母親の顔は私の記憶の中では動いたり話をしたりしない、姿や顔は数少ない写真の顔が浮かぶだけだ、父親はそれでも中学校の3年間は2人だけで暮していたので記憶の中で動いている、無口で母が死んでからは特に話をしなくなったが不思議な事に覚えているのは笑い顔だけだ、15の時に就職で東京に出たら17になった年の5月に死んでしまった、その間盆暮れだけ帰省していたのだが殆ど友人の家に行っていたのでその間に話をした記憶は無い、その頃覚えているのは父親が書道の段持ちだったので殴り書きをされると手紙が読めず、寮の管理人に翻訳してもらった事位だ、父親との3年は共同生活の様な暮らしにならざるを得なく、寂しかったのか毎日仕事を終えるとバス停を一つ乗り越して村の万屋で焼酎を飲んで帰るのが日課になっていた、帰っても必要な事意外は話すことも無く寝てしまった、TVも無い時代だったので真空管のラジオを聴きながら宿題をやっていた、我が家の裏は竹薮で父の手作りの家は天井が無い、更に裏の竹薮の方に張り出した納戸は元々は杉皮ふきだったのだが何時だったか覚えていないが波板トタンを上から被せていた、冬の風のある日は此処に竹笹が落ちる音がする、落ちる時と言うより滑り落ちる音がするのだ、その頃は電気はメーターでなく定額制だった、此れはコンセントを取る事が規制されていたが、かの有名な「松下電器の二股ソケット」のお陰でラジオと中学2年の職業の時間で作った蛍光灯スタンドが使えた、父親が使っていた机を貰っていたのでその納戸で勉強をし寝起きもしていた、件のトタン屋根の音は外の光景を想像させて好きだったが大変なのは雨だった、何しろトタン屋根の下に昔敷いていた杉皮が有るだけだから凄い音がする、風が酷くなると竹薮の竹が箒で掃くように擦って行く、大抵此れが夜になる、しかし今考えると(うるせえな)と思いながら寝てしまったと思う。
親に縁が薄いと言うと「もっと薄い人は大勢居る」と言われるかもしれないが別に不幸自慢をしようと言うのではない、と言うより自分自身余り不幸な生い立ちだとは思っていないのだ、ただそのせいか親子の情と言う物が自分にはよく理解できていないのではないかと思うことがある、子供も孫もとても可愛いのだが何処かで醒めているような気がしてならない、其れが子供達に解ってしまう事が怖くて不必要に感情を表現していないか?と言う気持ちが常にある、親子はどうやっても親子だと言う言葉と裏腹に必死で親であろうとしている様なきがする、しかし今となっても私は(本当に親になれたのだろうか?)と言う気持ちが残っている、
親に縁が薄いと言うと「もっと薄い人は大勢居る」と言われるかもしれないが別に不幸自慢をしようと言うのではない、と言うより自分自身余り不幸な生い立ちだとは思っていないのだ、ただそのせいか親子の情と言う物が自分にはよく理解できていないのではないかと思うことがある、子供も孫もとても可愛いのだが何処かで醒めているような気がしてならない、其れが子供達に解ってしまう事が怖くて不必要に感情を表現していないか?と言う気持ちが常にある、親子はどうやっても親子だと言う言葉と裏腹に必死で親であろうとしている様なきがする、しかし今となっても私は(本当に親になれたのだろうか?)と言う気持ちが残っている、
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