「志を果たして何時の日にか帰らん、夢は今も巡りて忘れがたき故郷」唱歌の「故郷」の歌詞である、若干記憶違いが有るとしてもこんな歌詞だったと思う、
昭和の中期、戦後集団就職の時代はこう言う歌詞が心に滲みた、40年代から50年代は歌謡曲の歌詞にも故郷は数多く出てくる、それだけ日本人の故郷は遠かったのだが高度成長に併せ新幹線が整備されるにつれ故郷との距離は短くなってしまった、
「しまった」と言うのはおかしいが情緒的に言えば「短くなって」しまったのである、
まるで隣町に出かけるような距離感になってしまったが福島だけは逆に無限の遠距離になってしまった、
故郷への思いはこの距離感で深さが違うのだろう、昭和の時代までは故郷に帰るというのはかなり経済的にも時間的にも負担があった、故郷に居る家族の思いも都会は遥か彼方の存在だった、
私の時代には「生まれてから死ぬまでこの村から出た事が無い」女性は少なからず居た、
嫁ぎ先も同じ集落か山を越えた集落と言う結婚で農家に嫁ぎ子を育ててそこで死ぬと言う事は特別の事では無かった、尋常小学校と言う教育では修学旅行も無いところも有り、有っても経済的にいけなかったと言う子供も少なくなかった、
その時代に東京に、大阪に出て働くと言うのは大きな希望でも有り、その分不安でも有った、都会の雑踏に馴染めず故郷が恋しいと言う気持ちが有っても遠い地方だと一日がかりである、私は静岡県の中部だったがそれでも鈍行だと8時間、準急で5時間掛かった、未だ新幹線の無い頃である。
今は車を使って3時間弱、新幹線なら1時間少々で着く、その分故郷の有り難さは薄くなったのだろう、
あの頃北島三郎の「帰ろうな」と言う歌があったが歌詞の気持ちが良く解る時代だった、
私は義務教育を終えるのに併せるように故郷から市内に引越すと2ヵ月後には東京に出て来た、この頃から20歳前後までは故郷は「何時か帰りたい」場所であったが帰った所で廃家すらなくなっている、「故郷は遠くにありて思うもの」と言う啄木の歌が滲みる様な心持になった頃である、「そして悲しく歌うもの、異土の硬いになろうとも帰る所にあるまじや」の句も解る気がするが「石もて追われる如く」と言う経験は無いな、相当性格が変っていたんじゃないか、と言うのは余談だが
結婚して既に50年も東京に居ると故郷は気分的に故郷だと言う範疇から出て行かない、故郷を棄てたのか、故郷に棄てられたのか、いずれにしても老後を生まれた村で送るつもりは全くなくなっている
昭和の中期、戦後集団就職の時代はこう言う歌詞が心に滲みた、40年代から50年代は歌謡曲の歌詞にも故郷は数多く出てくる、それだけ日本人の故郷は遠かったのだが高度成長に併せ新幹線が整備されるにつれ故郷との距離は短くなってしまった、
「しまった」と言うのはおかしいが情緒的に言えば「短くなって」しまったのである、
まるで隣町に出かけるような距離感になってしまったが福島だけは逆に無限の遠距離になってしまった、
故郷への思いはこの距離感で深さが違うのだろう、昭和の時代までは故郷に帰るというのはかなり経済的にも時間的にも負担があった、故郷に居る家族の思いも都会は遥か彼方の存在だった、
私の時代には「生まれてから死ぬまでこの村から出た事が無い」女性は少なからず居た、
嫁ぎ先も同じ集落か山を越えた集落と言う結婚で農家に嫁ぎ子を育ててそこで死ぬと言う事は特別の事では無かった、尋常小学校と言う教育では修学旅行も無いところも有り、有っても経済的にいけなかったと言う子供も少なくなかった、
その時代に東京に、大阪に出て働くと言うのは大きな希望でも有り、その分不安でも有った、都会の雑踏に馴染めず故郷が恋しいと言う気持ちが有っても遠い地方だと一日がかりである、私は静岡県の中部だったがそれでも鈍行だと8時間、準急で5時間掛かった、未だ新幹線の無い頃である。
今は車を使って3時間弱、新幹線なら1時間少々で着く、その分故郷の有り難さは薄くなったのだろう、
あの頃北島三郎の「帰ろうな」と言う歌があったが歌詞の気持ちが良く解る時代だった、
私は義務教育を終えるのに併せるように故郷から市内に引越すと2ヵ月後には東京に出て来た、この頃から20歳前後までは故郷は「何時か帰りたい」場所であったが帰った所で廃家すらなくなっている、「故郷は遠くにありて思うもの」と言う啄木の歌が滲みる様な心持になった頃である、「そして悲しく歌うもの、異土の硬いになろうとも帰る所にあるまじや」の句も解る気がするが「石もて追われる如く」と言う経験は無いな、相当性格が変っていたんじゃないか、と言うのは余談だが
結婚して既に50年も東京に居ると故郷は気分的に故郷だと言う範疇から出て行かない、故郷を棄てたのか、故郷に棄てられたのか、いずれにしても老後を生まれた村で送るつもりは全くなくなっている