個性を尊重することが大事だと、多くの親が考えます。
子どもには、個性的に生きてほしいと、願う親や教師も多くいます。
では、子どもが個性的に生きるとはどういうことでしょうか。
スマホを手にもって、ツイッターに投稿する。すると知り合いや読んでいるフォロアーからのメッセージや投稿が届く。
こんなことが、当たり前になり、人間にとって正しいこと、便利なことだと思う。
そんな便利なツールを多く知っていたり、持っていたりするほど、人間関係がうまくいく。
このように考えるようになりました。
しかし、個性というものはそのやりとりにはないのです。
そのようにわかっていることだけをやっているのでは、自分らしさは何も生かされません。
ぜったい確実なことだけをするというのは、わかっていることだけにすがって生活するということで、そこに個性は存在しないのです。
私が校長をしていた時、「ぼくはロボットを研究する」と言って、家でもロボットを作っている中学生がいました。
その子は、高校でもロボットを研究すると、国立高専を志願して、合格して三中を卒業していきました。
このとき、「ぼくはこれに賭けてみる」という意思は「ぼく」にしかできないことです。
その賭け方が「個性」なのだと思います。
それでなにか成果が出てくるときもあるし、出にくいこともあるかもしれない。
その意味では、個性的に生きるということは、ひとつの大事業です。人生の醍醐味はなにかに賭けるということです。
こう考えると、子どもの個性を認めるということは、たいへんなことです。
その中学生の親御さんもわが子の進路をよく決心されたことだと思います。
わが子にとってよかれと思い、あらかじめ答えがわかっているような、安全パイのような確実な進路だけを歩ませようとすることが多いです。
でもそれは、一度しかない子どもの人生を、誰にでも当てはまる最大公約数のなかに入れようとしているとも言えます。
「個性を大切にする」ということは、いい響きをもちますが、その言葉がまことしやかに言われる割には、子どもの個性をみようとしていないのです。
また、個性は数字にかえることができないたいう点もおさえておきたいことです。
中学校での学習で、これが得意だというのは、テストでの数字に表されるので、ある意味わかりやすいのです。
だが、「うちの子は人に優しい」というのは、数字で表すことができないことなので、そのように自信をもって言える親はわが子のことをほんとうに理解しているのです。
子どものほんとうの姿を正しく評価できれば、これほど強い親子関係はないと言えるのでないでしょうか。自分の子どもを誇れるからです。
どの子にもみんな、誇れるところがあると、私は思います。
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