私が未だ小学校に行っていなかったので恐らく昭和27年か28年頃、東京で働いていた次兄が戻って来た事が有る、
ほんの数か月だったと思うが親父の炭焼きを手伝っていたが有る事で親父と大喧嘩の末出て行ってしまった、
後で長姉に聞いた話だと兄が持って来た本を親父が燃やしてしまったためだと言う、
その本が「斜陽」だったと思っていたのは思い違いで「挽歌」だったらしい、
どんな本か解らないので調べたらその頃大変売れて映画にもなった本らしいが内容があまりわからない、
幼い頃娘の足に生涯残るけがを負わせその負い目から彼女に対して何も言えない父親と足に生涯のある女性の話らしい、
その何が気に食わなかったのか「こんなもんをよみゃがって」と激高した親父が風呂の焚きつけに放り込んだと言う、
6腹違いの兄は16歳上だから計算では20か22、大喧嘩の末そのまま町まで歩いて東京に出たそうだ、
私の父親は上の兄弟から頗る評判は良くない、理屈っぽくて激高傾向が有る、プライドが高いのに子供達に金の無心を平気ですると言う話は私が30代になってから聞いた、
しかし中学校の頃から親父と二人の生活をしていた自分としてはそんなにひどい親だと言う記憶は無い、
お袋が死んでからは寂しかったのだろう、家にいる時は殆ど酔っぱらっていたので会話も殆ど無かった、その頃は未だ娯楽と言えばラジオだけの時代、裸電球の下で黙々と酒を飲んで寝てしまう暮らしが3年続き自分は東京に働きに出てしまったので親を大人として評価する様な期間は無かった、それが幸いして他の兄弟の様に「酷い親だった」と言う様な思いを与えなかったのだろう、
次兄がその時持って来たもう一冊の本は「リーダースダイジェスト」だった、今の文庫本よりひとまわり大きな紙質も良くない本だったがその装丁が娘道成寺の鐘入の絵だった、
蛇になった清姫が鐘の上に載っている彩色画でその意味を兄から聞いて「安珍と清姫」と言う話と歌舞伎と言う物を知った、
親父が何で「挽歌」にそれほど怒ったのか全く分からないが「リーダーズダイジェスト」の方はそのまま何年か我が家にあった。
それから何年かして今度は長姉が体を壊して暫く家に居た事がある、私が小学校の後半、多分5年生くらいだったと思う、私と姉は8歳違いなので多分22歳か23歳のころだろう、
中学の頃膵臓炎を発症したが症状が安定していたので鷲津の倉敷紡績に集団就職をしたのだがやはり体力が持たず結局浜松でホステスをしていたのだが更に悪化して自宅療養と言う事になって赤貧状態のあばら家に戻って来た、
この姉が持って帰った本が「平凡」数冊と「笑いの泉」と言う写真雑誌、わかる人にはわかる本である、
小学校高学年の私には実に有益な本で何人かの同級生や上級生と冬の乾いた田圃や川の竹藪に作った「隠れ家」で回し読みをした、その他にもその手の雑誌が有ったが名前は覚えていない、
どうも我が家の兄姉は男女で入れ替わったような塩梅の愛読書だった様だ、
何方かと言えばこっちを燃すなら解るがこの本の方は普通に家に転がっていたので親父の考えている事が理解できないが時間の関係だったのか
まあそれも殆どは鬼籍に入ったのでもう時効だろう、もっとも姉の方未だ生きてはいるがかなり記憶も会話も怪しくなっているので良いだろうと言う事にした、
読んだ本を思い返していて読書の原点を考えていたら漫画以外だとこんな所になってしまった、まあ、実にませた餓鬼だった訳だな
ほんの数か月だったと思うが親父の炭焼きを手伝っていたが有る事で親父と大喧嘩の末出て行ってしまった、
後で長姉に聞いた話だと兄が持って来た本を親父が燃やしてしまったためだと言う、
その本が「斜陽」だったと思っていたのは思い違いで「挽歌」だったらしい、
どんな本か解らないので調べたらその頃大変売れて映画にもなった本らしいが内容があまりわからない、
幼い頃娘の足に生涯残るけがを負わせその負い目から彼女に対して何も言えない父親と足に生涯のある女性の話らしい、
その何が気に食わなかったのか「こんなもんをよみゃがって」と激高した親父が風呂の焚きつけに放り込んだと言う、
6腹違いの兄は16歳上だから計算では20か22、大喧嘩の末そのまま町まで歩いて東京に出たそうだ、
私の父親は上の兄弟から頗る評判は良くない、理屈っぽくて激高傾向が有る、プライドが高いのに子供達に金の無心を平気ですると言う話は私が30代になってから聞いた、
しかし中学校の頃から親父と二人の生活をしていた自分としてはそんなにひどい親だと言う記憶は無い、
お袋が死んでからは寂しかったのだろう、家にいる時は殆ど酔っぱらっていたので会話も殆ど無かった、その頃は未だ娯楽と言えばラジオだけの時代、裸電球の下で黙々と酒を飲んで寝てしまう暮らしが3年続き自分は東京に働きに出てしまったので親を大人として評価する様な期間は無かった、それが幸いして他の兄弟の様に「酷い親だった」と言う様な思いを与えなかったのだろう、
次兄がその時持って来たもう一冊の本は「リーダースダイジェスト」だった、今の文庫本よりひとまわり大きな紙質も良くない本だったがその装丁が娘道成寺の鐘入の絵だった、
蛇になった清姫が鐘の上に載っている彩色画でその意味を兄から聞いて「安珍と清姫」と言う話と歌舞伎と言う物を知った、
親父が何で「挽歌」にそれほど怒ったのか全く分からないが「リーダーズダイジェスト」の方はそのまま何年か我が家にあった。
それから何年かして今度は長姉が体を壊して暫く家に居た事がある、私が小学校の後半、多分5年生くらいだったと思う、私と姉は8歳違いなので多分22歳か23歳のころだろう、
中学の頃膵臓炎を発症したが症状が安定していたので鷲津の倉敷紡績に集団就職をしたのだがやはり体力が持たず結局浜松でホステスをしていたのだが更に悪化して自宅療養と言う事になって赤貧状態のあばら家に戻って来た、
この姉が持って帰った本が「平凡」数冊と「笑いの泉」と言う写真雑誌、わかる人にはわかる本である、
小学校高学年の私には実に有益な本で何人かの同級生や上級生と冬の乾いた田圃や川の竹藪に作った「隠れ家」で回し読みをした、その他にもその手の雑誌が有ったが名前は覚えていない、
どうも我が家の兄姉は男女で入れ替わったような塩梅の愛読書だった様だ、
何方かと言えばこっちを燃すなら解るがこの本の方は普通に家に転がっていたので親父の考えている事が理解できないが時間の関係だったのか
まあそれも殆どは鬼籍に入ったのでもう時効だろう、もっとも姉の方未だ生きてはいるがかなり記憶も会話も怪しくなっているので良いだろうと言う事にした、
読んだ本を思い返していて読書の原点を考えていたら漫画以外だとこんな所になってしまった、まあ、実にませた餓鬼だった訳だな