明治時代への変遷には多くの人の血が流れるような抗力と反力のぶっつかり合いがあって、開国派の井伊直弼を桜田門外で攘夷派の水戸藩士たちが襲って絶命させても、大きな流れの中に消え行ってしまう事件だった。
思想信条、意見の違いで意にそわない相手を潰そうとする暴力は相手の命を奪うことが大事なプロセスであった。現代では意にそわない相手を殺すまで突っ走るのはしなくても、権力で脅して発言力や経済力を奪ったりすれば十分に相手をへこませることが出来る。だから権力者はメディアや経団連を押さえている。労働者は低所得に苦しんでもストライキもしないし、デモもしない時代になって企業の奴隷に近い。
押さえつけられていることにも気が付かない者たちがこの国には半数は居る。
一国の元総理大臣がテロに遭って、テロリストは「当人に対する政治思想には関係ない」と述べているが、テロの目的は己の人生を喪失させられた組織に対する復讐がその組織の最も大きな支持者に向けられたのだ。
「人の命を奪う暴力は許されない」とまず前置きして弔意を述べる者が大半であるが、テロリストの人生は既に自分の大事な人生とまりは「命」を奪われていたのだ。だから私はテロリストに同情する。私も同じ立場であればテロもあり得るであろう。テロは相手の命を奪うのであれば己の命と引き換えであって、失敗して返り討ちにあっても仕方ないと覚悟をしなければならない。
私も在職中に何度も殺意を覚えたことがある。しかし行動しなかったのは家に愛猫のタマちゃんや勘助がいたからだ。彼らの命を放っておいて自分の意思を通すことはできなかった。
もし政治家が国民の人生、生活、そして権利のことを大事にする「民主主義の理念」を政治理念として実現に励んでいれば、こんなテロ事件は起きなかっただろう。いつ起きても不思議ではなかったと思うが、テロの少ない国である。政治家が安心して個人の利益ばかり追求しても、それが基で殺されることは万が一にもなかっただろうから、今回は国民の理解は情緒に流されているようだ。
小沢一郎がこの事件について「これまでの自民党の積み重ねによる結果によって起きた」とツイッターで述べたら「人間として疑われる」というような多くの批判を受けている。しかしこの「人間として疑われる」のは批判する側の者だ。欧米ではこの「人間」という意味は理解されない。これは日本人独自の「人間観」であり、「人間はこうあらねばならない」とまるで宗教的に集団で信じ込んでいて、小さい時から教え込まれている精神性を固定する教義の一つであるからだ。欧米では「人間」は動物の中の一つの種であり、これに精神性を付属させると宗教である。欧米人はこの「人間観」ではなく、個人性というものが各自に認められていて、集団として「こうあらねばならない」と言ったら19世紀末に滅んだ教会の教義と思われるだろう。
野田が首相であるとき、党首討論で安倍は「貴方は人間じゃない!!」と言ったとき・・・・英語に翻訳できないと笑ってしまった。この国の政治家に「民主主義」を求めるのは間違いだろうか?