河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

現代美術と現代アート

2017-05-14 15:55:21 | 絵画

昔、池袋西武デパートに西武美術館というのがあって、そこで「ダダと構成主義」の展覧会(1988年10月)(尼崎:西武つかしんホール1988年11月。鎌倉:神奈川県立美術館1989年)が開催され、その時私は作品の保存管理を担当した。何しろ正統派(?)の現代美術を紹介する展覧会で、私も知らないことだらけであった。多くは資料的な物で(現代美術信奉者に違和すれば、それも作品だとお超えられるかもしれないが)ダダ特有の絵画的な物もあったが、文字がデザインされたり、今日でいうポスターのようなものが多くあって、他に立体、平面に木やブリキを貼り付けた半立体など、美術館の壁に展示するには左程困らなかったが、一つ厄介なものがあった。巨大なオブジェというべきか・・・・。

ナチスが台頭する時代のハノーファーで、1920年頃から36年頃にかけて、独り部屋にこもって自分の世界を楽しんでいたクルト・シュヴィタースが部屋の内部に材木を継ぎ合わせて作った、高さ393cm、幅583cmで、その巨大な積み木(?)を《メルツバウ》という。1936年に空襲で一度失われたものを1980年~83年にかけて、ペーター・ビッセガーによって再構成されたものと同じものを、さらに日本の美術館で組み立てようと試みた、いわくつきの展覧会であった。勿論それはオリジナルではなく、その時の展覧会の為に新たに作られたレプリカであるが、大変込み入ったもので、事細かに採寸して作ったものらしかった。(この作品は日本での展覧会後、ハノーファーのシュプレンゲル美術館に展示されることになっていた。

展覧会の当初はドイツから来たペーターが組み立てから照明までこなすという予定であったが、設営期間が一週間近くあったにもかかわらず、そのうちそれが間に合わないことが判明し、私は作品の保存状態点検と調書作成が仕事であったが、いつの間にか積み木のパーツを担いだり、会期中に痛んだりした個所を修理したりしていた。

展示作品の目玉には、ほかにマルセル・デュシャンの《三つの停止原基》(木やガラスのメジャー)や《グリーンボックス》という作品資料も来ていて、私が毎回点検する度に展示もすることになった。(展示は修復家の仕事ではない。展示の仕方は点検するが。触れることが出来る学芸員が居なかったからだ。)

この時初めて現代美術作品が平面、コラージュ、アッサンブラージュ(組み合わせ)、コンポジション立体、オブジェなど様々で・・・やたら奇妙な制作物と遊び感覚が一緒になった理解不能なモノであることが分かった。

ダダと構成主義の作家たちは19世紀末の生まれで、活躍した時代はマルクスの「資本論」や共産主義宣言」が書かれたころで、またロシア革命、第一次大戦と激動の時代にあって、作家たちの価値観はニヒリズムであっても、彼らが生きた時代とは組みするところのない、彼ら独自の「虚構世界」に生きていたと思える。しかし私は彼らの作品中には「虚構の存在」を見いだせない。

そう言えば、西洋美術館在職中にロンドンテイトギャラリーの友人から日本にあるデュシャンの作品の保存状態点検をしてい欲しいという依頼があって、日本人のディーラーのところを同僚を伴って訪ねた。前出の《三つの停止原基》(これにはいくつかのヴァージョンがある)と例の小便器をひっくり返した《泉》という作品の二つを、テイトの購入候補として厳しく見て欲しいということで、調査の上、報告した。また《泉》にもヴァージョンがいくつもあるらしく、そのため贋作も百を超えるらしい、見極めが必要であった。この時は《三つの停止原基》の方が購入となった。ダダと構成主義の展覧会を担当した経験が生きたわけだ。(観念アートの作家たちは自分の作品を居ないところでコピーしても、それは自分のコンセプトだから自分の作品だというが・・・さすがに公的資金で運営されている美術館は得体のしれないコピーを購入することはできない。贋作と真作(作者自身が作ったもの)とは区別される。あくまで贋作として寄贈されるのには問題なかろうが、作家の社会的規範に従わない価値観はここでは通用しない)

デュシャンの《泉》(1917年作)はご存知の通り、美術館に持ち込んで展示した時、物議をかもした。デュシャンにとっては既成の価値観に宣戦布告したということらしいが、「美術館に展示されることで、たとえ便器でも芸術作品の眼差しで見られると皮肉を表した」とされている。それはそれで、それ以上の意味は感じられないが、評論家たちには尾ひれや足が付いた言葉で表される。(私はそれが気に食わない。評論家の仕事はそういうものだと割り切れない)現代アートはここから始まったと言う。以後、「通常の美術展の様式の中で、規制の芸術の価値観をあざ笑うような表現を「反芸術」と呼んでいる。

デュシャンは当初印象派やフォービズムの作風の絵を描き、次にキュビズムの影響を受けた油彩画を描いていた。1912年に描いた《階段を下りる裸体》という作品を描いてニューヨークで展示したところ、「屋根瓦工場の爆発」と評されてこの頃から絵画を止めてしまう。彼は視覚表現から撤退したのだ。

現代アートの主張はコンセプトにあると作家たちは考えているようだ。現代アートを「鑑賞」するにはこのコンセプトを理解しなければならないだろう。しかしこのコンセプトこそ問題の種だ。

現代美術の保存の問題について語れば、「何を保存するのか?」という問題で絶えず議論がある。現代アーティストの用いる表現の手段や素材は保存がきかないものがほとんどであり、「何をやっても構わない」という基本が物質的な保存を困難にしている。そこでコンセプトを保存することが主になる。目に見えないコンセプトをどう保存する?このコンセプトは殆ど「言葉の世界」だ。・・・・保存修復家泣かせだ。だから近づかない方が良いと考える・・・。

現代美術と言えば、今現在制作され存在している美術作品のすべてを示しているが、意識を込めて「現代美術と現代アートは違うものだ」と言わざるを得ない(この国の外来語と訳語の関係に問題が残るが、NHKのようにアートも芸術もどう違うのか曖昧なままにして放置できない)その異なる表現の異なる表現のコンセプトは明確にしておかねばならない。

現代アートと称する人たちが作り出す者は、制作の動機が違うし、鑑賞者に向けて表現していることが、視覚以外の聴覚、触覚、ほかに嗅覚、味覚まで要求して感じるようにしていることから、現代アートは「美術」ではなくなっている。美術はご存知の通り「視覚芸術」であって、鑑賞者が見ることで、虚構として作られた世界を感じ取るように作られたものだ。ところが現代アートは、この虚構性を持たないものも多く視覚では伝わらないものを言葉で置き換えているものもしばしばである。(これは、私には詐欺師の手法にしか思えないが、無いものを在るがごときにする手法だと喜べない)

現代アートが美術から影響を受けたことは否定しないが、派生した続きがあるとは言えず、美術史の流れの中で扱われるのは納得できない。全く異質なものが始まったと考えるべきで、美術との混同が混乱を招いていると思う。

折からネットの Newsweek Japan の記事に小崎哲哉という書籍編集者による現代アート紹介のページがあって、そこにいろいろ評論が描かれていたので、それらを基に現代アートについて述べてみたい。

小崎氏は現代アートの紹介に「現代アートの動機」「新しい視覚、感覚の追求」「メディウムの探究」という項目を挙げている。その現代アートの作家の創作の動機は大別して7つあるそうだ。(作者の文中に1~7の表示がなく、それぞれ確認できなかった、申し訳ない)

氏によると:その中で「新しい視覚、感覚の追求」は感覚的なインパクトの追求である。そして美術史の大部分はこれによって前進してきた。ダビンチの完璧な構図、ミケランジェロの圧倒的な大画面、カラヴァッジョの光と闇、ヴェルメールのスーパーリアリズム、印象派が誕生したのも、セザンヌがリンゴをばらばらの視点から描いたのも、ピカソ、ブラックがキュビスムと取り組んだのも、デュシャンが便器を持ち込んだのも・・・・みな「新しい視覚、感覚の追求」からで感覚的なインパクトを追求したからであると述べている。

私の認識では、彼が例として歴史中の巨匠たちを挙げているのは、少し無理があるように思う。ここで現代アートの動機も、歴史中の巨匠の動機も同じであるとこじつけているとしか思えない。

ダビンチの構図は決して完璧な構図であるとは思えないし、それを言うならヴェルメールの構図こそ、計算して作られ画面の中でのバランスを実現している。そのヴェルメールはスーパーリアルに描く画家ではなく、真反対に物の具体性やありふれた形を感じさせないように描くことで画面を構成し完成度を高めている。(当時のネーデルランド絵画の画家たちの中に、細かく正確に描写し実在感を表現した画家はたくさんいる。)カラヴァッジョの光と闇が当時の絵画に多大な影響を与えたのは事実だろう。それまで彼ほど光りの投影(キャスティングシャドウ)をを強調して描いた画家はいなかったから、それによって劇的な効果を作り出し、その後のバロックの画家たちに大きな影響を与えた。カラヴァッジョの場合、「新しい視覚、感覚の追求」を行ったと言える。同じ光を扱ったが、昼間に光を扱った印象派の画家たちのモチベーションは「新しい」という言葉に扇動されている。「新しい視覚」というより素人的な描写力で物を描き、それまであった厳格な形は曖昧にされた。後期印象派になると、光から多様な色彩を扱うことに移った。様々な色彩で描く点描やモネの睡蓮は形より色彩を抽象的に捉えて形は失われた。形より色彩に表現の重点を置けば、当然の帰結である。それはデッサン力を重視しない方向も生み出した。そして絵画のコンセプトが抽象的になれば、実際の創作行為はいきなり壁に突き当たる。そういう時代が始まった。

そしてデュシャンが美術館に便器を持ち込んで《泉》と題した動機は「新しい視覚、感覚の追求」と言えるだろうか。むしろ当時の美術界が創作のモチベーションを失っていたことに対する「批判」であって、「既成の価値観に対する決別」であった。つまりここで彼は美術と決定的に「おさらば」したのだ。当時の社会的環境は第一次大戦が象徴するヨーロッパ社会の混乱は、それぞれの国の独立主義で協調性は失われ、内向きの主張が幅を利かす世相だった。精神的な落ち着きや文化的な思考が自由に行われただろうか?それまでの美術の在り方も伝統も失われたのだ。一度伝統が失われると、人々は「懐古趣味に走る」か「何でも良いから、何かを始める」かだろう。

小崎氏の紹介は続く:

「未だかつて存在しなかったもの」「他の誰もやっていないこと」「観る者に衝撃を与えるもの」・・・・を自らの手で生み出そうとする強い欲望があってのことことだった・・・と。

しかし私が思うに人類の歴史はそれほど新しいものを求め来ただろうか?今まで存在もせず、誰もやっていなくて、観る者に衝撃を与えることが美術の創作の動機だったであろうか?美術史上の実際は、そんな頭で考えたような発明でもなければ、発見でもなかった。社会要望や作家個人の興味や好みがモチベーションであって、自然に生まれてきた作品、作風であったではないか。そして最も必要であったのはそれを実現する作家個人の「力」であった。才能というより努力で培われた能力であった。だから「未だかつて存在しなかったもの」「他の誰もがやっていないこと」「観る者に衝撃を与えるもの」というものを作り出そうとする動機は現代アートだけのものだと思う。

ここで「未だかつて存在しなかったもの」「他の誰もやっていなかったこと」「観る者に衝撃を与えるもの」というものが、果たして実現できているだろうか・・・・・少し冷静になって考える必要がある。聖書にも「世に新しきものは無し」と書かれているようだから。またそれがどれほどの意味を持つだろうか?考察する必要がある。何しろ動機のもたらす結果は「発明品」を求めているからである。その発明は必要なものか、その努力はいかほどの値打ちのあるものか?「観る者に衝撃を与える・・」というが、それでよいのか?

「非日常的刺激の追求」では微小なものから巨大なものまで、また既存のものを加工したもの・・・を使って脅かすというのは、現代アートの手法の一つとして現れているが、ある時ロンドンテイトギャラリーでの羊や子牛の死体を断面状に半分に切ってフォルマリンに浸けて展示するということや、裸の生きた人間を展示室内の中を歩かせるパーフォーマンスをやったりしてしたことにも表れている。さすがに人間の死体までは展示しなかったが(やっていたら根性ものだが・・・・社会的批判を浴びたに違いない)要するに表現と言ってもここまでだ。彼らの表現には多くの言葉の羅列伴うが、合理的な発展形式がない。現代アートの作家たちは、すべては「何事も試すこと」だと言うが・・・。やはり限度もある、口先だけか?

非日常的刺激とは視覚表現にとどまらず、音楽を加え、光やレーザーも。彼らの言う音とは何か?哲学でも物理科学の話でもない。

「新しい視覚、感覚の追求」とは別に哲学的動機が存在する訳だが、光と音、更に音の振動が鑑賞者の目と耳と肉体に爆撃機のように襲い掛かる。その体験は圧倒的と言わざるを得ない・・・・という。さらに、これらに視覚的以外の体験を重視する、つまり触覚や嗅覚を刺激するほかに味覚を刺激するフードアート・・・まであるのだそうだ。(私はそれらが芸術的手法に必要とされる鑑賞者に「錯覚」を与えることではなく、「錯誤」を与えてしまっているのではと危惧する)

哲学的動機と言うのは少し格好付ではなかろうか?哲学者ではないのだから・・・否、真実に哲学すれば我々の実生活に寄与し、著名な哲学者に成れるだろう。

一方でVR(仮想現実)、AR(拡張現実)など用いたメディアアートやAI(人工知能)が描く絵画などでは、コンセプトを欠いたメディアアートは程遠からぬうちに滅びると確信している・・・と言う人もいるらしいが、私はメディアアートと呼ばれる手法は商業主義と共に発展しているから、より発展すると思う。このことは現代アートの作家にとって、自分たちのやっていることより、表現の可能性が強大であり、技術や専門性が高く、手の届かないものだから「程遠からぬうちに滅ぶ」と思いたいのだろうか?先に滅ぶのは現代アートの「観念アート」の方かもしれないのに。メディアアートは表現のコンセプトも単純で大衆の心をつかんでいるポピュリズムであることは違いない。

「現代アートの肝はコンセプトである・・・・感覚的なインパクトが無ければ作品の魅力は激減するだろう」というのはある意味真実だろう。ここでいうコンセプトがどんなものであるかは議論の余地があるが、頭で考えて発明をするのだから、デザインなどの作業と同じで、アイデアが観る者にアッピールするのだろうから。しかしコンセプトが具現化しているか否かの疑問は残るだろう。現代アートのコンセプトの具現性は「論理的帰結」を得ないで感覚的な「完成度」に終始する訳で、傍から見ると「遊び」であって、遊び疲れたらどうするのだろう?マルセル・デュシャンは晩年、作品作りを止めて、チェスをして過ごしたと言われているが・・・。そこで現代アートに行き詰って「美術」に戻る作家もいるのだ。

ここいらで私の最終的な感想を述べたい。

現代アートの作家たちにとって、非常に大事な問題としていあるのが「自分たちの立ち位置」についてである。

「制度への言及と異議」と題するテーマがまだある。ここでいう制度とは「アート制度」のことだと言う。そのようなものが実際にあるのかどうか疑問に思うが。

「現状の改革を求め、すなわち異議の申し立てをする」「不変不動を装うシステムに『これだってアートだろう!!』と異議を申し立て、アートの定義の書き換えもしくは守備範囲の拡大を認めさせようとする」・・・・のだそうだ。「アートである」と自分で名乗って「認めろ」と言うのは、少し子供じみているが。自分たちは市民権を得ていない(つまり認められていない)とか、もっと尊敬をしろとでも言っているように思える。

「制度への異議」にはアートの守備範囲(?)のみならず、制度自体が持つ政治的疑義や告発が含まれるそうだ。アートワールド(美術界?)のど真ん中に位置する「美術館と言う制度」を批判すると言う。

私は美術館で働いてきたが、美術館は創作する者にとっての制度でも何でもない。創作する者はあくまでも自由であり、関係を持たねば損も得もない。美術館は元より人類の貴重な文化遺産、特に美術品を収集し、保存し、調査研究し、教育目的で展示普及させるために施設である。ここに収められるのは、人類の未来に残すべき遺産としての評価を歴史の中で受けたものである。

それに対し、現代美術館というのがあるが、これはまだ歴史の中で評価を受けていないものが展示され、中には高額の費用で収集されている者もある。これに対して「アート制度」というのであろうか?むしろ評価の定まらない作品を収集したり展示したりして、現代アートの作家にとって至れり尽くせりではないか。逆に私はこれを異常とみている。要するに現代アートをモノづくりの一つとして、人類の大事な文化だとでも思って擁護することが、作家の感性や思考を育むだろうか?私は全く逆だと思う。

そこで「現実の制度を批判することイコール政治や社会の現状を批判するすることになる・・・」と言いつつ、彼らは資本主義に依存し、作品を金持ちや資本家に買ってもらうことが大事なのだ。事実そうしている。実に納得できないのは、彼らは美術館無しでは作品を発表することも出来ず、美術館という場で価値を高めてもらっている。その美術館を批判するなどと、何かすがりつきたいコンプレックスでもあるのではと思う。彼らはここで自分体の姿を鏡に映し、立ち位置を考えねばならないのだ。

彼らのやっていることは:

①視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚などを使って感覚を刺激するという手段は、視覚芸術である美術ではない。これまでの美術と全く異なる表現効果を求めれば、それが美術だと思わないことだ。

②また美術館で展示されることを求めてはいけない。美術品と同じ展示方法が取れないからだ。彼らの創作の動機に見合った発表の仕方を求めて自立すべきだ。

③評価されることをまるでコンプレックスのように求めてはならない。それは創作の弱点にしかならない。

④観衆から理解されないからと言って、言葉で説明すると、もちろんそれは視覚芸術でも何でもない。詐欺行為だと思う。

 

問題は彼らが「(表現イコール芸術と思い込む)表現原理主義者」であることを自覚していないことである。何でも表現すればアートであるとか、芸術であるとか考えてはならないのだ。

何度も繰り返し言うが、「芸術は我々の住む現実から独立した虚構であり、そこに自立した世界があると錯覚することで感動を与えるもので、錯覚が大きければ大きいほど(強ければ強いほど)感動も大きい」という条件を満たさなければ認められないだろう。現代アートの手法でいうならばコンセプトが存在しなければならないが、その存在が錯覚として観る者に強く感じ取られるように完成度を与えなければならないことになる。感じ取れるようにしなければ、わざとらしいメッセージにしか受け取られない。ここに力量が求められる。

「未だかつて存在しなかったもの」「他の誰もやっていないこと」「観る者に衝撃を与えるもの」がこの錯覚を与えるだろうか?それが作者の「錯誤」であってはならないだろう。

アートでは「何をやっても構わない」「試すことで新しいものを創造する」と言われてきたが、これは運命的に永遠にデスティネーション(行先)が見えないで、試し続けるだけになるだろう。

では、何故デュシャン以来、100年近くも続いてきたのかと?いうと、19世紀から科学などの客観性を貴び、自らの実感である主観をないがしろにしてきて、「観念」が先行する社会を形作ってきたからだと、私は思う。今日のネットの影響は更なる情報過多で、フェイクニュースが作られ、我々の実感は失われていくだろう。

しかし、情報への不信感が増大すると、人は自然に帰ろうとすると言われている。

 

お付き合い有難うございました。