箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

「利他」の人は輝きを放つ

2022年06月15日 07時17分00秒 | 教育・子育てあれこれ
わたしの親戚で、とにかく人にものを送ったり、あげたりするのが好きな人がいます。

自分からあいさつをして、場をなごやかにして、自分のことよりも人が喜ぶことを楽しみにしているかのようです。

その人にとっては、たぶん他者が喜んでくれることが自分のしあわせになるという点で、「しあわせを分ける人」なのかもしれません。

また、だれかから何かをしてもらった感謝を別の人に与えるというように、「感謝をまわす人」もいます。

これらは、いわゆる「利他」と言える行為でしょう。

みんなが生きづらい世の中です。自分のことで精一杯で、つい自分を守ろうとする利己的な人が多いこの時代にあって、利他を実践できる人は強い光を放ち、輝きます。

学校の部活動って価値がない?

2022年06月14日 07時09分00秒 | 教育・子育てあれこれ
今、国が進めている中学校の部活動を地域に移行するという方針は、学校の教員(顧問)の働き方改革推進をベースにしています。

中学の場合、教員は顧問として土日も部活の練習に従事したり、他校との試合、大会に引率したりします。

それにより、教員の時間外勤務が膨れ上がっているという認識のもとに、土日の活動を地域の指導者、コーチに委ねるというものです。

しかしながら、本当にすべての運動部の活動を地域が担えるのかという点が不透明なままです。

すべての運動部を指導できる指導者やコーチが全国の各地域で見つかるのか。

さらに、その報酬にあてる財源は、自治体が確保できるのか。

もちろん国からの補助金が出るでしょが、現在では、その財源確保の見通しは立っていないです。

その点、公立中学校で部活を設ける従来のやり方は、すぐれた制度でした。

公立の義務教育の中学校は、「原則、無償」でどの地域でも、どの生徒にも公平に、ほぼ同等の部活動を保障できたのでした。

再度いいますが、今、学校の部活の地域移行は、働き方改革や少子化による部活の維持が困難になりつつあるという認識をベースに進められようとしています。

しかし、そのときの判断基準は、中学校の部活にはさほど大きな教育的価値がないというなかば定着した「合意」や考えが底流に流れています。

そして、現行の体制は維持できないので、地域移行が方針になっていりのです。

現行のの体制が維持できないところまでにきているので、地域へ移行させるのなら、具体的な移行の道すじを示すべきです。

最後は自治体任せ、丸投げにならないようにしなければなりません。

そうでないと、自治体による部活の整備状況に当然、差が生まれます。

そのとき、被害を受けるのは、生徒です。

教育は誰のためにあるのかと言えば、生徒のためにあります。

地域移行で、教員と生徒がいっしょに過ごす時間が減れば、教育的な効果が薄れていきます。


先日、大学3年生になり、教員を志望する卒業生と話しました。

彼女は中学校の部活経験をいま客観的に振り返ってみて、「いろいろあったけど、部活の先生が与えてくれた経験が、いまのわたしをかたちづくっている。わたしは、だから教職に就き部活指導もしたい」と話してくれました。

地域に部活を移行するには、移行の枠組みや地域差を生まないようにした上で、学校の部活動の教育的価値を削がないような改革が必要だと、わたしは思います。



秋に吹いた爽やかな風

2022年06月13日 07時43分00秒 | 教育・子育てあれこれ
ある秋の日、わたしは大阪ミナミ・なんばのセブンイレブンで乾電池を買い、現金で支払いました。

お釣りを小銭入れに入れ、店を出ました。

すると後ろから、わたしの肩をトントンする人がいました。

「何やねん」と少し面倒な表情(だったと思います)で、振り向きました。

その相手は、「落とされたのではないですか」と黒色の小銭入れを差し出しました。

「あっ! ありがとうございます。落としてたんですね」

「よく、声をかけてくださいました」

「落とし物でも、目の前で落とされたのを見たのだから、渡すのは当然ですよ」

そう言って、その人はその場を立ち去っていかれました。

なんか颯爽と吹き抜けるなんばの秋風のような爽やかな人で、わたしはしばらく立ち止まり、その人を見送っていました。

部活動の役割の変化

2022年06月12日 07時47分00秒 | 教育・子育てあれこれ
1980年代の頃の中学校は、荒れていました。

当時、全国の中学校で校内暴力や器物破損、服装違反、非行が問題になっていました。

その頃は、生徒がもつ有り余るほどのエネルギーを外に向けて出していたのであり、それが暴力や非行などの問題行動として現れていたものと考えられます。

では、いまの中学生にはエネルギーがないのかと言えばそうではないと、わたしは考えます。

エネルギーはあるのですが、それは外向きに出しているのではなく、内向きに出しています。

それが、いじめや不登校になって現れているというとらえ方を、わたしはしています。

そこで部活動についてですが、1980年代の中学校での部活動は、生徒のエネルギーの外への出し方を、正しい方向に向けるという役割があったのです。

授業は成立しにくく、授業妨害や授業エスケープなどが起こり、生活指導も困難なことが多くありました。

そこで部活動で生徒を「管理」して、クラブで世間の良識や社会のルール、集団生活の過ごし方や集団の中での人間関係を教えるという役割には大きなものがありました。

ところが、そういった部活動の役割も1990年代の中ごろから変わってきました。

それは個人の自己選択や自己実現が叫ばれるようになり、教育でも個人がやりたいことを見つけるとか、「自分さがし」、自分の夢実現が重要視される社会へと変わってきたということです。

そこで、部活動も集団指導というよりは、生徒一人ひとりを自立させる指導・支援の場や機会として機能するように徐々に変わってきました。

生徒の願いも、自分がチームの一員で多くのチームメイトと仲間関係を築きたいというよりも、1対1のコミュニケーションをとりたいに変わってきたのでした。

かといって、学校での部活動がいらないかといえば、そうではありません。

部活動の役割の変化は、おもに顧問にとっての役割が「指導者」と「生徒」という関係が「わたし」と「あなた」という関係になったのであり、生徒にとっての部活動の意義はやはり大きいのです。

部活動を地域に移行していくのは、おもに土日の活動であり、部活の主体は地域になるとすれば学校は地域の連絡調整は密にしなければならなくなるでしょう。
 
とにかく、部活改革はその制度設計をしっかりと打ち立てていかないと、だれのための改革かわからなくなります。

学校が子どもの成長のすべてを担う必要がないのは確かです。

ですから、部活改革については地域スポーツに移行していくのが適切だと考えます。

だからこそ制度設計をしっかりしないと活動は迷走する心配があります。

中学生の3年間は、生徒にとっては一度きりであり、「いまは過渡期だからいたらない点はあります」ではすまないのです。





中学生の多面性を知る機会

2022年06月11日 11時49分00秒 | 教育・子育てあれこれ
わたしは校長を務めているとき、学級担任には「子ども理解のため、生徒の地域での活動をできるだけ見に行きなさい」と、言ってきました。

もちろん、教師にとって勤務時間外なので強制はできませんし、無理強いもしませんでしたが、勧めることはしました。

生徒の中には、学校での活動以外に地域のスポーツクラブや習いごとをしている子がいます。

新体操をしている子、いけばなをしている子、ミュージカル、バレエ、自転車競技、ゴルフ、太鼓などさまざまであり、それらの活動ができる部活は、ふつう学校にはありません。

自分の得意なことに懸命に打ち込んでいる姿は学校内ではみることができないこともあります。

たとえば、将棋をやっている生徒の姿は通常学校では将棋部の部活動もないので、見ることができません。

そこで、学外での中学生の将棋大会を見に行くのです。

すると、真剣なまなざしで将棋に打ち込んでいる様子を目の当たりにして、学校とは違ったその子を知ることができるのです。

翌日学校へ行くと、「先生、きのうは来てくれてありがとうございました」と言いにきます。

そこで、見た感想をのべたりすることで、その子との人間関係が深まります。

このような理由で、わたしは教員に、生徒の地域での様子をできるだけ見に行くことを勧めるのです。



範囲を今度は学校の中だけに焦点化します。

教員は、授業や学級活動、学校行事の機会に生徒の様子を見ます。

しかし、中学校の場合、部活動でも生徒のがんばっている様子を見ることができるのです。

それが、中学校教師の生徒理解の助けになるという側面はけっこう大きなものです。

しかしながら、今回部活を学校から切り離し、地域に移行していく国の方向が打ち出されています。

部活の時間に教室とは違う表情や態度をみせる生徒がおり、部活が地域に移行されれば、その表情や態度を、教師が見ることができなくなる心配があります。

子どもは、本来多面性をもつものです。

学校の部活の運営の主体を地域に移行させるのなら、生徒の多面性を知り、生徒理解を深めるほかの方法を見つけなければならないのです。

この点が現場感覚で学校教育を考えたとき、わたしが思うことです。

探しても見つからない 教員不足

2022年06月10日 07時05分00秒 | 教育・子育てあれこれ
学校の児童生徒数に応じて、教員は何人と決まる数を教員定数といいます。

ところが、教員の数が足りないケースが最近増えています。



教員定数の数だけ教員を配置したり、突然辞めた教員、産休に入った教員、病休ななった教員が出た場合、代替教員を配置するのは教育委員会の教職員人事関係の課です。

教育委員会も鋭意、学校に教員を配置しようとしますが、なかなか人が見つからない場合が散見されるのです。

特に中学の場合は担当教科がありますので、簡単ではありません。

欠員になった教科が、たとえば理科なら理科の教員免許をもった人をさがさなければなりません。国語の教員を配置して、理科を教えなさいとはならないのです。

4月の新学期開始時に、教員が足りないままスタートする学校が、今年で全国の小中学校の約2割です。

たとえばある学校では、理科の教員は3名いなければならないのに、1名欠員のままスタートすると、3つの学年を2名で教えなければなりません。

校長も教育委員会からの配置を求めながらも、自身の人間関係のツテをもとに独自に探し、見つけた場合には、学校から教育委員会にその人を「逆指名」して任用をもとめることもあります。

なかなかたいへんな教員不足の時代です。



田園の原風景

2022年06月09日 09時51分00秒 | 教育・子育てあれこれ
青空は澄みきって、山は新緑に覆われています。

田んぼには稲が並んでいます。

冷えきった冬がすぎ、おだやかな春を越え、夏の入り口にたどり着いた田園風景がここにあります。

この緑の稲は、秋に向かうにつれ黄色を増し、こうべを垂れる稲穂となるのです。

これが古き日本の原風景の一つです。



子どもが少なくなる

2022年06月08日 08時28分00秒 | 教育・子育てあれこれ

学校にいると、少子化の流れを肌で感じます。

以前、教員をしていた頃、例えば1990年代の前半は1学年7クラスありました。

ところが、30年ほどたって、いまその学校は4クラスほどになっています。

2022年6月になって発表された日本の出生率は1.40で2016年から連続して下がり続けています。

エンゼルプランという国の政策があります。

保育サービスを充実させたり、育児休業制度を広げたり、保育料の無償化などに取り組んできました。

しかし、これらのプランは効果があったかといえば,いくらかはあったかもしれません。

出生率は下がり続けていますが、プランがなければもっと出生率は下がっていたかもしれないのです。

くわえて、新型コロナウイルス感染症の影響もあるでしょう。

産むのをためらう人、結婚を延ばした人もいるでしょう。

また、若い人が非正規社員で働く人も結婚をためらいます。

男性で22%、女性で54%が非正規で働くのが,今の時代です。

こうなると「経済的な面で結婚することや子どもをもつのは無理だね」と思ってしまいます。

ここしばらく、待機児童の問題が取り上げられてきました。

でも、いまは0歳児から2歳児の定員割れが起こっているところもあります。


少子化による人口減は、社会保障制度に影響してきます。

子どもは少ないよりも、たくさんいる方が学校は活気があります。

社会でも、子どもをたくさんの豊かな人間関係のもとで育むことができると思います。



言葉にして表すこと

2022年06月07日 07時26分00秒 | 教育・子育てあれこれ

2012年夏のある日、私は病院の待合室にいました。ローカをはさんだ向かい側のイスに3,4歳ぐらいの男の子がお母さんに連れられて座りました。

しばらくして、男の子がお母さんを指でそっと突っつききます。お母さんはさっとバッグの中からお茶の入った水筒を取り出しました。

飲みおわってしばらくするとお母さんはその水筒にふたをしてバッグの中にしまいます。

その後ちょっとしてから、また彼はお母さんを突っつきます。するとお母さんはすぐに察して小さな「あめちゃん」を子どもの口の中に入れます。

この間、親子の間で、ほとんど言葉を交わしませんでした。

このとき私は最初、「さすがお母さん」と感じました。親子の関係が深く、おたがいに言葉を使わなくても、わが子が何を欲しているかがわかるのだ。これを親子の関係かなと感心しました。

しかし、次に言葉を使わなくてもわかりあえることに、ちょっとした不安も感じました。

私の子ども時代は、街でよく子どもが「ギャーギャー」と泣きながら立ちつくし、あるいはとぼとぼ歩き、親に何かを求めている光景をしばしば見かけました。

でも最近、子どもが駄々をこねて泣きわめいている光景を目にすることはめっきり減ってしまいました。

泣く前に親が泣かなくてもすむように、子どもがしたいことを察して、子どもの欲求を満たしてしまうのではないでしょうか。

言葉を使わなくても、相手が言うことを感じとることはたしかに大切な力です。以心伝心の言葉通り、日本では昔から「文脈を読む」という技があります。

ですがそれに慣れてしまうと、子どもは話すことで自分のいいたいことを伝える術(すべ)や力をもたないまま大きくなっていくのではないのか・・・。

子どもたちはいずれ社会に出ていきます。いまの時代、社会で人との良好な人間関係を築けるためには、言葉によるコミュニケーションがかならず求められます。

という点では、親子関係においても、親はあまり「察しのいい親」でないほうがいいのでしょうか。

子どものいいたいことに気づかず、親が「なんなの?」とか「どう思うか聞かせて」というように、言葉で説明することを求めると、子どもは親にわかってもらおうと言葉を駆使します。

これは子どもが中学生のような大きい年齢になっても同じです。

まして中学生の場合、子どもによっては親が何を聞いても、「別に!」とか「ああ!(おお!)」とか「わかってるわ~!」、「いわんといて!」といい、会話が成り立たなくなることがあります。

しかし、それでも言葉で説明することを求めるべきでしょう。

母 :「~についてどう思う?」
息子:「ああ・・・」
母 :「ああではわからん」
息子:「わが子やろ」
母 :「わが子でも、わからんものはわからんのや」

このような会話を、怒りながらではなく、ボケながら突っ込みながら、気楽に楽しくできればいいのです。

子どもが幼いときと大きくなってからでは、やり方が少しは変わるでしょうが、子育てでやることは変わらないのです。それは言葉を使って話させることなのです。 
 


部活動は社会教育に

2022年06月06日 09時46分00秒 | 教育・子育てあれこれ
全国の、おもに公立中学校の部活動を地域へ移行する方向性が、このたび本格的になってきました。

スポーツ庁の有識者会議が、2023年度から運動部の活動を学校主体から地域主体に移行する提言を5月末にまとめました。

今まで中学校の部活動の学習指導要領での位置づけは、教育課程外としながらも、学校教育の一環として、生徒の自主的、自発的な参加により行われるとされてきました。

そして、学校教育の一環であるので、教員が顧問を担ってきたという経過があります。

また、生徒指導上の効果もけっして小さくないという認識を学校はもち、中学校教育活動での部活動は大きな役割を果たしてきました。

しかし、学校での働き方改革の面、また少子化で生徒数減に伴う学校単位での活動の困難化を見据え、有識者会議は2023年度から3年間をかけ、土日の部活指導を地域の人びとが担っていくように提言しています。

そして、今後の部活動は、「学校教育」の範囲ではなく、地域の公民館活動や大人のスポーツ活動のような「社会教育」の範囲に改編していく見通しが展望されます。

今までにも、先駆的に土日の活動を地域のコーチに委ねたり、地域スポーツ活動として推進してきた自治体もありました。

また、いま試行実施している自治体もあります。

地域の人をコーチとして導入するには、その財政的措置をどうするかなど、平日と土日の指導者をどう切り分けるなど、課題はいろいろとあります。



小さな単位を指向する

2022年06月05日 08時58分00秒 | 教育・子育てあれこれ

1970年に入るか、入らない頃だったでしょうか。

テレビなどで ”Small Is Beautiful” という言葉が流れていました。

ときは高度経済成長の頃で、四日市ぜんそく(愛知県)、イタイイタイ病(富山県)、水俣病(熊本県)などの公害病が大きな問題となり始めた頃でした。

大量生産、大量消費の社会のしくみにあらがうようなキャッチフレーズが、「スモールイズビューティフル」だったわけです。

大きければいいというものではない。
速ければいいというものではない。
強ければいいというものではない。

欲望のままに行き過ぎた産業・社会を続ける「長高重厚」よりも、もっと小さな地域社会やコミュニティに目を向けるべきだという考えでした。

そして、それに呼応するように、 “Simple Life“という言葉もCMなどで流れていました。

しかし、当時の勢いのある日本経済では、それらのスローガンは人びとの間で受け入れられることはなかったのです。

その後、高度消費社会が訪れ、バブル時代へ突入、グローバル化していきました。

しかし、バブルはとっくの前に崩壊し、今は不景気、低経済成長(マイナス成長)、自然災害、感染症に日本は見舞われ、閉塞感が立ち込めています。

そんなときこそ、もっと地域に目を向けるべきであり、小さな単位のコミュニティに人びとは軸足を置くべきなのでないか。

人間の集まりは、顔の見える人たちとのコミュニケーションに価値を見いだすべきではないでしょうか。

文化や音楽、アート、芸術もローカルな単位で楽しむことがこれからの時代でないかと思います。

かといって、それは閉鎖的なコミュニティでなく、インターネットを介して遠い人ともゆるやかにつながっている。

そのような社会で人は生きていくべきでないかと思います。



大学でのオンライン授業のゆくえは・・・

2022年06月04日 07時32分00秒 | 教育・子育てあれこれ
新型コロナウイルス感染拡大防止のため、大学ではオンライン授業がたくさん行われたのが2021年度でした。

2022年度になり、多くの大学で対面授業中心にもどりました。

今後は新型コロナウィルス感染症が収束しても、オンライン授業は残っていくことになると、大学当局は考えています。

大学側はオンライン授業が教育的な効果があったと考えているからです。

オンラインの中でも、授業を録画しておき、それを期間をさだめて配信するオンデマンド型には学生も一定の評価をしています。

何度も繰り返して見ることができる。理解が深まるという学生の感想があります。

ただし、オンライン授業では学生と教員の人間関係が疎遠になるとか、学生同士のコミュニケーションが難しくなるという面もあります。

他の学生の学習の様子がわからず、不安になりがちという声もあります。

大学時代に積み上げた人とのネットワークは人生の財産となることもあるので、対面型を主にして、オンラインを組み合わせていくスタイルが、今後おそらく定着していくことになるでしょう。

多文化共生にほど遠い学校

2022年06月03日 10時11分00秒 | 教育・子育てあれこれ


文科省の推定では、日本には外国籍の児童生徒で不就学になっている子が約2万人もいるとされています。

日本の法律では、外国人には就学義務がないようになっています。


新型コロナウイルスの感染状況が一定程度落ち着くと、ふたたび外国人の来日が増えてくることが予想されます。

すでに日本政府は外国人の入国制限の緩和措置をとっています。

そうなると、学校では外国人児童生徒が増えてくることになります。

しかし、外国にルーツをもつ子を受け入れる学校の体制は、まったくと言っていいほど整っていない場合が多いのです。

一般的にいえば、言葉の壁があります。子どもは日本で生活するとわりと早い時期にある程度は話せるようになります。

しかしそれは「生活言語」です。

いっぽう、学校の学習で使う言葉は「学習言語」といいます。

たとえば、「おはよう」とか「食べる」は生活言語です。

ところが、国語の「倒置法」や社会の「縮尺」は学習言語で、授業では学習言語がふつうに使われています。

生活言語が身につき日常会話ができるようになっても、学習言語はなかなか定着しないのです。

学習言語が連続する授業で、多くの外国にルーツをもつ子は、授業の内容がわからず苦しんでいます。

だから、高校進学までの学力を身につけるのは、並大抵なことではありません。

それなのに、学校の教員は「ああ、あの子は日本語があんなにわかるから、学習も大丈夫だね」と誤解する人も多いのです。

教育行政は、言葉の壁を十分に認識し、日本語指導担当教員を加配して、手厚く日本語指導を進めていかなければ、当事者の子は「言語の壁」が高すぎて、壁の前で立ちすくんでしまいます。

多文化共生にほど遠い学校が多く、それは日本の公教育が、日本人の子どものためだけの法や制度で成り立ってきた歴史があるからです。

すべての子の教育を受ける権利は十分に保障されなければなりません。

ホッとできる関係

2022年06月02日 07時06分00秒 | 教育・子育てあれこれ
まわりの空気を読むばかりでは、疲れます

スベらないように、自分だけが浮かないように、場の空気を読むのは疲れます。

自分だけが海へ落っこちないように、必死で船の甲板にしがみついているようなものです。

自分の言いたいことを抑え、言わず、グループの総意に同調する。

でも、遠慮なく、船の上で自由に歩き回る人がいると、その度に船が大きくゆれる。

まわりに苦笑されながら、ときにはドボンと海にはまる。

はまってもいい、「なんか憎めない人やね」と言って、船の上へ引き上げてくれる。

そんな関係には、なにかホッとさせられます。

仕事と個人の事情を両立させる職場づくり

2022年06月01日 09時43分00秒 | 教育・子育てあれこれ
男性の育休の取得は、今後ますます必要になってくると思われます。

わたしも校長在任中に、女性教員から「妊娠しました」と報告を受けると、「おめでとう」と言いながらも、頭の中では産休・育休の間の代替教員をどう手配するかという考えが頭の中を巡っていたことを思い出します。

たしかに、育休をとる年齢層の人は職場では、いわゆる「働き盛りの人」たちになることが多いと思われます。

その人が育休をとって職場から抜けるのは、組織にとって痛手かもしれません。いわば労働力の制約付き職場といえるかもしれません。

でも、制約があるなかでも、メンバーが補い合って回していくのが健全な職場であるといえるでしょう。

なぜなら、高齢化社会を迎え、今後は多くの人が介護にあたる時代です。

介護や子育てという個人の事情や生き方と労働が両立できる働き方が必要になるからです。

男性が育休を取るなら喜んで送り出し、育休があけたら「おかえり」と受け入れる組織がこれからの職場であり、働き方だと思います。