梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

苗字の話

2013-03-06 16:04:34 | 雑記
我が家は育った村でも相当貧しい家庭だった、がしかし一番貧しいと言う事は無かった、此れは間違いなく言える、そして恐らく2番目だろうと言う事も間違いない、
もう一軒だけ老婆が1人で住んでいて廻りとの付き合いも無く暫く見ないからと言ってみたら亡くなっていたという家があったが思い出してみるとこの家はいわゆる「八分」の家だったような気がする、
家庭と言う単位で考えると我が家とこの家がかなり酷い貧乏だった、多分生活保護を受けていたのはこの2軒だけだったような気がする、
農村で田畑が無いのは鍛冶屋と何でも屋を除くとこの2軒と先ほどの村八分の家位でそれだけで充分貧乏の条件は整っている、
何しろ終戦直後だから街に行くにも直近のバス停まで数kmある上に街に行っても仕事は殆ど無い、
日雇いの土木か農繁期の手間仕事と樵程度である、私の父親は雑木林を買って自分で炭焼き釜を作り、草刈山から取ってきた萱を編んで炭俵を作り其れを隣家で借りたリヤカーに乗せて街まで4里の道のりを母が曳いて売りに行く事で生計を立てていた、
我が家は父親の手作りの家で8畳、3畳、6畳の家だったがかく言う家よりと思う家は畳敷きは3畳一間だった、その外側に流しと竃が一畳半程度の広さで付いていて靴は部屋の外に直接脱いで上がる、
集落の一番奥、家が切れた所から段々田圃の畦道を上がってゆくと山肌にへばり付く様にこの家は有った、農機具小屋に手を入れて住んだのかも知れない。其処には自分より一級下の男の子と更に小さな女の子が居た、子供同士遊んだ後で家に寄れと言うので行ったのだが座る場所が無い、
子供心に(どうやって寝てるんだろう?)と思った記憶が有るが意外と両親も妹も明るく屈託が無い「又遊びにおいで」と言われた記憶があるのだが小学生が学校の後で行った時間に両親が居る事に少々違和感があった、
この家は「林さん」と言ったが今考えてみると中国の人だったかもしれないな、だとしたらあの赤貧は解る気がしないでもない、戦後まもなくでは彼らにまともな仕事が有る筈も無いのだ、
山村では何処でも同じようなのだが我が村の住民は殆どが同じ苗字である、それも縦に長い谷沿いにある村はその地区毎に苗字が固まっているのは殆どが分家の関係のせいだ、
一番奥まった田圃の殆ど無い六区は佐藤・鈴木・松浦である
山から多少田圃が現われる五区は私の家のある所、此処も奥まった所は殆ど佐藤と鈴木、先ほどの林さんと一軒だけ難波さんが居た
少し下って私の集落は全て伊奈、これも全て分家で屋号がついている、そして更に下ると染葉と言う苗字が出てくる、この苗字は故郷を出てから1人も会ったことが無い、ウィキで調べてみたら静岡県、其れも掛川市だけにある苗字の様だ、しかし村の中でもこの田島地区と言われるほんの一部しか居なかった、一体祖先は何処なんだろうと興味が有る
鈴木佐藤は犬の糞、と言う狂句が有るがこの辺では鈴木原田であるがそれ程原田さんは居なかったな