緑には、東京しかない

千葉県の東京寄りに住んでいる私「緑」が大好きな東京の散策写真のブログを作ります!!!

新年の中央通り(6):銀座二丁目交差点から銀座通り口交差点まで

2013年01月07日 13時42分42秒 | 中央区全域・銀座


銀座二丁目交差点から銀座通り口交差点へ向かって散策を続けていきます。この界隈も人通りはもちろんですが、車の通行量もほとんどないといった状況でした。




明治時代に舶来品などが並んだ銀座は高級商店街として発展してきました。昭和初期のデパート進出などにより、銀座は東京随一の盛り場としての地位を確実なものにしていくが業態は少しずつ変化していったのです。




「ブルガリ銀座タワー店」前を通り抜けていきます。




ファッションビルの「メルサ銀座二丁目店」も1月2日からの開店とのことでした。




銀座一丁目交差点に到着しました。ここで「銀座柳通り」を通り抜けていきます。柳の木々は銀座発祥の地、堺から移住してきた銀細工職人が故郷を懐かしんで移植したのが起源とされていて、現在では「中央区の木」にも指定されています。




1874年に日本初の街路樹として、桜・松・楓が銀座通りに植樹されたのですが、埋立地である銀座の土地が水分の多いことから根腐れを起こしてしまい、1877年に湿地に生育する柳に植え替えられました。道路の拡幅で一度は伐採されたのですが、1932年に朝日新聞社の寄贈で再び銀座通りに再び柳が復活し、同年4月には第1回柳まつりが開催されました。




従来は高級婦人服飾店といえば銀座マギー、マミーナ、小松ストア、銀座ダイアナ、三愛、創作洋品店(オートクチュール店舗)、日本初のセレクトショップであるサンモトヤマなどが代表だったのですが、1990年代のバブル崩壊以後は海外の有名ブランドが続々と旗艦店を銀座に構えることになります。




銀座は、百貨店の集積地でもあり、松屋・松坂屋・三越・プランタン銀座のほかにも、隣接する有楽町の阪急MEN'S TOKYO、ルミネを含めると6店に及びます。なお有楽町西武は2010年、有楽町そごうは2000年に閉店しました。




1966年にはソニーがソニービルを建設するのを皮切りに家電メーカーがオーディオ製品を中心にしたショールームを銀座に相次いで開設しました(松下電器=テクニクス銀座ショールーム、日立製作所=Lo-Dプラザ、東京芝浦電気=東芝銀座セブン、日本ビクター=ニッパーズギンザ[9])。また、日産自動車も銀座ギャラリーを開設しました。




銀座地区と京橋地区の境界線に当たる「銀座通り口交差点」に到着しました。首都高速道路の高架橋を抜けた先が京橋のオフィス街となっています。




「京橋3-1プロジェクト」として建設が進められてきた高層ビルですが、正式名称が「東京スクエアガーデン」に決定しました。建物の高さは124メートルとそれなりなのですが、銀座・京橋地区には高層ビルが少ないので意外と遠くからでも目立つ高層ビルです。2013年の3月竣工予定となっています。




振り返って銀座四丁目方向を撮影してみました。




銀座通り口周辺の専門店なども閉まっていました。




首都高速道路の高架橋の下から撮影してみると、真っ直ぐな直線として新橋まで続いている中央通りを送まで撮影することができました。




これで新年の中央通りの散策は終わりです。この後は少し歩いて帰省客で大混雑している東京駅へ向かいました。




京橋のオフィス街に程近い銀座一丁目地区を散策しました。

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新年の中央通り(5):銀座三丁目交差点から銀座二丁目交差点まで

2013年01月07日 12時43分21秒 | 中央区全域・銀座


銀座三丁目交差点前から散策を続けていきます。現在の銀座1~4丁目地区は1869年(明治2年)の5月に実施された江戸町名改正によって誕生したエリアです(一部は1930年の区画整理によって銀座1~4丁目に編入されました)。銀座地区の中では最も歴史が古い地域と言えます。




銀座三丁目交差点で中央通りは「松屋通り」と交差していきます。交差点脇に立っているアップルストア銀座店の前の歩道には、開店前の行列が出来ていました。




昭和初期にはアール・デコの影響を受けたモダンボーイ(モボ)やモダンガール(モガ)と呼ばれる人々が町を闊歩し、散策する「銀ブラ」が全盛を極めます。「銀ブラ」の元々の意味とは「銀座をブラブラすること」ではなく、『銀座でカフェーパウリスタの「ブラジルコーヒー」を飲むこと』の略なのだそうです。




第二次世界大戦が終わると、服部時計店、松屋や東芝ビルなど多くの商業施設が連合国軍のPXとして接収されました。その傍らで、銀座の復興も商店主たちの手によって着々と進められ、被災した商店はバラックや露店で営業を再開したのです。




松屋銀座本店前に設置されている門松を撮影してみました。こちらの百貨店も1月2日から営業を開始するようです。




1946年には銀座復興祭が行われ、銀座の復興は軌道に乗り出します。1951年にGHQの命令により露店は廃止になったのですが、その頃から接収解除になる建物が増えて銀座は賑わいを取り戻していきます。




普段は多くの人々で賑わっている松屋銀座本店前も人通りが皆無に近く、ひっそりとした雰囲気に包まれていました。




銀座は明治維新以来の事情から伝統的に不燃建物が多く、戦災を免れた建物も比較的多かったのですが、復興の過程では戦災を免れた建物もかなり多くのものが取り壊され、建物の(当時としては)高層化が進み、中央通り沿いの景観は建築基準法(当時)の高さ制限100尺(約30メートル)で建物の高さが揃うまでになっていきます。




1964年の東京オリンピック開催に合わせて東京の都市インフラ整備も急速に進められ、1949年の三十間堀川の埋め立てを皮切りに、銀座を取り囲んでいた掘割の埋め立てが行われます。銀座西端の旧外堀、南端の汐留川、北端の京橋川を埋め立て、1964年に東京高速道路が完成するなど、掘割は道路へと変貌を遂げていきました。




松屋銀座本店のファサードを眺めながら散策を続けていくと、前方に銀座二丁目交差点が見えてきました。銀座四丁目交差点の北側に広がっているエリアも人通りは普段と比較すると格段に少なかったです。




フランスの首都パリを本拠地とするジュエリー・高級度系ブランドであるカルティエ銀座本店が入居している「大倉本館」の建物が見えてきました。黄金の壁面を誇るこのビルの外観も、銀座の街並みの中にうまく溶け込んでいることがすごいと思います。




銀座二丁目交差点に到着しました。ここで中央通りは高級ブランドショップなどの専門店が集積している「銀座マロニエ通り」と交差していきます。




銀座二丁目交差点の北側地区の散策を続けていきます。




この界隈は北側に隣接している京橋地区とも近いので、金融機関やオフィスビルなどの比率が徐々に増えてくるエリアです。




銀座二丁目交差点で交差している銀座マロニエ通り沿いの専門店なども、元日はどこも閉まっていました。元日の銀座の街並みもなかなか風情があると思います。




銀座四丁目交差点から北側へ向かうにつれて、徐々に人通りが少なくなります。

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