銅版画制作の日々

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アライブ ー生還者ー◎STRANDED

2009-07-07 | 映画:ミニシアター


I HAVE COME FROM A PLANE THAT CRASHED ON THE MOUNTAINS

7月4日、京都みなみ会館にて鑑賞。久しぶりにこのシアターへ出かけた。実は本作の前に、1993年イーサン・ホーク主演でハリウッド作品「生きてこそ」というが製作され、公開されている。未見なのでどういう感じかは分からないが。本作同様、1972年に起きた事故をピアズ=ポール・リードというイギリスの作家によって書かれたドキュメンタリー小説「生きてこそ」の映画化だったようだ。

生きてこその解説

 ドキュメンタリー「人肉で生き残った16人の若者/アンデスの聖餐」(75)でも描かれた1972年の旅客機墜落事故を、20年後にハリウッドが映画化。極限のサバイバルをセミドキュメンタリー・タッチで描く。飛行機の墜落シーンを始め、リアルな絵造りが最大のポイントで、セットではなく実際に雪山で撮影されたシーンの重みには圧倒される。当時の生存者がアドヴァイザーを務めた功績は大きい。(allcinemaより抜粋)

今回の作品「アライブー生還者ー」は「生きてこそ」のリメイク版ではありません。
監督は同じウルグアイのモンテビデオ出身で、生き残った生還者たちの友達である
ゴンサロ・アリホン。彼らと話を交わす度に必ず話題に上がるこの事件の話を聞き、今まで著作、フィクション映画では語り尽くせなかった、生還者の言葉だからこそ伝えることのできる事故の真実がまだ残っていることを発見して、新たにこの事件の背景を映画化したものです。

 


STORY

1972年10月12日、ウルグアイ空軍の軍用機がモンテビデオから45名の人々を乗せてチリのサンチアゴに向けて飛び立った。飛行機は、ウルグアイ郊外の高級住宅地カラスコから来たラグビーチーム“クリスチャン・ブラザース”によってチャーターされたものだった。若者たちは親善試合に遠征する予定で、何人かの親や友人たちとともに、太平洋の海岸で楽しい週末を過ごそうと考えていた。

しかし、アンデス山脈付近の悪天候のため、飛行機は山脈のアルゼンチン側山麓にある平凡な町メンドーサに着陸をしなければならなくなった。天候の回復を待って翌日13日、飛行機は再び飛び立った。15:30、パイロットはサンチアゴの管制塔に飛行機の位置と高度を連絡した。しかしその1分後、管制塔が再び飛行機と通信を試みたが、今度は何の返答もない・・・・チリ、アルゼンチン、ウルグアイが共同で飛行機の捜索を始めたが、その年のアンデス山脈は記録的な大雪に見舞われており、機体が白い飛行機を発見する可能性は非常に低く、45人の乗客のうち一人でも生き残っている可能性はさらに低いと思われた。惨事から10日後、捜索は打ちきられた。生き残った遭難者たちはこの事実をまだ動いていたラジオで知った・・・・そして、そこには食べるものは何も残されていなかった・・・・。

10週後、アンデス山脈の麓を流れる谷で羊の群れを追っていたチリ人の羊飼いは急流の向こう岸に二人の男の姿を発見。熱狂的に身振りを繰り返すと、膝をつき、両手を大きく広げた。羊飼いはテロリストだと思いこみ、彼らを置き去りにする。翌日同じ場所に戻るとその二人はまだそこにいた。川の水音が大きいので両岸で何を言っているのかを理解できず。そこで羊飼いは紙とペンを丸め、ハンカチにくるんで向こう岸に投げた。ぼろぼろの服に髭だらけの男たちは、紙に何か書きこむと羊飼いに向かって投げ返した。
その紙にはこう書かれていた。「我々は山腹に墜落した飛行機からやって来た。14人の仲間たちがまだ生き残っている。ここはどこだ?」


墜落事故から70日、フェルナンド・バラード(20)とロベルト・カネッサ(19)は70キロの山道を歩く。アンデス山脈の4分の3を徒歩で渡り、ラグビーブーツ以外はいかなる装備も持たず、高度4000メートル以上の頂群を乗り越えてきた。

その2日後に救出はなされたが、72日間の地獄のような日々、ある者は母を失い、ある者は妹を失い、そしてすべての者たちが親友を失っていた。
ロベルトは世界に向けて、この生還劇を“16人の世紀の生還者”、そして、彼らが救助されたのがクリスマスの2日前だったことから、“アンデスの奇跡”と語った。

35年の時を経て、16人の生還者たちは映像の中で語った。あの72日間の思いを・・・・。

 


ダニエル・フェルナンデスさん


ホセ・ルイ・インシアルテさん


アルバーノ・マンヒ―ノさん


ハビエル・メトールさん


ボビー・フランソワさん


モンチョ・サべージャさん


ロベルト・カネッサさん


アドルフォ(フィト)・ストラウチさん


ロイ・アルレーさん


パンチョ・デルガードさん


ペドロ・アルコルタさん


アントニオ・ビシンティンさん


カリートス・パエスさん


ぐスタボ・セルビーノさん


ナンド・パラードさん


エドゥアルド・ストラウチさん

救出されてから5日後、熱気に包まれた記者会見の中、生還者たちは熟慮の末、思いきって語った。
「・・・・ついに食料が尽いた日、我々は思った。最後の晩餐の時にその血と肉を捧げたように、キリストが我々にも同じようにしなければならないことを指し示しているのだと。我々の死せる友人たちの中に具現化したその血と肉を受け取らなければならない・・・これは、我々すべての間で共感されたことだ・・・・それが我々を生き延びさせてくれたのだ・・・・」
それは社会における最大のタブーの一つが破られ、公に明るみとなり、世界中が大きな衝撃を受けた事件だった。

35年後、“アンデスの聖餐”の生還者と事故で亡くなった者の子供たちが、慰霊のためにアンデス山脈の事故現場に訪れた。冬の季節が終わり、そこには真っ白な雪原もないが、亡くなった者たちの墓標として十字架が立てられている。彼らはそこで互いに肩を組み、鎮魂のために祈りを捧げる。亡くなった者たちの肉体は今も生還者の中に生き続けるのだと感じながら。


ゴンサロ・アリホン監督

映画「生きてこそ」も脚色されて大衆向けになっていたと話す監督はまだ、この事件を語る余地があると思ったという。そこで事故後30年を経て、生還者が事故を平穏に語ることが出来るようになった利点を活かして、時間だけが癒すことの出来る平常心で事故を振り返ることが出来ると思ったそうだ。そして作品が事実に基づくだけでなく、生還者たちがこの体験から達成したことを描こうと思った。

個別インタビューのシーンを撮る際もその雰囲気や精神状態にふさわしい状況作りをしたという。ともに食事をして、話に花をさかせたり、時は笑い、眠りました。そんな中で質問し続け、採録したという。

思いだすと凄い衝撃的な事故だが、こうして生き残った人たちの様々な思いが淡々と語られているのはそんな雰囲気作りがあったのだ。

自分たちがあのときどんな精神状態にあったのか?それも時間が経過すると冷静に見ることが出来るのだろうね。だからこそ亡くなった人たちのために、彼らはこれからもその人たちのために生きて行く決心をしたのではないだろうか?

センセショーナルだった事故は、時を経て、事故を通して生き残った16人の人たちがその体験を乗り越えて生きている証しを伝えたメッセージ作品なのではないかと感じた。


日本で公開されるために訪れた生還者の一人エドゥアルド・ストラウチさん

インタビュー記事はこちらです。

メディア 映画
上映時間 113分
製作国 フランス
公開情報 劇場公開(熱帯美術館=グアパ・グアポ)
初公開年月 2009/04/11
ジャンル ドキュメンタリー
映倫 PG-12

僕らは帰る!

1972年10月、南米ウルグアイの旅客機がアンデス山脈に墜落した
生きるために究極の選択をした生存者たちの真実の記録

オフィシャル・サイト
http://www.seikansha.jp/
 
 
ウルグアイ空軍機571便遭難事故 事故についての詳細です
 
追記:生きる残るために死んだ人の肉を食べたという事実は確かに衝撃的かも
しれませんが。それ以上に驚いたのは4000メートルという高地で、しかも装備
も充分ではなく、生き延びたあの16人の人たちの生命力の凄さです。
そして助けを求めて、いくつもの山を乗り越えた二人。4000メートルの山を
軽装で越えるなんて正気じゃあない。遭難しても当たり前という苛酷な状況の中、
乗り越えたことも普通では考えられない。これはまさしく物凄い精神力だと思うのです。
 
 
 

 
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