箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

極意は「待つ」こと

2020年09月17日 07時39分00秒 | 教育・子育てあれこれ


私は、教育にしても、子育てにしても、その極意は「待つ」ことにあると思います。

そして、「待つ」ことは「信じる」ことに通じるのです。

土に植えた種や球根は、やがて芽を出し、歯をつけ、いつかは花を咲かせます。

どんな花になるか、はたして花が咲くかもわからない。

それでも、きっときれいな花をつけるだろうと、信じて水を与え、待って見守ることができる人は、子どもをそだてるのがうまい親であり、教師です。

大人が傍で待ってくれている時間は、短いものではないのです。

愛情をかけ、長い時間をかけるからこそ、その子のペースで内面を耕していきます。

社会のルールを取り込み、自分の得意なことや好きなことを知り、自分の中に小さな誇りを育てていきます。

待ってもらえることで、心を成熟させていきます。

それは、ちょうど十分に赤くなり、熟したトマトが甘いのと同じです。

大事に大事に育てて花が咲いたとき、親の喜びこの上なく大きいものです。

と言いたいところですが、じつは親や教師は、そのとき気づきます。

じつは本当に幸せだったのは、「どんな花が咲くだろう」と思いながら待つ時間だったのだということを。




まずは「母性」です

2020年09月16日 07時24分00秒 | 教育・子育てあれこれ


私が教師になった頃といまを比較すると、両親とも働く家庭が増えたことを実感として感じます。

昔は、お母さんがずっと家におられる家庭は、珍しくはなかったものです。

それから社会のありようが変わり、夫婦のあり方も変わりました。

それは当然のことで、家族の形態も時代に合わせて変わってきます。

いわゆる「専業主婦」が減り、いまや夫も家事を担う場合も珍しくはなくなりました。

また、ひとり親家庭も増え、母子家庭も父子家庭もあります。

このように、家族の形態は変わっていくものです。

ただし、どのように形態が変ろうとも、子育てで心にとめておくべきことがあります。

それは、幼い子にとっては、絶対的に「母性」が必要だということです。

それは、必ず母親が必要だという意味ではありません。

「母性」とは、子どもを無条件で受け入れて、愛情で包み込むことです。

一方、「父性」とは、世の中や社会の規範やルールを教え、導いていくことです。

河合隼雄さんも言われていますが、子どもの育ちには、この両方が必要になります。

しかし、順番は母性が先にきます。母性で十分に子どもを包み込んでから、父性で教え導きます。

かといって、だから両親が必要だとは私は言っていません。

母親だけでも、あるいは父親だけでも、健やかな子どもの育ちは可能です。

なぜなら、母性も父性も、性別に関係なく、あるいは「性的少数者」も、みんなが両方をもっているからです。

さて、最近の幼児虐待の報道を聞いて思うのは、母親が「母性」を発揮する前に、「父性」を出してしまいがちな点です。

母親が「父性」的になってしまうのは、孤立感や不安を感じることが、多くなったからでないかと、私は考えています。

両親がいる場合、夫がすべきことは、妻を支えることです。

子どものオムツをかえたり、ミルクを飲ませたりすることも支えることですが、妻の話を聴くことも支えるという意味で大切です。

支えがあるから、母親はわが子を「母性」で包み込む余裕ができるのです。

夫との関係がよいほど、母親は子育てに前向きになれます。

夫婦仲がいいと、子どもは安心感を覚えます。

教育実習生を受け入れる

2020年09月15日 08時13分00秒 | 教育・子育てあれこれ

今年度は新型コロナウイルス感染防止のため、学校は2か月の臨時休業となり、その影響で教育実習の受け入れをやめる学校が出てきています。

一般の方は、教育実習といえば自分の小中高の時代を思い出し、ああ「教生の先生のことね」と、ご理解してもらえると思います。

教育実習は、大学が授与する教員免許をとるのに、教職課程の必修の単位となります。

原則、実習校は学生が自分で探してくることになっています。

通常、教育実習は春か秋に3週間程度行います。

今年度、とくに春は学校が再開してもまだしばらく分散登校だったので、6月の教育実習は秋に延期する、または年度中は中止する。学生には厳しいですが、こう決めた学校もありました。

2か月の休業で学習の進度をとりもどさなければならないので、受け入れができない。

感染症対策に万全を期すため、三密をさける授業や活動が必要になる。

教員が多忙で、とても実習生を受け入れる余裕がない。・・・・・

学校には、こういった事情があります。

ふつう、教育実習生を受け入れるには、指導教官(実習担当の先生)の業務量が増えるという事情もあります。

実習生が行う授業を毎時間参観して、指導する。

一つの授業を指導するには、その前の指導と参観、その後の指導という3段階があります。

さらに「研究授業」をいっしょに立案し、授業後の協議会を校内で開催する。

なかには、実習生にもよりますが、授業が児童生徒が理解しにくく、実習担当教員がアフターフォローに追われる。こういうこともあります。

令和2年度に限ってですが、文科省はこのたび教育実習で行う教科の総授業数の全部を、大学が行う授業に振り替えることができるという特例措置を出しました。

これはつまり、教育実習を経験せずとも、年度末には教員免許を取得できるということです。
夏に都道府県が行う教員採用試験にその人が合格していれば、学校での教員経験なしに、来年4月からは教諭として採用されるということです。

そもそも教育実習は、大学の「教職課程」の中でも最重要な科目です。

教員免許を取得する大学のカリキュラムでは、4年間の集大成ともいえるものです。

学生本人にとっては、この実習が、自分にとって教職が向いているのか、生涯続けることができる仕事かを判断する機会にもなります。

私自身でいえば、自分の出身中学校に英語の教育実習生としてお世話になりましたが、そのときの経験と感動はいまも鮮明に覚えています。

当該校には、ご迷惑をおかけしたこともあったでしょうが、実習のおかげで私は教員になる意志を強くしました。

その年の夏の大阪府教員採用試験には不合格でした。他分野に就職することも選択肢にはありました。

当時は学生の「買い手市場」で大学の仲間は、次々と一般企業に就職が決まりました。

しかし、それを横で見ながら、私は大学卒業時には就職せず、翌年の教員採用試験を受ける決意をしたのでした。

心が折れそうになる私の背中を押したのは、いうまでもなく、教育実習で得た生徒との心のふれあいでした。

教職は、わたしにとっての「天職」。こう自分に言いきかせることができたのも、教育実習の経験があったからです。

そして、縁あって、翌年度から教諭として、中学校に着任でき、35年以上教職に従事しました。

たしかに、各学校は児童生徒の「学びの保障」を進め、感染症対策を講じながらも、学校を開いていくという困難な状況に直面しています。

それでも可能な限り、教育実習生の受け入れをお願いしたいと思います。

未来の日本の教育を担っていく学生の「学びの保障」に協力していただきたいのです。

今回、文科省は予算をつけて、新型コロナウイルス感染症対策として、学校に学習支援員を配置しています。

文科省通知では、「学習支援員としての活動を教育実習の科目の授業として位置付けることも可能である」としています。

学生の力を大いに活用して、学校の業務の忙しさを減らしていくこともできるかもしれません。

どこの学校もピンチである今年度こそ、教育実習生をいかすチャンスであるとも考え、ぜひ受け入れてほしいと願います。

ひとり親家庭の子育て

2020年09月14日 08時20分00秒 | 教育・子育てあれこれ

いまはひとり親家庭が増えています。

私が教員になった頃と校長をしていた頃と比べて、約30年間で母子家庭や父子家庭は確実に増えました。

ふつう30年間を一区切りとして、1世代と考えます。

1世代の間に、夫婦関係・親子関係も変化します。

では、ひとり親家庭の子どもが、両親がいる家庭で育った子どもと比べて健やかに育ちにくいでしょうか。

世間では、一般的にそのように考える人も少なくないかもしれません。

しかし、わたしは断言しますが、そんなことはけっしてありません。

わたしが出会ってきたひとり親家庭の中学生に、とくに成長上の問題が多くあったとは思わないからです。

ただ、わたしが学級担任をしているときには、ひとり親家庭の生徒に「淋しい思いをしているのでないか」と必要以上に気を遣いすぎたという反省の念を、いま振り返って抱いています。

でも、中学生になればもう自分の境遇や家庭環境を受け入れるしかないのです。その家庭環境を認め、自分がどう生きていくかを考えるのが中学生です。

両親がいる場合は、親の役割を分けあうことができます。でもそれは分担しているにすぎません。

子どもが健やかに元気に育つために必要な条件は、お母さんひとりでも満たすことはできます。

またはおじいちゃん・おばあちゃんやほかの人に手伝ってもらって満たすこともできます。

たしかに、子育てには「母性的なかかわり」や「父性的なかかわり」というものがあります。

母性とは子どもを無条件で受け入れ、愛情で包み込む力です。

いっぽう、父性とは集団生活や社会の規範やルールを教えて子どもを導く力です。

誤解しやすいのは、母親だから母性的、父親だから父性的な役割しかできないと思い込むことです。

母親だけでも、父親だけでも、さらに言えば親でなくても、母性的かかわりと父性的かかわりはできます。

子どもが幼い頃を思い出してください。子どもが泣くとミルク、子どもが泣くとおむつ交換、子どもが泣くと抱っこする。

こういうことを繰り返して、無条件で子どもを受け入れることで、愛着関係が築かれていきます。

この母性的なかかわりで育まれる愛着関係は、子どもにとっての絶対的な安心感となりますが、男性にできないことではありません。

それに対して、父性的なかかわりとは、子どもの年齢に応じて他者との人間関係のなかでのきまりごとを教え諭すことです。

人の嫌がることを言ってはいけない。
人のものを盗ってはいけない。
友だちをいじめてはいけない・・・。

このようなことを教えることは、お母さんもできます。また集団生活や社会生活の中でもできます。

つまり保育所・幼稚園・学校でも、子どもは学ぶことができるのです。

ただし、子どもの育ちとっては母性的かかわりがファーストです。

まず、子どもを受け入れ、ありのままに認めればいいのであり、つぎに社会のきまりごとを教えていくのが子育ての順序です。

大切なのは、お母さん一人の場合に、「この子には父親がいないのだから、わたしがその役割も果たさなければ」と、必要以上に固く、深刻に考えすぎないことです。

真剣に子育てをしても、深刻になる必要はありません。

ガチガチになって子どもに厳しく接するシングルマザーの場合、子育てはなかなかうまくいきません。

そんな場合、子どもにとっては、お父さんがいないだけでなく、お母さんまで不在になってしまうからです。

人間関係を外に開き、母親自身が楽しいと思える生活を、家庭内外で送ることが、何よりも子どもの健やかな成長にとっていいことです。

誠実に学習に向かう

2020年09月13日 07時01分00秒 | 教育・子育てあれこれ






学習は楽しんでできるのが本当はいちばんいいのですが、そうはいかないこともあります。

たとえば、中学生の場合、定期考査があり、その前にはかなりの試験範囲の学習をしなければなりません。

それも1つの教科だけでなく、複数の教科の試験勉強をしなければなりません。

日々の学習でも、机に向かうことを苦痛に思う子がいます。

手抜きをすると点数がさがったりもします。

学習習慣をつけるには、最初は短時間でもいいので集中して机に向かう時間を毎日続けることです。

その後は、机に向かう時間を少しずつ伸ばしていきます。

力をつけるなら、コツコツとやらなければなりません。

地道に取り組むことで、力がつくということからすれば、学ぶとは心に誠実を刻むことなのです。

「学問に王道はなし」(=There is no royal road to learning.)とは、よく言ったものです。

また、いまは知識や技能を身につけるだけでなく、それらを実生活に活用していくことが、学力として求められています。

知識や技能は、人を裏切りません。

裏切るのは、いつも人間のほうです。

「しなやかな人間関係」でつながる

2020年09月12日 06時58分00秒 | 教育・子育てあれこれ

きのうのブログでは、現代のお母さんが子育てに不安をもっていることとその原因・理由について書きました。

子育ての責任がおもに親だけにのしかかるという社会の変化が、不安を感じさせる大きな要因であるということでした。

私の記憶では、2000年前あたりから、行政が子育て支援センターを開設したり、NPO団体やボランティアサークルが子育てサークルを立ち上げ、子育てに不安をかかえる親へのサポートを始めました。

それからもう20年近くがたちました。私が中学校の校長を務めた2011年から2018年ごろの保護者のうち、おもにお母さんたちからは子育ての悩みの相談を何度か受けました。

この中学生の親御さんたちは、いわゆる「子育て不安世代」にあたる人たちです。

その不安を感じるお母さんたちの力になれるよう、しっかり話を聴かせてもらいました。

まずは、不安を感じながらも、とにもかくにも12歳・13歳までわが子を育ててこられたその苦労と努力をねぎらいました。

ただ、それを聞きながら感じたことは、「このお母さんたちは、もし子どもがいなければ不安を感じることなく、安心して、前をしっかり向いて生きてこられただろうか」と。

おそらく、そうではないと感じます。
子どもがいなくても、夫・親・家族との関係、職場での上司との関係、同僚どうしの人間関係など、別のことで不安を感じてきたのでないかと思いました。

つまり、子育て不安を引き起こす要因は、親だけに子育ての責任を問うという、まわりの環境や社会の変化にあるのですが、それには特徴があります。

子育てに不安を感じる人は、子どもに不安を感じているのではなく、じつは自分に対する不安を感じているのです。

日本社会がいまのように豊かでなかった時代、戦争をしていた昭和時代には、人は助け合わないと生きることができませんでした。

他者を頼ることができる状況、人間関係の中で、人は安心感を覚え、不安感を取り除くことができました。

また、他者から頼られることで自信を高めていけるという側面もあるでしょう。

では、現代の親がもつ子育ての不安にどう応えていくのか。

それには、人が孤立しないような手立てがいります。

だからといって、
戦争の時代に戻ればいいというものでは、もちろんありません。
みんなが貧しかった昭和20年代の時代にもどる。
地域社会の相互扶助の人間関係をとり戻す。

どれも現実的ではありません。

不安を感じるときには、人間関係を増やすのがいいと思います。私はこの人間関係は「しなやかな人間関係」だと考えています。

いつも、どこでも、いっしょに活動したり、家の中にまで踏み込んできて、ずっといっしょの時間を過ごすという濃い関係ではありません。

おたがいに自分の生活をもちながらも、この活動を通じてあの人とは知り合いである。

いっしょに活動する中で、いざというときには助け合うというつながりです。

また、それぞれの人は別の活動もあり、そちらで活動しているときもある。

このようなゆるやかな、おたがいをしばりつけない人間関係で、子育てサークルや地域の活動も運営されていくのが望ましいと考えます。

しなやかであり、頼って頼られる人間関係の糸が増えてくると、「わたしはわたしのままでいい」「わが子はわが子のままでいい」という気持ちが芽生えてきます。

すると、間接的にでも子育てへの自信が高まってくるのだと思います。

子育てに不安が一杯の時代

2020年09月11日 08時21分00秒 | 教育・子育てあれこれ
わたしは大阪万博の時代に少年時代を過ごしました。

当時は日本の高度経済成長期で、世の中はいわゆる「右肩上がり」の時代のなかにありました。

そんなときに、子育てに不安を感じる親はあまりいなかったと思い出します。

子どもは、なんだかんだといっても育っていくもの。

子どものとき、あれほどやんちゃをしていた人が、いまはちゃんと大きくなり、バリバリ仕事をしている。

だから、子どもはなんとか育っていくもの。

みんながそう考えていました。


世相でいえば、まだ戦後の貧しさの最後の余韻がいくらかは残っていました。

たとえば、わたしの就学前の頃、保育所での思い出としては、給食でまだ牛乳のかわりに「脱脂粉乳」が出ていました。

「カルミン」という肝油ドロップが1個ずつ配られました。

これは、一粒でもたいへん高カロリーで、子どもの栄養補給には重宝がられたようです。

つまり、戦後の栄養失調の子どもには給食が唯一の栄養補給の機会だったのです。

たしかに、生活にまだ不自由さも残っていました。

人が人を傷つける事件や差別、息子が親を金属バットで殴りつけるというショッキングなニュースもありました。

そんな世相でも、人びとは明日への希望をもって生きていたように思います。

明日は今日よりいい日が来る。

根拠がない中でも、みんながそう信じて生きていたのでした。

じっさい、科学は発達して、年を追うごとに便利な電化製品が次々と現れ、人びとの生活状況は向上していきました。

こんな時代に、人びとは子育てに不安を感じることはあまりなかったのでした。


その自信や安心感はどこからきていたのでしょうか。

おそらく、子どもの育ちに対する親の責任が今ほど重く考えられていなかったからでないかと思います。

事実、わたしと近所のおとな、親と近所の人の人間関係はもっと濃かったのです。

よその子にでも、近所のおとなは話しかけたり、ほめてくれたり、ときには叱ったりしてくれました。

また、家にはおじいちゃん・おばあちゃんがいて、親とは別に孫をかわいがってくれました。

だから、今の時代ほど、子育てでの親の責任が大きく求められることはなかったのです。

子どもはなんとか育っていくものという考えは、このような環境から来ていたのでしょう。



しかし、いまは個人に責任が返されやすい時代です。

失敗すれば、「あなたの努力が足りなかったのね」と、「自己責任」にされます。

子どもがうまく育っていないと、「親は何をしているの」と非難されます。

これは、おそらくいまから20年前ほどに「勝ち組」「負け組」という言葉が言われだした頃から、「自己責任」論(じつは本来の自己責任というのはそういう概念ではないのですが、日本では曲解されて使われています)が主流になってきました。

また、子どもを育てる環境が厳しさを増してきているのも、親が子どもを育てるときの不安要素になります。

一人の子を成人させるまでに多額の費用がかかる。

親が働くのに子どもを預ける場所が見つかりにくい。

子どもがいなくてもいいと考える価値観の変化。

そういった事情に加え、親だけが責任を引き受けなければならない社会の厳しさ。

子どもに成長上の課題があったり、やんちゃをしていても、成人したときにはバリバリと社会で活躍することが見込める時代でもなかなりました。

子ども時代につまずけば、それが将来にわたり不利になりやすい。

こんなさまざまな時代背景を受け、子育てに不安を感じる親が多いのです。

現代人にたりないのは、子育てや生活全般にかかわる安心感だと思います。

わたしは迷惑をかけないようにしますから、あなたも迷惑をかけないでください。

だから、自粛を求められているのに、店を開けているとかマスクをしていないことで、「自粛警察」の人が現れ攻撃します。

そんなメッセージが行き渡るなかでは、高齢者や子ども、障害のある人など立場の弱くなりがちな人は居場所がなくなってしまいます。

他者への寛容性がなくなっているのです。

子育てが不安になるのも当然です。


ても、本来、人はみんなが未熟なもの。だから人に頼り、頼られ、迷惑をかけ、かけられて成長していけばいいという考えに立ち戻るべきなのでしょう。

弱い立場に置かれがちな人が生きやすい社会は、みんなにとっても生きやすい社会なのです。



子育てに困難を感じているなら、信頼できる人との関係を増やすことが必要になります。

夫婦で仲良くしたり、友人に相談したり、学校の先生や保育士を頼ったり、子育てサークルに入ったりして、親子だけの孤立から離れることが、いまの子育ての要所であるのです。




放っておくのがいい

2020年09月09日 08時19分00秒 | 教育・子育てあれこれ


約2カ月にわたる全国一斉の臨時休校は、子どもに長期にわたり、子どもを「ステイホーム」させました。この休校は、子どもにどんな影響をもたらしたのかを、いまあらためて考えます。

もちろんあまり目立った影響を受けず、学校生活に復帰した子どももいます。

しかし、その一方でやはり何らかの影響を受けた子どもがいました。

そもそも子どもの成長や変化には著しいものがあります。

通常の場合、たとえば夏休みを40日間だとすると、2学期に久しぶりに登校してきた中学生は見違えるようにたくましくなっていたり、背が伸びていたり、考え方が大人っぽくなっていたりします。

今回の新型コロナウイルス感染防止のための臨時休業の子どもにとっての2カ月間は、大人の場合の半年間ほどに匹敵するのではないかとまで思います。

今回の休業は、子どもの成長や変化のすべてを家庭が引き受け、家庭で終結させることになったのでした。

学校があれば、友だちと一緒に学習ができます。
学級の行事や学校の行事が間に挟まります。
友だちや先生と会話もできます。

そのような体験や時間がその子を育てるのです。

しかし、直接会うという接触ができなくなり、そういう生活が2カ月も延々と続いたのでした。

学校は、児童生徒にとって、対人関係に気をつかったり、ストレスがかかる側面もあります。

でも、同時にその子を受け入れ、承認してくれる場でもありますし、友だちとのかかわりをもてる、かけがえのない場でもあるし、息抜きができる場でもあります。

今回の学校臨時休業で、親子関係が悪化した例もあります。

母親と息子の関係が険悪になったというケースの報告がありました。

学校からの課題(宿題)をまったくしようとしない中学生の息子の様子に母親の不満が高じて、爆発したということです。

毎日、家にいてゴロゴロしている。
まったく、学習をしない。
ゲームばかりやって、それ以外は何もしない。

こんな子のために毎日、なぜ私はご飯をつくっているのか。

わたしは、出社も我慢して家にいるのに。
何を言っても、まったくいうことを聞かない。

このように母親が感じて、親子関係が険悪になりました。

親と子は近い関係であるからこそ、腹が立ったり、怒りもわきます。愛情をかけるぶん、うまくいかないと憎しみにも変わることがあります。

このような場合、母親は放っておくのがいちばんだと、わたしは思います。

子ども自身が困って、親に頼みに来ること以外はしないことです。

子どもが頼みもしないことを先回りして、親がすることはやめておくことです。

中学生にもなると、学習するのは子ども自身の問題です。
子ども自身が引き受けていかなければならない問題です。

子どもにしてみれば、学習しようと思っているところなのに、母親から「しなさい」の声がかかる。

それで、いつもやる気をそがれてしまう。

こういう状態なので、こういう親子関係の場合は、放っておくのがいちばんなのです。

ただ、学校の先生には実情を話して、子どもと面談してもらい、子ども本人が自分の力で少しでもできることを増やしていくようサポートしてもらうように頼んでおきます。

このようにして、2カ月の間に悪化した親子関係を修復していくのです。

新聞記事がもつ一定の信頼性

2020年09月08日 06時40分00秒 | エッセイ

新聞の発行部数は下がり続けています。これは購読数が減少し続けているからです。

夕刊の発行を停止する地方紙が多くなっています。

インターネットが普及したのが大きな要因だと思います。

私は、2000年に入ったころ、まだわが家にはインターネット環境がなかったのを覚えています。

それからほどなくして、インターネットをひきました。

おりしも、新聞の発行部数は2000年入ってしばらくがピークだったそうで、ちょうど日本社会にインターネットが普及しだした時期と一致しています。

インターネットのおかげで、新聞を購読しなくても、容易に様々な情報を得ることができるようになりました。

いまや「新聞を読む」というのは、人びとの生活の中でルーティーンワークではなくなりました。

まして、いまの若い人は「子どものころからウチの家ではずっと新聞をとっていませんでしたよ」という場合も多くなってきています。

中学生に夏休みの宿題で、「新聞記事を切り取って、その記事について自分の感想や意見を書いてきなさい」という課題を出します。

すると、新聞をとっていない家庭の子にどう対応するかを、学校は考慮しなければならない時代です。

そのような状況です。
ただし、新聞はその存在価値がなくなったのかといえば、私はそうは思いません。

インターネット上の情報は危ういものもたくさんあります。それをもとに、人びとはSNSやツイッターで自分の意見を発信するようにもなっています。

個人が自由に発信できるのはいいと思うのですが、都合のいい情報だけを取り入れ、それを根拠に自分の意見を表明することが問題です。

これを続けているうちに、社会の秩序をつくっている規範は崩れていくように、私には思えます。

その点、新聞はそれ相当の事実確認を行ったうえで、記事にしていますので、その情報は一定の信頼性があります。

ただし、新聞も、読者は気をつけなければならない点はあるように思います。

記者が「これを記事にしたい」と思うとき、取材をした記録の中から記者の主張にあうものだけを新聞に載せるのではないでしょうか。

反対の見解や記事にしたい論調にあわない取材内容は載せない。

そして、その記事を読んだ読者は「そうなんだ」と思わされ、世論が形成されていく。

この点には気をつけ、「批判的思考」で新聞を読む必要がありそうです。

また、新聞の見出しは、読者に記事の概要を伝える、読んでみようという意欲を高める大切な役割をもったフレーズです。

しかし、陳腐な表現もたくさん見出しに使われています。

例えばプロ野球の試合結果を伝えるとき、いまだに広島のことを「コイ」、ライオンズを「獅子」と読んだりしています。

「コイに飲み込まれたトラ」などがそうです。

プロ野球ファンが日常的に野球の話をするとき、「コイ」や「獅子」という言葉を使うでしょうか。現実から遊離しています。

また、見出しにつまらないダジャレや語呂合わせを入れている場合もあります。そのダジャレはオヤジギャグ的なものが多く、若い人の共感を呼ばないような「さむーい」表現を使っています。

今月では、京都市の高瀬川彫刻展を伝えるのに、鹿の造形を川の中に展示したいう記事に対して、「川に入るシカない!?」というつまらない見出しが出ていました。


こんなジョークは、人びとがいま使うでしょうか。なぜダジャレを使わなければならないのでしょうか。見出しをつけた人だけが、ひとり悦にいっているように思えます。  

また、密を避けるため屋外展示にしたそうですが、鹿の造形は川の中に置かざるをえなかったのでしょうか。

ダジャレを使うために、無理矢理こじつけた言葉でないのか。 


このように、新聞にも「これでいいのだろうか」と思う疑問があります。

しかし、記事の公平性はかなり保たれている点、様々なジャンルの情報を集めている点で、人々が情報を得る手段として、新聞は有用です。

新聞は、今も今後も、一定程度信頼のおけるメディアであると思います。

好きだからこそできる

2020年09月07日 08時13分00秒 | 教育・子育てあれこれ


私が、多くの中学生と出会った経験から思うことですが、子どもにはいろいろな子がいて、けっこう何でもよくできるというか、要領がいいというか、チャッチャッとできてしまう子がいます。

そういう子はおそらく、小さい時からよく学習に取り組み、「こうなりたい」という目標に向かい努力を重ねてきて、そのことをいとわない子であると言えます。

こうして育ってきた子は、大人にすれば手がかからない子です。

だから、ほめようとすれば、たくさんほめることができます。

ただし、こういう子にはほめすぎは控えるべきです。とくにそういう子が中学生になった頃には気をつけなければなりません。

なぜなら、ほめつづけられると、大人からの評価を気にするようになるからです。

思春期になると、子どもは自分がどんな人間かを見つめる傾向が強くなります。

今までにも「よくできる子」として周囲が認めてきたという経験をもっています。

ですから、知らず知らずのうちに、「わたしはまわりからできる子とみなされている」という自己概念(自分がこういう人間だというイメージ)をもっています。

とくに親が喜ぶかどうかは気になります。親の期待を一身に背負い、親の希望に沿うかどうかで、自分の高校進学を考える場合もあります。

しかし、進路を考えるときには、自分がしたいこと、進みたい道に進むのがいちばんです。

親にすれば、「そんなに強く子どもに求めてはいない』と言われます。

たしかに「ぜったい○○高校の○○科に行きなさい」など言っていません。

しかし、「なんでもよくできてきた子」からすれば、育ってきた過程の中で、人の期待に応えることの価値を何よりも強く感じるのです。

じっさい、そのような生徒に出会いました。

その子は中学1・2年生のうちは成績がよく、一生懸命学習に努力する生徒でした。

周りからも「よくできる子」と思われていました。高校も大阪府立のいわゆる進学校を目指していました。

しかし、3年生になり成績が停滞し始めました。

ほかの子が学習をさぼっていたというわけではないのですが、みんなが3年生になり高校進学を真剣に意識しだすと成績を上げてきます。

そのなかで、その子は相対的に自分自身を見るようになり、少しずつ自信をなくしていったのでした。

心が大きく動揺し、身体面にも不安が現れるようになりました。

担任が支え、その子は志望校を変え、私立高校に進学できました。

生徒が自分のやりたいこと、めざしたいことを高校選びの第一の基準にするのがいいと、私は思います。

進路は厚い雲に覆われていたり、雨が降っていて、めざす星は隠れていることもあります。

でもあきらめなければ必ず道は開けます。

努力はつらいものではありません。好きだからこそできるのです。

親から友だちへシフトチェンジ

2020年09月06日 05時16分00秒 | 教育・子育てあれこれ


子どもが中学生になると、人間関係で、何を重要視するかが変化してくことが多いものです。

親との関係に今までずっとたよってきた子だったのが、友だちとの関係をいちばん大事にするようになります。

それは、子どもが思春期に入っていることの現れです。

いままで、学校のことをいろいろと話してくれたのに、あまり話さなくなったりします。

親からすれば、さみしく思うことが増えてきます。

この時期の子どもの特徴は、好みや趣味などがあう子と新しい人間関係を築こうとします。

親が知らない友だち関係をもっている場合も多いものです。

「いいえ、わが子の友だちは、あの子とあの子とあの子・・・で、○人いるのよ」と言い切れるお母さんは、子どもの交友関係に踏み込みすぎていると言えるかもしれません。

思春期の子は、子どもが親の知らない「世界」をもっているのが普通です。

中学生は、みんなと力をあわせて目標を達成する活動とか「これをやりたい」という生徒が集まって、それぞれを認め合う活動など、部活動に取り組むことでも、成長を期待できます。

ですから、友だちとの交流を大切にして、親子関係より、友だち関係がうまくいっていることに喜べばいい。

そんな時期が思春期です。


「新しい生活様式」に想う

2020年09月05日 07時42分00秒 | 教育・子育てあれこれ
今回の新型コロナウイルス感染防止の日本での対策は、ただ一点「命を守る」ことが目的でした。

そして、感染症拡大防止だけを目的にして、緊急事態宣言を発令し、経済活動に制限をかけました。

その結果がどうなったでしょうか。

失業者が増え、企業が倒産し、店は閉店しました。

これが「命を守る」ことになったのでしょうか。

一つの方向から命を守ろうとしたら、結果として命を大切にしない影響を生み出しています。

そうなったとき、私たちの命は、ほんとうに守られたことになるのでしょうか。

そのような疑問を、わたしは抱いています。

病院は健康を維持するもっとも大切な機関である。

「病院が持ちこたえられなくなると、社会は終わりを迎えます」という考えがショッキングな「医療崩壊」という、まことしやかなフレーズとともに報道されました。

学校教育の分野では、よく「学級崩壊」という言葉が使われます。

でも、わたしは「崩壊」という仰々しい言葉に、違和感をもつことがよくあります。

「崩壊」とは壊れて、崩れ落ちてしまうことだと思います。「地震で建物が崩壊した」というように。

学級の役割(機能)がはたらかなくなって、授業中騒がしくて、立ち歩く子がいる。教科書もノートも出さない子がいる。安心して給食がとりにくい状況を表すという意味で崩壊ではありません。

ですから、「学級が機能不全になる」という表現を、わたしは校長在任時にはしていました。

とにかく、今回の新型コロナウイルス対応では、「医療を崩壊させてはならない」という勢いで、あれこれが決められていきました。

その一方では、「不要不急」とラベルを貼られた仕事の人たちは、仕事をしていたら叩かれました。

みんなで力を寄せ合って戦わなければならなかった、その先にあったのは何だったのでしょうか。

感染者数が上がった/下がったという数字の変動だけだったのでないか。

ここまで、思うようになりました。

そして、ウイズコロナ時代の「新しい生活様式」が提唱され、導入を進めているのがいまです。

しかし、そもそも人びとの生活様式は多様なものです。

その生活様式は、人々がそれぞれに長い時間をかけ、生活のオリジナルな工夫から確立されたものです。

たとえば、農業をする人は、真夏は直射日光が強くて、暑い日中の時間帯には作業をやめて、昼寝をする。

そして日が陰りだしたら作業を再開する。このようにして熱中症も防いできたのです。

ですから、生活様式というものは、どれほど小さな行動であっても、それにはれぞれの人が、意味があって築いてきているのです。

この考えに立つとき、ウイルス感染症予防というたった一つの観点から「これはやってもいいです」「これはだめです」と強いるのはどうでしょうか。

人びとの多様な生活様式を一つの色に統一しようとする「新しい生活様式」の導入に、わたしはとまどいを覚えざるをえないのです。

また、日本では自粛の要請があると、多くの人々が従順にしたがい協力しています。

国民性というものがあるとするならば、そういう国民性のあらわれだと思います。

ヨーロッパでは、要望を受けただけでは守ろうとしない人が多いようです。でも罰則がつけば守ろうとします。

その点で、罰則がなくても、国民が同じ行動をして守ろうとするのは、新型コロナウイルス感染対策上は、よかったとは思います。

それは、別の面からみれば、人びとが「早く上から指示を出してくれ」と望む人が多いという特徴を表していたとみることもできます。

基本的に、日本はタテ社会でできています。

「上の人が言ってくれれば、自分が考えたり、言わなくて済む」という打算も働いているのでしょう。

その点では、学校教育も同様です。

新型コロナウイルス感染症への対応では、文科省が通知を出し、都道府県教育委員会を経て、市町村教育委員会が所管する各学校に通知や指示を出します。

学校の教職員は、世代間ギャップや、若い教職員が突出して多いなど、いまやヨコの人間関係がとりにくい学校も増えています。

個人個人は「ちょっとおかしいんじゃない」と感じても、そのまま受け入れてしまいます。

そうなると、「隣の学校ではやっているのに、うちの学校はしていない。やらないと」となります。

保護者も、「なぜうちの学校ではしないのですか。○○の学校はやっていますよ」と批判の声をあげます。

でも、考えてみれば新型コロナウイルス感染のリスクに対応はしますが、そのリスクはゼロにはなりません。

そうなると「不十分じゃないですか」という声が出ます。

その結果、たとえば「ガラスは割れてけがをする子がいるから、学校をガラスのない建物にしましょう」という行きすぎた段階にまで踏み込んでしまう感染症対策も出てくる心配があります。

私は、学校とは基本的に人と人が出会い、交流する「交差点」だと思っています。

ですから、感染症対策が極端な方向に向けば、人と人を出会えなくすることになります。

人間は人と出会うために生まれてきて、人と出会うことで、人生を送る存在です。

そのために学校はあると言っても過言ではないと思います。

子育ての極意は自分を肯定

2020年09月04日 06時20分00秒 | 教育・子育てあれこれ


母親が、自分や夫のいい点を認めていることは、子育てではたいへん重要になります。

自分のいい点を見つけている人は、他者のいい点を見つけることができるものです。

反対に、自分のいい点を見つけられず、悪い点ばかりを見ている人は、他者の悪い点ばかりが見えます。

つまり、自分を肯定できる人は、他者を肯定できます。

このような肯定感をもとに、じっさいの子育てでは、子どもに対してこういう親子の会話につながります。

「やさしいところは、お父さんに似ているね」とか「話し好きなところは、お母さんといっしょだね」。

このブログを読んでいる人がお母さんなら、お母さんは自分に自信がありますか。

子育てとは、わが子を「いい子」「優れている子」に育てることで自信をもつのではありません。

それよりも、お母さんが自分自身の生き方に自信をもつことが大切なのです。

どんな人だって、短所や欠点、弱点をたくさん抱えています。そのことを気にしすぎないで、「人ってそういうもの」と納得します。

そして、自分なりの努力をして、「できればいずれはこういうことができる人になりたい」と思えることが、ほんとうの意味での自信のある人だと、私は考えます。

ですから、お子さんに伝えてください。

「いまはできなくても、いつかできるようになるといいね。そのほうがなんか、楽しくなってくるね」と。

自分を肯定できることが、自分自身にとっても、また子育てにおいても、いかに大切かということです。


思秋の頃

2020年09月03日 10時11分00秒 | 教育・子育てあれこれ

9月に入っても、紫外線の強さは夏の日差しのようです。

とはいうものの、夕暮れどきには、秋の虫の音(ね)が夜の静けさを深めてくれます。

そんな夜には、なんとなく落ち着いた気持ちになり、ある意味で寂しさを感じます。

これを「思秋」(ししゅう)といいます。そういえば、40年ほど前に「思秋期」という曲がリリースされました。

過去のことを懐かしく思い出し、人生の移ろいに想いを寄せる。秋はそんな季節であるのかもしれない。

B.L.M運動 「息ができない」

2020年09月03日 08時18分00秒 | エッセイ

アメリカの女性アーティストH.E.Rが
「I Can’t Breathe」という曲を出しています。

日本語タイトル名では、「息ができない」となります。

この曲は、2020年5月25日、ミネアポリス市の警官がジョージ・フロイドさんの頭を押さえつけ、死に至らしめた事件をとりあげています。

その後、アメリカで巻き起こった「Black Lives Matter」(BLM) =ブラック・ライブズ・マター運動のさなかにつくられた曲です。

悲しみを溜め、体の中から絞り出す言葉は、メロディが緩やかであるがゆえに、激しい心の叫びとして聞こえます。

歌詞の一部を引用します。

➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖➖
I Can't Breathe”
                            (H.E.R.)


Starting a war, screaming "Peace" at the same time

All the corruption, injustice, the same crimes

Always a problem if we do or don't fight

And we die, we don't have the same right

〈意訳〉
争いが平和の叫び声と同じ時に幕をあけた。 
どんな腐敗も不正も犯罪も(以前と)同じだろうか。
闘うか。それとも闘わないでおくか。 
これがいつもの、変わることのない、私たちの苦しみと悩みである。
そして、私たちは死んでいく。
私たちは同じ権利をもっていないのだ。

••••••••••••••••••••••••••

I can't breathe
You're taking my life from me
I can't 
breathe 
Will anyone fight for me?

〈意訳〉
息ができない。 
あなたは私のいのちを奪おうとしているのだ。
息ができない。
こんな私のために、だれか、闘ってくれないか。

••••••••••••••••••••••••••

そして、曲の後半部分では、

Trying times all the time
Destruction of minds, bodies, and human rights
Stripped of bloodlines, whipped and confined
This is the American pride
It's justifying a genocide

〈意訳〉
いつもつねに、心もからだも人の権利も破壊される。
黒人である血筋をはぎ取られ、ムチ打たれ、閉じ込められる。
これがアメリカ合衆国のプライドなのか。
これが民族虐殺・粛清を正当化するアメリカのプライドなのだ。

以下略  ••••••••••••••••••••••••

だいたいこういう意味だと解します。

B.L.M運動が、抗議する人たちにとって、どんな意味を持っているかが、この曲を聴く私たちに伝わってきます。


H.E.Rは、母親がフィリピン人、父親はアメリカン・ブラックです。

ただし、アメリカン・ブラックと言っても(アフリカン・ブラックも同様)、彼女のように血筋が複数にまたがる人が、アメリカ国内ではほとんどなのです。

肌の色が濃くても薄くても、顔だちも異なっていても、ひとくくりにされた「黒人」です。

それは「白人」だって同じであり、多様性があるののに、差別の場面では、ひとくくりのステレオタイプにされ、往々にして激しい暴力を振るわれるのが「黒人」なのです。

こういう事態がいつものように存在し、人々に我慢を強いてきているのがアメリカ社会であると、歌詞で訴えています。

だから、「もう、いいかげんにしろ!」と抗い(あらがい)、多くの人びとが声を上げたのが、今起こっているB.L.M運動なのです。