河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

絵を描くモチベーション

2017-12-26 23:00:28 | 絵画

絵を描く動機は何ですか?と尋ねられたら、何と答えますか?「描きたいから・・・・描く」だろうか?

このブログを書き始めた去年に、すでに述べたことだが、「デッサンが大事」と強調したつもりだが、なかなか分かってもらえないのは何故だろうかと考える。やはり石膏デッサンの影響で自由になれない人が多いこともあって、世間を見渡せばみな写真的な写生を「リアリズム」と思って、そこから発展しないところにはまり込んでいる。

最近、美術雑誌を買った。めったに雑誌は買わない人だが、もう一度ブログで「絵画のリアリズム」について語っておこうと思ったから、テーマとしてこの雑誌の特集を取り上げることにした。

それは月間アートコレクターズ12月号で、特集は「虜になる写実絵画」と題していた。表紙に女性の顔が描かれているのだが、じっと見るには耐えられない、不思議と気持ちの悪い絵である。何故気持ち悪いかは私の主観だから誰も同じに感じるとは限らないだろう。しかし写真的で目線が宙に浮いているようで、こちらを見ている顔は「モナリザ」とは全く違う次元である。

この雑誌はコレクターに気持ちを持たせようとするために、特集を組んでは商品を推薦して売り絵のマーケットを創り出している。コレクターの為に宣伝を兼ねているとしても、大衆受けする言葉の羅列に、観衆は言葉の定義と現実を直視する鑑識眼を持つ必要を感じる。

ここで取り上げられた作品のほとんどは写実絵画と言えども、写真的リアリズムと言うべきで、私の考える「リアリズム」ではない。ここで現代日本のリアリズム絵画(具象画)を分類しておいた方が良いだろう。それは学芸員や評論家が見る側の分類ではなく、描く側の分類方法である。

①石膏デッサンを学んだ写生的正確さで描く

②基礎学習は不要で、描き始めれば何かが生まれると信じ込んで描く

③自分の好きな世界観が描きたくなって、個人的な世界を描く

①は画学生で、そのまま年を取って、石膏デッサンを卒業しなければ、物を描写するのにも正確に描くしか能がなくなる。悲しいかな究極の技術は写真と見まがうことなく正確に描けるようになることだと、帰結する。感性が固定化され、見えるものの状態以外に見えなくなるし、描けなくなる。おそらく黙々と作業を行うことで満足感があるのかもしれない。しかし表現性のあるなしは、おそらくモチーフを選択する時に個人的であっただろうが、対象に正確性を与えれば「創造性」は失われる。つまり芸術性は無いに等しい。

この分類に当たる人たちのモチベーションは、現行の市場で大衆受けする「写生技術」を認めてもらうために熱心になれる唯一の選択に近づけるところにあるのだろう。

しかしどうせ写真的に描くのなら、そんな面倒なものより、きれいな女性の写真の方が素敵だと思う。素人画家が撮った写真より、むしろプロの写真家が撮ってくれた写真の女性の方がきれいだと思う。男の写真的な絵は、政治家は会社社長の肖像を除いて、基本的に売れない。やはりきれいなお姫様と言うことになる。西洋美術館にヴァン・ダイクが描いた男の肖像があるが、人気がない。優れた技量でこれぞヴァン・ダイクと言える作品であってもだ。現代で、こうした優れたデッサン力の持ち主は世界中を探してもいない。だから女性を描いて売ろうとすると、写真的に「きれい」に描くのが手っ取り早いのだ。しかし出来栄えは「気持ちが悪い」、魂の抜けた肖像に、表面だけ写した石膏デッサンから進歩していない質を感じてしまう。

②は趣味で絵を描く者の多くがこれに近い。曖昧な次元で描き始め、終わりは見えていない。描き始めはすごく楽しいに違いない。素人画家のモチベーションは、この描き始めの浮き浮きした瞬間にあるだろう。描いている時間が経つにつれて、迷いの中で選択(決定)を失う。油絵を楽しむ人たちは「油絵の良いところは描き重ねが出来るところ」と信じているだろう。こってりと盛り上がることに遠慮はない。この国独自の盛り上げの油絵が多いのは、このあたりが出発点かも知れない。(欧米で趣味で絵を描いている人で、盛り上げる人を見たことがない。それは、彼等には美術館に行けば、無駄のない表現に徹した巨匠たちの作品に出合うから、無駄はしないのだろう。)

「描き始めれば何かが生まれる」という考え方は、まるで宗教の如く現代美術の作家たちの間にもあるから、単に素人と言うのではなく、「趣味人」というべきだろう。

実際に何かが生まれたと信じることで、次作へのエネルギーが生まれるのだろう。苦痛がない。

 ③の個人的な世界を描く者は単に趣味人でいられなくなって、独学であっても域を超えようとする。技術的なことは二の次でも、表現に拘るだろう。他人の真似でもどうでも良い。技術は自分の世界を作り出すうちに出来上がってくる。それは他人にはできないこと、自分だけのことになっているだろう。画業で生計を立てるなどという高邁な考えは持たないであろう。運が良ければ注目され、生活を支えられるかもしれないが、その者が自分の世界をお金に換えるかどうか?

この者の画欲を満たすには「紙と鉛筆」があれさえすれば良いだろう。

しかし、基本はデッサン力で、魅力的な線や形を引き出すことが出来る能力こそ求められる。アイデアではなく感性で支えないと、そこいらにある現代美術と変わらないものになるだろう。現代具象絵画に立ち向かっている人たちの中にも、少しはこうした人が居るみたいだから・・・・。

 絵を描くモチベーションには運命的な傾向があると言えるだろう。いずれにせよ結果が大事。時代の価値観に厳しく影響された、ほんのちょっと前の過去の社会と違って、モチベーションは個々の自由であるが故、現代というこの時代は、如何なるものであっても受け入れているように見えるが、動機がもたらす結果は歴史の中で評価される。だから好きにすればよい。