河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

久しぶりのお上りさん

2019-05-13 11:40:18 | 絵画

島根に引っ越してきて久しぶりとなるが、今回はこの7年間で4回目の上京だった。前回は確か東急文化村で行った「ラファエロ前派展」の撤収の時だった。撤収の後、次が山口県美だったので、新幹線で上京したかもしれない。これまでよく車で上京したので混同しているかも知れないが、新幹線だと浜田から広島にバスで出てのぞみに乗るので、7時間あれば東京に着いただろう。しかし車だとおおよそ15時間かけて走る。それは夜間割引を利用するので、いつも夜12時を少し回ってから出発する。途中くたびれて眠くなるので、事故防止のため3時間くらい仮眠するから15時間が必要だ。時間と交通費では新幹線が勝るが、ただ何も考えずにボーっと運転しているのが好きだから、あきもせず走るのである。

今回はKKR中目黒ホテルで4泊し、短い時間になるべく多くの人に会うことを目的とし、空いた時間に買い物をする予定だった。が最後の日には、、疲れのせいか首が回らなくなって、予定が狂い始めた。いつも上京した時には、帰りに久が原の島忠(ホームセンター)に立ち寄って材木か何か浜田より安い物を買って帰るのである。今回も木目のきれいな節がない桧原(ひわら)の桟木を買ってきた。他にシャインマスカットの苗木を買いたかったが、流行は終わったのか・・・無かった。

で、島忠の開店時間が10時で・・・・驚いたが、昔はもっと早かったと思う。朝が早い職人がその日の仕事に使う材料調達の為に8時ごろには並んでいたように思うが、朝早くホテルをチェックアウトして、急いできたのに待たされて、帰路に就くのが遅くなって心配した。というのも帰りも同じで夜間割引に間に合うように、浜田の高速出口を通過するのが重要だったのだから。結局帰りは、軽油を満タンにして東名高速に乗ったのが11時で、途中で睡眠がとれるかどうか心配な時間配分になった。

そこで結局、これまでじそく80kmで安全運転を心がけていたのを、少々冒険気味に80~120kmで走ることになった。まあ燃料が高くなっている時期だけど、割引時間に間に合うことと、家で待つ猫たちに早く会いたかったので、眠気を吹き飛ばして走ることになった。そして13日0時17分に浜田出口通過、まあ無事帰りました。

今回の上京の目的は、一番に「昔の友達に40年ぶりに会うこと」だった。

 ちょっとあり得ない話になるが、昨年亡くなった父の家に行ってかたずけ物に忙しかった時、夕方のTV番組でバラエティが嫌いなので、BSのNHK放送大学でやっていたフランス語講座をちらり見た時、どこかで見たことのあるフランス語講師が居るので、最後まで見ていると「なんと!!!」Patrick des vOS というフリップが出てビックリ仰天。彼は「私の人生を変えた恩人」であった。

こんなことは一人一人の人生ではそうあることではないと思う。ブリュッセル時代に出合ったベルギー人の友人が40年後に日本のテレビに登場したのだ。しかも東京大学教授となっていた。直ぐに私は東大教養学部に電話し、彼の所在を確認し、大学あてに手紙して、恐る恐る昔の話を書いて返事を待ったら、やはり当人に間違いなく、再会の話となった。

いや、彼とはブリュセル王立古典美術館でブリューゲルの《反逆天使の墜落》を模写している最中に出合ったのだが、ソルボンヌ大学日本語学科の留学中の東大生と一緒に、私の後ろから声をかけて来たのだった。二人とは、模写が終わった後どうするのかという話になって、「王立文化財研究所」でフランドル絵画の修復と技法を勉強したいと希望していることを伝え「誰か推薦状を書いてくれる人はいないか」と、日本人の留学生でしかない若者が向かうべき未来の可能性を聞いてみた。

その時、あちこと聞いて、なんとベルギーの国務大臣の「紹介状」を得てくれたのだった。国務大臣と言えば日本の外務大臣に当たる。その紹介状となれば、効き目は大である。だがそう簡単に文化財研究所で勉強できるわけがないインタビュー(面接)を許されて、所長直々に会ってもらえるというので、ウキウキで出かけたら、所長は所長室の椅子の上で「赤ワインの臭いをプンプンさせて」迎えてくれた。質問は「こういう絵を洗うとき君ならどうする?」というようなもので・・・・答えたら「君の知識は概略だ、ここで学ぶには不十分だ!フランス語は十分だが・・・」といわれて、「他を紹介するから・・・」と言われて、ドイツのニュールンベルグ行きを望んで、結局ニュールンベルグで決着した。しかしニュールンベルグで会ったボス、ブラハート博士は私のデッサンや油絵のポートフォリオを見て「君は珍しい奴だ、ヨーロッパには今では君のように16,17世紀のデッサンが描けるものは居なくなった。直ぐ来い!」と言ってくれて、私の人生の未来につながったのだ。これもすべてパトリックのお陰だ。彼もソルボンヌから早稲田の文学部に留学し「歌舞伎文化」の研究に専念したが、そのころから連絡が取れなくなって、今日に至り、40年の歳月が流れた。

だから、今回の上京がどんなに重要であったか分かってもらえるだろう。

彼は毎日忙しく、簡単には会える日が決まらなかったが、会う場所は何と簡単に決まった。彼が住んでいる場所は私が昔住んでいた場所からほんの5分ぐらいのところだったのだ。何年も会うこともなかったのは彼がバイクで大学へ通い、私は地下鉄で上野に通っていたからだった。それと私のテレビはBSが映らなかったからだ。たまたま岩国の田舎のTVに彼が見つからなければ、ずっとすれ違いであっただろう。

それと彼が例外的なフランス系ベルギー人だったことだ。普通、フランス人は親しい友人であっても、3年以上会わなければ、あるいは音信不通であれば絆はお終いだろうが、彼は違った。彼にはきっと日本での習慣が身に着く前から、性格が解放されていたのだろう。彼はきっとその性分からいろんな人と付き合って学術的なことも吸収してきたに違いない。今回も私の古い友人たちと集える西馬込のトンカツ屋で、彼の専門の常磐津の師匠と知り合うことになった。

この日は午前様でホテルに帰った。で、少し油断したかもしれないが首が回らなくなって、翌朝は出かけても一度ホテルに戻って、サロンパスを首や肩に貼って寝て過ごした。

だが、今回の第一の希望は最大の喜びになった40年ぶりに恩人に会えたのだから。わかります?

で、浜田に帰宅して、大変なことになっていた。