わたしは大阪万博の時代に少年時代を過ごしました。
当時は日本の高度経済成長期で、世の中はいわゆる「右肩上がり」の時代のなかにありました。
そんなときに、子育てに不安を感じる親はあまりいなかったと思い出します。
子どもは、なんだかんだといっても育っていくもの。
子どものとき、あれほどやんちゃをしていた人が、いまはちゃんと大きくなり、バリバリ仕事をしている。
だから、子どもはなんとか育っていくもの。
みんながそう考えていました。
世相でいえば、まだ戦後の貧しさの最後の余韻がいくらかは残っていました。
たとえば、わたしの就学前の頃、保育所での思い出としては、給食でまだ牛乳のかわりに「脱脂粉乳」が出ていました。
「カルミン」という肝油ドロップが1個ずつ配られました。
これは、一粒でもたいへん高カロリーで、子どもの栄養補給には重宝がられたようです。
つまり、戦後の栄養失調の子どもには給食が唯一の栄養補給の機会だったのです。
たしかに、生活にまだ不自由さも残っていました。
人が人を傷つける事件や差別、息子が親を金属バットで殴りつけるというショッキングなニュースもありました。
そんな世相でも、人びとは明日への希望をもって生きていたように思います。
明日は今日よりいい日が来る。
根拠がない中でも、みんながそう信じて生きていたのでした。
じっさい、科学は発達して、年を追うごとに便利な電化製品が次々と現れ、人びとの生活状況は向上していきました。
こんな時代に、人びとは子育てに不安を感じることはあまりなかったのでした。
その自信や安心感はどこからきていたのでしょうか。
おそらく、子どもの育ちに対する親の責任が今ほど重く考えられていなかったからでないかと思います。
事実、わたしと近所のおとな、親と近所の人の人間関係はもっと濃かったのです。
よその子にでも、近所のおとなは話しかけたり、ほめてくれたり、ときには叱ったりしてくれました。
また、家にはおじいちゃん・おばあちゃんがいて、親とは別に孫をかわいがってくれました。
だから、今の時代ほど、子育てでの親の責任が大きく求められることはなかったのです。
子どもはなんとか育っていくものという考えは、このような環境から来ていたのでしょう。
しかし、いまは個人に責任が返されやすい時代です。
失敗すれば、「あなたの努力が足りなかったのね」と、「自己責任」にされます。
子どもがうまく育っていないと、「親は何をしているの」と非難されます。
これは、おそらくいまから20年前ほどに「勝ち組」「負け組」という言葉が言われだした頃から、「自己責任」論(じつは本来の自己責任というのはそういう概念ではないのですが、日本では曲解されて使われています)が主流になってきました。
また、子どもを育てる環境が厳しさを増してきているのも、親が子どもを育てるときの不安要素になります。
一人の子を成人させるまでに多額の費用がかかる。
親が働くのに子どもを預ける場所が見つかりにくい。
子どもがいなくてもいいと考える価値観の変化。
そういった事情に加え、親だけが責任を引き受けなければならない社会の厳しさ。
子どもに成長上の課題があったり、やんちゃをしていても、成人したときにはバリバリと社会で活躍することが見込める時代でもなかなりました。
子ども時代につまずけば、それが将来にわたり不利になりやすい。
こんなさまざまな時代背景を受け、子育てに不安を感じる親が多いのです。
現代人にたりないのは、子育てや生活全般にかかわる安心感だと思います。
わたしは迷惑をかけないようにしますから、あなたも迷惑をかけないでください。
だから、自粛を求められているのに、店を開けているとかマスクをしていないことで、「自粛警察」の人が現れ攻撃します。
そんなメッセージが行き渡るなかでは、高齢者や子ども、障害のある人など立場の弱くなりがちな人は居場所がなくなってしまいます。
他者への寛容性がなくなっているのです。
子育てが不安になるのも当然です。
ても、本来、人はみんなが未熟なもの。だから人に頼り、頼られ、迷惑をかけ、かけられて成長していけばいいという考えに立ち戻るべきなのでしょう。
弱い立場に置かれがちな人が生きやすい社会は、みんなにとっても生きやすい社会なのです。
子育てに困難を感じているなら、信頼できる人との関係を増やすことが必要になります。
夫婦で仲良くしたり、友人に相談したり、学校の先生や保育士を頼ったり、子育てサークルに入ったりして、親子だけの孤立から離れることが、いまの子育ての要所であるのです。