、ダムを再稼働させたいと考えていたのだが……。
何でもかんでも「ライジング」って付ければ売れると思っているでしょ。
「ダークナイト」が売れたからってそういう訳ではありませんよ。
私が最初に思った感想はこれだ。
それはともかく、前作の「ジェネシス」が非常によくできていたため、こちらも見たいと思っていた。
すると、たまたま先行上映と時間が合ったので、しかも席もあったので、強行突入することにした。
おかげで「マーニー」が見られないかも知れない。
ともかく、これは秋のおすすめ映画の一本である。
私は、コスプレの紅蓮腕(グレンカイナ)よりもこちらをおすすめしたい。
▼以下はネタバレあり▼
「猿の惑星」でどこかわからない惑星にたどり着いたはずの探検隊たちが、最後に目にするものによってここがかつての地球と呼ばれた場所だと知った、というのはあまりにも有名な話だ。
それを新たなシリーズとしてなぜ地球が猿に支配されるようになったのか、というのを描いた作品がこのシリーズだ。
非常に純粋な気持ちから一つのワクチンを作り、しかしそれが人間にはウイルスだったちという設定は説得力があった。
この新しいシリーズは、非常に緻密に、そして丁寧に未来を語っている。
だから、全てにおいて説得力があり、一つの歴史のようにさえ感じてしまう。
そのコンセプト、哲学はこの作品にも活かされている。
エイプはエイプを殺さない。
殺し合う人間の姿を見続けていたシーザーはこのことを最も大切なルールだと位置づけていた。
エイプが殺されるようなことがないように、人間との争いを避けていた。
10年という時間が流れていてもなお、人間との大きな衝突に発展してこなかったのはそのためだろう。
しかし、エイプは次第に人間化していく。
簡単にいえば、その場の感情に加えて、知識が身につき、意志が芽生える。
知情意がそろうと、エイプは次第に平穏さを求めるだけの生活では集団を維持できなくなっていく。
その典型としておかれているのがコバである。
コバは人間を強く憎んでいる。
人間は敵対すべきものだとして、シーザーに何度も訴える。
シーザーは人間の悪い部分を認めつつも、人間と争うとエイプが殺されてしまうことを懸念していた。
そしてコバが3度目に意義を申し立てたとき、決定的な亀裂となってしまう。
人間への復讐を果たしたい。
仲間のエイプを意のままにあやつりたい。
コバは人間を憎みながら、どんどん人間のような感情を募らせて、ついにシーザーの命を狙うという暴挙に出てしまう。
このあたりは、素朴なエイプが凶暴な感情を抱いていくという経緯が非常に丁寧に描かれている。
エイプの人間化が手に取るように分かり、「この争いは仕方がないものだ」という印象を強く受ける。
なぜなら、この闘いの縮図が、そのままイスラム諸国とキリスト教国との争いにそっくりだからだ。
人間はダムをほしがる。
ダムからの電力がなければそれまでの生活を維持できないからだ。
しかし、ダムはエイプの村の真ん中に位置する。
ダムを再起動させるには、エイプの村を通らなければならない。
あの、忌々しい猿の村に許可を得る必要がある。
この対立は、石油の利権を求めるイスラム教とキリスト教との闘いに酷似している。
対立を信頼へと発展させようとする人間は必ずいる。
そして相手側のエイプもそれは同じだ。
しかしお互いがお互いのことを信用し切れていない。
だから、恐怖を抱く。
もしかしたら相手は裏切るかもしれない。
裏切られたらどうしよう。
その恐怖は相手の底意を知りたいという欲求に変わり、あるときダムが決壊するように不信が争いに発展する。
エイプの物語でありながら、それが人間と人間が争いをやめられないことをまざまざと見せるような絶望的な物語になっている。
この見せ方がすばらしく上手い。
驚きはない。
だが、これほど「戦争なるもの」の元凶をしっかりと描いたのは稀有なことだろう。
だから、新しいと感じるのだ。
もちろん、それを支えているのは緻密な映像技術にあることは疑いない。
しかし、それ以上に、物語をしっかりと構成しているのだ。
ストーリーとしてのおもしろさだけではない。
物語構造を非常に丁寧に構成している。
一つは、オープニングとエンディングのシーザーが見つめるものの違いだ。
これは完全に「野生性をもった猿人」から「人間性を獲得したエイプ(新猿人)」という変化だ。
人間と対立することを覚悟したシーザーは、マルコムに「お前が逃げろ」と全面対決を示唆している。
それは人間と友好な関係性を築こうとしていたシーザーにはなかった覚悟だ。
それを彼の丹精な顔つきのカットを入れることで、上手く表現している。
それだけではない。
人間に近づいたエイプを表すために、執拗なまでに人間との共通項をあぶり出そうとしている。
象徴的なのは、ウィル(前作主人公。シーザーの育ての親)との会話をするかつての自分の姿を見て、涙するシークエンスだ。
これはゲイリー・オールドマンの家族の写真をみて涙するカットと完全に二重写しになる。
全く同じ悲しみを、平等に、エイプも人間も抱えていることを明示する。
だから、この話は人間からの目線で見ている観客も、いつのまにか1人の主人公を見ているかのように深くシーザーにも感情移入してしまうのだ。
某「トランスフォーマー」はスペクタクルを見せるのを「映画の見所」として位置づけた。
結果物語に無理がでてきて、不自然な見せ場の連続になってしまった。
全く違うコンセプトで作られたわけだが、「猿の惑星」の新シリーズは歴史そのものを紡ごうとしている。
もちろんともにすばらしい映像だが、映像を利用しようとしている目的が違う。
だから、これほどまでに完成度の差が出るのか。
最後、猿が縦横無尽に壊れた大都市を駆け回る。
まったくそこにエイプたちがいることを疑わない自分がいる。
これこそ、本当のCGの使い方ではないだろうか。
エイプたちも結局は、人類と同じ道を辿ってしまうのでしょうかね…
そこはリーダー次第なのかなあ…
私生活のほうがばたばたしています。
もう少ししたら具体的なことを報告できるかもしれません。
しないかもしれません。
とにかく落ち着いたら更新を再開します。
>りおさん
書き込み、TBありがとうございます。
やはり三部作にするのでしょうかね。
もう作らなくても十分のような気もします。
むしろ作らないほうが余韻があって楽しめる気がするのですが…。アメリカは三部作が好きなようなので、しかも、高評価でしょうから、作るのでしょうね。