3年半も心療内科で現状報告をし、薬を処方してもらう日々に仕打ちする者が現れる。美術館にとって何にも役に立たなかった社会史学者で東大を退職してきた樺山館長の後釜はまた東大退職教授、青柳正規(まさのり)が着任するなり、私が準備していた前庭の彫刻の免震か予算でロダンの《国の護り》工事費3000万を勝手に使ってしまう。寝耳に水の出来事で、工事を進めようとするとお金が「無い!!」。まるで総理大臣の「機密費」扱いで、自分に使える自由な予算が・・・・と、イタリアへ出張する金が無いとか・・・使い込んで・・・「皆自由にヨーロッパに行け!!河口さんも行ったらどうか!!??」と言われて「じゃあ、行きます」と言えるかバカ野郎!!あれ以来20年近く《国の護り》は収蔵庫で埃をかぶっている。《国の護り》はパリ凱旋門の北の通りの中央分離帯に「戦いを勝利したフランス軍」を迎える記念碑として作られた彫刻で、残念ながら今はロダン美術館の庭の奥に高い円柱台座の上に置かれているが・・・。ロダン作品としては雄たけびを上げる天使の像として迫力のある表現で、私は西洋美術館の入り口に免震装置付きで3メートルの石の台座の上に置こうと予算化して置いたものだ。その予算を「てめえの金」の様に使ってしまった。ご存じだろうか、国立美術館は小泉純一郎と竹中平蔵の時代に「行政改革」の名のもとに「公務員を減らす」と号令をかけて、「名前は国立だが独立行政法人となり、あるていど自分たちで金を稼げ」としたために「人事院と会計検査院」の監視が緩くなった。青柳は大喜びだった。
彼は矢継ぎ早に、自分の地位を固め始めて、幸福学芸課長は更迭、気が利かないという理由だった。しかし上級学芸員という名前をもらって、何も仕事しなくてよくなった?幸福の後釜は年功序列で高橋明也がなったが、これが意外にも想定外の働きで、まじめに課長の役割をこなした。しかし青柳にとってイエスマンではなく、イタリアへたびたび行くには留守中に放置できるものが必要だったので、明也を三菱不動産が始めた美術館の館長に押し出し「私が館長裁量費1500万円をつけてやった」と吠えていた。これこれ、この裁量費である!!《国の護り》の3000万円は青柳の小遣いに消えたのだ。
彼のイタリア旅行(彼は仕事のつもり)の留守中を守る「学芸課長」に愛知県美から村上博也、「副館長」に甲野何某と、青柳自身も含め姓名判断総画33画で3人の布陣。33画の性格は「無能でも出世運がある」ことと「仲間が悪いと悪人になる」「よく嘘を言う」などで出世運は強運である。村上博也33画を名古屋から呼ぶことを進言したのは越川倫明であるがこの男も33画である。「類は類を呼ぶ」とはこのことで彼らは「運命の赤い糸」で結ばれているのであろう。四柱推命からくる「姓名判断」で最も恐ろしかったのはウイニーソフトを開発しても「冤罪」で無罪になるまで、多くの研究時間を失って「無罪判決」の4年後に亡くなった金子勇氏は総画20画で「一夜にしてそれまで積み上げてきたものを亡きものにされる運」だった。実は私も同じ20画であり、どのように私の西洋美術館での仕事が「亡きもの」にされたか書くことにするが・・・。
実はあまりに腹の立つ運命に、退職1年前に「改名して画数を変える」ことにした。しかし長年放置された「20画の呪い」は改名では終わらなかった。
私に対するハラスメントは延々と続く中、「今日は体調が悪いの休みます」と1日休むときは医者の診断書はいらない。体調が悪いのに医者に行けるはずもなく、診断書は理屈に合わないからである。しかし館長の青柳と不館長の甲野は通用口で出会ったときに「1日休んでも診断書を出せ」と言って迫ってきた。「1日病欠するときには不要だと庶務で規則で決まっている」と言っても、「いや提出せよ」とシツコイ。しかし「診断してもいないのに診断書を出したらおかしいでしょう」と言っても「おかしくない」と強引だった。もしそれで診断書を提出したら「公文書偽造」の罪に問われるだろう。連中の嫌がらせは続いて、村上が「有給休暇が余っているのに、病気休暇をとるのは間違っている、有給休暇を使え」と言って来た。何という悪党かと思ったが無視したら。つぎは書類を作ってきた。そこに書かれているのは、有給休暇を使わず病気休暇として休んだと・・・・1日当たりの給与に換算して、26万円払うか、有給休暇を全て使え・・・と。こんな無茶まで館長、副館長、学芸課長、庶務課長まで会議室に呼んで、目の前で私の有給休暇を取り上げたのである。これは労働基準法第24条違反であり、刑事事件で職権乱用、脅迫罪、強要罪も含めて、彼らは法律を知らなさすぎるし、無茶苦茶で暴力団まがいであった
そして私は仕事場である「修復室」のカギを取り上げられ、出入り禁止にされ、青柳は私を館長室に呼んで「すこし大人しくしていろ!!」と言った。私が何か騒いだのか?尋ねても「静かにしていればいい」というだけで、なにやら私が質問して理由を聞きただすのも許されない・・・ようだ。そして紙きれを渡して、「美術館の保存修復の在り方について報告書をまとめる業務命令(?)」が書かれていた。かくして私は自室に閉じ込められて「美術館における保存修復の在り方と地震対策」を書いた。これは200部ほど印刷コピーして黄色の小冊子に綴じて知り合いに配った。さすがに学芸課の連中には配らなかった。ただプリントだけは青柳に提出したが・・・どっちみち読みはしないだろう。
他にもある、こんな状況で研究室から追い出されても、ゲッティ美術館との約束があり、私はまずロサンゼルス・ゲッティ美術館でも国際シンポジュウムで「地獄の門の免震化工事」について講演したついでに、アテネ、イスタンブールで同様に講演して、最後は2008年に国立西洋美術館でという訳で、会場の準備、講演内容の翻訳、同時通訳、ホテルの予約、エクスカーションとして東大地震研究所の見学を設営した。この時、一応館として許可が必要であったが、青柳に文句はない。しかし村上が時期が新館リニューワルと重なるとか言って協力できないとか、ゲッティ美術館には「義理」は無いとか言い出して邪魔をし始めた。ゲッティ美術館としては、アメリカなので四半世紀ごとに会計年度が替わり予算化が厳密であったので開催時期が6月終わりか、7月初めかでもめた。それを村上が聞いて時期をずらさせようと画策した。全く鬱陶しかったが、なんとか東京シンポジュウムは成功した。私はいつも同じ演題ではなく、新しく導入した屋内彫刻の台座に免震プレートを付けて展示するための加振実験を愛知工業大学振動実験センターの協力で・・・実はそのセンター長は私の姉の旦那、青木徹彦氏で、本来実験費が500万円かかるところ、彼も講演者にして発表することでコラボした実験結果と、私は調査による免震プレートの科学的根拠について発表した。とにかくこのシンポジュウムのバイリンガル報告書を保存科学の高嶋美穂の助けで刊行できた。東北大震災の1年前であったが、役に立ったか??
副館長が「河口さんは2009年はほとんど仕事をしていないと、村上課長が言っている」と言うから、課長室にちょっと来てくれと頼んで、目前で「どいうこと」と尋ねたら「何もしていないではないか」と。どこが何もしないだ!!3月末には在外研修1か月の費用がなく、佐藤が嫌がらせでどこか分からないという。そこで「修復費が余っているだろうからそれを使え」と言う。会計というものはそういうものではなく、使途不明金や流用は許されないことぐらい知っておけと言いたい。私に無法をやらせたいのだ。仕事は山ほどあって、修復予算の使途明細を見ればわかることだ。屋内彫刻の免震プレートの装着で業者と作業、シンポジュウムの翻訳刊行は面倒であった。美術史系学芸員が展覧会カタログを作るより面倒が多い。
誹謗中傷が好きな村上のうわさは愛知県美にいたころトラブルが多くある人間であったことは聞いていたが、ここまでひどいとは思わなかった。何故村上を学芸課長に迎えたかは、正確には青柳に聞かねばならないが・・・村上の専門はスペイン現代絵画のホアン・ミロであるという。西洋美術館の取り扱う範囲は1920年までの絵画となっているが、西洋美術館にとって感謝すべき「愛好家による寄贈」によって現代絵画が「西洋美術館に!!」と寄贈されると、扱う範囲が曖昧になり、東京国立近代美術館からしばしば「現代絵画は近美にくれ!!」と言って来たが、「寄贈者の意思は尊重する」のが良識的判断である。従って専門家の居ないジャンルが展示されているのは仕方がない。しかし村上の出番はない。青柳曰く「村上君の書いた《松本俊介》について」は優れモノだよと言っていたのは、私が彼の専門に疑問を持ったので、ちょいと尋ねた時だった。「ミロ」ではなかった。
私を修復室から排除してから、そこで何が起きているかは外注の岡崎から聞くほかなかった。なんせカギを取り上げられて、害虫の者は入れても、常勤主任研究員を私の作った修復室に入れないようにしたのだから。である時、ちょっと私物があるのに気が付いて入れてもらったら、そこに「ダンテ・ガブリエル・ロセッティ」似の女性を描いた絵画がイーゼルに置かれていた「これ、何??」と聞くと、「ロセッティの作品で村上さんは購入するらしいよ」と言うから「ええ!!??まさか!!」だった。それはどうみても中途半端な描き方でロセッティ作品の女性の肖像か何かをコピーしてみたような出来栄えで、顔以外の服は出鱈目で形になっていない。いくらなんでも「購入する」なんてしてはいけないレベル。そこで村上本人に尋ねた・・・「この作品をどうするのか・・・これはロセッティ作品とは言えないから」と言うと「死後、アトリエから出たという資料がある」という、また「晩年の作で、輪郭が曖昧になってきた時代の作品だ」という。どうみても「輪郭はハッキリしている、ただ服は出鱈目だ」と言うと、むかついたみたいだった。他人に批判されたくないのは総画33画の性格だ。また恨まれて嫌がらせをしてきただろう。それとその程度の問題より、彼がその作品を勝手に自分の判断で「ロセッティ作品」として「寄託預かり」にして、ご満悦だったところ、私はこれまでの西洋美術館の習わしとして「まず学芸会議にかけて預かるかどうか決める」のが約束で・・・たとえ学芸課長でも、勝手にアトリビューションを決定したのはまずかった。愛知県美から来て、西洋美術館の歴史を学ぶ時間がなかったから・・・。その後、その作品は収蔵庫のスクリーンに掛ったままだそうな。誰も「権限、権力」と現実をはき違えるととんでもないことになる。私が「買い気」をいさめたのは、当人にとっても良かったはずだ。
まあ、書けば限がないから止めるが・・・。
次は本当に怒りで気が変になりそうになった件で・・・これで終わりにしたい。