還暦を過ぎて3年も経ってしまった、まるで他人の事だと思って居たが(普段はそう思っているのだが)とんでもない歳になったものだ、
我々夫婦は両方とも末っ子だから墓と言うものが無い、実は私自身の分に関しては必要ないと思っているが残った方はそうも行かないらしい、
散骨と言う奴がある、海に撒くのも良いし、自然葬とやら言うのも良い、しかし結構金が掛かるとらしいと言うので此れも考え物だ、
最近は喉仏の骨だけを位牌の近くに綺麗な骨壷に入れて置くとかペンダントに入れて身に着けて置くとか言うのもあるらしいが此れも残る一方が死んだら子供も困るだろう、
余り気が乗らないが墓も考えないといけないかも知れない、が取り合えず生きている時に住む所が先決では有るが子供に立てさせるのは親として情け無いだろう。
女房の家は都内に墓が有るが私の方は田舎に行っても墓は無い、
私が東京に出て来て何年か後に姫路に住んでいる長男が我が家の先祖墓を作ったので分骨しておいたのだがある事情で田舎の墓が無くなってしまったのでそのまま其処が先祖の墓となった。
田舎の村は山沿いに南北に流れる小さな川沿いに狭い田畑を耕している農業と林業の村である、
主な農業もお茶と蜜柑で稲も麦も余り作っていない、「五反百姓」と言う言葉が有るがこの村で五反も耕地の有る農家は無かった、
川は東側の山裾に沿って流れているので家は西側の山側に並んでいる、東向きの傾斜地なので朝日はよくあたる、こう言う地形は「朝比奈」と言うらしいが此れはもっと広い東垂の台地を言うのでこの辺りではそんな名前ではなく田島とか石畑とか実にストレートの地名である。
大体苗字が同じ家があちこちに固まって建っている、此れは長男が家を継ぐと側に残りの男が分家して家を建てて行く為で古い村は大抵そうである、我家も同じ苗字が6軒でひとつの集落になっている、通称は有るが地理的な名前ではない、
各々屋号が有ってどう言う訳か「戸長」と「大家」が会った、我家は一番奥なので当然「奥」だったが確か別に木の名前が有ったような気がするが忘れてしまった、隣は「新屋」、その隣が「大家」少し離れて「下の元」、一番川下が此処だけ川向こうになっていた2軒でひとつは例の「戸長」もう一軒が「たこ」と言ったが字も解からなければ名前の出自も解からない。
その他に4つ位の苗字があちこちに集落を作っている、従って学校に行くと特例を除いて同じ苗字が大勢居るので呼び合うのは大抵名前の方になるが上手く出来たもので名前はまず重ならない。
集落に寺は有るには有ったが名前が「長源庵」と言っていたので元は庵だったのだろう、本寺は4~5km町に向かった所に有った、本寺も含めて寺に墓地と言う物は殆ど無い、氏の墓地と言うのが有って各苗字毎に本家筋の土地に墓地が有る、
余談だが村の神社は正しく氏神様で一集落に一つ有って同じ苗字の家が守っている事が多い、その他に村社と言うのも有って大抵は八幡神社だった、
我が家の墓も本家の少し南側、西側の斜面を少し上がった所に有った、大正の終わりか昭和に入る頃までは墓は個人別だった様で我が家の墓も後ろの斜面に昔の墓石が無造作に転がっていた、何度目かに帰った時に募誌を見てみたら天保の物が有ったが薄れて読めないものはもっと古い物も随分有る様だった、
兄弟は兄が姫路が1人、東京が1人、姉達は浜松で苗字が変わっている、姫路に先祖墓が有るのだが遠いので姉達も東京の兄も墓参はふるさとで済ませていたのだがある時この墓が突然消えてしまった。
我々夫婦は両方とも末っ子だから墓と言うものが無い、実は私自身の分に関しては必要ないと思っているが残った方はそうも行かないらしい、
散骨と言う奴がある、海に撒くのも良いし、自然葬とやら言うのも良い、しかし結構金が掛かるとらしいと言うので此れも考え物だ、
最近は喉仏の骨だけを位牌の近くに綺麗な骨壷に入れて置くとかペンダントに入れて身に着けて置くとか言うのもあるらしいが此れも残る一方が死んだら子供も困るだろう、
余り気が乗らないが墓も考えないといけないかも知れない、が取り合えず生きている時に住む所が先決では有るが子供に立てさせるのは親として情け無いだろう。
女房の家は都内に墓が有るが私の方は田舎に行っても墓は無い、
私が東京に出て来て何年か後に姫路に住んでいる長男が我が家の先祖墓を作ったので分骨しておいたのだがある事情で田舎の墓が無くなってしまったのでそのまま其処が先祖の墓となった。
田舎の村は山沿いに南北に流れる小さな川沿いに狭い田畑を耕している農業と林業の村である、
主な農業もお茶と蜜柑で稲も麦も余り作っていない、「五反百姓」と言う言葉が有るがこの村で五反も耕地の有る農家は無かった、
川は東側の山裾に沿って流れているので家は西側の山側に並んでいる、東向きの傾斜地なので朝日はよくあたる、こう言う地形は「朝比奈」と言うらしいが此れはもっと広い東垂の台地を言うのでこの辺りではそんな名前ではなく田島とか石畑とか実にストレートの地名である。
大体苗字が同じ家があちこちに固まって建っている、此れは長男が家を継ぐと側に残りの男が分家して家を建てて行く為で古い村は大抵そうである、我家も同じ苗字が6軒でひとつの集落になっている、通称は有るが地理的な名前ではない、
各々屋号が有ってどう言う訳か「戸長」と「大家」が会った、我家は一番奥なので当然「奥」だったが確か別に木の名前が有ったような気がするが忘れてしまった、隣は「新屋」、その隣が「大家」少し離れて「下の元」、一番川下が此処だけ川向こうになっていた2軒でひとつは例の「戸長」もう一軒が「たこ」と言ったが字も解からなければ名前の出自も解からない。
その他に4つ位の苗字があちこちに集落を作っている、従って学校に行くと特例を除いて同じ苗字が大勢居るので呼び合うのは大抵名前の方になるが上手く出来たもので名前はまず重ならない。
集落に寺は有るには有ったが名前が「長源庵」と言っていたので元は庵だったのだろう、本寺は4~5km町に向かった所に有った、本寺も含めて寺に墓地と言う物は殆ど無い、氏の墓地と言うのが有って各苗字毎に本家筋の土地に墓地が有る、
余談だが村の神社は正しく氏神様で一集落に一つ有って同じ苗字の家が守っている事が多い、その他に村社と言うのも有って大抵は八幡神社だった、
我が家の墓も本家の少し南側、西側の斜面を少し上がった所に有った、大正の終わりか昭和に入る頃までは墓は個人別だった様で我が家の墓も後ろの斜面に昔の墓石が無造作に転がっていた、何度目かに帰った時に募誌を見てみたら天保の物が有ったが薄れて読めないものはもっと古い物も随分有る様だった、
兄弟は兄が姫路が1人、東京が1人、姉達は浜松で苗字が変わっている、姫路に先祖墓が有るのだが遠いので姉達も東京の兄も墓参はふるさとで済ませていたのだがある時この墓が突然消えてしまった。
生きている間も亡くなってからの住まいにも悩みがつきません。。。